カテゴリー別アーカイブ: 野球が好きだった編

加賀大介さんの写真

歌碑

100年目を迎えたという夏の甲子園大会が終わった。

多くの人たちが語っていたように、今年の大会は見応えのあるゲームが多かった。

先入観で考えがちな地域差のようなものが、今年の大会ではなくなっていたように思う。

かつての強豪校が、あれれと思うような学校(しかも公立校)に敗れていくなど、もうそういった感覚で高校野球は語れなくなったようだ。

もちろん野球留学が増えた影響も大であるが、野球そのものの質が高くなったことによる楽しみも大きくなったと思う。

石川で高校野球と言えば、星稜である。

その中でも特筆されるのは、やはり松井秀喜さんの存在だろう。

ところで、その松井秀喜さんのベースボール・ミュージアムも今年の12月で10年になる。

松井さん自身の甲子園物語は今更書くまでもないだろうが、ミュージアムの展示ストーリーを考えていく中で、特に高校編において強く残しておこうと思ったことがひとつあった。

それは夏の甲子園大会の大会歌『栄冠は君に輝く』の作詞者のことだ。

もうすでに多くの人に知られている、加賀大介さんである。

松井秀喜さんが育った石川県根上町(現能美市)の根上球場には、『栄冠は君に輝く』の歌碑が建つ。

歌碑全体

高校時代、松井さんはその球場の10周年記念試合で、愛工大名電の投手から2本のホームランを放っていた。

特に2本目はサヨナラホームランで、左中間側にあるスコアボードの上を鋭く越えていく特大ホームランだったらしい。

バックスクリーン

バックネット裏にはプロのスカウトたちが陣取っており、その豪快なホームランによって、松井秀喜の評価は固まったという話も聞いた。

ボクはその話を聞いたと同時に、松井秀喜さんと加賀大介さんとの間に目に見えない何かがあったのでないかという思いに襲われた。

もしかしたら、片足を失い野球選手としての道を断念した加賀さんの野球への思いが、松井秀喜さんにあのホームランを打たせたのかも知れないと思った。

同じ町で、しかも加賀さんの家は、松井秀喜さんも通った小学校の横にあった。

人一倍体が大きかった秀喜少年を、加賀さんはずっと空の上から見つめ続けていたのかも知れない。

そして、プロの選手としての道を決定づけるあのホームランを、ふるさとのあの球場で打たせたのかも知れなかった。

幸いにも、加賀さんの妻・道子さんは松井秀喜の大ファンであった。

同じ町内から出たヒーロー・松井秀喜のファンでなくして、加賀大介の妻は務まらないといった、気概付きのファンみたかった。

ある日、ボクはミュージアムで加賀さんと松井さんとの物語を紹介するため、加賀家を訪ねた。

すでにミュージアム資料の中にあった写真で道子さんのお顔は分かっていたが、初対面の時、その若々しさにびっくりした。

活き活きと、あの歌の詞のように生きてきた女性のカッコよさみたいなものを感じた。

あの加賀大介の妻なんだからと、気丈に生きる使命も持ち合わせていたのかも知れないと思った。

そして、何よりも道子さんはやさしさや知的さも兼ね備えた素敵な女性だった。

当時、ボクはこの仕事の上では、どこへ行ってもある程度の歓迎を受けていた。

多くの著名人との接点を導いてくれていた。

加賀大介さんの妻・道子さんは、とてもさり気なくボクを迎え入れてくれた。

夫と松井秀喜との関係をそんな風に捉えてくれたということを、とても喜んでくれているようだった。

ボクはいろいろなお話をさせていただきながら、最後に大介さんの作詞をされた当時の写真がないかと尋ねてみた。

道子さんは、自分も見たことはないと言われた。

そういうふうに言われても、はいそうですかと引き下がれないのが、こういう仕事をしてきたニンゲンの性分だ。

ボクは、よくあるパターンのひとつである仏壇の中のことを思った。

思い切って、仏壇の抽斗(ひきだし)とか探してみてもいいでしょうかと尋ねると、道子さんは快諾してくれた。

そして、その数分後になんと抽斗の中の一番下だったかに仕舞われてあった、若い頃の大介さんの写真を見つけたのだ。

加賀さん

 

その写真は、お経の本のようなものに挟んであった。

道子さんはとても喜んでくれた。

それまでの時間の中で見せてくれた写真は、それなりに年齢を重ねた頃のものばかりで、道子さんご自身も、こういう写真しか残っていないんですと話しておられたのだ。

自分で撮った球場の写真に、加賀さんの写真を組み合わせ、星稜高校の山下智茂前監督のもとでじっくり取材させていただいた、あのホームランにまつわる話を短い文章にまとめた。

そして、一枚のパネルが出来上がった。

パネル1

あの5打席連続敬遠のコーナーにある阿久悠氏の詩と共に、ボクはなぜかそのパネルの存在を自身で誇らしげに思った。

その後の伊集院静氏なども含め、松井秀喜という素晴らしい野球人にまつわる文人たちの存在が何か特別なものを意味していると思えたからだ。

今年の夏の大会では、特にこの大会歌の話が多く取り上げられていたような気がする。

加賀さんと大会歌の本も出たらしかった。

そんな話を聞くたびに、道子さんのことが頭に浮かんだ。

最近になって、ミュージアム館長からも中居さんの大切なエピソードだし、その写真を見つけたということがとにかく凄いことだったという言葉もいただいた。

いつかまた、加賀道子さんを訪ねてみたいと思っているが、10年という節目だから、それも許してもらえるかも知れない。

左中間から

……

松井秀喜から学んだ野球文化

4月15日のメジャーリーグ。プレイする選手たちの背番号が「42」だった。

黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンが1947年にデビューした日のメモリアルである。

また、21日には、ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークの100周年記念試合で、Rソックスとヤンキースの選手たちは、背番号のない100年前のユニホームを着てプレーした。

日常の試合の中でも、メジャーリーグには大胆で印象深いシーンが数多く見られる。

野球に対する何かが、そのパフォーマンスに表れている。

ボクはこういうのを『野球文化』と呼んでいる。

もちろん、ボクが言い出した言葉ではない。

しかし、ボクはある時から確信を持って、この言葉を口にするようになった。

そのある時とは…、野球人・松井秀喜と出会った時だ。

 

2005年12月8日、石川県能美市に『松井秀喜ベースボール・ミュージアム』がオープンした。

松井選手がアメリカに渡り、大活躍した二年目のシーズンオフ初冬だ。

ボクはそのミュージアム全体の展示計画を担当し、具体的に展示品や資料を調べ選択し、松井選手の人物史はもちろん、数々のエピソードなども独自に取材して文章化した。

映像のシナリオも書いた。松井選手と所縁のある多くの人たちとも交流した。

滅多に触れることのできない貴重な品々も手にした。

オープニングイベントはもちろん、その後のミュージアムが主催するイベントも企画し、スタッフたちと実行してきた。

そんな数多い貴重な経験の中で感じ取ったのが、野球が醸成してきた文化というものだった。

単純な言葉で言えば、野球文化とは、野球をすることを楽しみ、野球を観ることを楽しむ文化だ。

もっと単純に言うと、打者がホームランを打った時の喜びや、投手が三振を取った時の喜び、ファンがホームランを打った選手を称賛する喜びや、三振を取った投手を称賛する喜びだ。

ファインプレーをした時の喜びも、その選手を称賛する喜びもある。

さらに、野球を観ながら冷たいビールを飲むとか、美味しいハンバーガーを食べるというのもそうであることは言うまでもない。

そして、そういう風にして育まれてきた、もっと強い文化……、たとえば、日本の高校野球に見られる地域などへの思いなども野球文化のひとつだ。

今春の選抜大会、甲子園球場のホームプレート前から発せられたあの選手宣誓の言葉に、心を揺さぶられた人は無数にいたに違いない。

野球をとおして培われ、発せられる思いが、多くの人たちに感動や勇気を与えるということを、あの宣誓があらためて教えてくれた。

偉大な野球文化の結晶なのだ。

 

実は、ボクにはアメリカでメジャーリーグの観戦をした経験がない。

いつかいつかと思いながら、松井選手がNYヤンキースを去ってからは、その思いも薄れてきた。

しかし、松井選手関係のさまざまな、そして生々しい資料や写真や映像などを多く見る機会に恵まれていたから、臨場感のある野球文化を普通の人以上にかなり感受できたと思っている。

展示計画を進めていくうち、ボクは一枚の写真と出会った。

そして、その写真が大好きな一枚になった。

それは、ヤンキースタジアムでホームランを打ち、三塁ベースをまわってホームへと向かう松井選手を捉えた写真だ。

背景にはファンが総立ちになり、松井選手を讃えている姿が写っている。

ほとんどの人たちが拍手をしたり、両腕を突き上げ歓声を上げている。

金髪の若い女性は、口を目いっぱい開けて何かを叫んでいる。

髭のオジサンも、若者も少年も、みなが喜びを精一杯に表している。

しかし、松井選手は目を足元に落とし、その歓声に照れているような、その歓声に戸惑っているような、そんな素振りでホームへと向かっている。

この一枚のショットが、ボクのアタマの中に強く残った。

野球という試合の中で遭遇する期待を込めた緊張感。

チャンスが訪れた時の高まる気持ちが、ホームランを打ってくれたことへの喜びと称賛に変わる。

こんな素朴で爆発的な喜びは、日常の中でも滅多にない。

この場に遭遇した、あるいはテレビで観戦したりした者だけにしか味わえないものだ。

松井選手は下を向いてゆっくりと走っているが、その姿にも観衆はさらにまた違う何かを感じていると思える。

野球そのものを楽しむ自然発生的な喜びの表現。

ファンそれぞれが、それぞれの個性で表現する、それらももちろん野球文化なのだ。

 

ところで、メジャーリーグの試合で見られる七回の「7th inning Stretch」などは、テレビ中継を見て初めて知った。応援スタイルも日本とは全く違う。

野球はまず楽しみながら観戦するというスタンスが明解になっている。

その延長上に、応援というスタイルがあるような感じがする。

スタンディング・オベーションの文化=讃える文化もメジャーには基本的に生きていて、選手への敬意も忘れていない。

野茂英雄やイチロー、そして松井秀喜と続いた日本人メジャーリーガーの活躍を経て、日本のプロ野球に少し違和感を持った人たちも多かったはずだ。

 

しかし、大袈裟な言い方で気恥ずかしいが、ボクにはどうしても伝えていかなければならないと思う野球文化が、もうひとつある。

それは、松井選手にもイチロー選手にも共通することだが、打者がボールを捉えるという感覚的な、そして技術に関する文化だ。

松井選手のことをいろいろと調べていくうちに、ボクは松井選手がアウトコースの投球を強く左に打つという表現に注目していた。

左バッターの場合、アウトコースは軽く当てて流し打ちするというのが、これまでの普通の感覚だったのではないか?

そう思った時、こういう小さな発見が多くの野球少年たちやファンに何かをアピールするような気になった。

松井選手の言葉はメジャーに挑戦し、さらに実感したものだったに違いない。

メジャーデビュー戦で三遊間にタイムリーヒットを打っているが、まさにあのバッティングはそのことの始まりだったような気がする。

そして、MVPをとったあのワールドシリーズ。

DHのない敵地で代打で登場し、レフトへ豪快なホームランを打ったバッティングなどは、その理想形だったような気がしている。

ボクはこのようなこともまた、野球文化の象徴だと思い始めた。

伝統工芸の名工たちが身に付けた技術や気構えと同じものがあると思っている。

将来、プロを目指す少年たち、高校野球の選手たち、特にスラッガーたちには、この松井選手の言葉は新鮮に響くに違いない。

さらに、どういう思いで打席に入り、どういう思いでボールを待ち、どういう思いでバットを振りにいくか…から、日常をどう過ごすかに至るまで、この継承には意味がある。

まだまだ書き足りていないが、すべてのことが野球文化に通じていく。

 

ミュージアムの企画がスタートする時、そのコンセプトを

「松井秀喜という野球人をとおして、野球文化を伝える…」とした。

そのためには、すでに実感していた松井選手のニンゲン的な凄さを、きっちり伝える必要があると思い、人物評伝みたいことに力を注いだ。

著名な方々からも話を聞き、そのことをさらに強く感じていた。

たとえば、松井選手のバットを作り続けていた名人・久保田五十一氏を、岐阜県養老町にあるミズノバット工場に訪ねた時も、よく一緒に行ったという近くの食堂で、久保田氏から松井選手のバットに対する信頼感について聞かされた。

一年間、自分のバットを信じて絶対に途中で手を加えなかったという話には、自分自身の感覚や技術、フォームなどを第一に考えた松井選手の強い意志を感じた。

野球の直接的な関係者ばかりでなく、篠山紀信氏や阿久悠氏、さらに伊集院静氏などが表した松井選手の人物評価も、ボクをさらに後押しした。

メジャーリーグ機構が、松井選手のニンゲン的な魅力を高く評価してくれたことも嬉しく心強かった。

ミュージアム構想に賛同し協力してくれたことは、展示計画に大きなバックボーンとなっている。

現在、ミュージアムで流れている映像などは、メジャーリーグの協力支援なくしては完成しなかったものだ。

 

ミュージアムの企画に関わらせてもらった長い時間は、何もかも夢のように過ぎていったような気がする。

オープンの前夜、松井選手は最終便で帰郷し、そのまま空港からミュージアムに立ち寄った。

あまり表情を変えずに館内を歩いていたが、今から思えば、かなり照れ臭かったのだろう。

そして、翌朝…。北陸の空はまさに冬の到来そのものだった。

取材オファーは、180社を超えていた。

館内でのセレモニーを終え、テープカットのために松井選手が外に出る。

ボクは中からエスコートした。その時だった・・・

不思議なことに雲が切れ、その隙間から太陽の光が流れ出しミュージアムを照らした。

このことは、今でも関わってきたスタッフたちの語り草となっている、“松井ミュージアムの奇跡”だ。

長かったその日のすべてが終わり、ボクは運営に携わってきた多くの関係者たちを前にして礼を言った。

ボクの横には、大きな松井選手がときどき口元を緩ませながら立っていた。

ボクはもちろん、十分に誇らしげだったに違いない。

 

オープン後の最初の休日だったろうか。外にはパトカーも巡回し、最高の入館者数に達した日のことだ。

ボクは、ずっと一人の入館者に注目していた。すぐにかなりの高齢と分かるおばあさんだった。

少し離れながら後方を付いていくと、おばあさんはあるコーナーで立ち止まり、人ごみの中で曲がった背筋をぐっと伸ばした。その姿は凛々しくも見えた。

おばあさんに近寄っていき、大丈夫ですか?と声をかける。

腕章に気が付いたのか、おばあさんが語りかける。

「この子(松井選手)はね、ほんと偉かったんですよねえ…」

おばあさんの視線の先には、スポーツニッポンから贈られた「五打席連続敬遠」を伝える新聞一面のパネルがあった。

大阪から娘さんと来たというおばあさん。娘さんもすでにおばあさんの域にあった。

星稜高校時代の五打席連続敬遠の試合を見てから、松井選手が大好きになり、それ以後、ずっと松井選手に関する新聞記事をスクラップしてきたと言う。

手を添える娘さんも、母はここへ来るのを本当に心待ちにしていたんですと言って笑った。

野球が生んだ物語が、またもうひとつの物語を生む。

その物語こそ、文化なのだ・・・・・・・

こういう仕事を続けてきて、世の中に存在し、人々から愛されてきたものには、すべてに「文化」があるのだと思えるようになった。

逆に言えば、文化がないものは、仮に存在はしていても愛されることはないのだと思うようになった。

奇を衒ったり、無理に衆目を引こうと考える必要は特にない。

それよりも、じっと見つめ深く掘り下げていく過程を大事にする方がいい。

いろいろな機会をいただき、ボクはこういう話を何度もした。松井選手を横にして話したこともある。

今、現在も、関わっている仕事のすべてがそんな思いに支えられている。

そう言えば、最近、野球が面白くないのは、松井秀喜がグラウンドに立っていないからなのだ……

ひたすらせつない青春の歌

「告白の 出来ない恋は 五分咲きの キンモクセイの ただ香りだけ」
日曜の朝、某所で偶然手に取った朝日新聞。
16歳の高校球児が詠んだという淡い恋の歌。
練習の後の静かな夜の気配。
漂ってきたキンモクセイの香りと、それに誘発される切ない思い。
憎たらしいほど、ひたすらな、青春なのであった……

「甦った試合……」

 八月後半の三日間ほど、ボクはソワソワしていた。ソワソワだけではなく、ワクワクもしていたし、ドキドキもしていた。だが、総体的には、一応イキイキしていたとも言えた。

 大学時代、ボクは体育会の準硬式野球部に四年間籍を置き、小田急線の生田にある合宿所で生活していた。準硬式野球というのは、分かりやすく言うと、硬式のボールの表面だけが軟式のようにラバーになっているボールを使う野球のことだ。今では大学だけでやっているジャンルだと思う。使用するグローブやバットなどは硬式と同じだが、ルール的なことで言うと、大学の硬式野球リーグでは、木製バットを使用するのに対し、準硬式野球リーグでは金属バットが使える。ここが大きな違いだ。

 前置きが長くなった。今夏金沢で全日本選抜大会が開かれ、母校明治大学の準硬式野球部が出場していたのだ。

 明治は初戦と二戦目を順当に勝って、ベスト4に残ったが、準決勝で九州の大学に敗れた。ちなみにそのチームが最終的に優勝した。

 初戦の市民球場ではそれなりに観戦した。そして県立球場の二試合目は少しだけだが顔を出し、三試合目は、もし負けた場合のことを考え、打ち上げの場所・時間などを確認しておかねばなるまいと、途中から最後まで見ていた。

 OB会長でもある長老K大先輩が直々に来ていて、また在学中に世話になった前監督のK先輩も、東京から一週間休暇をとっての応援。さらに現監督が二年後輩のO君だ。応援に行かないわけにはいかない。伝統の血は、こういう時に騒ぐのが当たり前なのだ。

 ボクたちも現役時代には三度全日本に出た。しかも選抜大会ではなく、選手権大会という大学日本一を決める本大会の方だ。

 特に四年生の時の全日本は、六大学リーグで優勝できず、全日本への出場権を得るには、関東選手権を制覇するしかないという厳しい条件下にあった。なんとか準決勝まで勝ち進んだが、決勝進出をかけた相手は同じリーグ(東京六大学)の覇者・早大だった。普段から仲の良かった早大はすでに全日本出場を決めており、完全に戦力ダウンしたメンバーで臨んできた。しかし、ボクたちはその相手にも手こずった。なんとか勝つには勝ったが、情けないくらいに無様な勝ち方だった。

 こんな試合をしていて、全日本に出る資格があるのか?と、チーム全体にみじめな思いが充満していた。試合を終えて、キャプテンだったMと二人、新宿西口の喫茶店にいた。真面目に“クソ”が付くくらいのMは、その試合の責任をすべて自分で負っていた。時折、涙さえ浮かべていた。

 「オレ、キャプテン辞めるわ」何度もその言葉を口にし、その度に「今辞めてどうする」と、ボクは彼に言った。電車の中では、横に並んで立ったまま、ほとんどしゃべらなかった。

 合宿所に戻り、ミーティングが開かれたが、重い空気は翌日のゲーム(決勝戦)に決して明るい展望をもたらさなかった……

 西武新宿線・東伏見。早大東伏見球場はリーグ戦でも使用しており、勝手知ったる場所だ。決勝の日、その東伏見に雹(ひょう)が降った。雷が鳴り、真黒な雲が球場の空を覆った。試合開始は二時間ほど遅れただろうか。

 決勝の相手は、東都リーグの強豪・専修大学だった。春のオープン戦やその他の交流戦などでも、ほとんど勝ったことのない相手だった。

 しかし ────

 明治は、5対0で快勝した。エースのSが相手の強力打線を抑え、バックもしっかり守った。打線は準決勝まで打ち込まれることの全くなかった相手エースから、コツコツと5点を奪った。いつもながら地味な、明治らしい試合、明治らしい勝ち方だった。みなが、勝つことに集中していた。

 四年間の中でもベストゲームで、明治は優勝した。試合後のベンチ前でのキャッチボール。Mが、ボクの投げるボールを受け取るたびに、嬉しくてたまらないといった顔を見せた。笑いたくてウズウズしている。その笑いを抑えるのに懸命になっている。あんなに楽しいキャッチボールも初めてのことだった。

 その年の全日本は、北海道釧路市。

 早大と一緒に羽田を発ち、早大と一緒に札幌から特急に乗った。そして、同じ日、早大と一緒に初戦敗退した。一応、両校とも優勝候補に上げられていたのだ。

 その後の二週間は、北海道にいた。釧路出身で、知床の小さな町で中学の英語教師をしていたI先輩の住まいとクルマを借り、道東を駆け巡っていた。七時には家の明かりが消えてしまう小さな漁村の、先輩の住まいでは、近所の人が調理した魚を届けてくれたりした。合宿所で同部屋だったこともあり、ボクはI先輩が好きだったのだ。

  ずっと前の出来事が、金沢で活躍する後輩たちの姿から甦ってくる。ユニフォームやポロシャツやシューズなどに記された、“meiji” のロゴが元気をくれる。ベンチ上のスタンドの金網には、新調されてはいたが、懐かしい部旗が張り付けられていた。

  準決勝の夜、現役4年生も含めて飲みに出た。たくましく礼儀正しい現役たちがまぶしかった。また来いよ、後輩たち。再来年、全日本選手権が金沢で開かれるとのことだ……

 ※タイトル写真左から、キャプテン古城君(横浜高校選抜優勝メンバーでナイスガイ) 監督・大竹君 オレ エースの西君(春季リーグ戦最優秀投手賞)  県立球場にて