松井秀喜から学んだ野球文化


4月15日のメジャーリーグ。プレイする選手たちの背番号が「42」だった。

黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンが1947年にデビューした日のメモリアルである。

また、21日には、ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークの100周年記念試合で、Rソックスとヤンキースの選手たちは、背番号のない100年前のユニホームを着てプレーした。

日常の試合の中でも、メジャーリーグには大胆で印象深いシーンが数多く見られる。

野球に対する何かが、そのパフォーマンスに表れている。

ボクはこういうのを『野球文化』と呼んでいる。

もちろん、ボクが言い出した言葉ではない。

しかし、ボクはある時から確信を持って、この言葉を口にするようになった。

そのある時とは…、野球人・松井秀喜と出会った時だ。

 

2005年12月8日、石川県能美市に『松井秀喜ベースボール・ミュージアム』がオープンした。

松井選手がアメリカに渡り、大活躍した二年目のシーズンオフ初冬だ。

ボクはそのミュージアム全体の展示計画を担当し、具体的に展示品や資料を調べ選択し、松井選手の人物史はもちろん、数々のエピソードなども独自に取材して文章化した。

映像のシナリオも書いた。松井選手と所縁のある多くの人たちとも交流した。

滅多に触れることのできない貴重な品々も手にした。

オープニングイベントはもちろん、その後のミュージアムが主催するイベントも企画し、スタッフたちと実行してきた。

そんな数多い貴重な経験の中で感じ取ったのが、野球が醸成してきた文化というものだった。

単純な言葉で言えば、野球文化とは、野球をすることを楽しみ、野球を観ることを楽しむ文化だ。

もっと単純に言うと、打者がホームランを打った時の喜びや、投手が三振を取った時の喜び、ファンがホームランを打った選手を称賛する喜びや、三振を取った投手を称賛する喜びだ。

ファインプレーをした時の喜びも、その選手を称賛する喜びもある。

さらに、野球を観ながら冷たいビールを飲むとか、美味しいハンバーガーを食べるというのもそうであることは言うまでもない。

そして、そういう風にして育まれてきた、もっと強い文化……、たとえば、日本の高校野球に見られる地域などへの思いなども野球文化のひとつだ。

今春の選抜大会、甲子園球場のホームプレート前から発せられたあの選手宣誓の言葉に、心を揺さぶられた人は無数にいたに違いない。

野球をとおして培われ、発せられる思いが、多くの人たちに感動や勇気を与えるということを、あの宣誓があらためて教えてくれた。

偉大な野球文化の結晶なのだ。

 

実は、ボクにはアメリカでメジャーリーグの観戦をした経験がない。

いつかいつかと思いながら、松井選手がNYヤンキースを去ってからは、その思いも薄れてきた。

しかし、松井選手関係のさまざまな、そして生々しい資料や写真や映像などを多く見る機会に恵まれていたから、臨場感のある野球文化を普通の人以上にかなり感受できたと思っている。

展示計画を進めていくうち、ボクは一枚の写真と出会った。

そして、その写真が大好きな一枚になった。

それは、ヤンキースタジアムでホームランを打ち、三塁ベースをまわってホームへと向かう松井選手を捉えた写真だ。

背景にはファンが総立ちになり、松井選手を讃えている姿が写っている。

ほとんどの人たちが拍手をしたり、両腕を突き上げ歓声を上げている。

金髪の若い女性は、口を目いっぱい開けて何かを叫んでいる。

髭のオジサンも、若者も少年も、みなが喜びを精一杯に表している。

しかし、松井選手は目を足元に落とし、その歓声に照れているような、その歓声に戸惑っているような、そんな素振りでホームへと向かっている。

この一枚のショットが、ボクのアタマの中に強く残った。

野球という試合の中で遭遇する期待を込めた緊張感。

チャンスが訪れた時の高まる気持ちが、ホームランを打ってくれたことへの喜びと称賛に変わる。

こんな素朴で爆発的な喜びは、日常の中でも滅多にない。

この場に遭遇した、あるいはテレビで観戦したりした者だけにしか味わえないものだ。

松井選手は下を向いてゆっくりと走っているが、その姿にも観衆はさらにまた違う何かを感じていると思える。

野球そのものを楽しむ自然発生的な喜びの表現。

ファンそれぞれが、それぞれの個性で表現する、それらももちろん野球文化なのだ。

 

ところで、メジャーリーグの試合で見られる七回の「7th inning Stretch」などは、テレビ中継を見て初めて知った。応援スタイルも日本とは全く違う。

野球はまず楽しみながら観戦するというスタンスが明解になっている。

その延長上に、応援というスタイルがあるような感じがする。

スタンディング・オベーションの文化=讃える文化もメジャーには基本的に生きていて、選手への敬意も忘れていない。

野茂英雄やイチロー、そして松井秀喜と続いた日本人メジャーリーガーの活躍を経て、日本のプロ野球に少し違和感を持った人たちも多かったはずだ。

 

しかし、大袈裟な言い方で気恥ずかしいが、ボクにはどうしても伝えていかなければならないと思う野球文化が、もうひとつある。

それは、松井選手にもイチロー選手にも共通することだが、打者がボールを捉えるという感覚的な、そして技術に関する文化だ。

松井選手のことをいろいろと調べていくうちに、ボクは松井選手がアウトコースの投球を強く左に打つという表現に注目していた。

左バッターの場合、アウトコースは軽く当てて流し打ちするというのが、これまでの普通の感覚だったのではないか?

そう思った時、こういう小さな発見が多くの野球少年たちやファンに何かをアピールするような気になった。

松井選手の言葉はメジャーに挑戦し、さらに実感したものだったに違いない。

メジャーデビュー戦で三遊間にタイムリーヒットを打っているが、まさにあのバッティングはそのことの始まりだったような気がする。

そして、MVPをとったあのワールドシリーズ。

DHのない敵地で代打で登場し、レフトへ豪快なホームランを打ったバッティングなどは、その理想形だったような気がしている。

ボクはこのようなこともまた、野球文化の象徴だと思い始めた。

伝統工芸の名工たちが身に付けた技術や気構えと同じものがあると思っている。

将来、プロを目指す少年たち、高校野球の選手たち、特にスラッガーたちには、この松井選手の言葉は新鮮に響くに違いない。

さらに、どういう思いで打席に入り、どういう思いでボールを待ち、どういう思いでバットを振りにいくか…から、日常をどう過ごすかに至るまで、この継承には意味がある。

まだまだ書き足りていないが、すべてのことが野球文化に通じていく。

 

ミュージアムの企画がスタートする時、そのコンセプトを

「松井秀喜という野球人をとおして、野球文化を伝える…」とした。

そのためには、すでに実感していた松井選手のニンゲン的な凄さを、きっちり伝える必要があると思い、人物評伝みたいことに力を注いだ。

著名な方々からも話を聞き、そのことをさらに強く感じていた。

たとえば、松井選手のバットを作り続けていた名人・久保田五十一氏を、岐阜県養老町にあるミズノバット工場に訪ねた時も、よく一緒に行ったという近くの食堂で、久保田氏から松井選手のバットに対する信頼感について聞かされた。

一年間、自分のバットを信じて絶対に途中で手を加えなかったという話には、自分自身の感覚や技術、フォームなどを第一に考えた松井選手の強い意志を感じた。

野球の直接的な関係者ばかりでなく、篠山紀信氏や阿久悠氏、さらに伊集院静氏などが表した松井選手の人物評価も、ボクをさらに後押しした。

メジャーリーグ機構が、松井選手のニンゲン的な魅力を高く評価してくれたことも嬉しく心強かった。

ミュージアム構想に賛同し協力してくれたことは、展示計画に大きなバックボーンとなっている。

現在、ミュージアムで流れている映像などは、メジャーリーグの協力支援なくしては完成しなかったものだ。

 

ミュージアムの企画に関わらせてもらった長い時間は、何もかも夢のように過ぎていったような気がする。

オープンの前夜、松井選手は最終便で帰郷し、そのまま空港からミュージアムに立ち寄った。

あまり表情を変えずに館内を歩いていたが、今から思えば、かなり照れ臭かったのだろう。

そして、翌朝…。北陸の空はまさに冬の到来そのものだった。

取材オファーは、180社を超えていた。

館内でのセレモニーを終え、テープカットのために松井選手が外に出る。

ボクは中からエスコートした。その時だった・・・

不思議なことに雲が切れ、その隙間から太陽の光が流れ出しミュージアムを照らした。

このことは、今でも関わってきたスタッフたちの語り草となっている、“松井ミュージアムの奇跡”だ。

長かったその日のすべてが終わり、ボクは運営に携わってきた多くの関係者たちを前にして礼を言った。

ボクの横には、大きな松井選手がときどき口元を緩ませながら立っていた。

ボクはもちろん、十分に誇らしげだったに違いない。

 

オープン後の最初の休日だったろうか。外にはパトカーも巡回し、最高の入館者数に達した日のことだ。

ボクは、ずっと一人の入館者に注目していた。すぐにかなりの高齢と分かるおばあさんだった。

少し離れながら後方を付いていくと、おばあさんはあるコーナーで立ち止まり、人ごみの中で曲がった背筋をぐっと伸ばした。その姿は凛々しくも見えた。

おばあさんに近寄っていき、大丈夫ですか?と声をかける。

腕章に気が付いたのか、おばあさんが語りかける。

「この子(松井選手)はね、ほんと偉かったんですよねえ…」

おばあさんの視線の先には、スポーツニッポンから贈られた「五打席連続敬遠」を伝える新聞一面のパネルがあった。

大阪から娘さんと来たというおばあさん。娘さんもすでにおばあさんの域にあった。

星稜高校時代の五打席連続敬遠の試合を見てから、松井選手が大好きになり、それ以後、ずっと松井選手に関する新聞記事をスクラップしてきたと言う。

手を添える娘さんも、母はここへ来るのを本当に心待ちにしていたんですと言って笑った。

野球が生んだ物語が、またもうひとつの物語を生む。

その物語こそ、文化なのだ・・・・・・・

こういう仕事を続けてきて、世の中に存在し、人々から愛されてきたものには、すべてに「文化」があるのだと思えるようになった。

逆に言えば、文化がないものは、仮に存在はしていても愛されることはないのだと思うようになった。

奇を衒ったり、無理に衆目を引こうと考える必要は特にない。

それよりも、じっと見つめ深く掘り下げていく過程を大事にする方がいい。

いろいろな機会をいただき、ボクはこういう話を何度もした。松井選手を横にして話したこともある。

今、現在も、関わっている仕事のすべてがそんな思いに支えられている。

そう言えば、最近、野球が面白くないのは、松井秀喜がグラウンドに立っていないからなのだ……


“松井秀喜から学んだ野球文化” への2件の返信

  1. 松井ミユージアムをN居さんが、プロデュースした事は、知ってました。             熱い思いを、感じました。是非、行って見たくなりました。

  2. 野球文化。いい言葉ですね。
    やはりストーリーのあるものには必ず感動がある、
    ということなんですね。
    とても爽やかな気持ちになりました。

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