電車に乗ると

電車

電車に乗ると、やはり基本は窓の外の風景を見ることだと思う。

風景は流れ去っていくもの。

本の中の活字や写真はいつでも見ることができるが、風景は待ってくれない。

最近特に、昼間の車中では本を読まないようにしている。

懐かしい風景や、意外な風景などに出会う瞬間を見逃さないよう気にかけている。

北陸新幹線が開業して、トンネルが多すぎるという声をよく聞くようになった。

が、あれはどうやら風景を見ることができないことへの不満ではないらしい。

電話やネットが使えないことへの不満らしいのだ。

さびしい話なのである……

雨の日の草刈り

細かな雨の降る中、家のまわりの草刈り。

山用のややごついTシャツ。

作業用にしている、これもまたごついパンツ。

これらは細かい粒子のような雨くらいなら負けない。

それに気温も高いから、ちょっと濡れるぐらいがちょうどいい。

ポケットから聞えてくるのは、スマホが発する「Basie in London」。

これはポケットから聞えてくるというのがいい。

イヤホーンではいけない。

ズボンの後ろポケットから、いかにもアナログ的、モノラル的に聞こえてくるのがいいのだ。

だから、流すのもカウント・ベイシー・オーケストラなのでもある。

ただ単に、尻(ケツとも言う)の感触もいいだけではなく、なぜかベイシーサウンドに押されて、作業もはかどっているような感覚にもなったりする。

それにしても、久しぶりに雨に濡れるという感覚を味わった。

これは驚異的な久しぶり度合いだと思い、ニンゲンらしく生きていない近年の日々のことを思ったりしながら草を刈った。

60年に及ぶ人生で、最も激しく雨に濡れたというのは、あの「剣岳・梅雨ド真ん中豪雨逆上山行」(このタイトルは今考えた)の時だろうと振り返ったりもしている。

初めての本格山行だったが、若き日の「憧れと試練」が入り混じった思い出だ。

番場島から当時の伝蔵小屋までの登りで、パンツの中までずぶ濡れになった。

まさにカラダの芯が冷えてしまうくらいのずぶ濡れ度だった。

これには深い事情があって、同行者たちよりもはるかに体力的優位さを持っていた自分が、その時のリーダーから日本酒の入ったポリタンを担がされ、自分自身の荷物は他のメンバーに分配されていたのだ。

つまり、自分の雨具を携帯していなかった。ついでに書くと、ポリタンはキスリングの大きなリュックに入れられ、パイプの背負子で背負っていた。

この大量の日本酒は、その夜少しだけ減ったが、翌日は剣の登り下りで誰も口にしようなどとは言わなくなり、結局下山するまでほとんどが残っていた。

そんなことを思い出しながら作業していると、最初は適当なところでやめにしておこうと考えていた思いが徐々に薄れていき、じっくり腰を据えてやっていくスタンスに変わっていく。

そのことに気が付くと、これもまた雨の中をひたすら黙々と歩いていた山行と同じだなと思ったりする。

雨で草が重くなっていた。

最後にかき集めながら一ヶ所に寄せていく作業は、なかなかチカラが要る。

ポケットからのベイシーは、ボーカルが加わってますます元気がよくなっている感じだ。

そういえば、ベイシー・オーケストラは二度コンサートに行ったなあと思い出す。

今年の金沢のジャズイベントに、またチック・コリアが来るらしいことも思い出し、今年はトリオだから行ってみるかなと考えていることも思い出した。

この間、何かの拍子にチックのソロピアノが耳に飛び込んできて、そのタイミングの良さもあってか、チックのピアノにまた興味を持ち始めている。

「CIRCLE」なんかも、なぜか最近たまに聴き直している。

こういうことは良い傾向だなと思っているうちに、雨が激しさを増してきた。

そろそろフィニッシュに向けて仕上げなければならない。

最後はやや雑になったが、なんとか終わった。

顔や腕なんかの濡れ具合もいい感じになってきていた。

それにしても、隣の空き地は草ボウボウなのである………

 

下品な日々

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前にも書いたことがあるが、香林坊日銀裏でかつて繰り返されてきた、今は亡き奥井進さんとの会話の中に、「下品やねぇ」という言葉がたまに使われていた。

ボクたちは、ただひたすら自分のために時間を過ごしている状態を「上品」と呼び、仕事のことしか今は考えられないなどといった時間の過ごし方を「下品」と呼んでいたのだ。

一週間ほど店に顔を出さないと、「どうしとったん?」と問われ、「ちょっと忙しくてね」と答えると、「そうなん、下品やねぇ」と言われる。

「私的エネルギーの追求」などといったテーマで雑誌を発行し、ひたすら自分らしくいられる時間を得ようと、静かに息巻いていた時代だった。

今から思えば、ただ中途半端であっただけで、それ以外に何とも表現できないさびしい時でもあった。

でも、今でもアタマの中でこの「下品やねぇ」を使うことがある。

第三者に言っても仕方がないので、自分だけに言うのだが、ただそういう場合は、余計にクールな響きになったりして虚しい。

上品でいたければ、会社なんか辞めて好きなことをやっていればよかったんだよとも言われそうだが、そこがまた「ニンゲンの意外性」などといった別なテーマも掲げたりしたものだから、仕事をしながら私的エネルギーを燃やし続けているということにも、意味を持たせていたわけである。

結局、話をややこしくしていたのは自分自身であり、上品であるとか、下品であるとか、表現の遊びみたいなことをとおして自分をかばっていただけかもしれない。

そう言えば、最近、楽しいという感覚が分からなくなってるなあと思う。

単純に言えば、楽しいと感じる時間がないからなのだろうが、これは一種の病気だ。

NHKの『とと姉ちゃん』を見ていると、雑誌作りに情熱を燃やす主人公に自分を重ねたりして、その純真さみたいなものに刺激されている。

胸が痛くなるような、諦めと羨望が混ざる感覚だ。

あれが家族を養っていくための手段だとする主人公の思いとはちょっと違うが、それでもよい雑誌を作りたいという気持ちは同じなのかもしれない。

結局、8号までしか出せなかったわが『ヒトビト』(雑誌の名前)だが、あの時の気恥ずかしさや気怠さも混じった妙な楽しさはしっかりと胸に刻まれている。

最近、一旦あきらめかけた絵本作家への道に、もう一度チャレンジしようと決意した、ある図書館司書の女性の話を聞いたり読んだりしたが、その再び立ち上ろうというエネルギーに爽やかで、すがすがしいものを感じたりもしている。

自分のことは半分あきらめて、そういう人たちをわずかながらでも応援しているだけで、少し満足出来たりもする。

4月に鳥羽まで電車の一人旅をやった。

現地で昔の大学の友人たちと合流したのだが、あの電車の旅はそれなりによかったような気がする。

車窓の景色とか、最近特に目を凝らして見るようにしていて、なぜか懐かしい楽しさを感じ取っていた。

休みの日、かつて仕事で出かけていた土地に、敢えて私的に出かけるということの新鮮な感覚も味わったりした。

「上品な日々」は、自分の意識次第ですぐ目の前に現れたりするのかもしれない。

そんなことを束の間思いながらの「下品な日々」が続いている……

 

焚火休日のときの流れ

焚き火1

久しぶりの焚火である。

と言っても、焚火そのものを楽しむものではなく、裏の空き地に放置されているものを焼却するという、れっきとした家事仕事だ。

ただ、楽しくないのかと言えば、それはそれで十分というか、かなり激しく楽しい。

今回は何年ぶりというくらい久々度は高く、最近ではご近所さんへの配慮などもあって回数も減った。

何と言っても、休日にはできなくなった。

その日も連休の間にポツンと残された“普通の日”をお休みにさせていただいてやったのだ。

焚き火場は、家を建ててからそのままになっている、いつもの後ろの空き地。

もともと「多目的空き地」と位置付けていたが、最近では「無目的空き地」と虚しく呼ぶ。

砂や雑草との熾烈な闘いもあるが、とにかく何もしないまま放置しているのがよくない。

 

今回のメイン材料(燃やす対象)は、ずっと前から置きっ放しになっていたオープンデッキの解体残だ。

その前に雑草取りから、鍬を手に花でも植えようかという分だけ土をおこす。

少し前から悩まされている腱鞘炎とテニス肘(と医者は言うが、ボクはテニスをしない)のせいで、鍬は長時間持てなかった。

この鍬は亡き母の形見で年季が入っている。

着火は9時ごろ。

いつものように木を組み、その下に乾燥した草などを置き、丸めたチラシに火を点けて差し込む。

木材に移った火が安定してくると、しばらくそのままにする。

ちょっと一息…… ポケットに入れたラジオ(スマホ)から、高橋源一郎と清水ミチコの楽しいトークが聞こえてきて、ときどき周囲を見ながら笑ったりする。

幸いにも、周囲には誰もおらず、安心して笑っていられる。

途中何度も木材を足したりするが、それ以外は特にこれといって格別なこともなく、こういう時は、“焚火読書”だったと、家の中へと読みかけ本を取りに行ったりした。

持ってきたのは、磯崎憲一郎の『電車道』。

あと残り50ページほどだったのが、いい機会に読み終えることができた。

ただ感想はというと、やや首を傾げている。

インタビューなどで著者が好きになったのだが、作品は自分のサイクルに合わない。

やや苦しかった分、読み終えてホッとした。

当然、こちらの方が悪いのだが、こういうことが最近はよくある。

作家がテレビやラジオなどによく出るからなのだろう。

高橋源一郎もそんな一人だ。

そう言えば、読みかけ本はまだ数冊あったなあと思い出した。

 

焚火の炎を見ていると、いろいろなことを考えたりするから不思議だ。

炎の動きが、視覚をとおして脳を刺激するのだろうか。

気が付くと、仕事のことやらモロモロ考えていたことが、残像みたいにアタマの中で浮遊しているのが分かる。

ただ、どれも実体がないようで、摑みどころがない。

まだ若そうなハチが一匹、すぐ近くの小さな花にとまろうとしているのが見えるが、なかなかとまれそうになく、何度も試みながらあきらめて飛び去って行った。

足元には、見慣れたアリジゴクの落とし穴(と呼んでいいのかな?)。

砂丘地の町だから、アリジゴクは大してめずらしくもないが、小さい頃、初めて砂の穴を崩し、出てきたアリジゴクを手のひらにのせた時の感触はまだ覚えている。

意外にも、ただくすぐったいだけだった。

そう言えば、手のひらに砂の山をつくると、アリジゴクはその砂の中にももぐり込んでいこうとしていた。

朝から雲ったままの我が家上空に、ヒバリが一羽飛来。

曇り空にヒバリは似合わないが、泣き方はあくまでもヒバリらしく、羽のばたつかせ方もヒバリらしい。

いつかどこかで見た、空で鳴いているヒバリをじっと見上げていた猫のことを思い出した。

 

炎がだんだん小さくなってきている。

材料ももう尽きている。

ラジオはとっくに正午のニュースを終えた。

家族は出勤日。

これからモロモロの片づけをし、家に入ってシャワーを浴び、独り冷蔵庫にある残りものなどをいただく。

それから、コーヒーを淹れ、BSで『ダーティ・ハリー』を観るのだ。

こんな時間の流れ方も、いかにも焚火的なのである………

 

「武田信玄 TAKEDA SHINGEN」のこと

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この本を貪るように読んだのは、二十代の初め(今から40年近く前)の頃だ。

たまたま山梨(旧甲斐の国)出身の友人がいて、彼が熱く語る「武田信玄 TAKEDA・SHINGEN 」という戦国大名の存在が羨ましく思えていた時期だ。

敢えて英文字を併記したのは、その名前の響きも好きだったからに過ぎないが、そのことも今から思えば重要だったような気がする。

ただ、信玄や謙信などがそういう名前(響き)になったのは、出家したからなのだ。

自分の国(旧加賀)には、前田利家という殿さんがいたが、人物的インパクトの薄さと話題の乏しさに、口に出すのも恥ずかしさを覚えるほどだった。

 

ところで、実家の物置には今も“信玄本”が多く眠っていると思う。

自分で言うのもなんだが、かなりの信玄通だったとも思う。

 

今年になって、NHK大河ドラマの『真田丸』が始まり、甲斐武田家の話もまたクローズアップされ始めている。

真田を語るのに武田との関係は欠かせないからだ。

昌幸(草刈正雄)が口にするあの「お館(やかた)様」の響きは、信玄を慕う気持ちに満ちているように聞こえてきて、なぜかグッとくる。

信玄に仕えたことによって、真田の存在は大きくなり、その後に繋がっているのだ。

主人公の信繁という名も、信玄の実弟からきている。

ちなみに武田信繁は、兄を支えたナイス武将だった。

が、あの最も激しかった永禄4年の川中島合戦で討ち死にしている。

 

ところで、この本のタイトルは『定本武田信玄』という。1977年に出版されている。

定本というのは決定版とか、さまざまな説を整理したものと解釈しているが、この本を最初に探し出した時、この“定本”という文字の凛々しさや音の響きが気に入った。

著者は、当時の山梨大学教授・磯貝正義氏。

武田家の地元、山梨大学の由緒正しい先生であることもいい印象を持った。

著者が特に気負ったりせず、淡々と資料に基づく解説を綴っていく内容もそれなりにいいと思った。

後で分かったことだが、このような定本と名が付く戦国大名の本というのはあまり見ない。

家康のを見かけたことがあるが、あれは信玄のものと比べるとまだ新しい。

信玄については実はもうひとつ定本というのがあって、『定本武田信玄』が1977年に出た後、2002年にも新たに『定本武田信玄 21世紀の戦国大名論』というのが出ている。

戦国大名ブームの走り的産物なのかもしれないが、このシリーズには上杉謙信もあり、北条氏康のもあるみたいで、とにかく信玄については定本が二冊あるということになるのだ。

これは素人目に見ても凄いことなのだろうなあと勝手に納得している。

ついでに書くと、我らが前田利家などは研究者というほどの存在すらも知らない。

かつて、大河ドラマで『利家とまつ』が無理やりのように(?)作られた時、俄か地元前田利家研究者が、講演料稼ぎなどに奔走していたという印象しかない。

ボクも仕事で絡んだが、彼らに翻弄された。

大学を出てから、山梨の友人と一緒に信玄の所縁の場所をめぐった。

それ以前、卒業直後の旅で京都奈良に出かけた時、たしか新田次郎の『武田信玄』4巻シリーズを持参していたと記憶するが、すでにかなり信玄周辺の話に興味津々だったと思う。

塩山市の雲峰寺にある御旗や風林火山の旗指物なども、現物を見て興奮したのを覚えている。

かつて「躑躅崎(つつじがさき)の館」と呼ばれた武田家の居館跡に建つ武田神社や、武田の資料庫もある恵林寺などでは訪れる人も少なく(と言うか、恵林寺などでは全く人はいなかった)、じっくりと信玄に思いを馳せることができた。

もちろん川中島にも行った。子・勝頼が再起を賭けた新府城址なども。

京へと向かう途上に病(労咳)が重くなり、帰らぬ人となる信玄だが、そのあたりの話はかなり切ない。

甲斐という山々と、さらにそれ以上に面倒なライバルたちに囲まれた地から領国を拡張し、最後は最強の軍団を率いて天下に号令を発しようとした信玄の生涯は、あと数年命が長らえていれば何を成し遂げていたかと想像を膨らませる。

それは信玄が最強の戦略家であったばかりでなく、優れた政治家でもあったと言われるからだ。

信長の地位などはなかったかもしれない。もしくはもっと先に延びていただろう。

信玄が死に、謙信が死んで、信長は幸運にも命を拾った。

時のめぐり合わせもよかったのだろう。

たしかに地理的な有利さも大きく、大胆で先駆的な行動が信長を前進させたのだろうが、本来ならば信頼を厚く受けているはずの重臣に裏切られるという、愚かな(としか言いようのない)殿さんだった。

しかも、自分への憎しみが塊となった大逆襲を、まったく予見できなかったという情けなさだった。

ついでに言えば、比叡山焼き討ちなどがさも当たり前のように語られている現代だが、日本史上で無差別大量虐殺事件を起こしている唯一の存在が信長なのでもある。

こういうことを言うと、信長は別格ですからと返す輩が必ず出てくるのだが……

しかし、それはその後に信長さまさまで、より下品であった秀吉という存在が歴史を継承し、繕っていったからに過ぎない。

 

この本をとおして信玄のことを知れば知るほど、歴史の不思議さを思った。

そして、そのうちに一時的に歴史が面白くなくなってもいった。

一国の歴史が、「運」みたいなものに左右されるということに虚しさを感じてしまった。

それにしても、あの時代の大名たちは、とにかくそれしか知らなかったかのようにひたすら戦っている。

戦に明け暮れる日々の果てに、平穏が訪れると思っていたのか。

この本を読んでいても、信玄の足跡はやはり戦いなのだ。

 

だから、戦国時代なんだよと冷たく返されそうだが、やはりどこか寂しい気もするのである……

 

 

一枚の写真が思い出させてくれたとき

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10年以上前に撮った一枚の写真。

5月はじめの妙高・笹ヶ峰だ。

ゆるく傾斜した雪原で、美しいYの字形の倒木を見つけ、スキーを外し、リュックを下ろした。

半分凍らせておいた缶ビールを雪の中に埋め、カップ麺とコーヒーのための湯を沸かす準備をする。

にぎり飯二個とソーセージ一本を取り出し、頬張り始める。

もちろん、缶ビール一本も同時に栓が開けられている。

その頃から毎年のように春は笹ヶ峰に行っていたように思う。

そして、毎年のように同じメニューだったようにも思う。

それ以前は立山や白馬、乗鞍方面で、それなりのテレマークスキーを楽しんでいたが、笹ヶ峰に行くようになって、同じテレマークでも、滑るより走り回るといったイメージが強くなった。

倒木はちょっと細い感じがした。

が、それでも二股のあたりに座るといい感じだった。

静寂の中、鍋がシューシューと音を立て始め、ガスを止める。

蓋をとって、お玉で湯をすくい用意しておいたカップ麺に注ぐ。

飯が終わる頃になると、もう一度着火し湯を温めなおす。

この頃使っていたカメラは、EOS。もちろんデジタルではない。

コーヒーの粉は、いつも部屋のテーブルに転がっていたフィルムケースに入れて持って行った。

まだインスタントだった。

コーヒーを用意すると、もうあとは片づける。

そして、カップに湯を注ぐ。

“豊かな時間”が訪れていることに、自分自身がと言うか、カラダが気が付いている。

残雪の上にドスンと座りなおし、倒木に背中を預けると、ちょうどいい具合にリュックが枕になっていたりするから不思議だ。

そして、こんなシチュエーションが待っているとは予想していなかったが、とにかく山の中で読もうと思って持ってきた一冊を手に取っていた。

星野道夫の『アラスカ 風のような物語』だ。

星野道夫の本を片っ端から読み漁っていた時期だった。

写真家ではあったが、エッセイストとしての彼の文章がより好きだった。

ニンゲンとしての、いや、ヒトとしての魅力がこれほどまでに伝わってくる文章に出会ったことはない…とさえ思っていた。

彼のさまざまなエピソードはもちろん、周囲の友人たち、家族、さらにアラスカで遭遇した風景や生き物たち、そのすべてに対する思いが、ボクにとっては写真よりも文章から伝わってくる気がしていた。

この本はすでに多くを読み終えており、意図したことであったが、フィニッシュを笹ヶ峰の残雪の上で迎えた。

それから昇りつめた太陽のぬくもりを受けて、少し眠った……

この写真はスキャンして残しておいたものだ。

ずっとパソコンのかなり奥の方で保存されていた。

忘れ去られていたと言った方が当たっているかもしれない。

だから尚更、その時の短い時間の経過が鮮明に甦ってきたのだろうか。

今も時々使うアナログとデジタルが一緒になった腕時計は、12時52分53秒を表示。

気温は29度を示しているが、これはやや高めを示すクセになっていた………

ねじめ正一氏と玉谷長武クン

ユリイカ

1997年4月発行の『ユリイカ』。

161ページから169ページにかけて綴られた、ねじめ正一氏渾身(だと思う)のエッセイに心が撃たれた。

喫茶店でしか原稿が書けない氏が、喫茶店のトイレに「大」のために入るが、固体を出そうとして意図せず大きな音を伴う気体を出してしまったという焦りが、リアルに綴られていた。

音が出た後に期せずして起きた店内での笑い。

自分(の尻)が発した音と、その笑いの相関について悩む筆者……

喫茶店

このエッセイで、さらにねじめ氏が大好きになったボクは、1999年の金沢市観光協会50周年のイベントに氏を呼び、金沢市民芸術村のドラマ工房でトークショーをやっていただいた。

紡績工場を再利用した市民芸術村ドラマ工房は、特有の構造と空気感を持ち、会場入りしたばかりの氏が、「いい場所ですねえ」と言われたのを覚えている。

氏はそこで、商店街の魅力はさつま揚げの美味さで決まるとか、長嶋茂雄さんの職業は長嶋茂雄だとか、ひたすらねじめ節を語り、そして、創作中の長い詩を東京からFAXで送らせ、『詩のボクシング』風に即興で読んでくれたりした。

ボクがステージに用意したのは、かつての小学校の教室にあった小さな机と牛乳瓶に入れた一本の花だけ。

工房の道具部屋を見回し、ボクも発作的にそれに決めた。

知り合いも大勢来てくれて、なかなかいい企画だったと思う………

 

このことを今語りたいのは、あの時ボクの机の上にこの『ユリイカ』を置いていったある後輩の命日月が2月であったからだ。

玉谷長武(たまたにおさむ)という、奥能登門前町出身のナイスガイは、ボクに色々と余計なお世話的言葉を発しながら、27歳という若さでこの世を去った………

彼の稀有な存在を綴った拙文を、必ずこの時季に読み返す。

今でも、彼がもし生きていたら、自分の人生も途中から何らかの形で変わったのではないかと思ったりする。

それくらいに、彼が好きだった………

 

遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと

股引について

芽吹き1

恥ずかしながら、たまァに今風の股引(ももひき)を穿くようになった。

が、自分の感覚では、それを穿いても決して暖かいといった感じがしない。

それどころか、余計に足がヒンヤリとした感じになる場合が多く、穿いてしまったことを悔いたりする。

そもそも、股引については中途半端な思いを抱いてきた。

中途半端ではない思いというのも説明できないが、冒頭にも書いたように、股引にはどこか羞恥心みたいなものを抱かせる性格があり、そのことによって積極的に利用したくないといった思いがあった気がする。

たしかに、最近の股引はデザインもそれなりに施されていて、昔とはかなり違う(つまり、ラクダの・・・ではない)受け止め方がされているみたいだ。

だがどうしても、股引を穿いているという状態はよろしくない。

どうやっても股引だからだ。

その名も、何となく侘しい。

ももひき…という音の響きは侘しく、そして、せつないのである。

さらに、漢字では「股(また)を引く」と書くところにも奇妙な感じを受ける。

たしかに、「股」には「もも」という読み方もあるようだが、この場合の「もも」と言えば、太腿などの「腿」を連想するのが普通だろう。

だから、本来ならば「腿引」という漢字にするか、もしくは「またひき」という呼び方になっていてもよかったわけだ。

それがなぜ、股引(ももひき)なのだろうか。

 

ところで、股引の話題を出すと、必ず突っ込まれるのが、小倉百人一首のあの歌である。

「ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり」

この歌の出だしの「ももしきや…」に、思わず赤面してしまったとか、吹き出しそうになったという経験を持つ人は多いだろう。

これは、「ももしき」が、宮中の意味であることを知っていれば何でもないのに、その響きから「ももひき」と聞き間違えたり、またはモロに「股引」そのものだと勘違いしてしまったことが原因である。

ちなみに、この「ももしき」は「百敷」と書くのだそうだ。

多くの石が敷かれているというとかで、宮中とか御所とかを表す。

そういうわけで、少し寒さも和らいできたせいか、股引を穿くことはほとんどなくなった。

そのことで、なんだかアタマの中のモヤモヤが取れたような、奇妙な思いも抱いたりしている。

なくなったから、堂々と股引に関する思い(不信に近い)も書いていられるのだろう。

また寒さがぶり返した時にはどうするかだが、今のところまず穿く予定はない………

ガムとインフルエンザ

ガム

ガムについて考えたのは、インフルエンザが流行し始めたぞというニュースが、会社内に流れた日の夜のことだ。

社内に感染患者が数名発生し、予防に関する情報が各自のパソコンに送られていた。

その中のたくさんの項目の中に、“ガムを噛む、飴を舐めて口に潤いを!”とあった。

ガムがこのような効能を持っているということについては、実はずっと前から知っていたのだが、実際にこうして公式(?)な文書として出ているのを見ると嬉しくなった。

自分の場合、知っていたというより経験していたという方が正しく、そのこと自体の精度の高さについてもかなり自信を持っていたのだ。

しかし、そのことは(少なくとも周辺では)なかなか信じてもらえなかった。

ガムには何と言っても虫歯のモトだとか、所詮、二日酔いの朝の臭い消し(特にニンニク対策)といった偏見があり、潤いという言葉との関連性を受け入れるのは難しかったのかも知れない。

 

自分には、春頃になると軽い喘息のような症状が訪れる。

花粉症みたいなものだが、お医者さんからもお墨付きをもらった“れっきとした持病”らしく、かなり長いこと欝な思いをしていた時があった。

よくある目を充血させ、カラダを捩じりながら烈しく咳き込むというのとは違うが、ただ風邪を引いて咳が出始めると、ダラダラと続くということがあるのだ。

乾燥してくるとテキメンであった。

だから、根本的に喉にはそれなりの注意を払ってもきた。

とにかく咳が出ない状況を維持していくことが肝心だった。

そして、そんな中で発見したのがガムの効能だ。

口とか咽を潤すというと、誰もが水やお茶を飲むと考えるだろう。

しかし、本当にムズムズが昂じてくると、たった一秒か二秒くらいの快感ではすまなくなる。

ずっと、その快感(と言っても普通のことだが)が継続的であってほしいという強い欲求が生まれる。

そんな時、ふとガムを噛もうと思った。

ガムを噛んでいれば唾液が出る。

その唾液を定期的に喉の方へと送る。

この場合のガムはキシリトールである。

ついでに書くと、ボクの場合は、ガムに味はなくてもいい。

かつて最初から味のないガムが存在していたが、ボクはそういうのが気に入っていた。

今もあるのだろうか?

キシリトールガムにも、本当は味は要らない。

 

この唾液が喉を通っていくことだけで、ボクの咳はほとんどカンペキに出鼻をくじかれていた。

もちろん喉が真っ赤に腫れてしまっている時などはむずかしいが、たとえば朝クルマの中で、小さなガム一個を口に放り込むだけで、起き始めの頃から気にしていたムズムズ(イガイガとも言う)感は見事に消え去った。

さらに、いい意味の副作用もあり、唾液が送られた胃はその活動を活発にし、昼飯を美味しくしてくれたりもした(ようだ)。

こうして、ガムとの信頼関係は深く結ばれていったのである。

今もバッグの中やクルマの中にガムがある。

 

ところで、ガムと一緒に取り上げられていた飴についてだが……

まず、飴にはそれほど期待していない。

やはり飴はどうしても甘すぎる。

あの甘さは、本気でないように思えて信用できない。

あの甘味で喉をやさしく包み込んでいるかのごとき印象を持つが、喉自身を錯覚させているように思えるだけだ。

その点、ガムには唾液を出すという重要な働きをしながら、なんとか噛み手の役に立とうという姿勢が見えたりするのである。

そういうわけで、とにかくやはり、何と言うか…

“喉にはガム派”なのであった………

感受性を取りもどす年頃に

緑の葉っぱ

去年は還暦の翌年だった。

この場合の「翌年」は「よくとし」と読んでもらいたい。

と言いつつ、今自分のライフワークと位置付けている某ミュージアムで、4作目の短編ムービーを作らせていただいているのだが、先日ナレーションの録音で同じ「翌年」を、「よくねん」と読んでくれるようナレーターに指示していた。

シナリオを書いていた時の自分がそう読んでいて、それでないと納得できなかった。

そんなことがよくある………

 

それで、予想以上の早さで還暦の翌年(よくとし)が過ぎ、還暦の翌々年(よくよくとし?)になったという話だ。

そんな年頃(これも変な響きだが、プレーオン!)になってくると、妙にさまざまな区切りみたいなものを作りたくなる。

この場合の「区切り」とは定年があったりすることからくる日常の転換だったりもするのだが、やはり「人生のやり残し」的なモノゴトに、もう一度相対してみようという場合の再スタートを意味しているように思える。

ボクの場合は仕事が継続し、その立場にすべてが束縛されてしまったような思いに陥ったが、最近ではやや開き直り気味でもある。

後悔するのが分かっているとしたら、とにかくそうしない方向へ気持ちを向けておこうと考えるのは普通だろう。

だから、むずかしいことは考えずに、目の前にあることを片付けている。

 

そんな中、年が改まって人生の「やり残しリスト」というのを作ってみようかと思った。

これまでの人生でやり残してきたことを並べていくというやつだ。

別に表などを作るわけではないが、クルマを運転している時などに、思いつくままアタマの中で中身を埋めていく。

内容の濃さは別にして、もともと何でもやってきたニンゲンなものだから、やり残しは山ほど出てくる。

しかし、ふと思った。

やり残しという定義づけがややこしいのだ。

だいたい、やり残していない、つまり、すべてやり尽くしたということなどあり得るのだろうか?

そう腹の底から言えるニンゲンが果たしているのだろうか?

少なくともボクの観点からはいないということが分かってきた。

そして、考える角度を変えた。

何をやり残してきたか?よりも、何をやってきたか?を考える方が前向きだと思えてきた。

つまり、「やり残しリスト」から、「やってきたリスト」に切り替えたのだ。

 

これまでの人生の中で、自分が熱中したり、興味を持ったりしたことを振り返るのは楽しい。

時間軸で追いかけていくと、小さな自分史みたいなものが出来上がっていきそうだ。

しかも、現在進行形でそれらがどこかに生きているということを発見したりすると、自分の人生もそれなりに充実していたのではないかと思えたりもする。

それに、やり残しよりは、もっとはるかに「ゼロからの再スタート」という気持ちになれる気がした。

カッコよく言えば、脈々と自分の中に生き続けてきたものを振り返るといった感じなのだ。

 

先日あるラジオ番組で、ゲストが還暦を過ぎて若い頃の感受性の強かった自分に戻っている……というようなことを話していた。

とても共鳴できる話だった。

いい言葉だなあと、耳から脳に行き、それから心に静かに届いた。

そのゲストは役者だから、特にそういう言い方が似合うのだろうが、普通のオトッツァンやオッカサンでも、感受性を再生させることぐらいむずかしいことではないのではと思った。

人それぞれだが、ボクの場合は少年期に感受したモノゴトに強いインパクトを受けた。

当時はちょっと周囲と違っていたから、プラスにもマイナスにも作用したと思う。

しかし、それだけが自分のすべてではない。

そこからさらにまた時を経て、さまざまに広がっていったものがある。

それらすべてがどこかで繋がっているような気もする。

そして、今の自分が出来上がっていった…のだから仕方ない……?

しかし、自己形成史というのは、ひたすら前へと進んでいくだけではないのかも知れない。

 

あまり遠くを見ないよう気を付けながら、これから春に向かおうとする時季に向けて、「やってきたリスト」や「やってきたヒストリー」をボーっと考えていく。

やはり、なかなか楽しそうだ………

初夢から解かれる

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1月も半分が過ぎたので、初夢の話を書く。

と言っても、いい夢ではなかったので、内容はあまり書きたくない。

ちょっとだけ書くと、仕事上のトラブルが発生して関係者に謝罪に行くという情けないものだ。

夢の中で、これは夢じゃないかなあと思っている自分がいた。

それほどモヤモヤしたいい加減な空気が漂った夢だった。

しかし、見てしまった以上、今更それを消してしまうわけにはいかない。

自分としては、それが「2016年の初夢」だっのたかも知れなかった…ということが情けなかった。

ただ、最近になってあることに気付いている。

それは、その夢が果たして本当に「初夢」だったのかということで、よくよく考えてみると、夢から覚めた時がもう明け方だったことから考えると、それ以前に見ていた夢があり、その夢が初夢に当たるのではないか……ということだった。

たしかに元旦の夜から、2日の朝にかけてのことだが、夢にも昔の映画のように“三本立て”とかがあって不思議ではない。

だから、自分が見たあの不快な夢の前に、すでに一本目や二本目を見ていた可能性がある。

その一本目が初夢にあたるのだ。

ひょっとするとその夢は、道を歩いていたら風が吹いてきて、その風と一緒にビール券が無数に飛んできた……とかいう “ 幸せいっぱいな夢 ” だったかもしれない。

少なくとも、はじめに書いたようなあの下品極まりない夢ではなかっただろう。

そんなわけで、ボクは今、初夢だったと思っていた不快な夢からようやく解放されようとしている。

新年になって初めて、短い時間だが自分の部屋で過ごした。

そして、出がけに、新築した20年ほど前、板壁に張り付けた一枚の写真をじっくりと見た。

真っ青な空に、いくつもの白い雲が浮かんでいる写真だ。

雲たちは浮かんでいるだけでなく、動いているように見える。

またひとつの年が始まったのだなと、漠然と思っていた……

 

 

 

 

 

ジャズと出合った頃に帰れる一冊

モンク2

10代の中頃から、“一気”にジャズを聴くようになった。

聴くだけじゃなく、ジャズの歴史やモダンジャズの代表的なミュージシャンたちのことを知ろうとしていた。

レコードは何枚も買えないから、FM放送とジャズ喫茶で聴き込んだ。

スイング・ジャーナルはもちろん購読し、歴史本も研究本も読んだ……

今この本をとおして、久しぶりにそんな時代に帰ったような気がしている。

分かったような顔をしてジャズを語っていた、若かりし自分がいたことを思い出している。

まったく行ったこともないニューヨークという街の片隅での話(出来事)を、遠く離れた日本の、北陸金沢の、さらにはずれの小さな町で読み耽っていた自分を見つけた。

しかも、自分が生まれる前や生まれた頃の話を……

この本の中に出て来るセロニアス・モンクという特異な(天才)ピアニストにまつわる、さまざまな書き手たちの話は興味が尽きない。

そして、何よりも編・訳の村上春樹自身が書いている最初の6ページの文章からは、かつてのジャズの世界(たとえばジャズ喫茶など)に流れていた、どこか説明のつかない懐かしさみたいなものが強烈に伝わってきて、その6ページは5回以上読み返した。

まだ半分ぐらいしか読み終えていないのは、そんな読み返しが多いからだ。

装丁の絵は、もちろん和田誠。

ただ中身は、装丁の雰囲気よりもかなり濃い。

今は、もうすぐモンクとコルトレーンの章になるのを楽しみにしているし、もちろん、モンクばかり聴いている……

 

金沢の高尾山を初冬らしく歩く

登山道1

12月中頃の土曜の午後、つまり初冬の休日の午後である。

金沢の奥座敷こと湯涌温泉から高尾山方面を歩いてきた。

特に計画らしきものもなく、いつもの湯涌ゲストハウスに立ち寄って、前に見せてもらっていた簡単なマップをもらっていこうと考えていた。

念のため、湯涌ゲストハウスの小屋番・A立クンに電話を入れると、相変わらず週末は客が殺到して、その準備に忙しいとのこと。

久しぶりの晴れ間の中、初冬にしてはやや温(ぬる)い空気が温泉街に漂っている。

邪魔にならないよう、マップをもらったらすぐに山入りしようと思っていたが、いつものように誘われるままカウンターに座ってしまい、彼の淹れてくれた美味い珈琲をいただくことに……

ピアノ・トリオの演奏が聞こえる中、しばらく世間話をし、マップのルートについて彼から話を聞いた。

高尾山…東京にある人気の低山と同名だがカンペキに違う。

湯涌温泉から旧江戸村跡地まで上がり、公園になっている場所の駐車場にクルマを置いた。

途中には、かつて東洋一の豪華さを誇ったと言われる「白雲楼ホテル」の跡地もあり、まだ営業していた時代(自分も20代だったろうか)に仕事で来ていたことを思い出す。

客として来たこともあって、風呂場へ行く道中が妙に怖かったのをぼんやりと覚えていた。

公園の駐車場にはクルマが一台、初冬らしき静寂の中、いかにも淋しそうに止まっていた。

ホントはもっと上までクルマで上がれて、そこから登山道が始まるらしいのだが、何となく長い時間歩きたいという気持ちもあったので、自分もそこにクルマを置くことにした。

A立クンも言っていたが、この季節はやはり早めの下山がお勧めだ。

最初の道2

路面は濡れた落ち葉が重なっているし、すでに陽は西の方に傾き始めている。

途中で引き返すこともアタマに置いて、舗装された道路を歩いた。

日陰に入ると、空気はさすがにひんやりとして顔のあたりにへばりつく。

フリースのファスナーを上げ切り、かなり早いペースで歩くことにする。

一応、小さなリュックにはもう一枚防寒着も。

炭焼き小屋炭焼き小屋の周辺

しばらくして登りと下りの分岐があり、そこを過ぎると炭焼き小屋が目に入ってきた。

もう冬季閉鎖中なのだが、小屋と言うには立派過ぎる。

周囲の木立の間には素朴なベンチも置かれていて、寛ぎのスペースといった上品さだ。

道から外れ、炭焼き小屋周辺の落ち葉の中をわざと音を立てながら歩きまわった。

道に戻ると、しばらくでこれまで登りの流れだったのが一気に下りに変わる。

やや躊躇しながらも、さらに暗くなっていく道を進んだ。

夏であれば、涼味が溢れるのであろうなあと思う。

そう思いながら、ここはまだ登山道ではないということを意識する。

そして、さらに進んで行ったところにある小さなスペースに、三台のクルマが止まっているのを見た時には少々拍子抜けがした。

やはり、ここまでクルマで来る人たちがいるのだ。

登山口の表示があった。

そうか、ここからが登山道なのかと納得するが、ここまでの道も登山道にしていいのではないかと、ふと思う。

そんなことはどうでもいいのだが、やはり土の上に出て山歩きらしくなったのは言うまでもない。

こじんまりとはしているが、それなりに急登もあったりして、なかなかやるじゃないかと気持ちも高ぶってくる。

最近、テレビでも“山番組”が多くあり、自分が忘れていた山歩きのバリエーションなどに懐かしさを感じたりするが、こういう山に来るとそれが肌で感じられる。

しかも、初冬の締まった空気のせいだろうか、余計にグッとくるのだ。

杉木立の道登山道2

急登の途中でようやくヒトと出会った。

意外にもやさしそうな若者だった。

両手にきれいに伐採された枝を持ち、ストック代わりなのだろう。

やや不安そうにこちらが上がって来るのを待っている様子だ。

山やっているナといった感じを受けない分、この山の身近さが伝わってくる。

簡単な言葉を交わして急登を過ぎると、今度はやや高齢な二人組と擦れ違った。

別に期待していたわけでもないが、コンニチワに頷いてくれただけだった。

最後に、今度は山やってます的雰囲気がたっぷり伝わってくる同年代(オトコ)と擦れ違う。

向うから開口一番、「今頃から登るんけ?」の声。

瞬間的にこのヒトは、この山のことを知っているナと感じる。

大概こういうヒトたちがこうした山を守ったり、広く案内したりしているのだ。

足を止め、ええ、行ってみようかと…と答え、そしてすぐに、早足のピッチに戻す。

3時間もあれば、最高地点(奥高尾山)まで行って下りて来ることができると考えていたが、それは登山口からのことで、自分はさらにその下から登っていたことを思い出した。

やや不安になってきた。

マップを見て、とりあえず前高尾山(763.1m)までにしようとほぼココロを決めた。

倒木

倒木が道をふさいだ急登の途中に、奥高尾山と前高尾山の分岐があった。

左上方に向かう滑りやすい不安定な斜面に足をかけ慎重に登った。

すぐに道は平坦になり、落ち葉が一層深くなっていく。

さらに行くと、今度は緩い下りになった。

そして、あれが前高尾かと木立の中の小さなピークを確認した時、前方が開けてきた。

前高尾のピークよりもこの稜線(と言っていいかどうか?)上にいた時の方が印象深いのは、どこかにあった焦りみたいなものが、ここからの眺めで和らいだからだろう。

谷間の風景遠景

まだ空は明るかったが、風は冷たかった。

山にいる実感が、その風の冷たさで湧いてきたような気がした。

もうかなり前のことだが、テレマークスキーで医王山の林の中を滑り降りたことがあった。

滑り降りたというとカッコいいが、実際は転がり下りて来たというのが正しく、最後はルートを誤り、スキーを外して登り返した。

そして、雪明りにほぼ助けられながら、何とか下山したことがあった。

その時も、登り返した場所で顔に当たる冷気が山にいることを実感させた。

カラダは汗をかいていたが、顔だけが冷たかった。

谷間の風景2

伐採され、分断された木がゴロゴロと一応並べられてある。

高くはないが、山域がそれなりの深さを持っていることが実感できる眺めだ。

カラダが一気にまた冷え込んできた。

尾根には初冬の風が吹いているなあと周囲を見回す。

谷間の葉っぱ2

下りも速足ピッチでスタートした。

しかし、さすがに落ち葉の上で何度も足を取られながらのやや難行だった。

特に急な場所では岩の上や泥の上の落ち葉が滑る。

朽ち果てようとしているかつての大木を見ていると、来年の春までこの木は残っているだろうかと余計なことを考えたりする。

辛うじて差し込んでくる木漏れ日の中で、木々が輝いていたりもする。

木洩れ日1 木洩れ日2

登山口までは、あっという間に戻れた。

アスファルトの道は、百名山を自力で完全踏破したアドベンチャー・田中ヨーキ君ばりに駆け足で進んだりもした(もちろん、ちょっとだけだが)。

駐車場に戻った頃には、もう夕暮れが始まっていた。

A立小屋番にメールしたが、返事がこないところをみると、湯涌ゲストハウスは、ゲストたちでにぎわっているのだろう。

湯涌ゲストハウスの美味珈琲をあきらめながら、こういうカタチの山歩きもそれなりに楽しいし、年齢やら体調やら、時間的余裕やらを考えると、もっとやっていこうかなと思ったりする。

初冬らしい締まった空気の中で、無理やり背伸びをしてやった……

西日落ち葉の道葉っぱ5-1葉っぱ6葉っぱ7葉っぱ8緑の葉っぱ

 

 

 

金沢文芸館~五木寛之文庫の仕事記

正面

金沢市尾張町にある「金沢文芸館」がこの11月で10年を迎えていた。

もっと歳月が過ぎているような感じだったのだが、意外だった。

そして、10年を迎えたすぐあと、数年ぶりにお邪魔させてもらっている。

館の建物は昭和4年(1929)に建設されたもので、かつては銀行だった。

平成17年(2005)に文芸館になるが、その前の年に国の有形文化財に登録されている。

工事に入る前に中を見せてもらったが、まるで映画のセットのようで面白かった。

特に2階のフロアから、階下のかつての店内を見下ろした時、なぜか西部劇に出て来る酒場を思い出した。

3階の窓からは金沢の素朴な街並み風景も見え、建物の存在自体にストーリーのようなものを感じたことを覚えている。

 

金沢文芸館での主たる仕事は、2階にある「金沢五木寛之文庫」の展示計画だった。

3階の「泉鏡花文学賞」のコーナーも含まれていたが、はっきり言って2階に比べれば“おまけ”に近かった。

この仕事も企画競争で勝ち取ったものだが、実を言うと、この仕事を他人に渡すようでは「おしまい」だと思っていた。

金沢に五木寛之に関する展示空間をつくるという話を聞いた時から、ボクは激しいプレッシャーに襲われた。

と言うより、自から自分にプレッシャーをかけていたように思う。

それは何と言っても、自分自身がかつて大の五木ファンであったからだ。

初期(自分が20代だった頃に読んだ)の小説やエッセイは、出た本すべて読んでいたと言っていい。

特に学生時代、東京で読む金沢の話などのエッセイは何とも言えずセンチメンタルで、ボクの中の金沢に対する印象に別な一面を作っていったと思う。

犀星の金沢世界も読み込んだが、時代も違い、五木氏のそれはまさに、“現代の、少し気だるい金沢”だった。

文芸館パンフ

そして、五木氏との接点で言えば、何よりも、自分があの内灘のニンゲンであるということを上げねばならない。

ボクは初期の代表作である『内灘夫人』の舞台となった、石川県河北郡内灘で生まれ育ったニンゲンだ

早稲田の学生だった五木氏が、初めて内灘の砂丘に立ったのはボクが生まれる2年ほど前。

五木氏は何かの中で、自分と内灘の関係を強く意識していることを書かれていた。

実は金沢文芸館の7年前、その内灘町で開催された「第1回内灘砂丘フェスティバル」(現在も継続)で、初めて五木氏に関わる仕事をした。

当時、内灘町では文学館建設の計画があり、その調査研究の仕事に関わっていた。

そして、その一環として文学に関するイベント事業の企画を上げ、その第1回目のゲストに五木氏を呼ぼうとしたのである。

ただ、「五木寛之論楽会」という名でそのイベントは開催されたが、正直言って全く関われる余地はなかった。

五木氏がすべてご自身で仕込まれた内容だったからだ。

唯一、ポスターとチラシの制作だけが全体予算の一部を削っていただいて我々にもたらされたに過ぎない。

その時の自分の企画はと言うと、町の文化会館を五木寛之一色にするというものだった。

五木氏のプロフィールを多面的に紹介し、内灘と五木氏との関係を広く知ってもらう最高の機会と位置付けた。

しかし、五木氏からあっさりとその企画は不採用とされた。

横浜、福岡、金沢(順番は忘れた)以外でこのような企画はやれないということだったが、それには素直に頷くしかなかった。

イベント内の冒頭のミニ講演会で、内灘との関わりについて五木氏自身の言葉で語っていただけたらと提案したことも、全くそうはならなかったと記憶している。

もちろん、天下の大作家にお願いをすること自体が無謀だったのだと反省もした。

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そんなことがあってからの、金沢文芸館だった。

企画提案の説明(プレゼン)には自信をもって臨んだ。

いつものように作品等よりも人物周辺を紹介するというスタンスを選び、手応えを十分に感じていた。

そして、採用の知らせを受けてから、五木氏との顔合わせと打ち合わせが決まった。

夜の品川プリンスホテル。

地下喫茶室のテーブルで、ボクは五木氏の真向かいにいた。

横には、ホテルで合流した金沢市の担当者と上司である課長さんが座っていた。

しかし、名刺交換は済ませたが、五木氏がマネジャー?の方とスケジュールなどの確認を行い、なかなか本題には入れない。

人気作家とはこういうものなんだと、ボクはその時漠然と思っていた。

やや長い時間が過ぎたあと、打ち合わせが始まった。

最初は企画の説明、そして、途中からは五木氏がご自身の考えを語り始め、こちらがその話の聞き手となっていく……

その時、ボクはあるモノをじっと見つめていた。

それは目の前で五木氏がメモを記す、ちょっと大きめなコースターだった。

万年筆の太いペン先で撫でるように記された“五木文字”が、ひっくり返されたコースターの上で踊っていた。

これは絶対いただいて帰ろう……

聞き覚えのあるあの声を聞き取り、自分のノートにメモをしながら、ボクはそのコースターの居場所をずっと追っていたのだ。

しかし、結論から言うと、このコースターは手に入らなかった。

打合せが本調子になってきた頃、ウエイトレスさんがやって来て、テーブルの上を綺麗にしていったのだ。

その時、ボクは資料か何かを出そうとして、床に置いたバッグの中を覗きこんでいた。

しかも、なかなか目当てのものを見つけられないでいた。

そして、気が付いた時には、すでにテーブルはすっきり……

時間にすれば3,40分の打合せであったが、五木氏の静かでやさしい語り口に終始リラックスしていられた。

今度は金沢でと言われ、テーブルの資料などを片付け終えた時だ。

思い切って五木氏に告げた。

「先生、私、内灘生まれの内灘育ちなんです」

最後に、この言葉を伝えようとずっと考えてきた。

特にそのこととこの仕事とが強くつながるわけではなかったが、とにかくボクは少し前のめりになりながらそう言った。

「え、そりゃあ、凄い人と一緒にやることになったなあ」

五木氏は少し照れたように笑った。

玄関まわり

それから数日後、新神戸駅前にあるアンチークの店にいた。

広い店内で、シンプルな椅子たちを見つめていた。

これらは採用されなかったが、当初、五木氏から聞かされていた展示室のイメージの椅子に近かった。

それからまたしばらくしたある日、東京・丸善丸の内店にもいた。

万年筆など執筆道具のディスプレイ方法を見るのが目的であった。

愛用した筆記用具類をどのように見せるかで、五木氏のお気に入りだった丸善のやり方を参考にさせてもらった。

現在設置されている展示什器のうち、いくつかは丸善からヒントを得ている。

玄関

五木氏のかなり細部にまでおよぶ指示の下、展示室のデザインが固まる頃、2階フロアだけとして「金沢五木寛之文庫」という名が付けられるということに、何か特別なものを感じた。

平凡だが、らしくて…いいなと思った。

特に「文庫」という二文字に愛着が湧いた。

そして、内装工事が終わると展示品が送り込まれ、それらは少しずつだが空間の構成に彩りを添えていった。

特に見覚えのある本の装丁やさまざまな写真などが気持ちを高ぶらせた。

最初の構想からはかなり変わってしまったが、ああ、いい仕事と出会えたなあと、柄にもそんなことを思ったりもした。

側面

2005年11月23日、オープン当日のことを書こう。

セレモニーは1階の小さなホールで、たしか昼の12時から挙行されることになっていたと思う。

狭い空間にそれなりの人たちが揃い、開始の時間を待っていた。

今でもはっきりと覚えている。

腕時計を見ると、セレモニーまであと10分ほどしかなかった。

しかし、五木氏はまだ2階にいて、自筆原稿のレイアウトなどについてずっと思案されている。

それまでにも何度も位置を変えたりしながら時間を要してきたが、もう残り時間はなく、さすがに階下から「先生、お時間ですので」の声がかかっていた。

「よし、これでいこうか」

最後の指示を確認し、スタッフたちが原稿を並べ直し、ショーケースの扉を閉じた。

そして、関係者たちがホッとした顔つきで佇む中、五木氏は狭い階段を下りて行った。

今でも、個人的には展示室自体、少し上品過ぎるような感じがある。

それは自分にとっての五木寛之像が、若い頃のイメージに沿っているからだ。

指示を受け、アンチークの家具などを探しに行った時には、そんな五木氏のイメージが自分の抱いていたものと合っていたように感じていたが、そうしたものは使用されず、実際に出来上がった展示空間はかなりピカピカしていている。

今から振り返れば、なぜか、そのあたりのことにずっと悩まされ続けた、むずかしい仕事だったようにも思う。

特にデザイナーたちは大変だっただろう。

そして、それ以前から関わり、同時進行していた別物件との両立で苦心した仕事だった。

恥ずかしながら、ボクはその五年後に内灘を舞台にした中途半端な物語~『ゴンゲン森と海と砂とを少年たちのものがたり』を本にした。

その本を出そうと決めた背景に、品川プリンスホテルでの五木氏との時間があったと、その本のあとがきで書いた。

久しぶりに文芸館にお邪魔したが、今更名乗るまでもなく、昔の一五木ファンとしてぶらぶらしてきた。

仕事は今でもスタッフの皆が、しっかりと繋いでくれている。

それにしても、まだ10年しか過ぎていない出来事だったのだ………

 

 

明治ラグビーの復活… 早明戦の復活

2015の早明戦は近年にない白熱した好ゲームだった。

明治ラグビー復活の道筋は、監督・丹羽政彦と、今シーズンから就任したFWコーチ・阮申騎(げん・しんき)が作ったと言えるかもしれない。

コンタクトの強さを前面に出す明治らしい選手がいなくなった…と嘆いていた阮。

しかし、しっかりと新しい明治らしさを見た気がした。

そして、そのことで早明戦の本当の姿を復活させてくれたと思った。

試合終了間際、ゴールライン付近での攻防は、かつての早明戦の定番だった。

ただかつては、FWで執拗に攻める明治に対して必死に守る早稲田というパターン。

しかし今年は、攻める早稲田に守る明治……

 

攻守は入れ変わったが、両チームの懸命な姿勢は変わっていなかった。

かつて国立を満員にした早明戦、その人気を、いや大学ラグビーそのものの人気を失墜させたのは明治だ。

明治が弱くなったからだ。

一年の終わりの早明対決を楽しみにしてきたファンを裏切ってきたのも明治だ。

早稲田の関係者たちから、明治が強くならないとダメだと言われながらも、明治は復活の道を見つけられないでいた。

ようやく前監督(吉田義人)によって陽は差しはじめ、そして、現監督(丹羽政彦)が現実のものにしていく。

40年あまり、最初は国立だったが、その後はほとんどテレビ観戦で応援し続けてきた早明戦。

説明のつかない切迫感と、歓喜と落胆を繰り返す80分間。

勝てば心の底から喜び、負ければ虚しさのどん底へと落とされる。

特に負けた時には、まるで自分の価値観が握りつぶされたような、そんな絶望に似た苦痛が迫ってきた。

そんなことを毎年繰り返してきたのだ。

テレビの前でも、国立のスタンドにいるように立ち上がり、大声を出して突進する選手に檄を飛ばす。

互いのチームカラーがはっきりと違っているからこそ、互いが自分たちのスタイルで勝つことにこだわる姿が美しかった。

これから正月に向けて、明治ラグビーは新しい時代へのチャレンジャーにならなくてはならない。

これまで代表に多くのOB選手の名を連ねてきたように、もう一度明治ラグビーの魂に火をつけてほしい。

これまでの空白の時間を埋めてくれなくてもいい。

これからの時間を楽しませてくれればいい。

今だから言う、はっきり言ってW杯は勝っても負けてもどうでもよかった。

日本のラグビーが世界に羽ばたいても、早明戦がかつてのように白熱し、強いて自分の都合で言えば、明治が早稲田に勝てばそれでよかった。

大学ラグビーらしい必死さ、そして爽快感を久々に味わった12月6日。

来年の早明戦を、かつてのように優勝を争う一戦にしてほしい。

心からそう思っている……

岳沢~晴れときどき曇らずの秋

 奥穂から前穂

上高地については、かなりうるさかった。

20代の中頃に行きはじめてから、多い時には一年に10回以上行っていたこともある。

それも最初の頃は登山のための通過点ではなく、上高地そのものを目的地に行っていたので隅々まで歩き込んでいた。

上高地に関する本もかなり読み込んだ。

「上高地」という名前や字面、その組み合わせのカタチ、そして「かみこうち」という名前の響きなど、何もかもが好きになっていた。

風景はもちろんだが、最初は歴史の話などに強く惹かれていたように思う。

里から登った杣人や岩魚を採る人々の日常を想像した。

そして、槍ヶ岳を開いた播隆上人、上高地と言えばのウオルター・ウエストンや上条嘉門次、内野常次郎、小林喜作、木村殖など、上高地を舞台にして活躍した山人たちの話に、今から思えば自分でも不思議なくらいのめり込んでいく。

上高地に入って最初に登ったのが、現代のように釜トンネルのない時代の徒歩ルート・徳本(とくごう)峠だったということからも、歴史からのアプローチにこだわっていたことが少しは理解してもらえるだろう。

古い話だが、かつて一緒に仕事させていただいた某広告代理店の、某大学山岳部OBの方との酒の席で、徳本峠の話で盛り上がったことがある。

こちらは20代、その方は40歳くらいだったろうか。

冬の上高地でのテント生活や、同じく槍ヶ岳で岩にヘバリ付いたまま一睡もせず過ごした話など、その人の話に若い自分はかなり強い刺激を受けた。

そして、そんな話の中で、この前徳本峠に登ってきましたと口にした時だ。

ええっ、穂高に登る前に、徳本に登っちゃったの? 凄いねぇ。

山のベテランが目を丸くして驚きの視線を送ってきた。

名古屋のちょっとオシャレなバーのカウンターで、生々しい山の話に花が咲いたのだ……

夕方河童橋

上高地に入り始めの頃はマイカー規制のない時期があった。

釜トンネルは今のようなきれいなものではなく、ただ削り掘っただけの岩盤むき出しで、路面も舗装されておらず、中では交差できないから手前で待機という場面によく遭遇した。

そして、そんな時期にはよく出かけていたのだが、マイカー規制がオールシーズンになってからは、八ヶ岳方面に向かう回数が増えて行く。

今の上高地は異常に近い感じの人の数で、もう静かに梓川や穂高の山並みを眺めるといった感じではない。

多分、徳沢から横尾あたりまで行けばまだ静かな雰囲気に浸れるのだろう。

思い切って季節外れのウィークデーを狙うのもいいのかも知れない。

二三年前に晩秋の上高地に入ったが、その時はさすがに人の数は少なかったように思う。

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河童橋付近から岳沢

なかなか本文に入れないでいたが、ここからが本文………

上高地の岳沢を終着点とする登山者はまずほとんどいないだろう。

涸沢までならいるかも知れないが、岳沢となると登って来たという実感も生まれにくい。

涸沢は奥が深く、周囲の風景も圧倒的だ。

しかし、時間的ゆとりがないとか、カラダに支障があって無理が出来ないという場合、岳沢も決して悪くないということを今回改めて知らされた。

今回出かけてきたのは、まさにその二つの因果関係からの選択だ。

あと強いて言えば、パートナーである家人の体力・経験も関係しており、その上で穂高の山岳風景をしっかりと見ることができるという場所を選んだ。

いつものように平湯の「あかんだ駐車場」からバスに乗る。

座席は最後尾……混んでいる。

話はまた飛ぶ………

昔、薬師岳の閉山山行に行っていた頃、空調もよくなく、全く快適ではないバスの最後尾に座らされたことがあった。

雪混じりの雨が降る冷え切った下山時で、バスの中は異様なくらいに暖められていた。

そして、有峰林道のくねくねした細い下りである。

ほとんどの人が車酔いし、バスを下りると道端に嘔吐していた。

そんなどうでもいいようなことを思い出したが、今のバスは違う。

しかも、今の上高地行バスは、安房峠のあの超ジグザグ道を通らないのであるから素晴らしく快適なのだ。

上高地に着くと、予想していたとおりのヒトの山だった。

トイレを済ませてすぐに河童橋へと向かう。時計は10時過ぎだったろうか。

河童橋を渡って梓川の右岸にまわり、写真を数枚撮ってから歩き出した。

自分の感覚では、この右岸側の木道は新しい上高地だ。

だからかどうか、しばらく歩いて行くうちに、目的にしている岳沢への登り口がどこなのか分からなくなった。

湿地のあたりで確認できたが、30年以上前に岳沢方面に入って以来、今まで足を踏み入れていないことに気が付く。

相変わらず遊歩道の木道には多くの人たちが、国籍も入り交えて歩いている。

かつては、道行く人たちの間で交わされていた「こんにちは」の声も今はほとんど聞くことはなくなった。

これだけの人たちと挨拶していたら、声も枯れてしまうだろうし、日本語で言っていいのかも問題だ。

登り口の池1

いつ見ても美しい湿地の風景を眺めた後、岳沢への登りに入るとまったく空気が変わった。

すぐに、自分の息づかいも感じ取れるくらいの静寂に包まれはじめる。

葉を落とし始めた大木の隙間から木洩れ日が差し込み、多くの倒木や苔などに注がれている。

登り口の苔

不意に驚かされるほどの野鳥たちの鳴き声や飛び立つ羽音、そして嘴で幹を突く音などが響く。

道は適度にアップダウンを繰り返し、ところどころに木道や簡易な木の階段なども備えられてある。

登山道3

山の人たちの心配りが嬉しい。

どこか神聖な気持ちになって足を運んでいる。

ほとんど人の声がしないまま登って行くと、はじめて上から下りてくる人影が見えた。

外国人の、いかにも自然好きといった男が独り歩いてきた。

上にある岳沢の小屋に泊まっていたのだろうか。

軽装だから、穂高からの下山のようには見えない。

静かに挨拶を交わすと、家人が「やっと人に遭ったね」と言った。

上高地の喧騒を経て来ると、この静けさは寂しさにも通じるのかも知れない。

時々、樹林の切れ間があると、西穂高の山並みが見えたりする。

途中にある「風穴」も、文字どおり斜面の石と石の間から冷気を感じて楽しい。

風穴

岳沢の小屋までではなく、その手前の展望のきくところまでを目的にしていた。

予想タイムでは一時間半もあれば到着する。

家人もそろそろ疲れはじめたかと思った頃、今度は若者が独り軽快に下りて来た。

その雰囲気から、小屋のアルバイトあたりではないだろうかと勝手に思う。

森林限界は近い?というような聞き方で、樹林帯から抜けるまでの距離を確認したかったのだが、彼は首を傾げてすぐには答えてくれなかった。

こちらが岳沢の先端の展望が開けるところと言い換えると、ああ、それならすぐですと明快な答えが返ってくる。

このあたりの森林限界と言われると、どこなのかよく分からないので…と彼は言った。

なるほど、彼の言うとおりだった。

展望1

そして、若者に言われたとおり、少し急な上りになった先に岳沢の先端部分が見えてきた。

思わず声が出るくらいに、見事な、文句なしの青空が待ち構えている。

石ころだらけの岳沢をあらためて認識しながら、西穂高と奥穂高を見上げる。

色付いている木々の葉も山岳風景の大きなアクセントとなり、しばらく感動の目で周囲を見回していた。

黄色の木

今流行の山ガール二人組の先客がいた。

ピカピカの道具を出して、お湯を沸かしている。

コンニチハの代わりに、サイコーですね!が挨拶になった。

彼女たちを通りこして、より高いところへと登った。

ここは登山ルートではない。ルートは樹林帯の中に延びていて、そのまま岳沢小屋へと繋がっていく。

適当な場所で、ランチタイムとした。

朝作ってくれた握り飯も玉子焼きも格別に美味い。

彼女たちのように温かいものを作ろうと最初は道具を用意したのだが、前夜の段階でそこまではいいかということになった。

リュックも小さいものにしていた。

だが、無理してでも持ってくれば良かったかなと後悔………

家人は、下った後の「五千尺」のコーヒーとケーキに思いを馳せている。

ランチの後、家人を残しボクはさらに大きな石の上を登った。

特に風景が変わるというほどではなかったが、それでも少しずつ近付いて来る穂高の壁が気持ちを高ぶらせる。

西穂と木

二年前の秋、久々の本格的な山行で自分の膝がおかしくなっていることを悟った。

同行した娘の厄介になりながらの無残な下山だった。

少しずつ馴らしていこうという企みもなかなか順調とは言えず、かつての通過地点が今の自分には目的地点になっていることに納得した。

今夏の美ヶ原も、秋の始めの八方尾根もそんな山行である。

ただ、目に届くものは本格的な山を感じさせるものにしたいと思っていた。

そういう意味で、岳沢はさすがに上高地を出発点とする山の世界を実感させてくれた。

こんな山岳風景を見るのは今年最後だろうなあと思いながら、カメラのシャッターを切る。

奥穂の肌

振り返って見下ろすと梓川と上高地のバスターミナルあたりが霞んで見えている。

そして、目線を上げると霞沢岳方面の山並み。

あの山並みの延長に徳本峠がある…… ふとそんなことを思った。

何十年も前の独身時代、徳本峠へ登った。

その時のパートナーは、今岳沢の岩の上に座っている家人だった。

今と違って登山中すれ違う人もなく、古い徳本峠小屋には、ヒマラヤ帰りでたまたま留守番をしているという男が独りいた。

何もなかったが、丸太によって支えられた上高地の歴史の中の小屋に来ることができただけで自分は満足していた。

しかし、今から思えば、いくら自分の趣味や憧れとは言え、あのような場所へうら若き乙女を連れて行くのは普通ではなかったのかも知れない。

上高地見おろし

そんなことを考えていると、上高地の方からゆるやかに風が一団昇ってきた。

大きな薄い布を広げて、その上を風が吹きあがって来るような感じだった。

昔のことなのだなあと思い、上高地が好きだったのだなあと思う………

再び樹林帯の道に戻って下り、そして、遊歩道に出て雑踏の中を明神まで歩いたが、そこで感じた俗っぽさにはかなり落胆した。

上高地をそのように思うのはよくない……

自分自身にそう言い聞かせながら、さらに長い歩きの時間に耐えなければならなかった。

そして、来年は春の上高地から始めたい…と思ったりもしていたのだ。

植物1梓川1木々

 

 

母の笠を吊るした足軽屋敷

足軽1

金沢長町の大野庄用水沿いに、二棟の足軽住宅がひっそりと佇んでいる。

二つを合わせて「金沢市足軽資料館」という。

1997年現在地へ移転され、足軽たちの生活や仕事などを紹介する展示計画をさせていただいた。

笠

今も玄関に吊り下げられている古い笠は、当時母が畑作業などで実際に使っていたものだ。

時代考証などというむずかしい話を通さないまま、生活感を出すための演出として笠を吊るした。

ちなみに横にある蓑については記憶がない。

母は、何も言わずに自分の笠を譲ってくれた。

しかし、後日代わりにとちょっとおしゃれな麦藁帽子を買って行ったが、結局一度もその帽子を被った母の姿を見ることはなかった。

老いた母にはやはり派手だったのだろうかと思った。

そして、何だか申し訳ない気持ちになったまま、それからしばらくして母は畑にも出られない身体となってしまった………

 

ところで、加賀藩の足軽たちは庭付きの一軒家に住んでいて、城下にはいくつかの足軽町が形成されていた。

庭があったのは野菜や果物などの食料を自給するためだ。

展示されている二棟は、清水家と高西家という。

特に屋敷道明先生と調査に出かけた清水家では、刀箪笥が現代まで使われていたり、古い証文などが見つかったりと楽しい思い出がある。

清水家の方は実際に住まわれていて、その分、資料が残されていたのだろう。

高西家からは展示資料らしきものは出てなく、展示は加賀藩の足軽に関する解説が主になった。

納戸

屋敷先生から教えていただいた足軽たちの日常は、まさに生活感が生々しいくらいに伝わってきて興味深かった。

内職などで何とか家計をやりくりしながらも、家族寄り添い平和な毎日を過ごしていた様子が想像できた。

納戸1

参考にと新潟県新発田市に残されていた足軽の住まいを見に行ったが、それはまさに長屋であり、加賀藩の足軽たちの境遇がいかに恵まれていたのかを知った。

そして、さらに驚いたのは、戦後の住宅がこの足軽屋敷の間取りなどを参考に造られたといった話だった。

たしかにオープン前日、周辺住民に公開された時、何人かの見学の方が「昔のうちもこんなんやったねえ」と語り合っていた。

納戸(なんど)などの部屋の呼び方も懐かしく、自分自身でも子供の頃の生活空間の温もりのようなものが蘇ってくるような気がしていた。

この後、近所の長屋門が残る高田家の仕事も続いた。

そして、長町の武家文化紹介に少しだけだが貢献できたような、そんな錯覚が今も続いているのだ………………

メモ

金沢城・江戸末期のビッグイベントと寺島蔵人のこと

寺島蔵人D

今から10年以上も前、毎年6月に開催される金沢最大の祭りの、その仕組み全般を見直すという仕事に3年間関わっていたことがある。

ほぼ無関心であったその祭りについて考えていくことは、いろいろな意味でかなりの苦痛を伴った。

山のようにある課題の中で、武者行列の行程や構成を変えて、最終的に城の中へ、しかもパフォーマンスを交えながらスムースに入れることが最大の難題だった。

それは苦労した甲斐もあって何とかなったが、ボクはさらに城の中を祭りのシンボルゾーン的な場所にすることも重要課題としていた。

同時期に、金沢城公園も完成していたから十分にその必然性もあった。

行列が城に入るというのは史実によって裏打ちされていて、祭りでも実際に「入城行列」とネーミングされていたのだ。

が、城内行事は何となく広場があるから、そうするのがいいだろうくらいの話で進んでいた。

それで特に問題があったわけではないが、自分としてはちゃんとした根拠(史実)が欲しかった。

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ある日、玉川図書館の近世史料館で、タイトル写真にある本の著者である長山直治先生に偶然お会いした。

先生はその頃、わざわざ定時制高校の教員に転向し、昼間は地元の歴史調査研究に没頭されていたのだ。

ボクはひさしぶりにお会いした先生に相談した。

実は先生は高校三年の時の担任だ。

恩師であり、歴史の面白さを教えてくれた人だ。

そんな話なら任せておきなさい……

そうは言わなかったが、先生は昔から変わらない眼鏡の奥の垂れ下がった目にチカラを込め、ボクを見た。

そして数日後あらためてお会いした時、この本の中に紹介されている、藩政末期の金沢城内における能の開催に関する話を聞かせてくれた。

それは驚きと同時に、しめたと思わせる内容のものだった。

文化8年(1811)、12代藩主・斉広(なりなが)が催した能の話だ。

その時の能は金沢城二の丸の再建と、斉広の家督相続と入国の祝いとして挙行された。

むずかしい話は省略するが、11日にわたり、藩士や宝円寺、天徳院の僧侶など、さらになんと庶民も白洲に招かれている。

その数、藩士・寺方で約2500人。白洲に造られた仮屋から見物した町方庶民は、ほぼ1万人だったという。

前者には料理が、後者にも赤飯や酒が振る舞われたらしい。

そして、この能のために出仕した徒歩や足軽たちも万単位の数となり、役者とともにその人たちにも賄が出ているとある。

これがなナカイ、かつて金沢で行われた最大のイベントやろな…と、先生は得意そうに、そして軽く言われた。

それ以前にも、能をこよなく愛した藩主たちによって、かなり盛大に開かれていたという。

ここまで話を聞いて、さすが金沢だなと思う前に、さすが長山先生だなとボクは思った。

いつも熱っぽく歴史を語っていた先生からこういう話が聞けたことも、また嬉しかった。

金沢と言えば、やはり能なんだわ……

そうなんですね……

ボクはかなり感動し、その後最終的にまとめた提言の中にも、この話を引用した。

ただ、かなりチカラを込めたつもりだったが、祭りの人気行事としての「薪能」は、特にそんな歴史的背景などどうでもよかったかのように、金沢城内で“普通”に開催された。

金沢城内での初回だけは、はるか後方からぼんやりと見た記憶があるが、それ以降は見ていない。

まだ仕事の真っ只中にいた頃、旧中央公園の舞台を特等席から見させていただいたことがある。

こっそりと蔭から見ていたら主催者の偉い方に見つけられて、テントの中へと入れられたのだ。

藩政時代で言えば、藩士の席から見ていたことになるのかも知れない。

ところで、この本の主題である「寺島蔵人(くらんど)」という藩士は、前田斉広の時代に側近として仕えたが、民を思うあまり藩政批判をし、能登島に流刑になった人だ。

流されて半年もしないうちに61歳で病死した。もちろん能登島でだ。

寺島門

大手町の静かな屋敷の佇まいが今は観光名所になっているが、かつては一本裏道の住民ですらその存在を知らず、観光客からクレームを聞いたこともある。

表通りの和菓子屋さんの二階から、鬱蒼とした庭木を見ることができるが、それもあまり知られていないようだ。

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藩政時代の金沢の祭りの取材から、長山先生と偶然再会し、金沢での能のポジションをあらためて知り、先生が寺島蔵人を研究されていることを知った。

祭りに関わった中で、この本との出会いがいちばんの出来事だったように今思ったりもする。

先日、何年ぶりかで寺島蔵人邸に入ったが、スタッフの方々が丁寧に対応されていて気持ちがよかった。

相変わらずの余計なお世話だが、少なくとも、長山先生の本から想像する寺島蔵人という人には大いに興味が湧く。

一、二年前に見た『蜩(ひぐらし)の記』という映画にとても感動したが、何となくああいう物語のイメージに近いものを感じたりもする。

せっかく屋敷も残っているのだから、もう少し取り上げられてもいい。

ところで、先生はお元気だろうか。

なかなか行けないが、たまに近世史料館に顔を出してみるとお会いできるかもしれない………

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自分の葬式に流す曲

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今年も「金澤ジャズストリート」は遠い存在で終わった。

連休初日の真昼間から、尾山町の「穆然Bokunen」でコルトレーンとドルフィーを聴いたら、もうどうでもよくなった。

今年は渡辺貞夫、山下洋輔、坂田明、それにスガダイローなど、昔よく聴きに行っていた人や、最近よく聴くようになった人などが来ていて、少しは関心があった。

しかし、わざわざ出かけるといった気持ちに至らないまま、穆然のスーパーサウンドで聴いたコルトレーンとドルフィーのライブ盤が十分に満たしてくれたのだった。

いきなり寂しい話だが、この夏、身近にいた60代のまだ若い先輩たちがこの世を去っていた。

中には、音楽をやっていた人もいて、その葬儀の会場に流れる音楽がとても印象に残った。

通夜に出る機会が二ヶ月間に十回近くあると、そんなことに敏感になったりもする。

そして、ついに自分の時には何を流すかにまで考えが及ぶようになると、読経の響きさえも意識から遠のいていくのだ。

実は通夜の会場に流す音楽のことを考える前に、遺影に関する話も以前に聞いていた。

お世話になっている方の奥さんが亡くなった時、その遺影が奥さんの決めていた写真であったという話を聞いたのだ。

奥さんは定期的に写真を撮ってもらっていて、それらは遺影用だったという。

さらに祭壇には自分が指定した花が飾られ、とても個性的な雰囲気を演出していた。

ニンゲン、いつ死ぬか分からない。

それから後、これから撮る写真はいつか遺影になると思うようになった。

だから、最近では、山で長女に写真を撮ってもらう時でも、「遺影にするかも知れんから、しっかり撮れよ」と言ったりする。

それもかなり本気で。

そして、音楽だ。

もう亡くなってから十年以上が経つ、YORKのマスター・奥井進サンの葬儀の時には、追悼のCDが作られ、その中の曲が会場に流された。

始まる前の焼香の時や出棺の時には、やはりそれなりの音量で流すのがいいが、奥井サンの時はそれがとても効果的でいい感じだった……と聞いた。

実は裏方をやっていたので、会場には出られなかったのだが、曲も演奏ももともと素晴らしかったのだ。

勿体ぶってきたが、今考えている自分の曲は、コルトレーンの「I want to talk about you」だ。

君のことを語りたい…… 自分のことを語ってくれるヒトビトが、それなりに来てくれたらいいなという思いもあるが、やはりコルトレーンの演奏が好きだからだ。

特にスタジオ録音より、50年ほど前のニューポート・ジャズフェスティバルでの豪放なライブ録音がいい。

一応、長女にもその曲を聴かせ伝えたが、CDに入れておいてと至って事務的な返事だった。

本当は、自分が十代半ばでジャズと出合った同じコルトレーンの「My favorite things」をやってほしいのだが、あれは烈しすぎて遺族も参列者も引いてしまうだろう。

ちなみに前の曲もこっちの曲も、同じ野外でのライブ録音だ。

前者は一応バラードなのだが、コルトレーンをモノクロ映像で初めて見た時、とてもバラード演奏とは思えないほどに烈しく吹きまくっている光景に感動した。

今ではオシャレなお店なんぞで流されているコルトレーンのバラードだが、当時、カルテットはダークスーツにネクタイで決めながら、吹き出る汗を拭こうともせず熱く煮えたぎっていたのだ。

そんなわけで(?)、今のところこの路線に落ち着きそうである。

それで、一曲じゃもたないから、もう一曲と言われたら、「Violets for your furs」。

邦題があって、「コートにすみれを」という同じくコルトレーンのバラードなのだが、こちらはスタジオでの素朴な演奏で、これも好きな曲だ。

ただ、最初の曲との繋がりで言えば、ちょっとテンションが異なるかも知れない。

しかし、この曲はピアノのレッド・ガーランドもよくて、通夜にはぴったり(?)なのである。

こんなことを考えていると、早く自分の番が来ないかなあと楽しみにしている自分に気付いたりする。

そして、現実に戻ると、これから本格的に歯の治療に入るのに今死んだのでは勿体ないないではないかとも考える。

そして、さらに思うのは、その場の臨場感を自分自身が味わえないのではないかという侘しさというか、怒りみたいなもの、いや虚しさか…… とにかくそういうものだ。

仮に棺桶の中でその音楽を聴いているにしても、その時の自分にはどういう感情が宿っているのだろう。

そんなこともちらりと思ったりしながら、今75年のマイルス「Agarta」を超デカ音で聴いているのである………

先生がやって来て、ボクは空振りした。

真夏の青空と雲

 小学校に行き始めた頃だろうか、いやもっと前かも知れない。

 「ギョーセードーロ」という言葉を何気に覚えていた。

 それは、今普通に県道と呼ばれている道路のことで、昔はそう呼ばれていた。

 「ギョーセードーロ」とは「行政道路」のことらしく、ボクが生まれた町史上最大の事件であった米軍試射場のための海岸接収(1950年代前半)の補償で造られたという道路だった。

 町の東側は河北潟というそれなりに大きい潟、西側は日本海。

 町はその両方に挟まれた細長く小高い砂丘台地で、家並みは河北潟の岸辺に沿い延びていた。

 面積で言えば、とても小さな町だった(当然今も同じだが)。

 で、行政道路なのだが、ボクたちの住む小さな地区では、河北潟の岸辺を埋めて盛土をし、その上に砂利を敷いて造られていた。

 それが出来た頃の話は知らないので、河北潟の端っこを埋めて造ったというのは後から知った。

 今それを確認しようとしても、ほとんどその面影は残っていない。

 ただ、まだカンペキに田舎のハナタレ小僧(仮の表現である)であった頃、家の前の細い道を行くと家と家の間にまた細い道があった。

 その細い道の両側は小さな水田になっていて、最後に葦に被われた小さな登りを過ぎると砂利の敷かれた立派な道(路)に出る。

 それが行政道路で、路線バスはそこを走っていた。

 水田になっていた所は、かつて河北潟の岸辺だったのかも知れない。

 そのことも確認のしようがないが、行政道路に繋がる細い道は今でも残っている。ただ、平坦になっているだけだ。

 走るクルマの数は少なかった。

 そう思うのは、何となくいつも静かだったという記憶が残っているからだ。

 たまに走ってくるクルマが砂利を弾き、弾かれた砂利が道の反対側に残る水路みたいな川みたいな部分に飛び込むと、ドブンという鈍い音を響かせた。

 ここでよく、独り野球をやった。

 木の棒か竹の棒を持ち、適当な大きさの石を拾ってノックのようにして打つ。

 それをするのに適した場所は、潟の中に出島のように造らえた水田と道路との間にある水路の、特に広くなった部分で、打った石が水路を越えて出島の方に入るとホームラン。

 あとは適当に内野のラインを水面に決めて、石を打つのだ。

 なかなか説明しても理解してもらえないが、河北潟というのはその頃今よりはるかに大きくて、そのすぐ後から徐々に小さくなっていく。

 干拓が始まったからだ。

 ついでに書くと、ボクたち全ガキ連にとっては、干拓も初めは「カンタク」であった。

 独り野球は試合形式で、カードはいつも巨人・阪神戦だった。

 当然、四番サード・長嶋の打順の時は、何回打ち直してもいいことになっていた。

 長嶋は何度も四打席連続ホームランを打ち、ほとんどが長嶋のサヨナラ・ホームランで巨人が勝つというパターンだったように思う。

 小学校三年の時だ。

 夏休みが終わって、二学期が始まったばかりの午後の遅い頃だ。

 担任だったN先生(もちろん美人先生)が、ボクが独り野球に興じている横を、ホンダ・カブで走り抜けていったことがあった。

 あまりクルマの走らない道だったから、バイクが来ただけでもすぐにエンジンの音で分かる。

 しばらくして、学校から帰宅するN先生であることも分かったが、どうしたらいいのか分からない。

 ボクはそのまま分からないふりをしてやり過ごそうとした。

 先生はすでに結婚されていたが、学校では他の追随を許さない美しさとやさしさと、時折見せる、はにかんだような仕草や表情などで圧倒的な人気を誇っていた(とボクは思っている)。

 それはともかく、先生のバイクが近付いて来ていた。

 その時、ボクのアタマにマヌケな考えが浮かんだ。

 先生にいいところを見せようという、男の子から少年になろうという頃合いならではの(?)余計な思いが浮かんだのだった。

 緊張しながら、ボクはちょうど手にしていた適度な大きさの石を見た(と思う)。

 そして、いつもより少し余裕を持った感じでその石を上げた(とも思う)。

 まだ先生のバイクは先にいたが、先生の視界にはクッキリとボクが入っているはずだった。

 そして、ボクは長嶋茂雄風にバットを振った。

 見事な空振りだった。

 それも長嶋茂雄風と言えば言えなくもないが、ここではそれは許せないことだった。

 ボクは思わず体を先生の方に向けた。

 “さよならァ~

 白いヘルメットを被り、運転の緊張のせいだろうか、いつものやさしい表情は消えていたが、先生の澄みきった声が色の付いた風のようにボクの顔の前を通り過ぎていった。

 ボクは先生の背中に、サヨナラ~と告げた。

 先生に空振りを見られたくはなかったが、先生も自分がバイクに乗っている姿を見られたくなかったのかも知れないと思った。

 ボクにとって、その日は何か特別な日になった。

 先生と互いのヒミツを共有したような気持ちになっていた。

 見上げた空はまだ夏のようだったが、赤とんぼが数えきれないほど浮かんでいた。

 翌日、教室で見た先生の顔は、いつもと同じだった。

 ボクはなぜか少しガッカリしたが、先生のあの色の付いたような声を思い出し、ひとり幸せな気持ちに浸っていたのだった…………

 

夏の朝について

朝靄の田園

去年、晩秋の空の下で見た風景を、今年は初夏の空の下で見た。

前は夕方だったが、今度は朝方だった。

当たり前だが、その風景には違った空気感があった。

そして、その空気感をしばらく楽しんでから、自分が夏の朝が特に好きであるということについて考えていた。

二十代の夏、八ヶ岳山麓に出かけていた初期の頃まで、朝の風景にそれほど心を動かされるということはなかったと思う。

しかし、ある時、新しい何かが生まれた。

それは空気感というもので、その時には意識していたか分からないが、肌に感じる何かによって朝への気持ちの向き方が変わった。

素朴に夏草が露に光っていたり、湖面に朝日が反射したりしている光景も、その空気感をより一層敏感にさせていたように思う。

木立に差し込む朝日も、森や林の空気感を印象深くさせていた。

これまでに、いろいろな場所でいろいろな夏の朝を見てきた。

自然は自然なりの、夏の美しい朝や穏やかな朝などを見せてくれた。

そして、今でも、山里の道沿いに続く石垣の上に、ラジオ体操を終えた少年たちが並んで座り、皆で漫画を読んでいる風景を特に思い出したりするのは、夏の朝が最も生気に満ちていると感じるているからなのだろう。

夏の朝はもう今年は来ないみたいだ。

来年の夏の朝を楽しみにしたい………

 

加賀大介さんの写真

歌碑

100年目を迎えたという夏の甲子園大会が終わった。

多くの人たちが語っていたように、今年の大会は見応えのあるゲームが多かった。

先入観で考えがちな地域差のようなものが、今年の大会ではなくなっていたように思う。

かつての強豪校が、あれれと思うような学校(しかも公立校)に敗れていくなど、もうそういった感覚で高校野球は語れなくなったようだ。

もちろん野球留学が増えた影響も大であるが、野球そのものの質が高くなったことによる楽しみも大きくなったと思う。

石川で高校野球と言えば、星稜である。

その中でも特筆されるのは、やはり松井秀喜さんの存在だろう。

ところで、その松井秀喜さんのベースボール・ミュージアムも今年の12月で10年になる。

松井さん自身の甲子園物語は今更書くまでもないだろうが、ミュージアムの展示ストーリーを考えていく中で、特に高校編において強く残しておこうと思ったことがひとつあった。

それは夏の甲子園大会の大会歌『栄冠は君に輝く』の作詞者のことだ。

もうすでに多くの人に知られている、加賀大介さんである。

松井秀喜さんが育った石川県根上町(現能美市)の根上球場には、『栄冠は君に輝く』の歌碑が建つ。

歌碑全体

高校時代、松井さんはその球場の10周年記念試合で、愛工大名電の投手から2本のホームランを放っていた。

特に2本目はサヨナラホームランで、左中間側にあるスコアボードの上を鋭く越えていく特大ホームランだったらしい。

バックスクリーン

バックネット裏にはプロのスカウトたちが陣取っており、その豪快なホームランによって、松井秀喜の評価は固まったという話も聞いた。

ボクはその話を聞いたと同時に、松井秀喜さんと加賀大介さんとの間に目に見えない何かがあったのでないかという思いに襲われた。

もしかしたら、片足を失い野球選手としての道を断念した加賀さんの野球への思いが、松井秀喜さんにあのホームランを打たせたのかも知れないと思った。

同じ町で、しかも加賀さんの家は、松井秀喜さんも通った小学校の横にあった。

人一倍体が大きかった秀喜少年を、加賀さんはずっと空の上から見つめ続けていたのかも知れない。

そして、プロの選手としての道を決定づけるあのホームランを、ふるさとのあの球場で打たせたのかも知れなかった。

幸いにも、加賀さんの妻・道子さんは松井秀喜の大ファンであった。

同じ町内から出たヒーロー・松井秀喜のファンでなくして、加賀大介の妻は務まらないといった、気概付きのファンみたかった。

ある日、ボクはミュージアムで加賀さんと松井さんとの物語を紹介するため、加賀家を訪ねた。

すでにミュージアム資料の中にあった写真で道子さんのお顔は分かっていたが、初対面の時、その若々しさにびっくりした。

活き活きと、あの歌の詞のように生きてきた女性のカッコよさみたいなものを感じた。

あの加賀大介の妻なんだからと、気丈に生きる使命も持ち合わせていたのかも知れないと思った。

そして、何よりも道子さんはやさしさや知的さも兼ね備えた素敵な女性だった。

当時、ボクはこの仕事の上では、どこへ行ってもある程度の歓迎を受けていた。

多くの著名人との接点を導いてくれていた。

加賀大介さんの妻・道子さんは、とてもさり気なくボクを迎え入れてくれた。

夫と松井秀喜との関係をそんな風に捉えてくれたということを、とても喜んでくれているようだった。

ボクはいろいろなお話をさせていただきながら、最後に大介さんの作詞をされた当時の写真がないかと尋ねてみた。

道子さんは、自分も見たことはないと言われた。

そういうふうに言われても、はいそうですかと引き下がれないのが、こういう仕事をしてきたニンゲンの性分だ。

ボクは、よくあるパターンのひとつである仏壇の中のことを思った。

思い切って、仏壇の抽斗(ひきだし)とか探してみてもいいでしょうかと尋ねると、道子さんは快諾してくれた。

そして、その数分後になんと抽斗の中の一番下だったかに仕舞われてあった、若い頃の大介さんの写真を見つけたのだ。

加賀さん

 

その写真は、お経の本のようなものに挟んであった。

道子さんはとても喜んでくれた。

それまでの時間の中で見せてくれた写真は、それなりに年齢を重ねた頃のものばかりで、道子さんご自身も、こういう写真しか残っていないんですと話しておられたのだ。

自分で撮った球場の写真に、加賀さんの写真を組み合わせ、星稜高校の山下智茂前監督のもとでじっくり取材させていただいた、あのホームランにまつわる話を短い文章にまとめた。

そして、一枚のパネルが出来上がった。

パネル1

あの5打席連続敬遠のコーナーにある阿久悠氏の詩と共に、ボクはなぜかそのパネルの存在を自身で誇らしげに思った。

その後の伊集院静氏なども含め、松井秀喜という素晴らしい野球人にまつわる文人たちの存在が何か特別なものを意味していると思えたからだ。

今年の夏の大会では、特にこの大会歌の話が多く取り上げられていたような気がする。

加賀さんと大会歌の本も出たらしかった。

そんな話を聞くたびに、道子さんのことが頭に浮かんだ。

最近になって、ミュージアム館長からも中居さんの大切なエピソードだし、その写真を見つけたということがとにかく凄いことだったという言葉もいただいた。

いつかまた、加賀道子さんを訪ねてみたいと思っているが、10年という節目だから、それも許してもらえるかも知れない。

左中間から

……

美ヶ原の夏歩き

美ヶ原の道

深田久弥は、『日本百名山』の中で、山には登る山と遊ぶ山があると書いていた(と思う)。

そして、遊ぶ山の代表格として霧ヶ峰や、この美ヶ原のことを書いていた(と思う)。

カッコ書きが続くのは、もう内容を忘れてしまったからで、その本自体もどこへいったか分からなくなっている。

そんなことを後で振り返りながら、8月の初め、30年ほどぶりに信州の美ヶ原へ出かけた話を書いている。

美ヶ原はカンペキな遊ぶ山だ。

その美ヶ原に、30年以上行っていなかった。

回数で言えば、3回以上は確実に出かけた記憶がある。

ただ、本格的な山行に出かけるようになってからは、美ヶ原は目的地の対象にならなくなっていた。

美ヶ原は、霧ヶ峰の延長にあるイメージだ。

白樺湖から車山高原へと上り、ビーナスラインを走り続けて霧ヶ峰から美ヶ原に辿り着く。

このルートは、20代の頃の夏のシンボルのひとつだったと言っていい。

真夏の高原道を歩いた記憶は、鮮明に残っている。

で、美ヶ原なのだが、今回は松本側から上がった。

上がったと書いたのは、もちろんクルマでだからだ。

松本の街中をスルーし、浅間温泉からのらりくらりと、そして何度も何度も深いカーブを曲がりながら、一気に高原地帯へと上がって行く。

申し訳ないくらいに楽をさせていただきながら、最後の駐車場からも、わずかに歩いただけでもう2000m近い山岳風景だ。

同じルートで一度美ヶ原に来たことがあったことを思い出したが、いつのことか覚えていない。

頂上

王ヶ鼻から、最高地点の王ヶ頭へ。

特に厳しくもない緩やかな登行だが、容赦なしの直射日光だけが難敵になってくる。

同行の家人は、今や父親を抜いて山の強者となりつつある長女の山ハットを深めにかぶり、360度に広がる高原風景に目をやりながら暑さに耐えている。

王ヶ頭へは途中からトレッキングルートに入り、出来るかぎり山歩き気分を保持しようということになった。

短い急登を経て、難なく王ヶ頭に到着。

汗を拭きながら、しばし眼下から目線高までの風景を楽しんだ。

一気にせり上がっているこの山域では、眼下に見える風景の立体感がとてもいい感じだ。

眼下のどかな草原風景と、削り落とされた壁に突き出る岩場のコントラストが山岳景観の醍醐味を感じさせる。

岩と眼下

楽(ラク)して、こんな風景に浸っていてはと申し訳ない思いもしないではない。

のんびり眺望を楽しんでいると、若い女性三人組からシャッター要請が来てますと家人。

スマホによる撮影は苦手だが、何とか無事済ませると、今度は向こうからお撮りしましょうか的返礼があった。

ではと、夫婦で石碑を挟み、お言葉に甘えることに。

山ではやはりいいニンゲンたちばかりだ……

夏の木立

美ヶ原そのものは、やはり台地状の高原に広がる牧場がメインイメージだろう。

すぐ横にあった山頂ホテルの脇を抜けて、その目抜き通り的道を歩くことにした。

昨年の9月(山ではもちろん深い秋だった)、北アルプスの薬師岳で痛めた両足の爪や膝や、その上の筋肉やら、さらに同行の長女にかけた迷惑による屈辱や自分自身への情けなさやらが、どれくらい克服されているか?

今回の美ヶ原行きにはそのチェック的意味合いも含まれていた。

しかし、歩き始める前、ベンチで一人一個ずつのおにぎりを頬張っているうち、こんなところで諸々の痛みと遭遇していたのでは問題外だなという思いが湧いた。

時間は昼過ぎくらいだったろうか。

いよいよ、これこそ美ヶ原そのものという空間へと歩き始めた。

人の数は案外少ない。後で分かるのだが、人はこれから増えることになっている……

牧場

牛たちが見えてきた。

歩きながらその牛たちを見ていると、黒牛が一頭グループから離れはじめ、そのうち歩きが走りに変わって、どんどん山の方へと登って行く。

黒牛のたて

なんだかおかしんじゃないかと家人と話していると、その黒牛はさらにスピードを上げ、テレビ塔がある最高地点にまでよじ登ろうとしていた。

多くの牛たちは、この楽園のような高原で、自分たちには食い尽くせないほどの牧草と水と塩さえあればいいと思っている……と思えるのだが、彼(彼女かも?)にはそれだけでは満足できない何かがあるのだろうか?

もはや小さな黒い点のようにしか見えなくなった。

そうこうしているうちに、急に対向してくる人の数が多くなったのを感じた。

そうか、やはり美ヶ原はビーナスラインからのお客さんが圧倒的に多いのだ。

かつて自分もそうだったように、ビーナスラインの上品な高原ドライブを経て、さらにこの美ヶ原の上品さに浸る……

それがより美ヶ原を魅力的に見せる演出になっているのかも知れない。

とまた、そんなことを考えているうちに、鐘の音がうるさいくらいに響き渡る「美しの塔」付近に到着。

うるさいくらいに聞こえるのは、鐘が壊れているからではなく、人が連続して鳴らしてゆくからだ。

特に子供たちが集まると、はっきり言ってかなりうるさい。

ようやく静かになり、昔、ここで撮った写真の情景を思い出している。

モデルチェンジしたホンダ・アコード(ハッチバック)を走らせていた頃だ…と、そんなことも思い出した。

一緒にいたのはM森という大学の親友で、彼の家がある山梨の町からこの辺りまでの山域を旅していた。

二十代の自分の旅趣味の中では、珠玉の類に位置される豪華なエリアであり、数日間のパラダイスだったのだ。

美しの塔から離れ、戻ることにした。

平凡な牧場の道より、トレッキングのコースの方がいいと家人が言う。

当然こちらもそう思っていた。

スポーツセンターに通っている家人は、最近メキメキと体力増進を図っていて心強くなっている。

左側がすっぱりと切れ落ちた崖の上に道が延びる…… と言うと大袈裟だが、一応地形上はそんな感じで、突き出た岩の方へと足を進めると、それなりにスリルがあったりする。

高山植物が美しく、蝶などもその上で上品に舞ったりしていて至れり尽くせりだ。

蝶1

 

かなり本格的に身を固めたトレッカーや、最近流行りの山を駆けめぐる青年たちもいて、美ヶ原のバリエーションに富んだ楽しみ方に納得した。

そう言えば、ビーナスライン方面から入った自転車チームは、美ヶ原を縦断し、反対側(松本方面)に下って行った。

美ヶ原が、遊ぶ山であることの証を見せつけられたような楽しい光景だった。

夏道1岩と眼下2風景

トレッキングコースは、気持ちのいいアップダウンを繰り返しながら谷を巻いて続いていた。

夏道2

かなり歩いたところで、また急登の道に出合い、そこを登って頂上のホテルへ。

遅くなったが、ちゃんとしたランチは、そのレストランのハヤシライスになった。

しかし、食後に考えていた、ちゃんとしたデザートとしてのソフトクリームは最後の歩きを考慮して、駐車場横にあった店でいただくことに。

食後はテラスの方に出て、標高2000mから見上げる久々の夏空を楽しむ。

入道雲と平坦な雲

入道雲が少しずつ形を変えていくのを、高原の風に吹かれながら眺めるという懐かしい時間が訪れていた。

ビーナスラインの方から入り、歩いてきた多くの人たちにとってはこの辺りが終着点だ。

ここから来た道を戻る。そのせいか、ほとんどの人たちがこの場所で大休止する。

花1

駐車場までの下りで、足先に少し痛みを感じた。

去年の長女のように、家人が先をどんどん下って行く。

今回の美ヶ原は、秋の北アルプス山行のための足慣らしと位置づけているが、果たして大丈夫だろうかと、家人のうしろ姿を見ながら不安な気持ちになる。

しかし、まあ何とかなるだろうと、いつものようにラッカン的思考に切り替えると、最後の木立の中の道の涼しさが予想以上に増したように感じた。

残念ながら、駐車場横の店にはソフトクリームはなく、家人は落胆しながら普通のカップアイスを食べていた。

午後の遅い時間。日差しはまだまだ強かった。

ゆっくりと下った先に浅間温泉があり、そこの小さな旅館に予約を入れてあった。

冷房が間に合わないくらい、盆地の熱にその小さな旅館は侵されていたが、その熱に対抗するくらいの熱湯温泉がまた痛快であった。

もちろん風呂上がりの冷やしビールも格別で、少し痛みの残る足先を指で揉みながら、秋の北アルプスに思いを馳せていたのだ………

オレ

文章は志賀直哉から

志賀直哉

文章を書くのが趣味のひとつと、ずっと言ってきた。

この雑文集がそれだ。

一応、仕事でも数多くの文章を書いてきたから、比較してみると、意外と仕事で書いた文章の方が多いかもしれない。

が、仕事で書いてきた文章は、一部を除き自分自身ではない。

ところで、若い頃はもっと多趣味だったが、最近はそれらのいくつかが過去の遺物みたいに思えて、時々情けなくなることがある。

いくつかは体力的なものがあるが、多くは時間を作れないとか、やる気が湧いてこないという理由で、その理由そのものが情けないのだ。

文章は、そういう意味では肉体的に疲れることもなく、たいしたものも書いていないから、精神や神経を病むといったものでもない。

ボクに文章を書く面白さを教えてくれたのは、志賀直哉だ。

当然直接教わったのではないが、何となくいつの間にか志賀直哉の文章の潔さのようなものを手本にするようになった。

偉そうに言っているが、そのようなことは多くの作家たちが書いている。

文章ばかりではなく、その顔付きも気に入っていて、特に老いてからの風貌はきわめてかっこいいと勝手に思っているのである。

先日、駅のうつのみやさんで買い、何十年ぶりかで志賀作品を読んだ。

と言っても、長編大作の『暗夜行路』を再び読む気力には自信がなく、真骨頂と言える短編集だ。

二十歳くらいの頃に読んだものばかりで、その頃の本は当然行方知れずになっており、新しく買うしかなかった。もちろん、文庫だ。

代名詞になっている『城崎にて』は、自分自身も実際に城崎を訪れる直前に読み返していたが、それ以外はなんと四十年ぶりくらいの再読である。

そして、その再読は自分でも驚くほどのスピードで進んだ。

それが志賀作品なのだとあらためて思ったが、久しぶりに読中読後の爽快感を味わった。

今でも覚えているが、昔、『或る朝』という短編の半分ほどをそんぐりそのまま書き写したことがある。

志賀直哉の文章を自分自身の手で体感せよと、何かに書かれていたことを実践したのだ。

その作品は、何でもない朝の出来事(というほどのことでもない日常事)を淡々と綴ったものだが、紙と鉛筆があればそのまま文章にするという、素朴な楽しみを教えてくれた。

詩的な表現や、形容詞の段重ねといった技法もなく、そのままをそのままに書くという、スケッチのようなものだ。

そして、その夏。ボクは金沢の中央公園で見た若い母親と幼い女の子の何でもない姿を目に焼き付け、原稿用紙20枚の短文にした。

一般教養で受けていた日本文学の先生にそれを読んでもらうと、それなりの言い方で褒めてくれた。

筋がいいから、書きつづけなさいよ………

しかし、ボクはその後、さまざまな方向への道に言い訳を見つけ、自分自身の究極を詰めるといったことから逃避してしまう。

そして、志賀直哉の顔を見るたびに目を逸らしてきた。

ただ、今回作品を再読し、久しぶりにその顔を見て思い出したことがある。

それは、志賀直哉の顔付きに当時の文学青年たちの“ひ弱さ”を感じなかったということだ。

そのことはとても重要なことだった。

このようなことを書くと怒られそうだが、体育会系のやや異色の文学セーネンであったボクにとって、志賀直哉や梶井基次郎などは同朋的存在(失礼ながら)であったのだ。

 

この齢になって、再び志賀直哉への尊敬の気持ちと親しみとに気付かされるとは思ってもみなかった。

そして、このような感動らしき何かがまだ待っているんだナと思うと、もう少し緻密に毎日を過ごしていかなくてはならないぞ…とも考えてしまうのである。

無花果とミミズと少年の頃の夏

無花果

6月なのに、真夏のような熱気が支配する午後だった。

山里の田園風景をぼーっと眺めていると、急に無花果の匂いがしたような気がして周囲を見回した。

が、それらしきものはどこにもない。

無花果の匂いが脳を刺激すると、反射的に小学校の頃の夏休みを思い出す。

近所にあった無花果の木の下を小枝で掘って、ミミズをかき出し、魚釣りの餌にしていた。

ミミズは十匹くらい獲れると十分で、餌がなくなればそれで終わりという釣りだった。

今でも無花果があまり好きではない。

それは、木の根っこの部分に、ミミズがいっぱいいたからなのだろうと思う。

家を建ててからの最初の夏、朝になると砂の上に物凄い数のミミズたちがいるのを見た。

不規則に移動してきたその形跡が、砂の上にはっきりと残されていた。

特に二階から見下ろしていたから、それは鮮明でもあった。

しかし、彼らは徐々に昇ってくる太陽の存在を知らないでいたのか、気温の上昇とともに動かなくなり、そのまま干からびていく。

毎日それが繰り返されると、砂の上はミミズの干物だらけになった。

夥しい数に不快感が募り、休みになるとまた砂の中へと返したりしていた。

そんな夏は長く続かなかったが、それから何年かして、家人の実家から無花果の枝を一本もらうことになった。

挿し木しておくと、それは腰の高さほどまで伸び、その段階でついに実を一個だけつけた。

しかし、特に大事にしていたわけでもなく、いつの間にか木は弱っていき、その後何かの機会に切り倒している。

その小さな無花果の木を見る度にも、いつもミミズのことがアタマに浮かんでいた。

居なくなっていたミミズたちが、またその無花果の木の下に集まっているのではないだろうかと思ったりした。

 

無花果の匂いは、少年の頃の夏へとつながっている。

特に男の子から少年へと変わっていくことの、ひとつの証としても、ミミズを平気で手で掴み、ビニール袋に入れては河北潟へと通っていた思い出が強く残っているのだろうと思う。

それにしても、あの熱気の中で感じた無花果の匂いは、どこから来たのだろうか………

小林輝冶先生の想い出

小林輝冶

石川の文学研究をリードされてきた小林輝冶先生が亡くなり、送る会に出てきた。

先生の後、湯涌夢二館の館長になられたO田先生の隣に座らせていただき、O田先生とも久しぶりにお話しをした。

小林先生とも関係が深い、志賀町富来出身の作家・加能作次郎のことをO田先生にお話したら、少し興味を持たれた様子だった。

小林先生との繋がりは、もう20年以上も前に遡る。

何度か書いているが、島田清次郎に関する展示の仕事が最初だった。

その時に、義姉が先生の教え子だったということも分かり、そのことも先生に親しみを持っていただいた要因のひとつだった。

その仕事でボクはまず先生を驚かせたようだ。

それは、二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいたからだ。

たまたま偶然だったが、ボクは友人から読んでみたらと言われて、それを読んだ。

ほとんど面白味など感じない内容だったが、さらにその友人から島田清次郎の一生(31歳で他界)が書かれた『天才と狂人の間』(杉森久英著)という本を借り、ぬかるみにはまるように(表現はよくないが、まさにそんな感じで)読んでしまった。

読み込んでいくうちに、島田清次郎という人物が大嫌いになっていったが、そのことが仕事上では役に立ったようにも思う。

余談だが、この作品で杉森久英は直木賞を受賞している。

先生はよく、杉森さんに貸した清次郎の日記が返ってこなかったと話されていた。

杉森久英は七尾市出身で、今テレビドラマで人気の『天皇の料理番』の原作者としても知られている。

清次郎の仕事で、ボクは、小林先生の清次郎研究における結論みたいなものを具現化するという、そのお手伝いをさせていただいた……と、自分なりに思っている。

それは、挫折や堕落から復活を図ろうとしていた清次郎の無念さを、当時の彼の最晩年の書簡から伝えようというもので、先生はそのことに強い思いと確信をもっていたように思う。

だから、ボクも出来るかぎりドラマチックにと考えていた。

おかげさまで、この仕事以来ボクは先生に、「この手の仕事は、やっぱり中居さんとやりたいね」と言われるようになった。

そして、その言葉どおり、先生がさらに力を入れていた金沢湯涌夢二館の仕事へと繋がっていく。

夢二館の時には、ボクにも優秀なスタッフたちが何人もいて、特にハマちゃんことNY女史のアシストは、小林先生に高評価をいただいた。

実は彼女の結婚式(相手もボクのスタッフ)には、主賓として小林先生が招待されている。

長い長い仕事だったが、文学だけでなく美術に対する先生の感性にも触れ、楽しい仕事でもあった。

夢二作品のレプリカを作る依頼があった時だ。

金沢市から特別に持ち出し許可をいただいたある有名作品を、富山の画家の先生宅へと持ち込み、複製を依頼した。

同じく富山で活動するアーチストの方に仲介役を頼んでいた。

仕事場には、とても繊細なタッチで描かれた製作中の作品が天井から吊り下げられていて、そのあまりの凄さに驚いたのを覚えている。

その絵を見た瞬間、この先生なら大丈夫だろうと確信した。

そして、数週間後、出来上がった作品を見て、その凄さにさらに驚嘆したボクは、すぐに小林先生に連絡をとる。

場所は忘れたが、少し誇らしげな気持ちで、その作品を先生の前に広げた。

先生は、見るなりこう言った。

「中居さん、上手すぎるよ……」

その一言は、初め先生自身も驚かれたのだと思わせた。

そうでしょ、先生…… そして、ボクは自慢げにそう答えようとしていた。

しかし、先生の言われる意味は、ボクの考えていたことと全く逆だった。

「こんな繊細なタッチじゃ、夢二の作品でなくなっちゃうよ」

ハッとして、そのまま軽い放心状態に陥っていく。

レプリカ=複製画。当然全く同じに描かれていなければならない。

しかし、横に本物を置いて見比べると、それは同じ絵ではなかった。

依頼した画家の先生の、繊細な筆遣いが際立っていた。

「夢二の、画家としてのテクニックはそれほどでもないんだよね」

いつもの先生のやさしい言い回しが、余計に胸に迫り、仕事の大事な要素を忘れてしまっていた自分を情けなく思った。

結局その複製画は、仲介してくれたアーチストさんに頼み出来上がったが、先生はそれを見て、うん、素晴らしいと褒めてくれた。

アマチュア・アーチストの技術で十分という意味ではなく、アマチュア・アーチストだから、自分自身の個性にこだわることなく、大胆に夢二の筆遣いが真似出来るのだということを初めて知った。

 

その頃、ボクは何度も先生のご自宅を訪問した。

家じゅう本だらけの、凄いお宅だった。

いろいろなものを見せていただいたが、いつだったか、内灘闘争時の絵葉書(写真)の中に、反対集会に参加している若い頃の母の姿を見つけた。

先生も大変驚いた様子だったが、お借りして複写させていただいた写真は、今実家の居間に飾られている。

大学の研究室も本だらけだったが、まだゆとりがあって寛げた。

夢二館の一大仕事が終わりを迎えようとしていた頃から、その後開館する鏡花記念館の話題によくなった。

夢二をやっているから、鏡花記念館新設時の仕事は無理だったが、先生もそのことが残念だったろうと思う。

やはり、鏡花も小林先生の重要な研究対象だったからだ。

ボクも展示計画のプロポーザルに参加していたが採用を逃し、一応蚊帳の外にいた。

鏡花記念館がオープンした一ヶ月後のある日、

「中居さん、鏡花記念館どう思うかね?」と、幾らかぼやけた表現でボクに問われた。

ボクは素直に自分の感じたとおりのことを話したが、先生から時折まじめな顔付きでこうしたことを問われると非常に困ったのだ。

ボクは、鏡花についてあまり多くは知らなかった。

それに計画時にいろいろ調べたりはしたが、根本的に鏡花は好きというほどでもない。

だから、先生からの問いかけに適当に答えたつもりだった。

なんと答えたかというと、生家跡に建つ記念館としては、金沢や地元との関連が薄いように感じます……だった。

生意気のようだが、金沢にいて金沢の文豪について語るのだから、その生い立ちや環境などを軸にするべきだと思っていた。

作品評価も大事だが、やはり自身の生まれ育った場所に建つのであれば、もっと地元と関連するストーリーがあってもいいのではと思ったのだ。

話は全く外れるが、そのずっと後、松井秀喜ベースボール・ミュージアムをやらせていただいた時も、野球選手としての実績とともに、その生い立ちや選手になった後のさまざまなエピソードを紹介しないと、松井秀喜は伝えられないと思った。

小林先生との仕事で、何となく身に付いた考え方なのかも知れない。

ついでに書くと、そう言う意味での室生犀星記念館は、ボクにとってかなり物足りない。

夢二館初代館長になられた先生だったが、鏡花についても当然金沢市からいろいろと相談を受けていたのだろう。

話は曲がりくねったが、鏡花記念館にはそのすぐ後、鏡花が亡き母の面影を求めて訪ねていた二つの寺にある摩耶夫人像の写真数点を展示した。

先生とカメラマンとで撮影に行ったが、先生はとても楽しそうだった。

その後も、いろいろなことで先生との接点が出来た。

夢二館に行くと、よく一緒に昼ご飯を食べるために湯涌の温泉街を歩いた。

先生との食事というのは、いつもとてつもなく長い時間となったが、先生の話は尽きなかった。

島田清次郎の生誕地である旧美川町でトークショーを企画した時には、早めの昼ご飯ということで、そば屋でおろしそばを食べたが、軽めにしておかなきゃと言いながら、何となく物足りなかったのだろう、その後に黄粉もちを追加注文し、これ美味いねえと嬉しそうに頬張っておられた。

その他、地元文学全集の監修や、徳田秋聲記念館、山中節コンクールの審査員長など、数えたら切りがないほど、とにかく先生はよく働かれた。

金沢市・石川県から文化功労の賞を受けられたが、そんな中にあって、学芸員たちの待遇改善などにも努力されていた。

ただやはり働き過ぎだった。

体調を崩しながら市役所に出勤されていた頃、市役所の前の舗道で偶然お会いした時も、先生は嬉しそうにボクに語りかけてくれ、そのまま30分以上も立ち話をしていたことがある。

ボクには、その時の先生の顔が最も強烈な印象として残っているが、白髪の下の両方の目が、眼鏡の奥で輝いていた。

そして、先生との最後の会話は、2011年の4月。

徳田秋聲記念館のロビーで、学芸員さんが呼んでくれた時だった。

おお、中居さん……から始まり、ボクはそこで、加能作次郎に関する終わった仕事と、折口信夫について企んでいた仕事について先生に話した。

15分ほどだったろうか。ボクもなぜか早口で話していたような気がする。

そろそろ透析に行かなければならない時間だと先生が言われた。

雨の中をタクシーがやって来る。

ゆっくりと立ち上がり、先生が言う。

こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね………

こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ……と、一丁前に答えた。

別れ際、いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ……

これが先生がくれた最後の言葉になった。

祭壇の遺影の先生の出で立ちは、ボクがよく見ていたジャケットとハイネックのセーターだった。

まったく、あの小林輝冶先生だったのだ………

先生ゆっくり本でも読みながら、お過ごしください。もうそうしているかな……

観葉植物と「卒業」と抜歯と

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居間に観葉植物を置いてから一ヶ月ほどして、その木が「ベンジャミン」という名前であることを知った。

なぜ知ろうとしたのかというと、あまりに落葉が多く、その対処法を調べるために木の名前が必要だったからだ。

そして、落葉に対する処置はすぐに分かったのだが、その「ベンジャミン」という木の名前が気に入ってしまった。

ベンジャミンは、映画『卒業』でダスティン・ホフマンが演じた主人公の名前だ。

たしかベンジャミン・ブラドック。スペルは、Benjamin Bruddockだったろうか?

何を隠そう(と言うほどでもないが)、大学一年になったばかりの6月だったと思う、

ボクは新宿の小さな映画館(たぶん「名画座ミラノ」?)でその『卒業』を見た。

それまでああいう系統の映画にはほとんど興味を持てなかったのだが、何となく大学生になったのだからみたいな感じで見てしまった。

その後、何を血迷ったか、紀伊國屋へ行き、洋書コーナーで原作を買い、辞書なし読みをした。

英会話をマスターして大学を出ようと、当時は真剣に考えていて、この時の真摯な気持ちが続いていたら人生変わっていたかもしれない。

一本300円くらいだったと思う。

ボクはそこで寅さんシリーズを、一度に6本連続して見たことがある。

5本目あたりから、同じ失恋ばかり繰り返す寅さんのどうしようもないバカぶりが許せなくなり、7本目の途中で帰った。

『男はつらいよ』10本立てという、今では考えられない企画で、10本立てでも値段は大して変わらなかったと思う。

ついでにそういう映画館の話をする。

兄弟が多く、しかも末っ子だったボクは幼い頃から洋画好きの兄の影響を受け、映画雑誌「スクリーン」や「映画の友」「キネマ旬報」などからませた情報を数多く入手していた。

小学生だった頃から、リアルタイムに上映されていた映画は連れて行ってもらっていた。

たとえば、バート・ランカスターなど錚々たる俳優たちが揃った『プロフェッショナル』とか、ジョン・ウエインの『リオ・ロボ』、それにクリント・イーストウッドやジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロらのマカロニウエスタン。ゲイリー・ルイスのコメディ。数えあげたらきりがないほどの映画を見ている。

しかし、もうすでに上映期が終わっていたものは、兄からストーリーや、サウンドトラックなどを聞かされるだけで、それでも好奇心旺盛の少年には強く心に響くものがあったのだ。

そんな話だけ聞いていた映画の数々を、学生時代に実際に見て回った。

特に兄が大好きだった西部劇などのアクションものは、その頃初めて見に行き、初めて見るのに懐かしさを覚えると言った不思議な感覚になっていたのを覚えている。

『シェーン』や『OK牧場の決斗』、『真昼の決闘』、『リオ・ブラボー』など、数えたら切りがないほどだが、幸か不幸かほとんどストーリーを先読みできた。

さらにあの『ローマの休日』もその頃、300円で見た記憶がある。

あれはひょっとして二度目だったかもしれない。

ただ、自分が生まれた年に初上映された映画の中の、オードリー・ヘプバーンのあの容姿、声、話し方、仕草、そして、グレゴリー・ペックとのラストのキスシーンなど、すべてが胸に迫るばかりだった。

ボクの人生観を変えるほどだった(…かも知れない)とも言っていい(…かも知れない)。

話を『卒業』に戻そう。

と思ったが、本題は観葉植物である「ベンジャミン」である……

ベンジャミンのよく落ちる葉が気になり始めた頃、ボクの歯医者行きが決まった。

葉っぱの「は」と、虫歯の「は」が繋がった…のかもしれない。

予約から10日ほどが過ぎた休日明けのお昼前、ボクは金沢竪町のMさんという歯科医院を訪ねていた。

虫歯になってから放置してきた親知らずが、原形を崩してギザギザ状(それほど大袈裟ではないが)になり、それが舌に触れて痛かった。

その場でギザギザを少し削り、それから数日後、その歯つまり親知らずを抜いた。

親も知らないほどの奥歯なのだが、持ち主の本人も初めてその姿を見た。

どこがどうなっているのか? 説明を聞きたいと思った。

しかし、その惨めな姿と対面した時にはもうどうでもよくなっていた。

こんなふうになるまで見捨ててきた自分の罪深さを恥じたのだ……

映画『卒業』の中で、ラストに教会から一緒に逃げ出すエレーヌ(キャサリン・ロス)は、ベンジャミンのことを「ベン」と呼んでいた。

突然また話が戻ったが、ベンが教会のガラスを叩きながら、「エレーヌ、エレーヌ」と泣き叫ぶと、エレーヌも「ベン」と答える… 感動的なラスト・シーンへと向かう場面だ。

しかし、我が家では居間のベンジャミンのことを「ベン」とは呼んでいない。

実は今日あたりからそうしようかと思っているのだが、家人たちの反応が気になっている。

そんなわけで、ベンジャミンの葉っぱ落としグセも、処置後はだいぶよくなってきた。

初夏に向けて、新しい葉っぱの色も爽やかな緑で気持ちいい。

照れ臭いが、今夜から「ベン」と呼んでやろうかな………

 

 

キゴ山で雪に遊ばれた日

雪平線

二月最後の日は土曜日で、それまでの忙(せわ)しなさと、それからの間違いなく訪れる慌ただしさに挟まれた、完全休みの一日だった。

二月の終わりという響きも何となくいい感じで、加えて天気もそれなりによさそうな雰囲気になっており、数日前から自然(特に雪)の中へと出かけようと決めていた。

しかし、そう思いつつも、二三日前になると、よく予定が埋まっていく。

しかも、一日のうちの二、三時間という埋まり方もあったりして油断はできない。

その日も前日の昼間はおとなしくしていて、夜家に戻ってからも静かに酒を飲んで過ごしていた。

そして、当日の朝。まだ電話、メールはない。

家人がめずらしく出勤の日となっていて、しかも半ドンの後、お友達とランチに行く予定だと言う。

家人も最近の亭主のお疲れ度というか、楽しみの不足度について理解を示していたので、ここは大好きな雪の山なんぞへ行って来た方が、心身共によいのよと言ってくれた。

ところがである……

家人が出かけた後、速やかに準備に入ったところで、スキーのストックがいつもの位置にないことに気が付く。

二畳半の自分の部屋に、整然とカッ詰められている山の道具のうち、テレマークスキー用の皮のブーツに差し込んである(はずの)ストックがないのだ。

物置なども念のために見てみるがない。

そして、思い出した。

昨年の夏、薬師岳でのトレーニング不足による苦闘の際に、ストックに頼りすぎて、繋ぎ目などを壊していたのだ。

その壊したストックはどこへやったのか……?

とにかく、これでテレマークは出来ないことが分かった。

こうなったら、登りに行くだけだと腹を括る。

行き先も曖昧なままクルマを走らせた……

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時計は9時半をまわっている。

一番行きたいのは立山山麓だが、今からではきつい。

しかもスキーが出来ないのであれば意味もなく、近くの低山を登り歩いて来るくらいでいいだろう。

というわけで、医王山方面へととりあえずクルマを走らせることにした。

医王山の手前に位置するキゴ山には金沢市営のスキー場がある。

その駐車場にクルマを置いて、キゴ山のてっぺんまで登って来ようと決めた。

新雪の木々雪の中の小屋

裸木には、うっすらと雪が載っている。

昨夜は冷え込んだから、いくらかの降雪があったみたいで、雪面の白さも強烈だ。

一応、軽い雪中行軍の出で立ちになって歩き始めた。

そして、除雪された道から奥へと進もうとしていたが、すぐにいつものクセでいきなり雪の中へ。

足跡

たしかに近道ではあるが、スキーもカンジキも持っていないのはかなり辛い。

予想していた以上に積雪も多く、しかもアップダウンもあったりして思いのほか苦戦を強いられる。

時間的には無意味に近かったが、一応、距離的には大幅にショートカットして、再び登りの除雪された道に出た。

このすぐ上で、キゴ山スキー場の最上部から滑り降りてくる林道コースと出合う。

このコースは市民スキー場らしく、超ファミリー向けで超ゆったりしているのが特徴だ。

登り口トレイル

案内板があり、その横にカンジキによる踏み跡を見つけた。

コースに沿って歩かずに、直登している二人組のカンジキ跡だ。

シメたと思って、その踏み跡をトレースさせていただくことに。

しかし、最初の傾斜の緩いところは良かったが、徐々に傾斜がきつくなってくると、足の取られ方が予想以上に激しくなっていく。

一歩ごとに深く、膝どころか太腿あたりまで潜り込んでしまうと、身動きもとれなくなる始末だ。

まだ先は長そうだと覚悟を決めて行く。

ようやく一旦コースに飛び出して、一息つく。

上から幼い女の子を従えてのママさんスキーヤーが降りてきた。

女の子が奇声を上げたりすると、ガマンよガマンよと振り返りもせずに叫ぶ。

こっちの姿に驚いたのか、女の子が転んだ。

こういう場合、手を差し伸べてあげるべきかどうか迷うが、厳しい母親に叱られそうなのでやめにした。

その代り、ニコリと笑って頑張れと小声で女の子に伝える。

女の子は倒れたまま戸惑っていた……

コースはほんのわずかに登ったところで右に大きくカーブしていて、その真正面にまた直登の踏み跡が見えた。

そこへ着くまで迷っていたが、そこまで来てしまうと、足が自然と直登の方へと動き出す。

しかし、そこからの直登はさっきよりも一段ときつくなり、途中で引き返しコースを歩こうかと思った。

だが、なかなかそう簡単に自分自身が許してくれない。

芽吹き1大木と雪

まるで人生そのものだ……などと、半分諦めながら直登を繰り返す。

膝辺りまで潜ってしまうくらいはほとんど平気だが、それ以上に足が入り込んでしまうと、それから抜け出すたびに片方の足が深く潜り込む。

木の幹や枝などが手元にあればまだいいが、何もない場所では拳を雪面に突っ込んでチカラを入れる。

なぜ、カンジキを持って来ないのだと、山に理解のある人は必ず言うだろうなあと思いながら、情けない登りが続いた。

そんなところへ、上の方から話し声が聞こえてきた。

姿はまだ見えないが、ひょっとするとこの踏み跡の持ち主たちかも知れない。

そう思いながら、悪戦苦闘しているうちに、上品そうな熟年夫婦が下りて来た。

カンジキが心地よく雪面をとらえて快適に下山中といった雰囲気だ。

互いの距離が10mを切った辺りになって、トレースさせてもらったこと、その踏み跡を穴だらけにしてしまったことなどを詫びた。

ご夫人の方からは、寛大なお許しの言葉をいただき、ご主人の方からは、「ゴボッって、大変でしょう」と、嬉しい励ましの言葉をいただいた。

特にご主人からの「ゴボる」という言葉にはホッとした。

自分自身の状況を、「カンジキがないと、やはりゴボりますねえ」と伝えたかったのだが、その地元言葉が通じるかと懸念していたのだ。

安心して「こんなにゴボるとは、甘くみてました…」と答える。

気持ちを入れ直して、最後の短い急登へ。

雪原と青空医王山

久しぶりにたどり着いたキゴ山のてっぺんは、予想以上に晴れ渡り、金沢市内も日本海も、医王山の山並みも美しく見渡せた。

雪に半分ほど埋もれた展望台に登って、コンビニおにぎり三個で昼飯。

そしてコーヒーと、デザートは小さなドーナツと柿の種一袋。

山で食う柿の種は、なぜかコーヒーにもよく合う。

靴で踏み固めた雪上ベンチは快適だったが、長く座っているとケツが冷たくなる。

“凍ケツ(結)”状態になる前に立ちあがり、雪が凍って滑りそうな階段をゆっくりと下った。

ウサギ足跡縦断ウサギ足跡横断

あとは、台地上になっている雪野原を思い切り歩きまわるだけ。

何年か前に来た時は、テレマークスキーを履いてここまで登り、そのまま奥まで入って、そこで雪上ランチを作って食べた。

そのあたりまで行ってみようと、とりあえず緩やかな雪原を下ることにする。

しばらくして、下りは上りに変わり、ここでも雪は深く、ミニラッセル状態だ。

てっぺんの足跡遠いスキーヤーと青空

近くで自分を見た人は、こんなオッサンだったのかと驚くに違いないと思う。

それほどまでに気持ちははしゃいでいる。

しゃがみ込んでカメラを構えたり、大きく背伸びしたり、本人はとにかく楽しくて仕方がない。

まだまだ楽しもうと足を踏み込んでいった矢先、遠くから独りの山スキーオトコが近付いてくるのが見えた。

蛇の道は蛇。一目でそれと分かる同類の匂いがプンプンしてくる。

しかし、彼はこっちを同類と見てくれなかったみたいだ。

距離はあるが、こっちの視線を無視してすれ違って行く。

それもそのはず、こんな雪原をカンジキもスキーも履かずに彷徨っているなど正気の沙汰ではない。

彼のツンと吊り上ったようなクロカンスキーの先端が凛々しく見えた。

まっさらな雪原に残した自分のズタズタなトレイルを振り返りながら、彼の雄々しい姿も見つめた。

縄張り争いに負けた狼のような気分だ。

青空とクロスカントリークロスカントリーの男

休み明け、ストックを買いに行くことをその場で決めた。

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下山はまた樹林帯に入っていった。

コースをのんびり下ればいいのにと、もう一人の自分が言っているのだが、もう一人の自分は、いやもう一度難コースへ行けと言っていたのだ。

ニンゲン、ふたつの道が目の前にあったら、より険しい方の道を行けと誰か偉い方が言っていたのを思い出した。

そんな青年向けの言葉を真に受けなくても…と、またもう一人の自分が言っていたが、もう引き返すこともできなかった。

太陽と雪平原

下山の途中、荒い息を弾ませながら、湯涌ゲストハウス自炊部へ電話を入れると、番頭・Aが洗い物中ですとのこと。

彼の淹れてくれる美味いコーヒーが飲みたくて、雪を踏む足にチカラを込めたのだが、時間短縮には全く至らなかった………

雪の上の影

 

西茶屋資料館の仕事‐2 茶屋の風情

座敷

西茶屋資料館は小さな展示館だ。

自分が関わった展示施設の中では最も小さな部類に入る。

ところで、茶屋街は「にし茶屋」なのに、資料館ではなぜか「西茶屋」と表記する。

「ひがし茶屋街」と「にし茶屋街」という場合、このひらがな表記のもつ趣や空気感みたいなものが伝わるが、資料館の名前には敢えて漢字を使っている。

そうなった背景を今思い出そうとしているが、カンペキに忘れた。

一階の話は-1で書いた。今回は二階。

「茶屋の風情」というタイトルで括った座敷空間の話だ。

一階テーマの「島田清次郎の世界」と比べると、二階はついでのような感じで捉えていた仕事と言っていい。

段取りとしても、かなり後回しにしていたところがあった。

しかし、市の担当者と、廃業(だったか)した茶屋を一緒に見に行ってからだろうか、全く興味もなかった茶屋の中の様子に関心が湧いてくる。

展示に面白味が見出せるようになっていった。

その茶屋には何度も入らせていただいた。

記憶がかなり薄まってはいるが、入ってすぐの幅の広い階段や、ゆったりとした座敷、食材や飲み物などを保管しておく地下室など、茶屋の表と裏の世界のようなものをストレートに感じた気がした。

何でもない小さな飾りなどを見つけては、カメラに収めていたこともよく覚えている。

それから後、建築工事が終わった資料館の二階に上がると、何となくそれらしい展示のイメージが湧いてきた。

真ん中にテーブル、そして座布団と肘掛けを置き、太鼓と三味線、それに屏風……

狭い空間だから、これで十分それらしくなると考えた。

そして、それらをさっきの茶屋から持って来て置けばいいと思い実行していく。

太鼓

これは意外と簡単に事足りた。

その茶屋に残されていたものも、それなりに立派なものばかりで、屏風も火鉢も太鼓も、それと豪華な造りの小さな棚なども、さすがにうまく雰囲気づくりに貢献してくれた。

そして、またボクの思いは一階の島田清次郎の世界へと重きを置いていったのだ………

何となく館内全体がカタチを成してきて、もうだいたいやり尽くしたかなと思っていた頃だった。

座敷と廊下

一人で二階へと上がり、初めてじっくりと座敷空間を前にして座った。

するとすぐに、奥の朱塗りの壁に何かを置きたいという思いが湧いた。

現実感のない演出だけのイメージなのだが、そのアイテムがすぐに扇子だと、自分のアタマの中では決められていった。

またさっきの茶屋へと足を向け、片付けられていた扇子を持ち出して展示した。

何となく見栄え的にはどうなのかなと思ったが、扇子は扇子と、簡単に割り切れた。

そして、今度は手前の小さな間ではなく、座敷内の客が座る座布団の上に堂々と座ったのだ。

横には肘掛があった。

正座をしたが、何となくぎこちなく、胡坐をかいてみる。

しかし、どうやっても落ち着かず、また手前の間に戻ってしまった。

自分がこのような場には、カンペキに相応しくないニンゲンなんだなと思ったかどうか覚えていないが、それも間違いない。

そして、ふと思ったのだ……

金屏風と三味線

自分が得意?とするところの“物語”がない。

訪れた人たちは、ただボーッと見回すだけで、すぐにこの場を立ち去るだろう… そう思った。

ただ、茶屋の物語はなかなか切り口がむずかしい。

堅苦しい歴史の話なんかでは面白みがない。

さらに階下の島田清次郎の物語と合わせられると、まったく暗いイメージそのものになってしまう。

その辺のところは、-1を読んでいただくとよく分かると思うのだが、とにかくただひたすら虚しく陰湿なのである。

廊下 座敷前から振り返る

ボクはその時、市の担当者の方とよく相談に行っていた、茶屋の女将・みねさんの顔を思い浮かべていた。

みねさんとは、金沢の茶屋文化を代表するパフォーマンス『一調一管』の、横笛の名手である。

あの演奏スタイルはジャズ的だ。

セッション風であり、インタープレイ的である。

話はそれたが、とにかく、その頃のボクはそんな笛の名手とも知らず、何度かお会いしていた。

第一印象は、小うるさく(すいません)、扱いにくく(以下同文)、とにかく怖いおばさんだった。

しかし、何度もお会いしていくうちに、叱られてばかりではあったが、その奥にある温かいものを感じるようになっていく。

そして、二階の茶屋を再現した空間に、みねさんの思い出みたいなものを書かせていただき置きたいと強く思った。

何度かお会いしていくうちに、みねさんから子供の頃すでに西茶屋で下働きをしていたという話を聞いていたからだ。

そんな時代の話を、紹介できないだろうか。

実を言うと、この辺りの話は過去に書いた 『みねさんは、やっぱドルフィーだった』 という雑文の中に詳しく書いている(から、そちらを読んでいただきたい)。

市の担当者にその話を持ちかけると、それはN居さんの口からどうぞ…と言われた。

そして、決して快くといった感じではなかった(少なくとも表面的には)が、みねさんは取材に応じてくれた。

三月の終わりとは言え、まだ寒い日のお昼前で、脇で鉄瓶の湯気が心地よく舞っていた。

そして、みねさんは、両手で覆った湯呑の中の、熱いお茶をすすりながら、昔を懐かしむように語ってくれたのだ。

ボクにとっては、それを受けて書き上げた文章の奥に広がる、みねさんの幼い頃の思い出が、この展示空間のすべてに生気を沁み込ませると思えた。

みねさんの淹れてくれたお茶が心にも沁みていくようだった。

ボクはずっと、こうした生の語りが伝える匂いみたいなものを大事にしてきたが、まさにこの時の自分のやり方も、そんな自分自身を大いに納得させるものだったと思う。

座敷の手前に置かれた一枚の板に記された、下手ながらも渾身の一文だ。

芸妓の話

それから、みねさんは開館直前になって、壁に展示したあった例の扇子に大いにケチをつけ、私のをしばらくだけ貸すから、取りにおいでと言ってくれた。

開館記念のセレモニーにも関わらせていただいたが、にしの芸妓さんたち全員による素晴らしい踊りも披露されて賑やかだった。

もちろん、その交渉もみねさんとだ。

西茶屋資料館は、当時からほとんど展示は変わっていない。

金沢の場合、茶屋そのもので言えばやはり「ひがし」に圧倒的に人が多く集まり、「にし」はかなり遅れてしまった。

仕方がないが、金沢の象徴的な匂いを醸し出す場としての存在感は、何と言っても大きいのだと思う。

一月の終わり頃、ふらっと立ち寄った資料館で、二十代後半から三十代初めだろうかと思われる女性が、独りで二階の間の前に座っているのを見た。

たしかに、みねさんのあの話を読んでくれていた。

ボクが上がってきたことによって、邪魔をしたみたいだった。

この静かで小さな空間には、わずかな数の人ですら相応しくない。

そんな場所を、開館する前、独占していたのだなと思った。

今から思えば、ここには贅沢な時間があったのだ……

扇子

 

みねさんの話は、こちらへ。

『みねさんは、やっぱドルフィーだ…』   http://htbt.jp/?p=3308

西茶屋資料館の仕事‐1 「島田清次郎の世界」

清次郎肖像画

金沢三茶屋街のひとつ、にし茶屋街の奥に「金沢市西茶屋資料館」がある。1996年の春にオープンした。

今はどうか知らないが、出来てしばらくの頃はほとんど誰に聞いても行ったことはないと言われた。

最近は茶屋街の中に人気のお菓子屋が出来て、ウィークデーでも人の気配が多くなったりしているみたいだ。

この資料館の仕事は、自分自身の中では大きなターニングポイントになったもので、小さな資料館ながら今でもそれなりに思い入れがある。

テーマとなっているのは、島田清次郎という大正時代の作家の生涯だ。

島田清次郎の世界

清次郎については、今多くの場で紹介されているから省略するが、31歳という若さで死ぬまでの間に、さまざまな苦難と栄光と没落を経験した人物だ。

ただ、人間的には決して一般に好かれるタイプではなかった。これは間違いない。

資料館の建物は清次郎の母方の祖父が営み、清次郎自身も母親と住んでいた「吉米楼(よしよねろう)」という茶屋を復元したものである。

入り口二階から

一階は清次郎について紹介・解説する展示空間で、二階には茶屋の風情を再現した展示もされているが、チカラの入れ方の比重で言えば、一階の清次郎空間への方が圧倒的に強かった。

こういう場合、仕事だから個人的な思いなんぞ入れることは出来ないだろうと言う人もいるが、そんなことはない。

人をテーマにした資料館などは、人物史が最も重要だと思っているので、それをどれだけ吸収するかだと思う。でないと、まず面白くない。

西茶屋資料館に関わったのは四十歳の頃だが、実を言うとボクは二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいた。

映画化もされた、一般的に言う第一部(四部構成)の話だ。

今では想像もつかない大正時代の大ベストセラーで、新潮社のビルが、この作品一本の儲けで建ったと言われる。

地上紹介パネル

ボクがそれを読んでいたことが、展示計画の監修者であった小林輝冶先生(当時北陸大学教授)にまず気に入られた理由だ。

読んでいたということ自体も驚かれたが、それ以上に二十歳の頃というのが凄かったみたいだ。

先生からは、なんで清次郎なんか読んだの?と、聞かれたほどだ。

それくらい不思議なことだったのかも知れないが、ボクにとっても、たまたま本好きだった友人が、読んでみたらいいと言って貸してくれた一冊だったに過ぎない。

実を言うと、大して面白くはなかった。

大正時代の青年たちとは違い、彼をヒーローなんぞには出来なかった。

その思いが後に鮮明になっていく。

貸してくれた友人が、さらにその清次郎の波乱万丈の生涯を書いた、杉森久英の『天才と狂人の間』という直木賞作品も薦めてくれた。

これは俗っぽい好奇心みたいなものを伴って、それなりに読み込んでしまった。

読みモノとして面白かったからではない。

島田清次郎というニンゲンの、恐ろしいほどの極悪非道ぶりが強調されていて、その毒々しさがついつい文章を追わせただけだった。

その後味の悪さは、読後のシミのようになって体に残ったような気がした。

そして、『地上』の異常に美化された虚偽の世界が余計に気に入らなくなっていく。

島田清次郎というニンゲンが恐ろしくなった。

それまで金沢の文学は、鏡花であり、犀星であり、秋声であった。

そこに清次郎という存在が現れてきたことは、少なくとも自分の中では「招かれざる客」がやって来たようなものだった。

パネル1パネル2

 

小林輝冶先生は、島田清次郎研究の第一人者だ。

清次郎は二十歳にして『地上』を世に出し、大ベストセラー作家となり、天才と褒めたたえられ、貧乏のどん底から大きな富を得るまでの大成功をおさめた。

しかし、並はずれた高慢さで、茶屋に育った背景からか女性を軽視する傾向もあり、後に大スキャンダルを犯し、そして最後は思想的にも危険分子とされて、精神を病んだまま東京巣鴨の保養院(精神病院)で独り死んでいったことになっている。

小林先生がこの仕事の中でこだわっていらっしゃったのは、彼の最期についてのところだ。

清次郎が本当に精神を病んだまま死んでいったのか? 先生はそのことに強い疑問を持っておられた。

徳富蘇峰への書簡

これ読んでよ…と言って渡された、保養院から徳富蘇峰あてに書いた手紙を読んだ時、ボクも先生の言われる意味が少し分かったような気持ちになった。

走り書きのような、ところどころ書き直されたその手紙、いや文章には清次郎の真実のようなものがあるような気がした。

それでも完全に認めることはできなかったが、展示のストーリーは、この文章を読んですぐにボクのアタマの中に展開されていったのだ。

島田清次郎を好きになっていったのではないが、ドラマは明確になった。

玄関に下げられている「島田清次郎の世界」というのは、ボクのネーミングだ。

平凡ではあるが、ほとんど知られていない清次郎の生涯のことを思うと、その素朴なタイトルがふさわしいと思えた。

清次郎の顔も、彼の残された写真の中から、もっともやさしさを感じさせるものを選び、当時スタッフだったイラストレーター・森田加奈子クンに描いてもらった。

本展示

中の展示空間は、ほとんどが文字と写真とイメージデザインだけで構成されている。

年表形式の一般的なものだが、大正という時代や清次郎の残した詩などからイメージする色などに気を使った。

ただ、小林先生といろいろやりとりしながら、いつも気持ちは複雑だった。

それは、やはり島田清次郎という人物をどう表現しようとも、美しいストーリーにはなりえないだろうなという思いだった。

しかし、せめて金沢に育った一人の天才作家が、紆余曲折の末に最期は精神の病で死んでいったという切ない結末から解放され、かすかに残されていたのかも知れないその希望に光を当てていく…… そういった思いになっていった。

大袈裟だが、小林先生の思いを具現化し、あの島田清次郎に少しでも温かい目が注がれるようにする… ボクはスタッフたちにそんな半分冗談みたいなことを語っていた。

地元の金沢商業に通学していた頃に、清次郎に強い影響を与えた橋場忠三郎という人の日記が貴重な資料となっているが、そのご子息がいつもお世話になっていた方だったという不思議な縁もあり、親しみもいくらか増した。

橋場ノート

オープンの日の朝、展示室の中にある小さなケースの中に、赤いバラを一本入れた。

今はっきりとは思い出せないが、どこかで彼の作品に描かれていた赤いバラだったと思う。

当然、今はもう置かれていない。

しかし、ずっとオープンの朝にはそうしようと考えていたことだった。そのことはなぜか忘れていない。

ところで、今、石川近代文学館で開催されている企画展・『彷徨の作家 島田清次郎』へ行くと、赤い風船が入場記念?にもらえる。

これは、『明るいペシミストの唄』という詩に出てくる、“わたしは昨日昇天した風船である”の一節からのものだろうと思っている。

詩の後半に赤い風船と、色を伝えている。

実は、西茶屋資料館の展示でもこの詩を紹介しているのだが、近代文学館の受付でそれをもらった時、ドキッとした。

何か通じるものがあったのかと、ドキドキしながら嬉しくなった。

こういう仕事にはやり残し感がつきものである。時間がたてばたつほど、それが積み重なっていくのはやむを得ないことなのかも知れない。

徳富蘇峰宛ての書簡については、近代文学館の企画展の中でもはっきりと問題提起されていたような気がするし、別にボクがどうのこうの言っても始まらないが、小林先生の思いには忠実にいようと思う………

入院記事

その2 茶屋空間の話につづく。

 

モンク短文

2015012120450000.jpg

1月も半ばなのに、今年初めての日銀裏。

カウンターの隅に置かれた、古ぼけたレコードジャケット。

その数日前、映像屋の仕事仲間から、「今度モンクでも聞きながら飲みましょう」というメールが来ていたのを思い出した。

言うまでもなく、このジャケットを目にしたからだ。

このジャケットは、この店のサインにも使われている。

店主としばらくセロニアス・モンクについて喋った。

この奇才ピアニストの名を知ったのは15歳の頃だ。

「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」でその名を知り、最初はモダンジャズ発祥時の歴史的存在として認識していた。

が、少しずつ耳に触れるにつれ、その特異性が気になり始める。

これから本格的にジャズにのめり込んでいこうとしていた純粋少年には、かなり耳障りな音楽でしかなく、マイルスから「オレの演奏中は伴奏するな」と言われたというエピソードが、痛快にアタマに残っていた。

しかし、それからまた数年後、そんな思いなど全くなかったかのようにモンクの世界が普通になっていく。

ミュージシャンだけでなく、リスナーというポジションにも挑戦的な姿勢がある。

特にフリージャズを聴き始める頃には、それが強くなったりする。

今でも自分の中では主流ではないが、それがまたジャズピアニストとしてのモンクらしさなのだろう。

そんな思いの一端に、このミュージシャンの存在があったのだと、今、思う。

実を言うと、モンクの顔がアップになったTシャツを持っていて、かなり気に入ってもいるのだ・・・・・・

……

勝沼~ブドウとワインと友のこと

勝沼ワイン

今から35年ほど前の話である。

大学時代の親友Mの実家のある山梨県勝沼町(現甲州市)で、貴重な体験をした。

彼の実家には現役時代にも何度もお邪魔していたが、卒業してからも毎年夏になると出かけていた。

勝沼と言えば、ブドウである。

と言っても、学生時代に彼と会わなかったら、そんな知識も希薄なものだっただろう。

初めて中央線の勝沼駅に降り立った時の驚きは今でも忘れない。

眼下に広がった勝沼の町は、ブドウ畑で覆われていた。

ブドウ畑の棚の隙間に家々の屋根が見えているといった感じだった。

南アルプスの逞しく美しい姿にも圧倒された。

当たり前だが、彼の家へ行けば必ずブドウ酒が出た。

彼の家もまた、ブドウ栽培の農家であった。

まだワインという呼び方も定番ではなかったと思う。

何度目かの訪問の時、そのブドウ酒一升瓶6本入の木箱を予約し、石川の自分の実家へ送ったこともある。

市場では一本が千円あまりで、飲みやすいブドウ酒だった。実家でも好評で、それから何度か送っていた。

大学を卒業してから、毎年夏には信州から八ヶ岳山麓へと出かけるようになった。

そして、その際にはいつもMの家に寄り、同行もよくしていた。

その最初か二回目あたりだったと思う。勝沼に着いた日にMから、夜、地元の愛好家たちで結成されている「ワインの会?」に一緒に出ないかと誘われた。

彼の家に独りでいるわけにはいかない。面倒だが行くことにした。

勝沼町内のペンションが会場だった。そのペンションには数年後に泊まったこともある。

昼間は暑さの厳しい甲府盆地だが、夜になると涼しい風が吹き始め、グッと過ごしやすくなる。その夜もそんな感じだった。

ペンション一階のレストランには、大きなテーブルに向かう十人ほどのワイン愛好家たちがいた。

年齢はばらばら、知的な匂いが漂う若い女性も独りだけだがいた。

天井では優雅にプロペラがまわっている。

今なら普通であろうが、その頃にワインの会と聞かされると緊張度は異常に高まるのだ。

嫌な予感どおり、ボクはテーブルの真ん中あたりに座らされ、金沢からのスペシャルゲストのような紹介をされた。

たしかにゲストではあっただろうが、その後の情けない行動からすれば、実にみじめな数時間のスタートであった。

テーブルの真ん中に、ハムや新鮮な野菜などが並べられていた。

そして、会の代表らしき男性が話し始める。これから十種類ほどのワインを飲み、ランク付けをする……というのだ。

何? ボクはたしか左横にいたMの顔を見た。彼は笑いながら、まあまあといった顔をしている。

困った。お遊びでやっていい会なのかどうなのかと、Mに問おうとしたが、彼は相変わらず楽しそうに笑っている。

ワインが、いやボクの認識ではブドウ酒がどんどんグラスに注がれて運ばれてくる。

グラスの下に番号が書かれたカードが置かれていて、その番号をランク表に記入していくのだ。

何だかよく分からないうちに、ひと通り口に運んだ。そして、ランク表に何とか数字を入れた。

慣れていないせいもあって、どれも酸味が強く感じられた。正直、積極的に飲みたいと思ったものはなかった。

その中で、なんとか口に合ったブドウ酒がひとつだけあった。

全く口に合わないブドウ酒も明解に自覚できた。

先に後者(つまり最下位)から言うと、恥ずかしながら、それはボルドーの最高級ワインらしかった。

赤のフルボディ、うま味など全く感じ取れなかった。

そして、前者、つまり口に合った唯一のブドウ酒が地元勝沼産。

例の一升瓶で販売されているブドウ酒だったのである。

正直言って、赤のフルボディは“まずい”とさえ感じた。

咽喉を通すのもかなりの労力と勇気を必要とした(少なくとも当時の自分には)。

さすがに、地元の人たちはボクが最下位にしたワインを一番にしていた。

見た目だけで判別がつくくらいの人たちばかりだった。

紅一点、大学で日本文学を専攻していたという女性も、柔らかな物腰のイメージを吹き飛ばすほどの酒豪、いやワイン通であった。

その利き酒会的なイベントの終わりに、代表の方がやさしく言った。

たぶん、今日のゲストであるボクの感覚(無知か未知かの)が、今の日本人の平均的なワイン感覚なのであろうと。

救われたのか、いやその逆なのかと一瞬戸惑いながら、グラスに残ったままの高級赤ワインを見た。

Mが横で笑っていた。

甲州シュールリーアジロン

話は一気にその数年後に飛ぶ。

クリスマス・イブの夜、金沢の行きつけになっていたバーで、ワイン・パーティをやることにした。

その店はマスターの高齢化でとっくに閉じられているが、初めてシングルモルトの美味さを教えてもらった店で、その後ボクにとっては貴重な場所でもあった。

パーティのことはマスターに一任した。

すると、テーブルの真ん中にワインの入った小さな樽が置かれるという、なかなかオシャレな趣向になっていて、マスターに感謝した。

参加者である会社の同僚たちも喜んでいたが、ワインなどほとんど飲む機会はない。正直企画した者としては大いに不安でもあったのだ。

樽はお店用の簡易な水道栓が付いたもので、中の小さなタンクが取り外し可能になっている。

空っぽになったら、マスターがそのタンクを裏へと持って行きワインを補充するのだ。

小さめのグラスにワインが注がれると、皆珍しそうにその“ 液体 を眺めている。

そして、乾杯。全員が美味いとか、飲みやすいとか、とにかく初めてのワインに驚きの声を上げた。

ボクはちょっと誇らしげだった。皆のグラスにどんどんワインが注がれていく。

マスターの作ってくれる料理との相性もいいみたいだ。

そして、ワイン補充の頻度も高くなってきた。

手の回らないマスターに言われて、ボクが裏へと入りそのタンクを取りに行くことになる。

そして、カウンターを抜けて裏へと入った時、そこにあったワイン、いやブドウ酒を見て驚いた。

あの懐かしい勝沼の一升瓶がそこにあった。

しかも、我が家に送ったこともある木箱に入っていた。

その時、思った。

あの夏の日の、勝沼のペンションでの感覚は決して間違いではなかったのだな……と。

たしかに日本においても、昔から高級ワインを飲んでいる人たちはいただろうが、平たく言えば、普通の日本人にはこのブドウ酒が“最も馴染めるワイン”の味なのかも知れない……と。

そして、あの会で代表の方が最後に言ってくれた言葉をあらためて思い出していた………。

それから後、いつの間にか一気にワインブームが来た。

誰もがワイン愛好家になっていた。

昔の勝沼の想い出話をしても、誰も信じてくれないような時代になった。

それどころか、半分バカにされたりもする始末だ。

若い女性たちが、ワイン評論家になる時代なのだ。

シトラス甲州シャトーメルシャンの甲州

今勝沼のワインは、「甲州」というブランドでヨーロッパでも非常に高い評価を得ている。

Mは大学卒業後、地元公務員になり、20代の頃から勝沼のワインを普及するための研究に力を注いできた。

ヨーロッパやアメリカ西海岸などの産地に渡り、そこでの成果を地元の農家やワイナリーの人たちとの研究材料にもしていた。

若かった彼が記したそれらのレポートには、単にブドウ栽培やワインづくりの話ばかりではなく、ブドウ畑が作り出す美しい自然景観の話などが活き活きと綴られている。

ついでに書くと、ボクがかつて出していた『ヒトビト』という雑誌にも、彼は創刊から協力してくれ、勝沼からの季節感あふれるレポートを送ってくれていた。

その文章も、今風に言えば、ふるさと愛に満ちた温かく素晴らしい内容のものだった。

実際、勝沼におけるブドウの存在は完全に地域の文化だ。

今のワインブームの中では忘れられがちな、土地(地域)の匂いのようなものが伝わってくる。

それは、8世紀とか12世紀とかいう発祥説が物語る、勝沼のブドウの歴史そのものでもあるからだ。

勝沼グラス

そして、明治の初め、ワインづくりのためにフランスへ若者二人を送り込んだという剛健な気質にも、それは示されている。

その気候風土に合った文化を継承するワイナリーオーナーたちも見識が高い。

今、テレビをとおして国産ウイスキーの物語が人気を博しているが、ブドウづくりとワインづくりの歴史にも、多くの物語があったに違いない。

もうそろそろ5年前のことになるが、ボクは金沢の茶屋で甲州ワインを飲む会を催した。

そのために勝沼にMを訪ね、何軒かのワイナリーを巡ったが、あらためて感じ入ったのは、それぞれのワイナリーが実に個性的(平凡かつ軽薄な表現で恥ずかしいが)であったことだ。

そして、とても日本的であった?ということにも驚かされた。

明治の農村にあった「和と洋」。

……というとまた違っているかもしれないが、その独特の空気感は初めて味わうものだったのだ。

それもまた、ブドウやワインと言う日本国内では特殊な性格をもつ産物のせいとも言えた。

会は一応盛況だった。勝沼で買い込んだ数種類の甲州ワインを順番に出した。

ボクはMからもらった資料をもとに、勝沼の土地柄などの話を交えながら会をナビゲートした。

すでに世の中ワイン通だらけで、今さら国産ワインなどと言う人も多くいたが、一口飲んだだけで皆その口当たりの良さに驚いていた。

ただ、その時失敗したと思ったのは、茶屋という場を意識しすぎて、妙な高級感が出てしまったことだ。

口当たりが良くて、食べ物も進み、おしゃべりも弾むという、そんな生活感のあるワインの場にするべきだった。

それが自分が知っている勝沼らしい魅力の発信に繋がっただろうに…と、ずっと後悔している。

日本酒ももちろんだが、国産ワインにもその土地の個性がある。

こと国産ワインについて言えば、勝沼ほどそれが顕著な場所はないだろうと思う。

ブドウ畑が作り出すのどかな風景は、その第一の要素だ。

だから、本当のことを言えば、やはり甲州ワインは勝沼の地で楽しむのが一番いいと思う。

あのブドウ畑が広がる風景や、ワイナリーの新旧の香りが漂う佇まいなどを目にすると、ワインの味が確実に大きく広がっていくのは間違いない。

最近は我が家でも外国産のワインが普通になっているが、やはり甲州ワイン、いや勝沼のワインは別モノだ。

ボクにとっては、たくさんの大事なものが詰まっている、特別なモノであることは間違いない。

ここまで書いてきたら、飲みたくなってきたのだ………

ルバイヤート甲州勝沼の甲州

※使った写真は、たまたま最近飲んだ銘柄のもの。

勝沼ボトル

 

 

 

晩秋京旅・圧倒編その2

土塀屋根の紅葉

京・高雄方面は実に深いのである。

市の中心部からすると、その奥まり方はかなりな印象がある。

さらに、クルマを下りてからの道も、さらにまだ奥があったのかと思わせる。

急な石段登りは、断片的に登山に近い印象を与える。

晩秋京旅の二日目は高雄に決めていた。

予習資料には厳しい道とあった。

午前10時頃、阪急桂駅前で娘たちと合流した。

大阪豊中に住む次女のところに、前日一緒に来て、JR山科駅から電車に乗り換え大阪で友達と会っていた長女が泊まりに行き、その日の朝阪急で桂まで二人一緒に来た。

桂はこの前まで次女が住んでいた町だ。

こっちも少しは土地勘のあるところだったので、待ち合わせ地点になった。

到着が予定よりも一本遅れた電車になったのは、多分朝が早かったせいだろう。

久しぶりに四人が揃った… と言っても特に儀式などないが。

高雄までは道中が長い。

それに何しろ、晩秋京旅である。

しばらく走って、すぐに渋滞らしき雰囲気。

まあこんなもんだろうと覚悟を決める。

ところが、途中から交通事情は恐れたほどのこともなくスムーズになった。

周辺の風景は、高雄に向かっていることを少しずつ印象付けるものとなっていく。

この先はたしか周山街道と呼ばれる道だ。

かなり山間に入って、周辺が騒がしくなってきたあたりが神護寺へと向かう拠点だった。

無理やりのように、民家の庭がそのまま駐車場になったスペースにクルマを突っ込む。

このあたりの民家は、この時季いい稼ぎになるのだろうなあと余計なことを考える。

清滝川

神護寺へは混み合う道路をしばらく歩き、それから左に折れて清滝川沿いを行く。

清流を見下ろしながら歩くうちに、西明寺への道を右に見送ってまっすぐ進む。

西明寺は帰りに寄ることになる。

しばらく歩くと、左手に急な石段が延びている。

目にした瞬間から、家人が神妙な顔付きになった。

家人にとってはかなりきつそうな登りである。

山で鍛えている長女は、屁みたいなものといった顔で登り始め、毎日自分の住まいと駅とのアップダウンを自転車で往復している次女も同じように登り始めた。

家人をサポートしながら、次女の大学入学式の翌日(だったか)、三人で鞍馬山に登ったのを思い出した。

履物が適合しておらず、二人は苦労したみたいだったが、天候にも恵まれいい思い出になったという話題が出て懐かしかった。

神護寺への道は厳しい…というほどではないが、やはり普通に考えれば楽な道ではない。

笠

途中には休憩処が何軒かあり、その前を通るたびに出ているメニューを覗き込む。

昼に近い時間であるから、団子などのおやつ系よりも、うどんや丼物などのメシ系に目が行く。

秘かに「きつねうどん」に目を付けておいた。

ただ出来れば、「いなりうどん」の方がネーミングとしてはいい。

立ち寄るのは帰りだ。

楼門と呼ばれる、神護寺の正門が、最強に急な石段の向こうに見えてきた。

その前に、道から見下ろす休憩処の情景に目を奪われる。

モミジ食堂

強弱の光に包まれた全面紅葉の中に、食事する人たちの影が動いている。

あの人たちは自分たちの置かれた素晴らしい状況を理解した上で、食事をしているのだろうか?

もしそうでないとすれば、実に不幸なことかも知れない。

同じ状況下で後ほど食事をしようと考えている者としては、しっかりと今目に焼き付けておく必要があった。

神護寺正門

先を行く娘たちの後姿を追い、家人を励ましながら石段を登った。

ほどなく山門に辿り着く。

境内には山里の寺らしい、のどかな空気が流れていて、ふんわりと落ち着く。

金堂石段引き金堂より

当たり前だが、周囲に街中の寺でよく見られる現代建築などは見えず、そのことが新鮮に感じられる。

昔、街道探索などをしていた頃、視覚的な静寂というものを感じたことがあったが、まさにそれに近い感覚が蘇ってきた。

さらに石段を登ったところにある金堂を見上げていると、周囲の人たちの声も聞こえなくなった。

天気ののどかさが何よりだった。

金堂1神護寺境内2

神護寺は、約1200年前に出来たと言われる寺だ。

日本史に出てくる和気清麻呂(すぐに変換されて快感)ゆかりの寺で、後世では、空海や最澄とも深い縁があるらしい。

最も高い位置にある金堂前で、石段の下から写真を撮ってもらった。

家族四人の写真など久しぶりのことだ。

娘たちが進学で京都に移ってからは、そんなショットはすべて京都が舞台となっている。

ヒトは確かに多いのだが、前日の永観堂で見たうねりのような流れもなく、山寺の空気感もたまらなくいい。

金堂石段

金堂からの石段を下ると、またぶらぶらしたり、佇んだりを繰り返す。

だが、そのうち、例の「きつねうどん」のことが気になり始めた。

坂道を下りながら、上から数えて二軒目の店に入った。

屋根のあるテーブルと露天のテーブルが、それなりに整然?と並んでいて、すでに多くのテーブルが埋まっていた。

どのテーブルにも紅葉が舞い落ち、手元も足元も周囲は紅の斑模様だ。

きつねうどん

きつねうどんに、小さな松茸ご飯が付いた、上品な昼飯をいただく。

しかし、環境的にはそれなりにワイルドでもある。

京都らしい“はんなり”系の出汁が美味い。

そのやさしさを何かに例えようと考えたが、なかなかむずかしいので考えるのをやめた。

それくらいにやさしい味であるということにした。

大阪で独り住まいの次女だけが、とろとろ卵の親子丼を選び、残りの加賀の国内灘村からのお上り三人組はきつねうどんを食った。

何気なく、次女の日頃の食料事情について思う……

******************************

再び清滝川沿いの道に下り、しばらくして西明寺への急坂を上る。

この急坂はかなりな角度である。

またしても家人の不安そうな顔に悩まされるが、ここは行くしかない。

あとで分かったのだが、最初に通り過ぎた分岐の道から上がるのが正しいアプローチらしかった。

だましだまし、いややさしく励ましながら、何とか急坂を上った。

想像していたよりも距離は短かった。

西明寺

西明寺は空海の弟子によって、9世紀の初め神護寺の別院として創建されたとある。

その後鎌倉時代に独立した寺になったらしい。

それほどの広さは感じないが、ここでも山里の空気感が存在感を高めている。

苔むした灯篭が並び、その上にふわりと乗っかった葉っぱたちが、どこか子供たちの無邪気に遊ぶ姿のようにも見えてくる。

灯篭に紅葉西明寺の下り

本堂にある釈迦如来さんたちは重要文化財であった。

本来の参道を逆に下って、現世とあの世との境目になるという橋を渡った。

この手の橋はよく渡っているので、何度もあの世に行ってきたことになるが、あの世の印象は全く残っていない。

茶屋のトイレを借りるかどうか、家族内でしばらく検討の時間があったが、まだ大丈夫ということで、もうひとつの目的地・高山寺へと向かう。

周山街道に戻って、さらに奥へと歩く。

少しずつヒトの数が減っていくのが分かる。

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高山寺石碑高山寺入り口

高山寺は「こうざんじ」や「こうさんじ」と呼ぶのだそうだ。

平安時代から山岳信仰の小さな寺が存在していたらしいが、鎌倉時代の明恵という僧によって開かれたとある。

街道から脇に登り始めた頃から、その凄さが予感できる空気感だ。

なぜか妙に懐かしさに駆られる。

参道に立つと、森の深さが静寂のためのエネルギーを醸し出しているのが分かる。

敷石

みな、声を落として話している。

しつこいが、境内は森の中であり、われわれが歩いている道は、その森の空気によって守られてきた聖なる道なのだ(と、神妙な思いが生まれた)。

どこかで味わった空気感だと何度も試みるが、やはり思い出せない。

家人に聞いたりもするが、知らないと言う。

その空気感は、ずっと若い頃に感じたものだったのかも知れなかった。

娘たちも、この空気感が気に入っている様子だった。

高山寺下石段高山寺

金堂への高い石段を上り、またその石段を下って、聖なる道を進む。

グッと現実に戻って、トイレにも立ち寄る。

そして、国宝の石水院へと足を向けた。

予習資料には、ここに置かれてある善財童子の像が美しく紹介されていた。

京都国立博物館で鳥獣戯画展が開かれていたが、その原本は高山寺所蔵のものだった。

(翌日、最終日のその展覧会行きを予定していたのだが、あまりの混乱に入館はやめにした)

石水院縁側

縁側に腰をおろし、晩秋の山並み風景に目をやるのは、かなりの贅沢さだった。

座敷の展示ケースの中に、申し訳なさそうに展示されていた「鳥獣戯画」も色あせて見えた。

善財童子の像は、屋久杉の床板が張られた“廂(ひさし)の間”に置かれてある。

童子童子2

床板は創建時(鎌倉初期)のものだそうだ。

高雄の山の深さとともに、その文化を生み育て、そして継承してきた人たちの思いの深さも感じる。

周囲の濃淡が続く晩秋の気配に包まれながら、中央に置かれた「善財童子」のシルエットに目を凝らした。

紅、橙、黄…… 石水院を出てからも、圧倒的な色のインタープレイに惑わされていた。

高山寺境内2案内板の屋根

池に紅葉樹間の紅葉

樹木に残った葉っぱたち、地上に落ちた葉っぱたち、その途中の何かの上に乗っかった葉っぱたち、それらが一帯を埋め尽くす彩は“圧倒的”という以外に表現言葉がないと思わせる(もちろん、ボクの場合であるが)。

今日めぐった三つの寺は、「三尾(さんび)の山寺」と言われるらしい。

この辺りが、高雄(高尾/たかお)・槇尾(まきのお)・栂尾(とがのお)と呼ばれるからだ。

たしかに見ごたえ十分な山寺めぐりだと感じた。

視覚だけでなく、カラダ全体が、もちろん精神も含めて、しっかりと充足感に浸れる場所だった。

大した足の疲れもなく、周山街道に戻った。

まだ晩秋の洛北の空は明るい。

歩きながらも、眩しいくらいの美しい大樹に長女がカメラを向けている。

家人と次女は何やら楽しそうに話し合っている。

午後のやや遅い時間。われわれはまた雑踏を求めて、京都市街のど真ん中へと向かった。家族四人で泊まる宿へと………

 

石水院からの紅葉

 

 

 

内灘・私的メッセージ

内灘海岸

内灘といえば、海です。

ただ、さまざまな表情があって、

どれが内灘の海だとは

簡単に言えません。

渚夕陽波白い船

はまなすハマエンドウ

筋雲と海岸uchinada beach

落日砂紋

 

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トーチカ

内灘の海には

ちょっとつらい歴史がありました。

1950年代初めの頃です。

アメリカ軍の砲弾を試射する場所として

内灘の海岸が選ばれてしまったのです。

内灘の人々は、自分たちの“浜”を守ろうと

座り込みをして抵抗しました。

しかし、その甲斐もなく

砲弾は浜に突き刺さり、砂を蹴散らし、

人々を恐れさせたのです。

今は、かすかな残像として

その時代の遺構が立ち尽くしています。

砂浜の枯草

 

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白い波の上の小鳥

内灘の海は今も

たくさんの人たちに愛されています。

内灘の海を見つめながら、

それぞれの時代を振り返る人もいれば、

内灘の海を見つめながら、

それぞれの未来を夢見る人もいます。

多くの人たちが、内灘の海に何かを語りかけ、

内灘の海から、

何かを語りかけられてきたのだと思います。

問いかけも、叫びも、歓びも、

すべてを受け入れてくれる、内灘の海です。

黄金の海井上靖文学碑

 

 

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水面と鳥

河北潟の半分ほどが干拓されるまで、

内灘は文字どおり水域に挟まれた町でした。

その面影は、

今もはっきりと残っています。

そして、大地として生まれ変わった後には、

それまで見ることのなかった美しい風景が、

私たちの目と心を楽しませてくれるようになっています。

美しい風景がまた美しい風景を生み、

今多くの人々が、

その大地に集っています。

西日水田林立麦たちのサンバ

麦の緑2草原3

下流

 

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行くぞ、白獅子

内灘はかつて貧しい村でした。

しかし、もうその貧しさの記憶を

甦らせるものはありません。

古くは加賀の殿様のご加護を

いただいたという神社が砂丘にあり、

その神社がいくつかの変遷を経て

人里に下りたという物語もありました。

大きな遊園地ができ、

電車が走り始めたという出来事もありました。

そして、内灘闘争―。

今、内灘は恵まれた環境の中で

そこに住む人々や

訪れる人々に安らぎを提供しています。

そして、内灘の人々はいつも元気です。

遊園ゲート小浜神社跡と医科大など

浅電が来る朝日の中の遊園地

 

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空が広い

内灘の砂丘台地からは、

遠く北アルプスの山並みから登る朝日も

穏やかに日本海へと沈む

夕陽も見ることができます。

空は360度の広がりを見せ、

青く澄みきった空に浮かぶ雲たちにも

心安らぐ表情があったりします。

空が広いこと……

それは内灘の〝タカラ〞です。

朝霧の河北潟

剣岳・立山薬師岳2

 

 

 

 

 

 

晩秋京旅・圧倒編 その1

永観堂の日差しの中の紅葉

京都の歴史と季節感を、同時に楽しみに行くというのは壮大なプランである。

しかも圧倒的な紅葉の時季に訪ねるというのは、一種の冒険に近い。

京都はすでに人(観光客という種類の)の受け入れに相当な寛容さを持っている都市であるが、訪ねる方からすれば、その度を過ぎた(ような)人の波は簡単に受け入れがたい。

しかし、と言いつつ、いざ京都となると覚悟は決まる。

不思議だが、そこが京都のチカラの証だ。

少し前、「日本に京都があってよかった」というコピーがあったが、ボクは激しく同感している。

出だしで少しカッコつけたが、そんなわけで、一年と一ヶ月ぶりの京都なのであった。

めずらしく、最初の目的地は平安神宮近くの某カフェになっていた。

もちろん家人のリクエストであり、その店の何とかという洋菓子をいただくというので、開店直前の店の前で名前まで書かされ並ぶことになった。

最近はこうした列のできる店がステイタスを持っていて、客を並ばせることを喜びにしているように見えたりする。

「おもてなし」などと片方で言っておきながら、客を長時間待たせるのはどこかおかしいと思うので、ボクは単独の時は絶対にこうした列には加わらない。

ほどなく開店した店でいただいた菓子も珈琲もごくごく普通であった(少なくともボクには)。

この店が最初の目的地となったせい(?)で、近くの南禅寺と永観堂が今回の寺めぐりのスタートになった。

二つの寺とも名前のよく知られた名刹であるが、南禅寺は十年以上行っていないし、永観堂は恥ずかしながら初めてとなる。

クルマは岡崎公園の地下駐車場に入れた。

この平安神宮を含む一帯は、かつて次女が学生時代に参画していた「京都学生の祭典」という、学生の自主イベントとしてはとてつもないスケールのイベント会場になっていて、構造はそれなりに分かっていた。

その時、次女と待ち合わせした店もまだ健在で、スタッフジャンパーを着込み歩道に立っていた次女の姿が思い浮かぶ。

まだまだ幼いもんだと思っていた次女が、初めて逞しく見えた時だった。

南禅寺へ向かう道に、長蛇の列となった客たちを待たせる店がある。

まだ開店まで一時間ほどもあるというのに、歩道は完全に占拠されている。

こんな客たちを受け入れなければならない店側も、味を維持していくのは大変だろうなあと思うが、そんなこと気にしていても始まらない。

動物園の横を通って、川沿いの道を歩き、南禅寺へのアプローチ。

ヒトもクルマも半端ではない。

何とか境内に入って、早速山門に上ろうということになったが、階段もその上の展望台もヒトの波。

上から見下ろしてもヒトの波。紅葉ももちろんそれなりに美しい。

南禅寺山門から

この圧倒的なヒトと紅葉の融合が京都の京都たる所以なのだと、あらためて納得した。

七百年ほどの歴史を持つ南禅寺だが、百年ちょっと前に出来た、ご存じレンガ造りの水道橋の存在が大きい(少なくともボクにとっては)。

あれを見ると、南禅寺に来たなと思う。

水道橋

それに宗教には関係なく、しかも六百年ほどの時代の差があるというのに、水道橋はかなり南禅寺に馴染んでいるなとも思う。

レンガは不思議なチカラを持っているのだ。

南禅院の庭を見て歩いていると、地元人らしき老紳士の「もうピークは過ぎたなあ。この前来た時はもっと凄かった…」という独り言が耳に届いた。

観光客の前で、いくら地元とは言え、このような発言は軽率および無責任だ。

こちらはひたすら楽しんでいるのであるから。

それにしても池に映る紅葉は見事だった。

南禅院

時間の関係で、久しぶりに水道沿いの道を歩けなかったのが残念だったが、また今度ということにして永観堂へと向かう。

 

永観堂は、「禅林寺」という古刹の通称だとある。

今は京都を代表する紅葉の名所として高い人気を誇る。

それゆえ、歴史や宗教文化の遺産に加え、紅葉の凄さが備わったこの永観堂をゆっくりと堪能しようというのは浅はかな考えだ。

ヒトでごった返す総門を抜け、中門(券売所がある)に至るだけにも気合が要る。

人ごみ

あちこちで必要以上に(と思えるほどに)写真を撮りたがる人たちが、塀に体を擦りつけるようにしてカメラを向けている。

しかし、その姿はかなり醜く、アルバイトの俄か係員たちが大声で制止したりしている。

何事も度が過ぎるとよくないのだ。

葉っぱだけ撮るなら、近くの公園でもいいよとアドバイスしたくなる。

さすがに京都を代表する紅葉の名所、境内は圧倒的な混み具合だった。

混み具合も凄いが、やはり紅葉の美しさも凄い。

質的にも量的にも気合が入っている。

永観堂の紅葉

重なり合う部分の深さや、木の大きさなども心に響いてくる。

陽光を透かして見せる美しさなども唸らせるものがある。

ところで、永観堂には季節に関係なく、もうひとつ人々を惹きつけているものがあるのだ。

「みかえり阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来像(重要文化財)だ。

鎌倉時代に作られた仏像だが、写真などで紹介されているイメージからすると、かなり大きな像を想像する。

が、実際は(その小ささに)多少ガッカリさせられる。

家人などはかなりその度合いが強かったらしく、最初にボクが指さした時(不謹慎だが)には信じられないという顔をした。

名前のとおり顔を左横に向けて立つ仏像で、わざわざその方向に拝顔できる場を設けてある。

そこには当然列ができていた。

空に突き上げる紅葉

諸堂めぐりを終えてまた外に出ると、そこは前にも増してのヒトの数(量)。

放生池という紅葉を映す水面に、カメラが無数に向けられている。

日本の今夜のFacebookが、永観堂の紅葉で被い尽くされるのではないかと心配になる。

家人が、わざわざ空いている場所を見つけて手招きしてくれた。

ならばと、こちらもカメラを構えてシャッターを押した。

放生池の紅葉

振り返ると、茶店の広いスペースもヒトでいっぱいだ。

毛氈の敷かれた無数の床几に、ヒトがまた無数に腰掛け、顔を中空に向けている。

紅い葉蔭から差し込む柔らかな陽光に、その顔たちが揺れて見えている。

永観堂には、広い空間がない分、ヒトの密度も高くなっているのかも知れないと思う。

そして、それはちょっと当たっているような気がした。

落葉の黄色

 

十一月の下旬とは思えない、もったいないような日差し。

周辺はクルマが列を作り、その間隙をぬってヒトが動く。

岡崎公園の地下駐車場にクルマを入れたのは、大が三つ付くくらいの正解だった。

次女がイベントをやってくれたおかげだ。

戻ってくる途中には、さっきの店でいまだに長い行列を作っているヒトたちの姿を見た。

せっかく穏やかな晩秋の京都にいながら、他に行くところはないのだろうか?

余計なお世話的に、わざと珍しいものを見るような顔をして通り過ぎてやる。

ここへ来てあらためて分かったのだが、ボクは京都の紅葉を見に来ているのではなく、京都の文化を見に(感じに)来ているのだ。

だから、この行列も、ある意味、京都の文化が成したコトなのだろうと思う。

ずっと昔、都へ上った地方の人たちが、その様子に驚いたであろうヒトの波。

見上げる大きな神社仏閣や、豊かな物品など。

こうしたモノゴトに出会うのが京都の文化の感触のようにも思えてくる。

複雑な思いのまま、今日の宿がある烏丸あたりへ………

 

四角の石2

 

 

 

 

“ I Want MILES ”のとき

we want

一年に数回はこのアルバムを聴く。

最初の「ジャンピエール 」と、最後の「キックス 」だけだが。

この前の休日もそうだった。

何の前兆もなく? 何となくCDを取り出すと、いつものように大きめの音で聴いた。

いつも先に「キックス」を聴く。

イントロから懐かしい気分になってくる。

30年ほど前、このアルバムがNHK-FMのジャズ番組で紹介された時、DJでスイング・ジャーナル編集長だったKK氏が、マイルスの復活を告げた。

70年代中頃から、マイルスは病気療養のため引退状態にあった。

だから、流れてきた「キックス」はKK氏の言葉を裏付けるものだった。

聴きながら熱くなった。

マイルスが、マイルスらしくトランペットを吹いている。

特に、後半(12分あたり)からのソロは痛快だ。

ハイテンポのバックに乗せられながら、マイルスのトランペットが伸び伸びと歌い始める。

マイルスの普通のスタイルからすれば、たいして目新しいわけではないが、それでもその時は嬉しかった……

カラダが前へ前へといく……

マイルスはこのアルバムで、ボクに対して何度目かの“偉大さ”を示した。

今でもマイルスは別格である。

マイルスに初めて感化された時、ボクは15歳の終わり頃で、その5年前(64年)に録音された「フォア&モア 」というライブアルバムに狂っていた。

振り返ってみると、その一年前、FMラジオで、コルトレーンの「マイ フェバリット シングス」(「セルフレスネス」)と、エバンスの「ワルツフォーデビー」を同時に聴き、ジャズへ本格的になだれ込み始めていた。

考えてみれば、両方ともライブ録音だった。

今でもジャズは特にライブ録音(もちろん名演)がいい。

そして、マイルスがセッションやライブ録音によるアルバムのみに移っていったことにも、ボクとしては十分納得できるわけを感じていた。

話を戻す。

「フォア&モア」に狂っていた頃、リアルタイムのマイルスはすでに「ビッチェズ・ブリュー 」(69年)を世に出し、ジャズに新しい息吹を植え付け始めていた。

ボクはそれから何とかリアルタイム(5年先)のマイルスに追い付こうとし、そうすることに成功する。

特に「ビッチェズ・ブリュー」を本気で聴いた時には、かなり感動的な気分になっていた。

そして、「ライブ・イビル」(70年)やその他のアルバムも実に見事だった。

あれはやはり、バックに「ビッチェズ・ブリュー」のメンバーたちが残っていたせいだろう。

(1973年の金沢初コンサートで目の当たりにしたマイルスサウンドには、正直後ずさり……)

「アガルタ 」(75年)や「パンゲア 」(同年同日)にも完璧に納得。

そして、「 We Want MILES 」(81年)だ。

マイルスはトランペット奏者のジャズマンではなく、ミュージシャン、コンポーザーになっていたが、このアルバムで、もう一度トランペット奏者に戻っていた。

しかし…、ボクにとってのマイルスはそこまでだった。

仕方ないが、マイルスもまた年齢と共に衰えていくしかなかった。

ただ、このようなことを語れるのは、ジャズシーンの中でもマイルスしかいなかったとボクは思っている。

別にマイルスのようなやり方をしなくても、ジャズは多くの人たちに愛されてきたのだ。

たとえば、ドルフィーやコルトレーンの寿命がもっと長かったらと考えてみても仕方がない。

60年代の演奏スタイルとして際立っていた彼らの個性は、その後どのように発展していっただろうか。

想像してみるのは楽しいが、当然楽しくない結末もあったかもしれない。

マイルスはたまたま長生きした。

そして、自分がマイルスから離れていったのは、進化や変化や挑戦などといった形容が相応しかったマイルスだったからだ。

ボクにとって「キックス」という曲は、そうしたマイルスとの付き合いの中で、一度だけ体験した救いの一曲だったような気がする。

マイルスについては、いつまでも書ききれないもどかしさがある。

ジャズがとても身近な音楽になっている今だから、なおさら語るのが難しくなってきた。

何だかさびしくて、疲れる話だ……

『島の時間』 赤瀬川原平の粋

 

嶋の時間

赤瀬川原平死すというニュースを、ネット上で知った。

別に個人的な知り合いであるわけではなく、単なる一読者及びファンなのであるが、ネット上で知ったことにちょっと淋しさを感じた。

この人の死はもっとアナログな媒体をとおして知るべきであったと思った。

 

一ヶ月ぶりの東京で、さっきまで神田のジャズの店にいた。

ジャズに詳しくない連中を前に、久しぶりに熱を入れて語っていた。

そして、ホテルで独りになり、赤瀬川原平のことを思い返している。

植草甚一や赤瀬川原平や別役実(まだいそうだが、今は思い浮かばない)は、ボクにとって特別な存在だ。

うまく説明は出来ないが、ボクの中の表舞台ではないところで楽しい時間を提供してくれた人たちだ。

だから、植草甚一の死からはかなりの間を置いたが、赤瀬川原平もいなくなってしまい、自分自身の老い(…そんな大袈裟な感覚ではないが)を思い知らされている。

そして、そんな感傷を蹴飛ばして赤瀬川原平のことを書こうと思ったが、ここは家に帰ってあの人の本の中から、自分がいちばん好きだった『島の時間』という一冊を取り出し再読するのが一番いいという結論に至る………

 

以下の文章は、13年前(2011)の初冬、当時有り余る作文意欲とかすかに降りそそがれたわずかな時間の中で作り上げていた、私的エネルギー追求誌『ヒトビト~雪の便りと第6号』に掲載したものだ。

 

≪ ヒトビト的BOOK REVIEW 『島の時間』赤瀬川原平 ≫

 

…………。今回はまたしてもの赤瀬川原平サンである。いかに筆者が赤瀬川サンを好いているか、あるいは気にしているか、あるいは羨ましく思っているか、その他これで十分理解していただけるだろうと思う。

しかし、最近というか近年というか、赤瀬川サンは本人の意志とは関係なく売れっ子になってしまった気がする。意志というより自覚というべきか、とにかく広範な角度から注目されてしまった。その根源となったのが、ご存じ『老人力』かも知れない。

あの本は誤解されていると筆者は思う。誤解がそのまま通ってしまい、赤瀬川サンのエキスが抜けきったまま世の中を徘徊していったような気がしてならない。出た当初、コソコソと、そしてニタニタと読んでいた純正赤瀬川ファンはガッカリしてしまった。

ボクの中では、赤瀬川サンは90年代始め、もしくは80年代の終わりあたりから変わったのだという感じがある。本当に前衛芸術家らしかった頃のものは正直こっちもキツネにつままれたようで、こんな本読んでいてオレ大丈夫かなって気にもなったもんだ。だから露骨に一線を引いた状態で読んでいたところもある。

しかし、路上観察あたりから赤瀬川サンはボクの味方になった。安心して人前で読めるようになった。そうなるとトコトン付いていける。安心は大きなパートナー。一旦信じ込むと赤瀬川サンの魅力は一気に膨らんだ。特に面白いのが連載もの。とにかく赤瀬川サンには連載ものがそのまま本になったというやつが多くて、そういうものの中に魅力がカッ詰まっているのである。自分の身の回りにある、ちょっとした専門誌などに目を透してみてほしい。ふと赤瀬川サンのミニエッセイに出会えるかも知れない。

 

たとえば、赤瀬川サンの表現は心憎いほどの「平坦さ」でもって、ぐぐっと迫ってきたりする。これが分かるには年季が要る。ここで敢えて文字にしている自分自身もいやになる。ただの年季ではない。少なくとも落語や漫才の笑いを知らない人間には伝わらないかも知れない。ボケがいかに知的な演出の上に成り立っているか… いやそんなことも敢えて文字にするのは無意味だ。

だから敢えて、ここは『島の時間』なのである。

しかもこの本、九州博多の某デパートの会員誌に連載していたものを平凡社がまとめたという「平坦さ」でもって、そのタイトルも、本人のあとがきでは「本にまとめる時に苦しまぎれにポンとつけた名前…」というぐらいに凄いのである。これが赤瀬川サンのエキスの一部。

さらに解説(そんなお堅いものではなく、これもまた愉しいエッセイだが)には、あの、ねじめ正一氏が登場し、「もうひとつのお天道さま」と題して赤瀬川サンのエキスを語っている。 (注:ちなみに赤瀬川サンにとっての本命のお天道様は、長嶋茂雄だったのだ)

「どこにも力がはいっていない。常態のままである。常態人間。……見ているだけでのどかな気分にさせてくれる。」

まさに赤瀬川サンのそのまま原寸大写実描写ではないか。そういえば、ねじめ氏は南伸坊氏も含めた三人の対談集『こいつらが日本語をダメにした』とかいう本の一員だったな。

 

ということで、この本は沖縄周辺の島々をめぐって書かれた紀行エッセイである。たぶん旅行雑誌などで十分に紹介された所ばかりであろうが、赤瀬川サンならではの目と耳と鼻と肌と舌などによって楽しい世界が表現されていく。観光キャンペーン用に使えるかというと、ほとんど向いていない。

一見(読)、例えば「種子島」の章のように司馬遼太郎の『街道をゆく』っぽく感じるところもあったりするが、鉄砲の話がロケットの話になったあたりからおかしくなってきて、読んでいる当方としては妙に嬉しくなったりする。それはこうだ。

「アメリカのロケットは垂直にしっかり立てて、どーんと垂直に昇っていく。それが日本のは斜めで、ちょっとコソコソと昇っていくみたいで、こんなことはロケット関係者にとっては的外れなことだろうが、何となく幼稚っぽい感じがしていた。

こんど種子島の宇宙センターに行ってみると、巨大な発射台はちゃんと垂直に立っている。ああ日本もとうとう垂直のところまできたか、という感慨をもった。もちろん専門家に聞いてみると、打ち上げる衛星の軌道とか種類によって垂直や斜めがあるらしくて、別にそれがステイタスに関わる問題ではないという。まあそれはそうだろうが、一般国民としてはやはり堂々と垂直に、という思いがあるのである。

垂直がなぜ堂々なんだ。と問い詰められても答えに窮するけれど、とにかくそんな感じがするじゃありませんか。」

愉しいなア………

冥福を祈る。

 

 

二冊のうちの一冊を閉じて

二冊の本

眠気と闘いながら本屋で本を選ぶというのは実にきつい作業だ。

ただ漠然と本棚の前に立ち、タイトルと作家の名前を見比べながら、少しでも興味が湧きそうな本がないかと目を這わせる。

こんな場合、ほとんどは平積みになった表紙の見える本に目が集中し、背表紙しか見せていない棚の中の本には、目が行っても神経は届かない。

しかも、もともと探している本などなく、行き当たりばったりで選ぼうとしているのだから、平積みの本にさえも集中力はそれほど高くはならない。

ましてや、今は眠いのだ。

二冊で千円ちょっとという文庫を買ったのは、ほとんど居直り型衝動買いといってよかった。

早く帰りたかったのだ。だったら、真っ直ぐ帰ればいいのに…なのだが。

クルマに戻って、二冊の本をそれぞれ開いてみるが、それほど興味深いというほどのものではないことにあらためて納得した。

特に一冊はカンペキにそうだった。

大正生まれで文章表現が実に巧みと言われる某作家の作品だ。

当然知ってはいたが、初体験である。

その本をなぜ買ったのかというと、いつもの気まぐれで、巧みな表現と言われる文章を機械的に読んでみようという思いからだ。

かつて活字中毒という言葉が流行ったが、その菌に侵されていた頃はどんな本でも、読んでいれば何事も知識や思いや考え方や表現などに繋がっていき楽しかった。

まあ、世の中そのものが楽しかったのだ。

しかし、今は違う。

世の中が、少なくとも自分の周辺がそれほど楽しくないから、せめて本には楽しいことを期待する。

いや、楽しくなくてもいい。

日常から離れて、どうでもいいような話にのめり込んだり、何か小さな発見や納得みたいなものを得ることが出来たらいい。

この本に求めた小さな納得は、文章表現の巧みさの実感だった。

こっちを先にしようと、その夜から読み始めた。

機械的に読んだ。感情にほとんど動きが生じないまま読み進んだ。

そして、短編の一話を読み終えた時思った……もう読むのはやめようと。

文章表現の巧みさだけでは、やはり楽しくなかった。

やはり今自分に当てはめた時の何かが足りない。

 

もう一冊の方は、よく読んできた作家の作品だ。

そう言えば、この間またN賞を逃した。

全くのなんとなく的意見だが、この人にはN賞は似合わないような気がしている。

受賞できればそれなりに凄いことだが、この人の文章はN賞ッぽくないような気がしてならない。

そもそもN賞っぽいとは何かと言われても巧く言えないし、いい加減なことは言えないが、この作家はそういうものと一線を引くところにいるということがいいのだと思っている。

いろいろあるが、これ以上書くとボロが出そうだ。

この人の場合、新作はまったく読んでいない。

どちらかというと、小説よりもエッセイの方が好きで、小説も若い頃のモノしか読んでいない。

ただ、だいたい雰囲気は熟知しているつもりなので、こちらは安心して相対することができる。

この本も同時進行で読み始めた。

相変わらずの、淡々とした、そして軽快な文体で行が進んでいく。

このスピード感は文章読みの楽しさの大きな要素であると思う。

もちろん、スピード感は軽快さだけではない。

スローというスピード感もいい。

問題は、心地いいかだ。

文章の中の時空の流れなどと、文章そのものとが一体化して伝わってくるものは、とにかく心地いい。

だから、話がややこしくなってきても、何となく読み続けようとしてしまう。

ここを乗り越えれば、また話は面白くなるだろうと勝手に思い込む。

そんなわけで、先の一冊は途中棄権し、この一冊に集中することにした。

読み進むと、やはりサイクルが合ってくる。

音楽で言えば、適度に転調していくように、話題がスムーズに移動してモチベーションが新しく作り出されていく……

この作家の文章から離れていくきっかけとなったある小説のことを思い出す。

あれはなんと、昔会社の女の子の バレンタインデー・プレゼントでもらった一冊だった。

ああいうのを本命というのかどうか知らないが、ああいうプレゼントは最高に嬉しくなるものだ。

ちょうど新作が出て、ボクがその本を買おうとしているのを知ってくれてたんだろう。

しかし、あの小説は面白くなかった。

ボクにはなんとなく、書くのに飽きていたのか、もしくは行き詰まっていたのかと思わせる内容だった。

読者というのも、自分勝手でいい加減なものだ。

この作家と出会う前の話だが、ジャズと映画と本の話を自由気ままに書き綴る某氏の本に傾倒していた時代がある。

主に東京にいた頃だ。

いろいろなモノゴトを吸収したが、その頃に文章の読み方としての心地よさみたいなものを知ったような気がする。

その頃から自分も好きなことを好きなように文章にしていいいのだなあと思い始めた。

ただ才能が凡庸だっただけだ。

その頃のような、見境なしの濫読時代は二度と訪れないだろう。

しかも今は仕事の上での読み物たちが周囲で自分を見張っているような状況でもある。

だから、せめて趣味の世界では、無理してややこしい本は手にしないようにしていこうと思う。

書くことも、ゆったりと構えていけばいい。

二冊のうちの一冊を閉じて、心地よさを取り戻し、とりあえず気が楽になった………

 

18年ぶり父娘山行の反省

おねえと剣岳

還暦山行…… どこかでこんな言葉を聞いたことがあると思ったのは、その山行から帰って三日後だ。

行く前は、そんなことなど考えてもいなかった。

しかし、久しぶりの山行でズタズタになって下山してきたことを思った時、自分の年齢を考えた。

そして気が付いた時には、自分が60歳であり、一般的に還暦であって、そんな自分が登山をするのであるから、これはもう還暦山行で間違いないと思うしかなかったのだ。

何だかいきなり初老の無気力オトッツァンの書く文章みたいになってしまったが、とにかく、そういうところから話を始めるしかない……

 

今から18年前の夏休み、翌日9歳の誕生日を迎えるという長女を連れ、北アルプス薬師岳へとつながる登山口・折立にボクはいた。

未明に石川県内灘の自宅を出て、一気に折立まで来ていた。

幼い頃からとにかく足が強かった長女は、まだ幼稚園に入る前に夏のスキー場の斜面を一気に登って行ったり、一輪車なども自由に乗りこなした。

小1の時には長距離走で2位に入るなど、そのパワーの凄さを見せつけていた。

山へ連れて行きたいという思いも、すでに早いうちから持っていた。

どうして9歳になろうという時にしたのかというと、その年の誕生日が月曜日で、日月で登山ができるめぐり合わせだったからだ。

ボクは月曜日を休みにし、少しでも小屋の混み具合が緩むと思われる日曜日に小屋泊まりの予約をした。

その頃、すでに薬師岳登山のベースとなる太郎平小屋の五十嶋博文マスターと親しくさせていただいており、それがあって気持ち的には楽だったのだ。

日帰り用の小さなリュックを背負った長女は、ボクの想像したとおり、全く弱音を吐かないまま黙々と最初の樹林帯を登った。

飴を持たせていて、自分でそれを取り出しては口にし、いつも口をモグモグさせながら歩いていた。

「アラレちゃん」の看板が目印となっている最初の休憩場所でも、長女は疲れた表情ひとつ見せず、カメラを向けると照れ臭そうに笑った。

樹林帯を抜けて太郎小屋までの登山道は、長女にとって単調なだけだったかも知れない。

ボクは気が付かなかったが、やはりまだ美しい山岳風景に感激するといった感じではなかったのだろう。

石が敷かれた登山道の、その石を囲うためにある角材の上を長女は楽しいのかどうなのか、こちらには分からないまま歩いていた。

石の上を歩いたほうがいいよと言っても、こっちの方が歩きやすいと長女は答えた。

左手には、明日登る薬師岳の美しい稜線が見えている。

天気は全く心配なかった。

太郎小屋に着くと、マスターが「おお、来たか」といつもの笑顔で迎えてくれた。

ボクたちは二階の山岳警備隊の向かい側にある個室にお世話になった。

ボクも初めて使わせてもらう部屋で、二人で使うには勿体くらいの広さだった。

日曜ではあっても、やはり夏休みだ。

夕食が数回に分けられるなど、混み具合はさすがだ。

マスターから夕食はスタッフと一緒にと言われていたので、長女は少し腹を減らしていたみたいだったが、ボクたちは客の食事が終わるのを待った。

山の夕食時間は早い。バイトさんに呼ばれて一階の食堂へと向かう。

奥の窓際のテーブルに皆が勢ぞろいしている。

正直言って、夕食は何を食べたのか、ビール以外は覚えていない。

長女はカンペキに緊張していた。

マスターが大きな握り飯を、モルツの500mlと一緒に食べていた。

その横で本当に小さい長女が、静かに箸を動かしていた……

 

部屋の窓からは、自分でもそれまで目にしたことがないほどの星空が見えていた。

窓辺に長女を呼んだが、しばらく見上げていただけですぐに部屋の布団の上へ。

持ってきた夏休みの宿題?を広げ始める。

そして、それが終わると、ゲーム。

何を話したのか、何を思ったのか覚えていない。

ただ、時間が過ぎていき小屋の明かりが消えた……

 

翌朝、つまり長女の9回目の誕生日の朝、マスターが貸してくれたナップザックに防寒具などを入れて、小屋を出発した。

6時半頃だろうか。

テント場を過ぎた岩場の急登に少し緊張したみたいだったが、小さな流れを渡る時には楽しそうにも見えた。

薬師平では、遠くに槍ヶ岳が見えていた。

長女はその奥へと足を進め、目の前に広がった雄大な風景に見入っているようすだ。

ガレ場の登りが続くが、長女はしっかりとボクについて来る。

途中の薬師岳山荘で水分補給をし、その上のジグザグ登行に備えて上着を着せる。

ここからは吹きさらしの稜線歩きだ。

単調にジグザグを繰り返すと、いよいよ頂上への最後のアプローチ。

岩がごろごろする子供には少し危険な場所もあるが、特に気を遣わせることもなく進んだ。

そして、もう頂上まで残りわずかというところで、長女に前を歩けと告げた。

全く問題ないように長女はボクの前に立ち、そのままどんどん歩いて行く。

その姿を見て、やはりボクも親バカになってしまった。

目頭が熱くなってくるのだ。

そして、ついに登頂。

直前に擦れ違ったパーティの女性から、「凄いねえ、何歳?」と問われ、今日が9歳の誕生日であることを告げると、そのパーティはわざわざ引き返して、ボクたちを、いや長女を祝福してくれた。

ただ長女は、自分が男の子と間違えられたことに釈然としない顔をしている。

そう言えば、マスターも最初、男の子やったっけ?と聞いてきた。

 

太郎小屋に戻ったのは昼少し前。

長女は眠いのだろう、小屋の前のベンチに寝そべっている。

またマスターはじめ、スタッフたちと昼食をとり、マスターから記念のバッヂをもらい、小屋前でマスターとお世話してくれたバイトの女の子と一緒に記念撮影。

午後になって、下山を始めた。快調な足取りだった。

 

18年後、27歳になった長女との二度目の山行が実現した。

ボクは少なくとも5年以上は、本格的な山から遠ざかり、靴なども傷んだままにしていた。

長女との山行を決めてから、生涯で4足目の山靴を買った。

しかし、カラダの準備はほとんどしていなかったと言わざるを得ない。

スポーツセンターで、マシーンの角度を最大限にして歩行訓練などをしていたが、3000m級はそんなに甘くはなかった。

今回の薬師岳山行で、自分の肉体的な弱さを実感した。

登りはまだしも、下りでは全く歯が立たなくなっていた。

かつてはコースタイムの半分近い時間で歩いていたといっても、それは今の長女の話になっていた。

ボクは太郎小屋からの下山道で、ガレ場で踏ん張れなくなり、樹林帯の下りでは、大きな木の根っこのある段差を下りることができなくなっていた。

二度も転んだ。膝が崩れたと言った方がいい。

最後は、長女がボクの重いリュックを前で担ぎ、ふたつのリュックを持っての下山となったのだ。

薄暗くなった樹林帯の下りは、正直言って焦った。

そんな時には、また熊のことなども考えたりして冷静さも欠く。

下山のコースタイムを一時間もオーバーして、折立に戻ったのは午後5時過ぎ。

クルマも長女が運転して、夕闇の迫る有峰の谷間を下った。

 

長女には申し訳ない山行だった。

思い出の薬師岳であったのに、最後にはつらい思いをさせてしまった。

そういう結果を招いた父親の責任は重大である。

ただ、少しの救いは、太郎小屋の前でいただいた生ビールの美味さや、そのあと好天の中で楽しむことができた美しい山岳景観など、長女も北アルプスを大いに楽しんでくれただろうという思いだ。

そして、もう一度、なまったカラダを鍛え直すことにした。

リベンジは来年夏の山行。それまでにもスキーではない春山行もあるだろう…?

長女にもう一度、強い父親を見せない限り、リベンジはあり得ない。

もう二週間ほどが過ぎたし、そろそろ山靴の汚れなど落とさねば。

当然、長女の靴も父がしなければならないと思っている……・

薬師岳

薬師平

太郎山の道1

頂上から槍

 

音楽はそれなりの音で聴く

21美のラッパ

珈琲屋さんで、小うるさいオッカさんたち、いや、賑やかなご婦人たちと隣席になった時などには、潔くイヤホンで音楽を聴く。

本を読んだり、考え事をする程度なら少しは我慢するが、仕事の書類を作ったり、私的に文章を書いていたりする場合は、カンペキに耳の穴をふさぐことにしている。

この前も、運悪くそれなりの四人組が横に座り、株の話かなんかで盛り上がってしまった。

その中の一人(いちばん派手な)が株で当てたらしく、まるで人生に勝ち誇ったような口ぶりなのだ。

他の三人に、夢を叶えるには、ずっと毎日夢を描いていなければダメなのよと、いかにも成金的雰囲気丸出しでけしかけている。

そのあたりまで、くっきりスッキリと耳に届いてきて、ついにイヤホンを取り出すことにした。

こういう時はデヴィッド・マレーでも聴くのがいいと思ったが、一週間ほど前に中身を入れ替えていて、それなりに優しい音楽ばかりにライブラリーが変わっている。

仕方なく、残っていたロイ・ヘインズ・トリオをと思い、いつもより少し音量を上げて聴きはじめる。

そして、にわかに嬉しくなった。

それは、ご婦人たちの声が聞こえなくなったからだけではなく、久々に聴いたR・H3の演奏が実に良かったからだ。

そして、音量を上げて聴くというのは、音楽を聴く上でとても重要なことなのだというのを思い出した。

ジャズ喫茶の大音量に耳が慣れていた時代、音を聴いているという感覚よりも、音に包まれているといった感覚が強かったような気がする。

ハイテンポのスティックに弾かれるシンバルの微動、ベースの弦のしなり、スネアに叩きつけられるブラシの抑制された躍動感など、あげれば切りがないくらいの音的感動があった。

音楽イベントをいくつか企画運営したが、その中でいつも思ったのが、大きくて鮮明な音で音楽を聴くことの大切さだった。

金沢芸術村での音楽イベントで、ある著名な音楽関係者の方とトークセッションをすることになり、ステージに上がっていただく前、ツェッペリンの『胸いっぱいの愛』をかけた。

スーパー・オーディオで再生するのであるから、音としての質的な意味では、生で聴いているよりは鮮明に響いていたはずだった。

そして、ステージに上がったその方はこう言った。

「この曲には、パーカッションが入ってたんですね…」

プロでもこういうことがある。

ましてや、普通の人たちにとって、こういうことはごくごく日常的な感覚でしかない。

言うまでもなく、ツェッペリンは四人組のロックバンド。

ギター、ベース、ドラムにボーカル。基本的にパーカッションは入っていない。

だから、先入観が働けば聴こえなくても仕方ない。

しかし、音の厚みなどをこのパーカッションが担っていたのは間違いのない事実だった。

だからどうなのだ?と言われても困るが、一応そういうことなので、出来れば音楽は大きい音で聴いた方がいいよということなのである。

ボクが46年程聴いてきたジャズは個性を大切にする音楽である。

つまり、演奏メンバーが誰であるかということを重視する。

それは演奏者の個性を大切にしているからであり、ジャズは個性の集まりによって創られるということを、大切な楽しみ方の要素にしている音楽なのだと思う(表現が難解?)。

だから、ベースは誰だ?とか、ドラムは誰?などといったことが知りたくなる。

この人のベースの方が、あの人のベースより好きだとか、このグループに合っているといった感覚が生まれる。

昔、金沢片町の某ジャズ喫茶で、そこのマスターがこう言った。

「音楽は大きな音で聴いてあげないと、ミュージシャンに失礼だよ。少なくとも、生で聴いているくらいの音量で聴いてあげないとねえ………」

誰かも言っていたが、録音の技術がなかった時代には、音楽はすべて生だった。

レコードやCDが出来てオーディオが発達して、当たり前のように自分自身で音量を調節出来るようになった。

BGMといった音楽も生まれたし、自分自身もそれ系のものにお世話になることも多い。

珈琲屋さんで隣席となった賑やかご婦人たちの話から大きく脱線して、音楽はそれなりの音量で聴くべし的話題へと移行したが、書いている自分自身もそれなりに納得した内容となってきた(ホントは尽きてきた)ので、ここらへんでやめておこうと思う……

布橋とプモリと芦峅寺と

布橋1

めずらしく家人が立山山麓へ行こうと言ってくれた。

当然二つ返事どころか、四つか五つほど返事して行くことになった。

当方にとっても、ふらりと行きたいところ・不動のベスト3ぐらいには入っているので、行かないわけがない。

それに9月の休日も、ほとんどどこへも出かけられない下品さだった。

立山山麓には山関係を中心に、いろいろと知り合いも多い。

天気は最高。非の打ちどころのないカンペキな初秋の青空である。

目的となる場所を細かく言うと、立山博物館から遥望館という施設に向かう途中の「布橋」。

布とあるが、アーチ型の木橋だ。

数日前、「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」という行事をテレビで見た家人が、是非その布橋に立ってみたいと言ったのである。

布橋灌頂会とは、かつて立山へ入山が禁じられていた女人たちのためにと営まれてきた儀式で、布橋はこの世とあの世の境界になるという。

そんな橋の上に立つのであるから、それなりにしっかりと考えてから行く必要があったが、当然そんなことはなかった。

もう四度目となる立山博物館に、まず立ち寄った。

ここから遥望館に向かえば、否応なく布橋を通ることになる。

それが自分にとっての常道?でもあった。

ところが、受付嬢さんが言うには、遥望館の映像が始まるまでに時間がない。

今からすぐクルマで「まんだら遊園」に向かい、そこの駐車場から遥望館へ向かえば上映時間に間に合うというのだ。

緊急の決断が求められた。

遥望館の映像は、今を見逃すと数時間後になる。今しかない。

彼女の目はそう訴えていた。

その目に家人は負けた。

正直言って、ボクはもう何度も見ているので、今見なくてはならないといった緊急性はない。

たしか、家人も一度見ているはずである。

ただ、もう何年も過ぎているから、ひょっとして映像が新調されているかも知れない。

そのことに期待することとした。

われわれは再びクルマに戻り、800メートルほど走って「まんだら遊園」の第1駐車場に入った。

そこから“熊の目撃情報あり…”の看板を横目に歩いた。

遥望館の裏側に辿り着くと、すぐに入館。立山博物館とまんだら遊園も含めた共通チケットを購入した。

正面に回っていたが、布橋の存在には気が付いていない。

予想どおり? 映像はほとんど変わっていなかった。

畳の上に腰を下ろして見るシステムは同じで、上映終了後に壁が開放され、はるか彼方に立山連峰を望んだ時だけがよかった。

それまで見てきた中で、最も好天に恵まれていたせいだろう。

遥望館

 

トイレを済ませて、「まんだら遊園」に入り散策。

この施設はかなり難解ながらも、体感的には楽しい。

 

まんだらのブリッジ

 

遥望館の映像の上映時間が長く、気が付くと昼時間を過ぎていて空腹である。

このまま立山博物館に戻る気はなく、昼飯を求めて決めていた「プモリ」へと向かった。

ところが、プモリのまわりはクルマで溢れかえり、玄関先にはヒトがいっぱいだ。

恐れていたことが現実となった。

ひとつは、映画『春を背負って』の主人公俳優がテレビで紹介したために、多くの客が訪れているだろうなあという恐れ。

もうひとつは、遥望館で時間を費やし過ぎたことによって、お昼ど真ん中になってしまい、これもまた多くの客でごった返しているだろうなあという恐れだ。

両方共が当たった。見事に。

空腹は耐え難く、われわれはすぐ近くにあり、この間名前を変えてリニューアルされた「ホテル森の風立山」に向かうことにした。

二階にあるレストランで和食の昼飯を食った。

ついでに二階フロアの椅子で軽く昼寝。

うまく時間がつぶれて、再び「プモリ」へ。時計は2時を回っていた。

こうなったら、プモリでのんびり美味しいコーヒーをいただく。

久しぶりだ。オーナーのHさんとも長いこと顔を合わせていない。

覚えていてくれるかも半信半疑だ。

予想どおり、さっきのランチ族は退去し、わずかに二組ほどの客がいただけだった。

ケーキセット、つまりケーキにコーヒーが付いたものをオーダーすると、美味しいチーズケーキとチョコレートケーキが出てきて満足した。

家人はチーズケーキはワタシのよと言っていたが、チョコレートの方も気に入ったらしく、最終的にはほぼ半々くらいの分配となったのである。

プモリのテーブルと窓

砂糖入れ

 

相変わらず店の空気感が素晴らしく、オーナー夫妻の心づくしが至る所に息づいている。

もう二十年ほどになるだろうか、Hさんとは地元である旧大山町の仕事の関係で知り合った。

中身はややこしいので省略するが、町の観光に関わる人たちから意見を聞かせてもらう会をつくり、当時、憧れの人であった太郎平小屋のIさんを中心にして活動した。

その会に、Iさんの推薦で入っていただいたのがHさんだったのだ。

帰り際、厨房にいるHさんの顔が見たくて声をかけると、ああ~と久しぶりの再会を喜んでくれたみたいだった。

実を言うと、最近クマと遭遇し、その時に大ケガを負ったという話を聞いていた。

そのことを聞くと、まだ後遺症が残っているとHさんは笑いながら話してくれた。

Hさんと話ができたことで、満足度は二十倍くらい大きくなった。

真昼間の大忙しタイムに来ていたら、話どころか挨拶もできなかっただろう。

大事にしてください…また来ます。と、お二人に声をかけ店を出る。

名物カレーとの再会は果たせなかったが、また楽しみが続くだけだ。

外にも夫妻の大事にしてきた庭があり、そこも覗いてきた……

プモリの庭の花

プモリの庭

 

グッと下って立山博物館駐車場に戻る。そのままお目当ての布橋へと歩いた。

懐かしいTさんのギャラリーの前を通り、坂道を下る。

ほどなく前方に布橋。そのはるか彼方に、立山連峰が秋らしい装いで控えていた。

先にも書いたが、布橋はこの世とあの世の境界。

その下にほとんどせせらぎしか聞こえないほどの小さな流れがある。

その“うば堂川”が三途の川なのだそうだ。

布橋タイトル

明治初めの廃仏毀釈によって消滅したが、布橋灌頂会には白装束に目隠しをした女性たちがこの布橋を渡った。

その奥にある“うば堂”でお参りした後、もう一度布橋を渡って戻ってくると、極楽浄土に行けるということだった。

この儀式は平成8年、138年ぶりに再現された。その後も今年を含めて数回再現されている。

いつだったか忘れたが、一度だけ偶然見た記憶があるが、よく覚えてはいない。

橋の頂点よりやや下の位置から見上げると、立山連峰とのバランスがよく、清々しい心持ちになる。

家人も落ち着いた空気感に満足しているようだ。

ここまで来るにはかなりの曲折?があったが、久しぶりに来てみて充足感は高まった。

帰り道には石仏が並ぶ短い石段を上り、木洩れ日と、石仏一体一体に添えられた素朴な花たちに癒される。

石仏坂

上り切ったところにある閻魔堂で、閻魔さまにお参りすることも忘れなかった。

これで少しは死後の極楽行きに光が差し込んだかもしれない。

立山博物館もすでに歳月が経ち、中の展示はかなり冷めた感覚で見てしまった。

それよりも、その両隣にある「教算坊」というかつての宿坊の庭や、芦峅雄山神社の杉林を歩く方が印象深かった。

教算坊

立山大宮

すでに陽は西に傾いているはずだが、まだ木洩れ日には強い力が残っている。

芦峅雄山神社の鳥居まで戻り、振り返って一礼。

今日一日の締めくくりらしい場所だなと、ふと思った。

立山山麓には自分なりに好きな場所が多くあるが、今日のように家人と一緒でなければ、その魅力を再確認できなかったかも知れない。

そんなことを思いながら、楽しい一日が終わろうとしていたのだ……

 

ある古い洋風の家

袋町の洋館だ

子供の頃、この家に友だちがいて、中で遊んどったことがあるよ……

近所にお住まいの、七十才を過ぎたある方がそう言った。

板壁の塗装は褪色し、木肌も傷み、窓の飾りもいくつか朽ち落ちている。

何よりも傾きが気になると、その方は屋根を見上げていた。

ある著名な作家さんも、偶然この家を見つけて、何とか残して活かせればいいと言ったそうだ。

かつて金沢の街並みを取材する仕事で、このような洋風の家がいくつも残っていることを知った。

しかし、歴史と絡んだテーマが主であったから、あまり大きく取り上げられなかった。

この家もそのひとつだ。

あの時よりも、はるかに傷みはひどくなっていた。

今から思えば、町家もいいが、こんな洋風の家も捨てがたい。

私的感覚で言えば、無理して畳の上でジャズをやっているより、フローリングの床でやってくれる方がいいように、このような建物には新たなそれらしい使い道を見つけてやるべきなのだろう。

いろいろと課題もあるだろうが、まずは柔軟に、普通に、当たり前に思い描くのがいいのかもしれない。

ボクもその方も、かなり大雑把な方なのでこれ以上は言わない。

隣りにある、江戸時代の建物を補強したという古風で小さな店の二階で、お昼ご飯をいただいた後、一部に陽の当たった洋風の家の前で、その方と長く立ち話をした。

話はこの建物から始まって、京都の町家の方向へと流れた。

そして、もう一度この家の話に戻り、ではまた…ということになった。

狭い路地に、秋の風が一筋、二筋と吹いていたのだ………

袋町の洋館

 

 

 

山の空と妄想と

山の雲

今でも山を見ていると、不思議と永遠な何かを思ったりする。

山は空に繋がっているからだと思っている。

空にある雲も同じだ。

雲はそんな空に浮かんでいたり、空を流れていたりするからだろう。

昔のメモを見ながら書く……

かなり前のことだが、北アルプス奥黒部の山々を見渡せる場所で、岩の上に寝っころがり空を見ていた。

午後の空は、青が一層濃くなったように感じられ、わずかに浮かんでいた雲たちもどこか遠慮しがちだった。

しかし、時間がたつにつれ、その雲たちの存在がぽつんぽつんと空に広がり始めた。

気が付くと、自分より少しだけ高い位置で、並びながら静かに浮かんでいるようになった。

そして、その様子を見続けていると、なぜか激しい無力感に襲われ始めたのだ。

それは自分の中で、死後の世界のようなものに繋がっていた。

そして、西日が薄く広がってくると、あまりにもその気配が強くなりすぎ、息苦しささえ感じるようになってきた。

空の上に、また空がある。

その空はもうどこまでも続く空で、下界で見ていた空とは違った。

雲の上にも、また雲がある。さらに、その上にも。

宇宙が昼間の状態で明るく広がっているのだ。

実際はそうではないことも知っているつもりだが、その昼間の宇宙が永遠という感覚を煽っている。

そして、自分はその昼間の宇宙の永遠の中に、ぽっかりと浮かんでいて、二度と戻れない……

ふと、家族のことを思った。

自分が死んでいく時の家族のことだ。

そんなことを思うこと自体で、すでに自分が弱い存在として今あることも感じた。

空を見ていることに耐えられなくなり体を起こすと、空はやや前方に広がり始める。

ダイナミックな稜線が、広い視野の中に戻ってくると少しホッとした。

身体が冷え込み始めていることにも気が付く。

傍らには、空っぽになって握りつぶされたモルツの空き缶とカメラ。

現実に戻ったのかどうか、山にいるから、その感覚もおかしいのだが、とにかく下の山小屋に向かって、来た道を下り始めた………

しばらく行ってない珈琲屋

ブラジル倶楽部

しばらく行っていない珈琲屋さんがある。

JR松任駅から真っ直ぐ。

二つ目の交差点で、カックンと右に曲がったところにある本当に小さな珈琲屋さんだ。

椅子は11脚しかないが、それがまた丁度いい。

知ったかぶりをしているが、三度しか行ったことはない。

二度目の時に、「有機栽培 鈴木さん」という銘柄の珈琲を淹れてもらった。

鈴木さんとは、ブラジルで有機JAS認証コーヒーを生産する有名な人だ。

店ではそのままの名前で豆を販売している。

それがまた新鮮でよかった。

もちろんいい味だったので、100gだけ挽いてもらった。

たしかに家で飲んでも美味しかった。

細長くて狭い店には、金沢美大生の作品などもさり気なく展示されている。

店は飾らない女性主人が切り盛りしているらしく、客はご近所の、ちょっと立ち寄ったという人ばかりのようにも思える。

なかなか四度目に至っていないのは、こっちが慌ただしくしているせいだ。

心地よく過ごせるいい店だと気に入っているから、しばらく顔を出さないでいると余計に行きにくくなる。

こういうことは時折あって、次に行く頃合いがむずかしいのだ。

ただ、夏も終わりかけているし、そろそろ足を運んでもいい頃だと、少し焦り始めているのも事実なのだ………

 

 

金沢湯涌ゲストハウスにて

GH外観

 今年も数日間の旧盆休暇がやってきた。

 我が家では、この時期にちゃんとした連休があるのは自分だけで、あとの家族はみなカレンダーどおりに仕事をしている。

 だから、申し訳ないが休暇期間中のウィークデーは自分一人の時間となるわけだ。

 と言っても、自由を満喫するなどといった余裕があるわけではない。

 初日は、先日在庫切れとなった山の水を補充にと、いつもの湯涌までやって来た。

 夏なので大量に持って帰っても保存が大変なので、今は40リットルほどを汲んで帰る。

 気候が涼しくなれば、その倍くらいは汲む。

 かなり蒸し暑かったが、水を汲んでいる時は涼感たっぷりで爽快である。

 最後にいただく一杯も、相変わらずいい味だった。

 湯涌まで来れば、当然「湯涌ゲストハウス」に立ち寄り、番頭さんのA立クンと語らって行くことになる。

 あらかじめ連絡を入れておいた。なにしろ多くの関心が集まり、なかなか好調なスタートらしいのだ。

 午後一時近くに行ってみると、すでに泊まり客は帰っていたが、予約なしの飛び込み客が多くて、嬉しいながらも困ったナ的表情をしていた。

 一応自炊だから、食料の仕込みとかは特に必要ないみたいだが、やはり布団を用意したりするなど飛び込みではきついらしい。

 それに今はまだ不慣れな上に、独りでやり繰りしなければならないから大変だろう。

 たぶんこんな状態の中で客数が増えていき、そのうちやり方も安定していくのだろうなあ…などと勝手に思ってしまった。

 忙しいのは、何よりいいことだ。

 聞いていたが、しばらくして地元テレビ局の若いディレクターが来店。

 近々、現場からの中継をやってくれるという話だ。さすがに注目度は高い。

 軽い雰囲気の打ち合わせが始まったので、勝手知ったるなんとか、ボクは購買部の部屋に隠れる。

購買部

 実はこの雑文、その六畳ほどの部屋で書下ろし中なのだ。

 購買部といっても、それらしきものは奥の小さなショーケースにあるカップ麺とオリジナルタオルくらいか。

 やたらとジャズのCDと山関係の本がカッ詰まっていたり、カヌーのパドルなどもあったりで、十分にそれらしくない。

 しかし、そこがこの湯涌ゲストハウスのいいところで、購買部はボクの大好きな空間となっている。

 欲を言えば、イスとテーブル、さらにオーディアがあればと思う。

 床に座って小さなちゃぶ台のようなテーブルに向かうのは、ちょっときつかったりする。

 このような場所は、ある意味いい仕事場にもなる。

 昔、バリバリに現場で頑張っていた頃には、企画書を書き下ろすのにこういう場所をよく使わせてもらった。

 金沢市内にある某ビルの一室では、共同で金(もちろん自前)を出し合い、空いている時にはいつでも使えるというシステムで利用していたことがある。

 ちょっと郊外にある自然の中の展望のいい、そして人が滅多に来ない東屋みたいなところで、涼しい風を受けながらのお仕事タイムもあった。

 怖いのは熊ぐらいで、コーヒーもその場で淹れるという用意周到さだった。

 さすがに今はそんな大胆な?ことはしないが、私的な部分ではまだまだ感覚はそれに近かったりする。

 だから、この湯涌ゲストハウスの存在は重要なのだが、たぶんそのうちゆっくりできなくなるだろう。

 ボクにとっては、泊りよりも休日の昼間にちょっと長めの滞在をさせてもらうというシステムがいい。

 眺望はないが、A立クンが淹れてくれるコーヒーも美味いし、ジャズも聴こえてくるし、至れり尽くせりなのである。もちろん有料だ。

 ところで、まだ整理できていないまま書いてしまうが、この湯涌ゲストハウスの個性というのは土地柄はもちろん、A立クンというニンゲンの存在にかかっているような気がしている。

 前にも書いたが、湯涌は「山里の農村」なのである。そして、今風に言えば「里山の遊び場」なのでもある。

 街なかのゲストハウスとの違いを明確にしていけば、自然遊びにも通じたA立クンのチカラははますます発揮されていくだろう。

 もちろん歴史があり温泉があるが、音楽や文学や、その他趣味・雑学の話題にも事欠かないゲストハウスがいい。

 そんなゲストハウスになってくれたらいいなあ…と、これも勝手に思っている。

 創作の森も、夢二館も、江戸村も、そして、その他のさまざまな活動団体もあって文化度も低くない。

 表の幕に記されている「Micasa,Tucasa」は、「私の家は、あなたの家」という意味らしい。

 あまり伝わっていないが、これからこのキャッチの意味が活かされていくことだろう。

 打ち合わせはそろそろ終盤に入っているらしく、A立クンの吸うたばこの匂いが漂ってきた。

 そろそろこっちも、体勢に疲れてきたところ。

 コーヒーをもう一杯いただきに、向うへ移ることにする………

幕湯涌ゲスト音

 

 

 

アジフライと、「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」と

マイルス

 店名のわりにはそれほど入り口の戸が大きくないなあと思うある店で、夏メニューだという“アジフライ定食”を食べた。

 実は中学二年の夏頃から、にわかにアジフライ好きになり今日に至っている。

 今は亡き母が、突然アジフライを作るようになった。

 もともとが漁師の家だから、アジなどは簡単に手に入ったのかもしれないが、よく大皿に山のように盛られた小ぶりのアジフライが出てきたものである。

 中学三年の時、野球の試合中にケガをし二ヶ月ほど入院したことがあるが、その時、退院間近になって食欲も出てきた頃の母の差し入れはアジフライだった。

 それも大量に持ってきて、同室のご近所さんたちに配ったりしていた。

 大人になってからも、漁港のある町などで食堂に入ったりすると、アジフライ定食の存在が気になった。

 最近では金沢市内にある小さな大衆食堂と、ちょっと足を伸ばし、県境越えをしたあたりにある某所のアジフライ定食が特に好きだ。

 それで、店名のわりには入り口の戸がそれほど大きくないある店のアジフライなのだが、これもまたそれなりにいい感じだなと思った。おしゃれなアジフライだった。

 ソースがユニークで、洋風と和風の二種類が楽しめるようになっている。

 最初は洋風で食べ始めたが、途中から和風に切り替えると、その新鮮な食感に納得した。夏メニューの意味が理解できた。

 早い話が見た目は大根おろしなのだ。が、味は大根なます。つまり醤油ではなく酢が味の決め手になっている感じだ。

 それをアジフライの上にふわりと乗せて、オオ~ッと、といった具合に口に運ぶ。

 この場合のオオ~ッとは、こぼしちゃいけないという意味で出てくる感じである。

 ただひとつ残念だったことがあった。それは開きのフライでなかったことだ。

 やはりアジフライは、大らかに開かれたシンメトリー的形状のもので、箸にあのふっくら感が伝わってくるものが自分にとっては基本になっている。

 というわけで、待つこと数分で夏のアジフライ定食が届けられた。

 開きでないことでの違和感は拭い去れないが、二種類のソースに興味が移る。

 健康のためにと最近家人からも言われているので、まず“野菜の先食い”からだ。

 そして、ひと切れ目のアジフライを先程の要領で…… 味には十分満足。

 そして、食べ終えた時のことだ。

 店内に流れるBGMが聴覚をじわりと刺激した。一応味覚の後でよかったとも言える。

 やや聴きづらいながらも、懐かしきそのサウンドは鼓膜を震わせカンペキに脳まで伝わってくる。

 マイルスの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」だ。

 最近はどこでもジャズブームで、ジャズを流さないと世間体が悪いのだろうか。

 それはいいとして、あのミュートソロを聴覚で意識しながら、一方で大根なますを乗せたアジフライを、味覚の方でエンジョイする。これはなかなかむずかしい。

 しかも、ほとんど覚えてしまっているメロディラインだから、どんどん先走って脳ミソがソロでハミングしていく。

 気が付くと、アジフライは知らぬ間に(?)二切れ減っていた。

 気を取り直して、最後の一切れに集中したが、やはりうまくいっていない。

 それに、あのクールで研ぎ澄まされたマイルスのミュートソロが終わって、豪放なコルトレーンのテナーに移るあたりで、またしても脳が活性化した。

 そう言えば、マイルスのぐっと抑えたソロのあと、あのアンサンブルはないわナア~と、かつて周辺の偏屈ジャズ通たちは語っていたのだ。そのことが俄かに蘇ってくる。

 マイルスからコルトレーンへのソロの繋ぎ。曲はモンクの名作「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」。

 レッド・ガーランドのピアノがシンプルに響いたあと、ここであのチャッ、チャッ、チャー、チャッ、チャッはなア~なのだ。

 それほどまでに、想定内の、さらにその中心に近いあたりの平凡な展開で、時間がなかったのか、あまり考慮のあとを感じさせない編曲であった……

 そのあたりのところ、もしレコードやCDのない方は、香林坊・ヨークや、尾山町・穆然、柿木畠・もっきりや、さらに湯涌ゲストハウス・自炊部あたりで確かめてもらえればいい。

 ただ、モダンジャズが誕生して15年ほど、これからジャズが一気に音楽性を高めていく時代の歴史的転換期を示す演奏と知れば、それも納得できる。

 演奏は聞けるが、湯涌ゲストハウス・自炊部はもちろん、その他の店にもアジフライがないことは了解しておこう……

 話は戻る。コルトレーンのソロが始まると少し解放感に浸れて、気分的にも肉体的にも楽になったような気がしてきた。

 しかし、せっかくのアジフライが十分に堪能できないまま胃の中へと行ってしまったことで、やや消化不良の感。

 この場合、もしアジフライが開き状態で来ていたら、様子は変わったかも知れないなと振り返る。

 明確にアジフライを意識させ、箸でコロモと身を裂きながらという本来の食べ方の習性が活かされていれば、もう少し集中できたに違いないのだ。

 それに開きの場合には、骨に注意するなどのことも求められるし、集中力はさらに増す。

 気が付くと、またマイルスのソロに戻って、そして静かにゆっくりと演奏は消えていった。

 残されたわずかな味噌汁とお新香と、それにひと掻きほどのご飯をランダムにいただいて、夏のアジフライ定食は終了した。

 ただ、出だしに感じたあの爽やかな夏の風味は忘れていなかった。

 あとから近くに座ったご婦人たちの一人も、夏のアジフライ定食を注文している。

 しっかりと気をそらさないように食べなくちゃダメですよと、余計なお世話的に思う。

 自分ももう一回来てみようと思った。

 レジを済ませて外へと出た。体中を包み込む夏の熱気が凄まじい。

 もう、店の戸の大きさのことは忘れていた………

 

 

地下40mにあった夏の夢・JR筒石駅

駅名サイン

 上越の海岸線、国道八号線を時速五十キロほどで走っている。

 砂浜にはところどころに海水浴場があり、駐車場へ誘導しようとするお兄さんたちと目を合わさないようにしながらの運転だ。

 朝の海は穏やかながら、気温は三十五度を超える予想。まだ九時前だが、その予想をフロントガラスに広がる青い空と日差しが裏付けている。

 しばらく快適なドライブが続いた。そして、そろそろ左へ進路を変える頃に。

 目的地は、JRの筒石(つついし)という駅。

 そこから汽車に乗って、旅に出ようというのではない。

 地下四十メートルにあるという、その駅のホームを見てみたかった。数年前から考えていたことだ。

 そのホームの存在は新潟への出張時、特急「北越」の車窓からかすかに確認していた。同じ特急でも、上越新幹線と繋がる「はくたか」では速すぎて、ほとんど分からない。

 どちらにせよ、そのホームの存在を知り、さらにそのホームの駅舎が急峻な崖道を登ったところにあって、改札から長いトンネルの階段を下りてホームに出るということを知ってからは、いつか必ず出かけなくてはならないなと考えてきた。

 そして、チャンスは意外にも身近な月一予定の歪みから生まれた。

 クルマでの新潟出張の帰路、翌日富山県某町のイベントに立ち寄ることにしていたが、その付近にホテルがなく手前の上越市にホテルをとった。

 あとで上越市ではなく、糸魚川市にとった方が得策だったと気付いたが仕方ない。

 夜の八時半頃、上越のホテルに着き、部屋の弾力のないベッドに腰を下ろしたところで急に閃いた。

 明日少し早く出れば、あの筒石の駅に立ち寄ることができるかも……

 パソコンを開いてすぐに間違いないことを確認すると、星ひとつ半だったホテルが三ツ半くらいにまでに変わる………

 翌朝は快晴。分厚いカーテンを透して日差しの熱が伝わってきた。

 窓が東側に向いているのは間違いなく、カーテンをちょっとだけ開けてみて、思わずウッと唸っていた。

 ナビが言うように「筒石駅」の表示が目に入ってくる。

 えっと思うほどの急な進路変更。少なくともそう感じた。さらに入り込んだところは、洗濯ものだらけの家並みが続く狭い道だった。

 しばらくゆっくり走ったところで、漁港らしき雰囲気となり、道は左へと曲がる。そして、クルマを止めた。

 ナビはこのまま真っ直ぐ行けと言っている。しかし、どう見てもこのまま真っ直ぐ行っていいのか戸惑うのが普通だろう。急な斜面に家々が並び、その隙間を縫うように狭い道が上に向かって一気に延びている。

 クルマを下りてみると、上から電動車イスに乗ったおばあさんが下りて来た。

 筒石駅へはこの道を登ればいいんですかと聞いてみると、普通にそうですよと答える。

 何を聞くのかと思ったら、なあんだ、そうなこと? といった顔だ。

 これ上がると小学校があって、そこからどうのこうのとかで、すぐだと言う。

 皆さんここ登って行くんですか?と、執拗にもう一回聞くと、そうそうと、こちらの心配を察したかのように笑って答えてくれた。

 坂道は短いが、急で狭かった。が、その急で狭い坂を過ぎると、地元小学校の脇を通り、一気に山の中の道といった雰囲気になる。このあたりの、海岸から一気に突き上がった地形を肌で感じとることができる。

 しばらく進むと、左手に筒石駅を示す看板があった。

駅舎

 下りて行くと、すでに写真で見ていたが、駅舎の味気ない建ち方に改めて消沈。しかし、ここまで来るまでの焦燥と期待感を思えば、そんなことに落胆などしてはいられない。

 クルマを止め外に出ると、一気に真夏の熱気に身体中が包み込まれた。

 しかし、その感触は懐かしい何かとの再会を思わせ、吸い込んだ空気の匂いもそのことを煽るものだった。

 まずは駅舎の写真をと道に戻ってみる。深い緑の中の小さな、そして平凡な駅舎がぼんやりと夏を思わせる。

 そうだ、さっき懐かしく感じたのは、夏の空気のことだったのかと思う。

 駅舎に入ると、中は小さな待合室といった感じだ。若者カップルが一組。電車の待ち時間なのだろうか。女の子の方はかなり疲れ気味で、ベンチに座ってうな垂れていた。

 さっそく入場券を買おうと窓口に立つが、誰もいない。横に回ってみて奥に駅員がいるのを確認して声をかけた。

 そうこうしているうち、振り返ると待合室にまたもう一組の若者カップルがいた。彼らは地下のホームの方から上がってきたみたいだ。 彼らも少し疲れている。

 入場券と入場証明書も兼ねた絵ハガキをもらい、自分も下のホームへと向かう。

 しばらく歩き、すぐに足が止まった。凄いのだ…… 想像を超える凄さなのだ。

最初の階段

 目が慣れ始めると、撮影道具を背負った青年が独り、階段をゆっくり登って来るのが見えた。こっちはカメラを構えたが、彼を焦らせてはいけないと、ゆっくりでいいよと声をかける。

 さっき待合室で見た若者たちの疲れた様子が、ここで理解できた。彼らもこの階段を登ってきたんだ。

 撮影道具を担いで上がってきた青年はかなりの量の汗を浮かべ、いやあ、ここは凄いですと話しかけてきた。

 実はこの青年との出会いがなかったら、この“探検”はかなり味気ないものになっていたかもしれない。この鉄道マニアの青年が、その後いろいろと教えてくれたおかげで、これからの一時間足らずが、とても素晴らしい時間になったのだ。

 では、行ってきます。そう言って青年と離れ、ボクは階段を下りた。

 階段は決して高くはなく、むしろ登る人のためにか低く造られていた。

 それにしても深い。しかも、真っ直ぐに下って行くトンネル壁面のラインが、より一層落ちてゆくイメージをデフォルメする。

 誰ひとりすれ違うこともなく、登ってきた人を見送った自分としては、何となく淋しい気持ちにもなるが、その分楽しみも増えていく。

 トンネルに向かって、トンネルを下る。地下鉄の駅に向かって階段を下るのとは、完全に何かが違っている。

 下り切ると、左にまたトンネルが延びる。「富山・金沢方面」と「直江津方面」の乗り場が案内されている。このふたつの乗り場(ホーム)は、向かい合って造られていない。何か理由があるのだろう。

のりば案内ガスの通路

 ガスが通路、いやトンネルの奥でうごめいている。まるで映画の世界だなと、平凡な感慨に耽った。

 遠い方から先に行って来ようと、富山・金沢方面のホームへと向かった。

 ホームへ出るには、また一段と深い急な階段を下りなければならない。一度下り切ったと思ったら、さらにまた左に折れてまた下る。

 そこにはイスが並び、出口戸はしっかりと閉じられていた。電車はここで待つのだ。

ホームへの階段

 少し躊躇しながらも、すぐに戸を開けてみる。

 そこは非日常的で、異次元的で、何もかもすべて失われたような、多くは閉鎖的だが、ある意味開放的で、そして、ただ素朴に暗くて静かな……そんな空間だった。不思議な空気感が漂っていた。

ホーム

 稲見一良の小説に出て来るように、廃線になった線路の上を走ってくる幻の蒸気機関車が、今にも飛び出して来そうな気配が漂う。

 ホームは狭い。黄色い線の内側などと言っていたら、すぐに壁にぶつかってしまいそうな感じだ。

 端から端まで歩いてまた椅子の並んだ空間に戻り、今度は急な階段を登り返した。

 地上が暑かった分、中は快適過ぎるくらいの気温となっている。冬は逆に暖かいのだろうと想像する。

 このホームを利用する多くは地元の生徒たちだと聞いたが、彼らの日常はなんとドラマチックなんだろうと勝手に思ったりしている。

 次は直江津方面のホームだ。階段を登り、ほぼ平坦なトンネル通路を戻って行くと、ホームへ下る階段の手前に、さっきの鉄道マニア青年が立っていた。

 もうすぐ、「北越」がホームを通過しますと言う。その言葉になぜか一瞬動揺し、この絶好の機会を見逃すわけにはいかないと思う。

 ボクと青年はホームに出た。若い女性駅員がいて、思わず、コンチワと挨拶。

 ちなみに、筒石駅には大きさの割に多くの駅員さんが働いている。事情は十分理解できる。

 さっきのホームとほとんど区別がつかない風景が眼前に広がっていた。いや左右に延びていたと言う方が正しい。

 「北越」は反対側の線路を通過すると青年が教えてくれた。そして、青年は三脚を用意し始めた。

 ボクは彼から二十メートルほど離れた場所で、カメラをテストする。鼓動が少し小刻みになったのが分かる。久々の緊張感。青年と何度 も目を合わせたように思うが、実際は暗くてよく見えていない。

 青年があらためてこっちを見た。その時だ。

北越が来た北越通過

 風が、いや空気の波のようなものがトンネルを通して流れ込んでくるのを、しっかりと全身で感じた。いや、感じたなどという生易しいものではなかった。大きな空気のうねりに全身が襲われた。恐怖感のようなものが、いや恐怖感そのものが背中を走った。

 次の瞬間、線路を滑りながら近づいてくる大きな物体の音が重なった。ライトが光っている。それだけを見ているとそれほどのスピード 感ではなかったが、目の前を通り過ぎる頃にはかなりの速さで流れ去って行った。

 いい歳をしたオトッつぁんの言うセリフではないが、夢のように「特急北越」は過ぎ去っていったのだ。さらに加えれば、銀河鉄道のようにとも言えた。

 ここは、やはり凄いです。青年が言う。こちらは写真撮影どころではなかった。

 そしてすぐに、今度は「はくたか」が来ますとも言った。さらに、今度はこのホームを通過するから、凄い迫力ですよとも言った。ボクはまた動揺した。

はくたかが来た

 「はくたか」の通過は、これまでの人生の中で片手に入るくらいのド迫力だった。

 「北越」の時を上まわる空気のうねりがあり、大音響があり、そして乗っていた人たちの顔など全く認識できないほどのスピードがあった。

 ただひたすら、身体をホームの壁側に傾け、風圧に耐えていなければならなかった。

 青年が言ったように、それはまさにこの駅だからこそ体験できる冒険だった。さっきの「北越」と比べると、スピードの違いが歴然としていて、「はくたか」の車窓からこのホームが確認しにくいということをあらためて理解した。

 青年に近寄ると、青年はまた、ここは凄いですと言った。

 そして、しばらく興奮を慰め合うと、あと何分後かに、今度は普通列車がここで停車しますよと、とんでもないことを口にしたのだ。

 それはもう至れり尽くせりのプレゼントだった。これこそ、筒石駅の“おもてなし”だ。

 その電車に乗ろうとする若者たちも下りてきて、にわかにホームはにぎやかになる。といっても、総勢十名足らずなのだが。

 さっきまでの特急と違って、普通列車は落ち着いた素振りでホームに入ってきた。乗客たちの中にはこの不思議な光景に一度下車する人もいた。

普通電車が来た

 若い母親が、周囲を見回している子供たちを促し出口へと向かう。

 旅人らしき中年夫婦が、しきりに感嘆の声を上げている。

 そして、普通列車が去って行くと、ホームはまた静かになった。

 青年が、ではお先に上がりますと、この駅らしい表現で出て行く。

 ボクは最後までホームに留まり、女性駅員さんになぜか礼を言って出口へと向かった。

 このトンネルの名が「頚城トンネル」であるということは、あとから知った。

 JR能生駅と名立駅の間、11,353メートルがすべてトンネルであり、筒石駅は、そのトンネルの中にホームをもつのだ。分かったようで、分かっていないような話だ。

 かつて地滑りによって、急な崖の下に造られていた筒石駅は何度も破壊されたという。

 しかし、1963年3月から1966年9月にかけてのトンネル工事とともにホームが完成。

 トンネルの中にあるホームへと下りるためのトンネルは、工事用に掘られたトンネルを、そのまま使っているとのことだ。

 地上から四十メートル下に造られたホームというより、地下ホームから四十メートル上の地上に造られた駅というのが本来のような気がする。

 後ろ髪を引かれるような思いのまま、最後の長い階段を見上げた。

帰りの上り

 そして、空気が変わったと思った。地上の熱気が流れ落ちてきていた。

 外に出ると、さっきの普通列車で下車した母子を、子供たちの祖母らしき婦人が迎えに来ていた。これから楽しい夏休みなのだろう。海が待っている。

 一緒に下りたソロの若者は、大きなリュックを担ぎ、そのまま徒歩で海沿いの町へと下るみたいだ。

 中年夫婦は、駅員にこの辺りで食事できる場所はないかと尋ねている。駅員が、ここは観光地ではないので…と説明している。

 鉄道マニアの青年はと言うと、すでにその姿は見えなくなっていた。

 まだ午前中だと言うのに、日差しはすでにピークに近く感じた。

 夏だなあと思う。ずっと昔のことだが、いつもこんな夏があったんだと思う。

 何かを思い出させてくれた、夏の、五十数分間の、胸躍る大冒険だったのだ………

水滴

 

不思議な距離

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 仕事で自分の生まれ育った町と関わりを持つというのは、何だか奇妙なものだ。

 自分自身、その類の仕事で満足したことは一度もない。

 不思議なことに、最終的には投げやりに近い状態になっていることが多く、やはり何となく寂しい気持ちになるのだ。

 なぜなんだろうと、今あらためて新しい関わり(仕事)を持つことになったのをきっかけに考え直している。

 ふと思うのは、自分自身が自分の故郷である町に対して、それほどの愛情や親しみを持っていないのではないかということだ。

 これはある意味で当たっている気がしないでもない。

 しかし、誰しもが持つ正反対の心象のようでもあるし、それを第一の要因にするのは適当でないと思うのである。

 皆、少なからずそのようなものを持っていながら、故郷のことを思っているのだと思う。

 小さい頃からかなりのませガキであったボクは、さも当然のように大人になったら都会へ出て、自分の好きなことを自分のやり方でやるのだという強い思いを持っていた。

 都会というのは、小学校中学年の頃は東京であり、中学の頃には生意気にもニューヨークあたりになった。

 その後は趣を変えてまた国内に戻り、八ヶ岳山麓あたりに移行していき都会志向は消えていったが、とにかく故郷で生活するという選択はなかった。

 それが直接的になぜこうなったかは今書かないが、いざそうなってしまうと、逆に身動きがとれなくなるものらしい。

 大学を卒業する時には、ボクは完全にUターン志向になっていて、東京の暮らしには興味を失っていた。

 趣味の世界では東京に多くの未練はあったが、それ以外には何も魅力を感じなかった。

 しかし、今になって思うのは、ただ単に見つめる世界が少年時代より狭くなっていただけではなかったかということだ。

 もちろんそれは、大人になったからこそ分かる世界であったのかも知れないが、基本的なところでボクにはそれほど深い考えはなかった。

 Uターンした後、新たに見つけた趣味の世界に没頭していったが、本質的なところで大事なものを見失っていったのだと思う。

 当然見失っていることには気が付かなかったし、周囲は趣味の世界を楽しむボクのことを好意的に見てくれていた………

 故郷の町の仕事をする時には、少し腰を浮かせている自分に気が付く。

 悪い言い方をすると、完全は望めないと思っている(ように思う)。

 そして、望まれていないようにも思える。

 そうではない町では、もっとチカラが入っているのに、なぜかこの町ではそうならないのである。

 自分がこの町を見くびっていたニンゲンだった…?…からだろうか?

 あるいは、思いが強すぎる…?…のだろうか?

 どちらにせよ、また新しい関わりが始まる。年齢も、立場も環境もそれなりに変わっている中で。

 ボクの故郷である町は、「内灘」という………

石段

トマソン的石段

 金沢観光の仕事にチカラを入れ始めた頃、「ひがし」はまだそれほどでもなかった。

 今の「ひがし」ではなく、「東山界隈」というイメージを重視していたくらいだった。

 しかし、「ひがし」の人気が急激に上昇し始めると、実は西もなかなかいいのだヨ的空気が漂い始めた。

 依頼されて文学をベースにしたストーリーを作り、室生犀星から始まって、島田清次郎、松尾芭蕉、それに中原中也などといったゆかりの文人たちをめぐるコースを企画した。

 タイトルは「金沢のにしを歩く」にした……。

 室生犀星が育った雨宝院の前から、にし茶屋街の方向へ抜ける狭い道がある。

 左手に高い石垣が続く、なかなか雰囲気のいい道だ。

 そして、その道に入ってしばらく歩いたところにこの石段はあった。

 しばらく眺めていると、あやしげな曲がり方をした手すりにも、微妙な組み合わせで成立してしまっている石段そのものにも、誰かの思いが込められているような気がしてきた。

 かつて、一度だけこの石段を上ってみようと思ったことがある。

 しかし、これは鑑賞のためにあるのだと自分に言い聞かせてやめた……

梅雨のせいではないモタモタについて

枝の小鳥

ここ最近は、アタマの中がモタモタである。

決して悪い意味のモタモタではないのだが、とにかくモタモタであるという状況に対しては決してよくないと思っている。

このようなモタモタ期には、ひたすら焦っている自分がいる。

冷静さもそれなりに持っているから、尚更焦りもしっかり自覚していたりする。

こういう場合、いったいどうすればいいかなのだが、やはりボクの場合はこのモタモタの中でずっとやり過ごしていくしかないと思っている。

決して悪い状態ではないのだから、そのうちモタモタそのものは消え失せていくだろうと思っている。

やらねばならないことと、やりたいことが、またまた目の前に山積み状態となってきた感じだ。

それはいくらかは仕事であり、いくらかは自分自身の楽しみでもあり、いくらかは自分の課題(使命?…そんなわけないか)でもある。

だから焦り自体も、何となく嬉しかったりして、これを忘れてしまってはいけないのだと自分に言い聞かせてもいる。

梅雨に入って、スカッとした朝や昼や夕方などがなくなっている。

やはりちょっと物足りないが、まあ今は、モタモタしていることに満足していることにしよう……

自分なりのクリエイティブ

 先日、あるお偉い方から、N居さんって、結構クリエイティブな世界でやってきたんですってね…と、突然言われた。

 ボクが関わってきたことを何かで知られたらしく、いきなりそんな話になったみたいだ。

 しかし、ボクとしてはかなりの違和感があり、クリエイティブな世界にいたという認識などない。

 そもそもクリエイティブとは何なんだろう?

 今身近にとてもお世話になっていて、その物腰や言葉の柔らかさが大好きな先生がいらっしゃるが、その先生や華やかなデザイナーの人たちこそが、俗に言うクリエイティブ・ニンゲンなのだと思っている。

 と、ここまで書いて思い出した。

 まだ20代の終わり頃だったと思うが、会社の中に企画部門を立ち上げ、「クリエイティブ・チーム」などといった図々しい名を付けていた時代がある。

 その後に、少し自重して「プランニング室」、その後ちょっと成長して「プランニングセンター」という名前で現在も続けているが、やはり「クリエイティブ」には遠慮があった。

 広告やデザイン、モノづくり・コトづくりなどの世界には、どうしても「クリエイティブ」が要る。

 しかし、ボクの進んでいった道は少しずれていたように思う。

 敢えて、そう呼ばれたくない道に進んでいったようにも感じる。

 ボクをクリエイティブだと言ってくれた方の感じ方には、やはりボクがやってきたことへの肯定的な認識があったのは間違いない。

 さまざまなことに首を突っ込んできたのはたしかだ。

 しかし、ただボクはやはり中途半端にやり過ごしてきた。

 ある計画に関わり、そのグループのまとめ役みたいな立場に置かれてたことが何度かある。

 あるボスからはこう言われた。

 「これを成功させれば、N居さん、凄い実績になるよ…。いよいよこれから大飛躍だね」

 たしかに成功はしたと思うが、ボクはその事業が終わりに近付けば近付くほど表側から身を引くようにして、結局最後はほとんど自分の影を残さないようにしてきた気がする。

 それは、一会社の一企画屋という、他人が言うには少しよそよそしい認識でいたからで、一個人としての立場があれば、もっと違った主張をしていたかもしれない。

 このような経験は、覚えているだけでそれから数回あった。

 しかし、ボクは同じようなスタンスでやり過ごしている。

 仕事の上で考えると、デザイナーの人たちにはクリエイティブ、特に言葉としてのクリエイティブは必要なのだろうが、自分のように中途半端な立ち位置のニンゲンには表面的にそうあるべき理由はない。

 ただ、今回このクリエイティブについて、某氏に言われてから少し考え方が変わった。

 もっと平凡に日常の中で考えていけば、ボクは十分にクリエイティブなのだと思う。

 デザインや広告などといった、クリエイティブが商売道具として使われている世界ではないところで、ボクはボクなりのクリエイティブを駆使してきたと思うのだ。

 潜在的なクリエイティブとでも言うか、モノゴトの接し方そのものがクリエイティブであったという自覚が、少しは芽生えた。

 だからこそ、クリエイティブな世界にいたと言われるのだと思えるようになった。

 生意気なことを書いているなあという思いに揺れつつ、クリエイティブについて、今もなお表面的ではないのだぞと自分自身に言い聞かせている……

新緑がいい

上高地の森

 この齢になって新緑の素晴らしさを語ったりしたら、加齢の仕業のように言われた…と同年代のある人が話していた。

 その人は、齢を食うと季節に敏感になっていくからイヤだねと、ただそれだけの理由で納得していたようだったが、少なくとも自分は違うなと思っていた。

 自然の移り変わりというか、季節の表情がいろいろと変わっていく様子というのは、人それぞれの感性や経験などによって違うのであり、その両方に明確な覚えのある者にとってはそんな単純な理由に納得できるはずがない。

 ボクと新緑との付き合いは、二十代初めの信州上高地から始まった。

 まだマイカー規制が緩かった時代、夏山真っ盛り期の前にはかなりクルマで入れる期間があり、そのチャンスを利用して頻繁に上高地に通った。

 その頻度は自分でも異様に感じるほどで、多い時には一ヶ月に五回ほど出かけていたこともある。

 上高地は四月の後半に一応開かれるが、飛騨方面からだと今と違って安房峠越えという厳しい条件があった。

 だから、少し落ち着く五月の連休明け頃から入り、ウエストン祭の頃から先の目覚め始めた大自然を満喫した。

 頻度に比例して上高地の隅々まで歩くようになり、それから後、上高地を通過点にして山の世界に入っていったのだが、秋の紅葉の時季よりも圧倒的に春から初夏にかけての新緑の時季が好きだった。

 ボクはそれまで、新緑に対する認識(大袈裟だが)というもののを感じたことはなかった。

 しかし、上高地という特別な環境がそうさせたのは間違いなく、梓川の桁外れな清流と穂高の圧倒的な山岳景観などが、新緑という何気ない自然の産物にも魅力を感じさせたのだろう。

田代池 (1)

 上高地での体感以来、ボクにとって新緑はどんな場所においても大事なものになっていく。

 そして、新緑は最もシンプルな季節的シンボルのひとつであって、自然の中でいちばんテンションを高揚させるエキスをもつものだと思うようになった。

 たしかに真っ青な空も入道雲も、晴天の日の雪原なども見ていて元気をくれるが、新緑とはどこかが違った。

 新緑にはこれからまた物事がスタートしていく時の期待感、いやちょっと違うか…、もっとシンプルで、具体性のない何かに対する“楽しみ”を煽るような、そういうものが潜んでいるような気がする。

 そして何よりも美しいし、清々しい。

 田んぼが水田になり、苗が植えられ、その後しばらく鏡のようになって空や山々を映し出す時季、新緑も負けじとその本領を発揮していく。

 風に揺れながら波のように色を変化させたりする様子は、新緑期ならではの目の保養になる。

 ボクにとっては、“シンリョク”という響きも、“新緑”というこの二文字の組み合わせもなかなかにいい感じだ。

 そんなわけで、できれば一年中新緑が続いてくれたらと思うが、それじゃダメなのも分かっていて、とにかく出来るだけ、“今の新緑”を楽しもうと考えるのだ……

緑陰1

緑陰3

卯辰山の竹藪のこと

燃える竹

 枯れた竹が放置されたままの藪では、陽が差し込むと、突然その隙間に伸びていた新緑が輝き出す。

 春の始めだったりすると、その勢いも激しく、目がくらむというと大袈裟だが、ちょっとびっくりしたりする。

 金沢の卯辰山には、ところどころに竹林か竹藪かといった感じの場所があるが、どこもあまり整備されているとは言えず、かなり中途半端な様相だ。

 金沢といえば、やはり別所などの竹林が有名で、その美しさは卯辰山の比ではない。

 それはやはりよく整備されているからで、タケノコの産地であるということがそのことを裏付けてもいる。

 しかし、前にも書いたが、竹林というのは何となく日本の象徴的な風景をつくり出していて、その点でも卯辰山はちょっともったいない。

 たとえば、小さな社が三つ並ぶ卯辰三社周辺の竹藪はかなり傷んでいる。

 山麓の寺院群をめぐる「心の道」周辺も然りだ。

 傷んでいるから、整備されていないから竹林ではなく、竹藪なのだろうと勝手に思ってもいる。

 「心の道」の仕事に携わっていた頃、旧鶯町の松尾神社を抜け、そこから先、右に上るか左に下るかで結論を待たされたことがあった。

 ボクには当然決定権などなかったが、圧倒的に右行き派で、そこからの風景や空気感がこのルートの核心部になるとさえ思っていた。

 現にガイドを作った際、ボクはこの場所に向かう道の石柱と山門を撮影し使用している。

 小さな寺院と墓地。道は辛うじて木漏れ日が差す程度の明るさで静まり返っている。

西養寺墓地の道

 しかし、薄暗く荒れた墓地の中の道であることや、最後は厳しい下り坂となることもあって、雨の日の調査により、その道は危険と判断された。

 ルートは松尾神社を出て、左に下ることに決まったのだ。

 その辺りにも竹藪が続いていた。とても大きな竹が笹を垂れながら揺れていた。

 そして、それはそれなりに豪快で美しいものでもあった。

 竹藪というのは、なかなか手を入れるというのもむずかしいのだろうが、とにかく手を入れる価値が見出されていないのが本当のところなのかも知れない。

 卯辰山の瓢箪池から苔むした石段を登り、卯辰三社に上がると右手に深い竹藪が見えてくるが、その中の様子も荒れている。

竹藪の道

 しかし、竹藪に目をやりながら短い道を歩き、その途中に架かる小さなアーチ形の橋から見下ろすと、その竹藪が意外と深い広がりをもっていることに気が付く。

 その辺りまで来ると、少し竹藪が竹林になっているのではと期待ももたせてくれ、足を運ばせようとする。

 卯辰山は金沢市民にとって、あまりにも身近な存在だ。

 ボク自身も小学生の頃、天神橋の脇の旧御歩町に親戚があって、そこへ遊びに来ると、すぐに卯辰山に上った。

 もちろん歩いてであり、頂上?付近のグラウンドで遊んでいた。

 今から思えば、田舎から出てきた少年が、何の懸念もなく上り下りしていたのだから、やはりごく普通の丘みたいな山だったのだろう。

 墓地や健民公園や相撲場などがあって、今も日常の中にもそれなりに位置付けられているのはまちがいない。

 かつては相撲場で野外コンサートがあったりして、国内のそれなりに有名なジャズミュージシャンなどが来演していたこともあった。

 竹藪の話にまた戻すと、ボクはやはり、卯辰山の場合はもう少し手を入れて、せめて竹林と呼んでもおかしくないくらいにしたらどうだろうかと思う。

 前にも書いたとおり、「金沢らしさ」は「日本らしさ」なのだ。

 兼六園も武家屋敷も茶屋街も、伝統工芸も伝統料理も伝統芸能も、みな「日本らしさ」であり、今ははるかに及ばないが、卯辰山の竹藪、いや竹林もまた「日本らしさ」になる。

 卯辰山へ出かけたが、桜の印象は全くなく、ただ竹のことばかり考えて歩いていた……

卯辰山三社の石段と鳥居散策路の桜と

アイドルを逃がせ !!

 クルマで移動中、久しぶりに聞いたNHKラジオの“ 午後マリ ”。

 その日のゲストは YA(さん=省略)。アイドルなどとはあまり関わりのない人生を送ってきたつもりだが、恥ずかしながら、このYAだけには思い出がある。

 と言っても、ファンクラブに入っていたとかではなく、当然全国追いかけまわしていたというのでもない。

 1988年、金沢で『食と緑の博覧会いしかわ』という大きなイベントが開催された。

 地方博というのが盛んに行われていた頃で、そのような博覧会には決まって人寄せコンサートみたいのが付いていた。今でも同じかな。

 金沢の博覧会もご多聞に漏れず、会場となった西部緑地公園特設ステージにおける最大イベントが、YAのコンサートだったのだ。

 YAと言えば、泣く子も黙る当時の超売れっ子(らしかった)。

 博覧会の立ち上げから運営にまで関わっていたボクや仲間たちは、その超売れっ子を守るため警備補助の仕事を課せられた。

 警備補助とは、コンサートが終わったのに帰らないお兄ちゃんたちが、Yちァ~んなどと叫びながら柵を越えて来た場合、力づくで押さえつけ、テメェ、コノヤロー、逮捕すっどというもので、実際数名が芝生の上にねじ伏せられたりしていた。

 ボクはその様子を、博覧会テーマ館の正面エントランスから見ていた。

 ボクの横には事務局スタッフ。そして、恐ろしく機嫌の悪いYAの関係者……?

 そして、さらにもう一人……小柄な…YA…本人。帽子を深くかぶり顔はほとんど見えない。

 その数日前のこと。

 ボクは、コンサート終了後、YA様ご一行を速やかに会場から外へ出すための秘密誘導員係を告げられていた。

 ほとんど耳元でのささやきに近いカタチでだった。

 しかし、コトは順当には動いていなかった。お兄ちゃんたちのほとんどが帰らずにいたからだ。

 不機嫌な関係者のオトッツァンが、事務局の段取りの悪さ?にどんどん表情をこわばらせていく。

 いつ怒りの罵声が吐き散らされるか分からない。

 段取りがどこかでズレ始め、怪訝な空気がエントランスに漂う。

 その時、「タクシーをテーマ館の裏に付けたから、テーマ館の中を通って行ってくれ」

 と、事務局の人がボクに言った。今回も耳元でのささやきに近かった。

 その手で行くのか…… とボクは首を縦に振った。つまり肯いたのだ。

 不機嫌なオトッツァンにも同じことが告げられていた。

 オトッツァンは、よく聞き取れない声で何ごとか発したが、すぐに体を回転させた。

 振り返ると、奥にYAがいる。

 えっ?と思って横を見ると、ここにもYA…だ?

 全く姿カタチの同じ少女が、ボクの周囲半径約5.0m以内に二人いる。

 驚いている暇はなかった。影武者かと考えている暇なんぞもない。

 オトッツァンが腹の底からダイレクトに響くような声で、早くしろ!と言った(ような記憶がある)。

 ボクはホンモノのYAらしき少女とオトッツァンを引き連れて、人のいない静まり返ったテーマ館の展示ゾーンの中を走った。

 何だかディズニーの映画みたいだなと思ったような、思わなかったような、必死なわりには楽しい時間であったような、なかったような。

 裏にある搬入口の大きなシャッターが半分ほど開けられていた。

 タクシーの運転手が、何かあったんですかといった顔で迎える。

 いえ特に何もないですといった顔で応えようとしたが、多分オトッツァンの雰囲気で、運転手は何かあったに違いないと思ったことだろう。

 タクシーが見えなくなるのを待って、フーッと息を吐き、スタッフの人たちの顔を見た。

 みなそれ相応の安堵顔だった…………

 何年も経ってから、YAの存在を知る機会があると、そのことを思い出すようになった。

 今日も、ラジオから聞こえてきた、もうお母さんだというYAの声を聞きながら、なぜか一方的に身近な存在になってしまってるなあと思ったりした。

 もともとの芸能界入りのきっかけは、応募したオーディションの副賞が真っ赤なラジカセで、それが欲しかったからとか。

 素朴な、どこにでもいる女の子だったのだと、あの日見た小さな姿を思い返す。

 今、幾分衰えつつ?ある感性にムチ打って、ミュージカルの稽古中だとラジオで話していた。

 そうか、ガンバレ、Yちゃん。なんかあったら、オレがまた、誘導してやるから………?

山里の陽だまりと、読本と、春眠と

福光の道

 福光からの帰り道、持って出ていた本を読もうとクルマを止める。

 日差しも温もりも春の兆し。

 運転しながら、瞬間的に目に飛び込んできた光景が、まさにその雰囲気に合う場所であると感じさせた。

 早春の陽だまりを求めての、三連休最後の日に訪れた短い自分時間。

 できるだけそれらしい雰囲気を自分自身にも課して、短い時間を楽しもうとしている。

 久しぶりだった医王山富山県側山麓の道も、飛越の山並みにまだまだ残雪が光っていて、手前の青麦畑やこれから始動する水田とのコントラストが美しかった。

青麦と残雪の山水田と残雪の山

 IOX-AROSAのゲレンデにも十分な残雪。

 来週は、立山山麓へ出かけるつもりでいる…と、敢えて自分に言い聞かせたりする。

 無造作に部屋の壁に立てかけられ、静かに息を殺しているテレマークの板たちのことを思う。

 彼らにはまだ十分な楽しみを与えていない。

 ただでさえ古い道具たちだ。

 このまま老いていかせるには勿体なく、自分自身を責めたりもする。

 陽はかなり西に傾いてきたが、さすがに春が近づいていると見えて、一日は確実に長くなっている。

 クルマのエンジンを切って、まずは周辺を散策する。

早春風景

 小川が流れ、そこに付けられたコンクリートの橋を渡ると、広くはないが美しい水田の空間がある。

 その手前には素朴な小屋が建てられていて、それがまたいい雰囲気を醸し出している。

 ただ近くまで来ると、トタン葺きだったりして少しがっかりした。

 畦道の草はまだ秋に枯れたままの状態で、雪の下で冬を過ごしてきたものたちだ。

 雪の重みに耐えた後の乾いた草の感触もなぜか懐かしい。

 しばらく歩き、写真も撮って、何度か振り返りながらクルマに戻る。

 フロントガラスいっぱいに、今見ていた風景が広がるようにクルマを移動。

北への旅

 シートをゆったりめにして、先日買った三冊のうちの一冊、『北への旅』(椎名誠著)を開く。

 分厚い。さらに、文庫だが紙質が重く手応えも心地よい。

 五十二ページまで一気にいく。といっても、四十二ページまでが写真。

 カメラマン・シーナ氏のちょっとクールで温かい写真に集中してしまった。

 話は、いや文章は津軽半島から始まり、いつものようにテンポよく進む。

 本当はキルギスへ行く予定だったが、なぜか津軽へと向かう。

 そのあたりの事情は読めば分かるので省略。

 五能線というローカル線で、五所川原に着いたところから本題に入っていくが、そのあたりのことも読めば分かるので省略したい。

 とにかく、夜になってコンビニのあんちゃんから聞いたうまいラーメン屋で体を温め、その温もりが冷めないうちにホテルに戻って寝たというところで序章は終わった。

土手の青草

 一段落したところで休憩。最近疲れ気味の目を休めようと、フロントガラスの光景をもう一度眺める。

 そして、そのまま眠ってしまった。

 春の陽だまりの中で活字(写真もだが)を追うというのは、最終的にこうなるのが正しい。

 しばらくだったが、目が覚めるとかすかに汗をかいていた。

 時計は五時少し前。クルマを降りて、身体を伸ばす。

 空気は少し冷えてきた。が、春がそこにあって気持ちが柔軟になっているのは間違いない。

 冬はすでに遠い空の果てから宇宙のどこかへと消え去っていったのだと、宮沢賢治的?に思ったりもする。

 やはり、春はいいのかも知れないのである……

南砺の里

室生犀星記念館  「桃色の電車」との再会

犀星

 

 

 

 

 

 

会社で展示リニューアルの仕事をさせていただいた、室生犀星記念館を訪ねた。

出る時まで名乗らず、普通に入って一時間近くもいた。

犀星については、思い入れがある。

その分、正直言って自分の考える犀星の世界と、記念館が描く世界には大きな差があったりもする……

鏡花よりも、犀星の方が金沢そのものだと思ってきた。

初期小説の中に描かれる、素朴で美しい金沢風景の描写を知らない金沢人は不幸だ……

今日本中の人たちが向き合っている「ふるさと」への思いにも、犀星の世界は切なくもしっかりと通じている………

二階に上がり、閲覧コーナーで全集を引っ張り出し、「桃色の電車」という随筆を探した。

と言っても、随筆だったか詩だったかの記憶もなく、ただ漠然と探していたら、第2巻の中にあった。

久々の対面。二十歳の頃、激しく心を揺さぶられた出だしの文章に、青かった時代の自分を投影する。

詳細なことは書く気にもならないが、この文章を読んだ時感じたのは、詩のような随筆…みたいなことだった。

ジャズ・活字・映画・芸術・歴史・野球・ファッション…手当たり次第に向き合っていたその時代の感性が、あの「桃色の電車」という不思議な?文章との出会いに繋がったのかも知れないと思う。

このことは実に稀有。

数年前、地元文学の権威である小林輝冶先生に聞いた時も、先生は首をかしげられた。

犀星の世界で「桃色の電車」を語るのは、自分だけかもしれない?

ちょっと恐ろしいことのように響いてきた。

実に、稀有なのだ……

2014.3.11 母の声

浅沼さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014.3.11 追悼式。

遺族代表として最初に言葉を述べられた浅沼ミキ子さん。

元気に避難誘導にあたっていたという25歳の亡き息子へ、

あなたを誇りに思いますと語りかける。

その瞬間、母としてのやさしい思いが堪えていたものを崩れかけさせたが、

浅沼さんは気丈に言葉をつないだ……

聞き終わった後、平凡な言い方だが立派な母親だと思った。

同じ年頃の子供を持つ親として、

自分にはこの人のような気骨はあるのだろうか?とも思った。

日常のいとしさ、かけがえのなさ……

これもまた平凡な言い方だが、大切なものを、

浅沼さんの言葉が思い出せてくれた気がした……

3月のありがとう

3月

  「3月のありがとう」はいつもより少し重い。

 高校生の間、通勤がてら二人の娘をほぼ毎朝学校の近くまで乗せていった。

 ほとんど会話らしきものはなかったが、当たり前の日課だった。

 そして、二人とも3月の初めのある朝、「3年間ありがとう」と照れ臭そうに父に言って車を降りて行った。

 家人から事前に聞いてはいたが、知らなかったふりをした。

 そして、わざとらしく「おっ、そうやったっけ」と、とぼけた。

 二人とも高校を出ると、京都へと巣立った。

 長女の引っ越しの時は、母親を残して独りで先に帰らねばならず、こっちも敢えて急を装うようにして帰ってしまった。

 翌日、母親を京都駅まで送った長女は、バスに乗ろうとした母親に「お母さん、いろいろありがとう」と礼を言ったという。

 バスの中、涙が止まらなかったと母親が言った。

 … 二年後、次女を京都に置いてくる時も、車で立ち去る直前になって「いろいろ、ありがとね」と言われた。

 ただそれだけの言葉だったが、母親の目には涙があふれていた。不覚にもこっちもグッときた……

 今朝、父と高校生の娘らしき二人が車で通り過ぎていくのを見た。

 かつての「3月のありがとう」を思い出し、そろそろ、あの父娘にも同じような「3月のありがとう」が訪れるのだろうなと思ったのだ……

壁時計が消えて知ったこと

花1

 居間の壁から時計がなくなって、もう三週間ほどが過ぎた。

 なんと、ある日突然…、まるで昔の歌のタイトルのようにその時計は落下した。

 真っ直ぐに落ちて、文字盤を被っていた透明のガラスを割った。

 たぶん、年末の大掃除の時にいい加減に取り付けたのだろう。

 落ちたところがテレビの裏側だったので、ガラスが飛び散ることはなかったが、その破壊的な音の響きには正直驚いてしまった。

 時計は一辺が30センチの正方形をしていた。

 木製フレームの形としては非常にオーソドックスなもので、どこといって特徴があったわけではない。

 ただその分、見やすくて時計の本来の機能からすれば、文句のつけようはなかった。

 当然のように次の休みには時計を買いに出かけた。

 しかし、思うようなものとの出会いはなかった。

 そのうち、だんだん見に行くのも億劫になってきて、居間のそこら中に置時計を散在させるようになると、壁の時計はなくても、何となく時間は分かるようになる。

 これでいいんじゃないのと、家族たちもしばらくはそう思ったみたいだ。

 しかし、何気なく壁を見る癖は、二十年近い我が家の歴史とともに家族全員に植え付けられたもの。

 目線の先にあるべき時計がないということに、不便さ以上のものを思い知らされていく。

 ちょっと腹が減ったなと目をやる癖。寝ようかと立ち上がりながら目をやる癖。日々の癖は留まることを知らない。

 そして、その癖は限りなく身体に染みつき、簡単には抜けきらない。

 やはり、日常は時間(時計)とともに動いているのだなあと思った。

 そろそろ真面目に、あるべきものを壁に戻さなければならないとも思いはじめた。

 これまで壁にあったのは、時計という道具ではなく、時間という大袈裟にいえば“安心”みたいなものだったのかも知れない。

 次の休みには、絶対に時計を、いや時間という安心を買いに行こうと思う……

笠谷から 葛西へ

笠谷photo6

 ソチ・オリンピック、男子ジャンプ陣の活躍が嬉しかった。

 長野大会ではバカ騒ぎしたが、今回の感動は静かに、そしてジワーッとくるものがあった。

 ジワーッときたその一番の要因は言うと、リアルタイムで見ていなかったことになる。

 しかし、それ以上にレジェンドと呼ばれた葛西紀明と、若手・中堅ジャンパーたちとの深い結びつきが、少しずつ明らかになっていったことが大きかった。

 ところで、ボクにとって日本のジャンプと言えば、やはり笠谷幸生の存在から始まる。

 札幌オリンピックで金メダルを取る少し前から、笠谷が大好きになっていた。

 今はもうなくなってしまったが、当時高校生だったボクは、笠谷の活躍を知らせる新聞記事でスクラップ・ブックを作っていた。

 金メダルを取った日の数日後、クラスの当番がまわってきて、ボクは学級日誌?に笠谷を称える短文を綴った。

 内容は忘れたが、次の当番だった女の子が、ボクの文章に同感するようなことを書いてくれて嬉しくなったのを覚えている。

 今でもジャンプは超短い時間の中での競技だと思うが、当時はもっと短いように感じられた。

 今のノーマルヒルのK点が90mくらいであることを考えると、当時70m級ジャンプで、笠谷の84mと79mのジャンプは、それこそアッという間の出来事だった。

 今と比べると、ふわりと浮いたというような印象がない。

 脇を絞り、両手を前に突き出すようにしてアプローチを滑り降りてくる笠谷。

 何となく“日本人らしく表現された気合”が伝わってくる。

 そして、踏切からきれいなフォームで空中に飛び出すと、高くというより、すーっと一気に、美しく落ちて行く。

 V字飛行ではなく、スキーは揃えられている。

 当時のテレマークの深さは今の選手とは比較にならない。

 折った膝はほとんどスキーの上にあり、体勢的には、スキーの上にしゃがみ込んでいると言った方が当たっているかも知れない。

 テレマークスキーをやる者としての経験から言わせていただくと、とにかくあの膝の折れ方は尋常ではないのだ。

 今のようなV字飛行だとテレマークも入れにくいのかも知れないが、笠谷の着地とテレマークはそれこそ“レジェンド級”だった。

 笠谷のカッコよさは、クールで照れ屋さんだった一面にもあったとボクは思っている。

 スクラップした新聞の中にあった、表彰式のあと、金メダルを無造作にバッグに放り込んで帰路に就いたという記事。

 ジャンプという競技は自然相手だからと、優勝にも驕らなかった。

 そして、90m級での敗北。風で大きくスキーが乱れた瞬間をカメラがとらえ、翌日の朝刊一面にその写真が載った。

 笠谷は片方の腕をくの字に曲げて、顔を隠し、そしてブレーキングゾーンにしゃがみ込んだ。

 テレビでその瞬間を見ていたボクにとっても、それはショッキングなシーンだった。

 普通に飛べば、楽々2個目の金メダルが手に入った…はずだった。

 ボクは自分でも分かるくらいに茫然となり、その時吹いた“風”というものに激しい怒りを感じた。

 しかし、笠谷は敗北を風のせいにはしなかった。

 1回目風に恵まれて大ジャンプをした(2回目は失敗)、フォルトナという19歳の少年ジャンパーに金メダルが贈られるのを、笠谷は人ごみの中からじっと見つめていた。

 ところで、冬のスポーツ競技の中で、ボクは特に複合やジャンプの団体戦が好きだ。

 個人競技でありながら、チームとして戦うスタイルに、本来のチームスポーツとは異なるものを感じる。

 それは、力量に差がある個人が同じことをしながらチームとして順位を競っていくという点だ。駅伝も似ている。

 そして、もう一つ大きなこととして挙げたいのは、戦い終えた後に見せる選手同士のさまざまな交流の姿だ。

 喜びだけでなく、悔しさや無念さ、そして互いの健闘…、分かち合うものの大きさにこちらも感動をもらう。

 笠谷が優勝した70m級ジャンプでは、誰もが知っている「日の丸飛行隊」という名前が生まれた。

 団体戦ではなかったが、表彰台を独占したあの誇らしい光景は、日本というチームがいかに素晴らしい絆で結ばれていたかを物語るものだった。

 笠谷・金野・青地といったメダル獲得選手だけでなく、その他の選手、スタッフや関係者、そして応援する人たちが一体化するスポーツの凄さに、感情を控えめに表現してきた日本人自身が驚かされた。

皆嬉しかった

 そして時間を経て、無念ではあったがリレハンメルでの団体銀、長野の団体金、今回ソチでの銅と、日本チームは常に世界の中で実績を残していく。

 やはり日本ジャンプの礎は札幌までの笠谷個人の活躍にあり、さらにその後の団体戦での実績を考えると、札幌での日本人選手によるメダル独占がもたらしたものだなと思える。

 葛西紀明が団体戦終了後に流した涙も、いかにチームとしての日本を、彼が心の中で大切にしてきたかの証だった。

 さらに葛西の前を飛んだ三人の“勇者たち”が、それぞれに体を張って果敢な挑戦を見せてくれたことにも、そのことが表れている。

 思えば70年代のはじめ、笠谷が本場ヨーロッパを遠征しながら優勝を重ねていくニュースも、当時の日本人にとってはある意味不思議な出来事であっただろう。

 そして、アジアの小さな国のスキーチームが、世界で戦うチカラを維持しているという今も、その思いがどこかにあったりする。

 最近あまり顔を見ることもなくなった笠谷幸生だが、日本チームの活躍に目を細める表情も見たかった……

東向きは神々しい

朝日のさす部屋

 小雪のちらつく休日の朝。

 用足しに寝室を出ると、少し開いた自分の部屋のドアの隙間から、オレンジ色の明かりが洩れている。

 ドアを開けると、三段になった小さな窓がオレンジ色の光で膨張しているように見えた。

 足を踏み入れ、小さな窓から外を見れば、雪雲の中に横に広がる明るい空間がある。

 そして、遠く東に聳える北アルプスの剣・立山・薬師の稜線がちょうど見え隠れしている。

 出てきたばかりの朝日がその細長い空間にあって、真っ直ぐに部屋へと光を差し込んでいるのだ。

 むかし、NHKの『知られざる古代』という番組に夢中になり、出版局が出した同名の分厚い本を買って読んだ。

 そして、神仏は東か南に向いているということを知り、日本の仏様も大陸の仏様も同じ向きに置かれているということに激しく感動したが、そのことを思い出していた。

 例えば、太平洋の水平線に向いた日本の寺院の仏像の顔に朝日が当たる。

 それは当然大陸からの教えに倣ったことであり、大陸でも同じように仏像の顔に朝日が当たるようになっていた。もちろん、暦上などの何らかのことと関係してだったと思う…

 このような話を、具体的に、そしてドラマチックに証明していくこの番組の凄さは、当時の自分の中では格別な冒険ドラマ的存在だった。

 そして、この番組と本との出会いによって、その後奈良の「山の辺の道」を歩き、さらに京などの古寺を探索するという上質な旅にも駆り出されていく。

 そこまでその時思い出していたかは曖昧だが、とにかく自分の部屋の、あまりの“神々しさ”に、部屋にあったカメラでそれを撮影しようと思ったのは当然であった。

 そう言えば、我が家も東に向いていたのだと、あらためて思った。

 家を建てるなら、やはり東側に向けて建てるべきだなとも思った。

 やはり、何と言ってもそれなりに神々しいのだ。

 ただ残念なことには、年末に瞬間物置状態になってからの自分の部屋は、年が明けてもまだその状況を改善していなかった。

 だから、その日明るくなるにつれ、明け方の畏れ多き神々しさは徐々に化けの皮がはがれていき、朝飯が終わった頃には、古代からのロマンなんぞも一気に失せていったのである……

吉祥寺ジャズが懐かしい

ドルフィー

 東京・お茶の水周辺にジャズの聴ける店があることは、ご当地大学の学生だった時代から知っていた。

 むしろ、その頃の方が今よりジャズがジャズ的だったし、学生街にジャズ喫茶などがないというのは、ボクにとってはむしろ違和感を覚える環境だった。

 最近、東京へ出かけると、夜の遅い時間、その辺りにあるジャズの店に時々立ち寄るようになった。

 昔はなかった今風の店だが、美味いシングルモルトも飲めて、それなりに安らげるようになってきた。

 かつてのジャズの店では、会話禁止とか、リズムに合わせてテーブルをコツコツやっていても怒られるという店もあったが、今では聴くことよりも会話を楽しめるように店が出来ている。

 だから音量もまあまあ、昔のようにスピーカーそのもので圧倒するようなレイアウトもない。

 カウンターの後ろにはレコード、CDがずらりと並ぶが、レコードはきれいなビニールに入れられていたりする。

 歴史を感じさせるような名盤のレコードといったイメージも強調されていないし、実際にはそういうレコードは置いてないのかも知れない。

 この前は、チコ・ハミルトンの超懐かしい『ブルー・サンズ』(CD)がかかっていたりして嬉しかった。

 ところで、先日、東京でお会いしたある人が、かつて井の頭線の永福町に住んでいたという話をされた。

 反射的に、自分の東京生活は同じ井の頭線の三鷹台から始まったんだということを思い出した。

 そして、その仮の住まいからすぐのところに井の頭公園への入り口があり、公園の中を歩いて吉祥寺の街へと出ると、東京へ行ったら必ず行ってみようと考えていたジャズ喫茶があったこともあらためて思い出した。

 東京に着いた三日目のことだった。ついでに書くと、二日目は新宿に出て、紀伊國屋で長時間の立ち読み(もちろん買い物もした)を楽しんでいた。

 金沢のジャズ喫茶に慣れてしまっていたボクは、相席も構わずに空いた席に座らなければならないシステムに少し戸惑った。

 店の中がイスとテーブルで埋め尽くされているといった感じだった。

 しかし、それに慣れていくと、その店の居心地は最高のものとなり、ボクはそれ以来、この店を自分の東京の最も好きな場所のひとつにしていく。

 カンペキなリスニングルーム。有名メーカーのスピーカーから遠慮なく響き渡る音は強さがあり、キレがあり、一曲一曲、一音一音を、じっくりと身体中に感じさせてくれた。

 だからか、ボクは心地よくそこで本を読むことができた。ジャズに包まれている感じだった。

 演奏者たちと自分との間に隙間がなかったような、いや、その奏でられた音の層と自分との間にか……、よくは分からないがそんな錯覚?さえあったような気がする。

 東京一の保有数を誇ると言われるレコード(スタジオ)室のカッコいいお兄さんとも仲良く?なり、リクエストは当然のこと、いろいろな質問なども浴びせられるようになったのは、夏になってからだった。と言っても、もちろん長々と話したりする時間はない。

 お兄さんはトレーナーやジーンズ。大きなエプロンが短い頭髪に似合っていた。

 ボクはきびきびした動作と、いつも笑顔で対応してくれるそのお兄さんが大好きになっていく。

 結局、大学の四年間、ボクはその店に何度となく足を運んだ。

 住いが三鷹台から変わった後も、店へ行く頻度はそれほど変わらず、クラブの合宿などで長期間行っていない時などは、久しぶりに顔を出すと、オッという顔をされ、「帰省?」などと聞かれたりした。

 金沢にもジャズの師を得ていたが、東京でのジャズ生活は、そのお兄さんのおかげで楽しく充実したものになったのだとボクは思う。

 しかし、卒業以来、その店には一度も足を向けなかった。有名なオーナーもなくなり、今はもう形態そのものが変わってしまっている。

 それでも、できれば近いうちに、その周辺にだけでも行ってみたいと思う。

 かつては気持ちの中で近く感じていた吉祥寺だが、今はなぜか遠い街にしてしまっているのだ……

風邪ひき午後の味噌煮込みうどん

yagi

 年の始めからの過密?スケジュールが災いしたのか、一月の終わりになって風邪をひいてしまった。

 今の風邪は、ちょっと治ったかなと思っても会社などからは来なくていいと言われるので、その辺で喜んでいいのかどうか浮ついたりするのである。

 しかし、知り合いが風邪で休んでいたりすると、しっかりクスリを飲んで寝て、いいモノを食い、いい音楽といい文章に囲まれていれば、すぐに風邪なんか飛んで行ってしまうのだよ……とカッコいいことを言っているが、いざ自分の番になると、なかなかそんな美しい境遇には恵まれなくなる。

 予測なく鼻水がタラ~ッと出て来そうな雰囲気の時などには、いい音楽もいい文章もあったものではない。

 ましてや、咳に上半身を煽られ、体全体が熱に冒され始めたりすると、音も活字も神経を逆撫でする補助凶器にさえなってしまうのだ。

 昨日早退、本日お休みとなった今など、一応昨日医者にも行ってきたので、ひたすらじっとしているといったことなどが要求されている。

 しかし、人間、そうじっとしてはいられないし、たまには体を動かすことも求められる。

 そういう時に、忘れていたものとの再会や、また大きな発見などもあったりするのだ。

 そんなわけで、先ほど冷蔵庫にあったうどん一袋にネギその他を放り込み、味噌煮込みうどんを作って食った。

 もともとは醤油煮込み味だったのだが、そのスープは引き出しにしまって、味噌汁用の味噌を使った。

 味噌の量が少し多過ぎて塩っぽさが強調されたが、タマゴの絶妙な崩れ具合が、自分としてもかなりの満足度だったので、まあまあ良しとしておくことにした。

 かつて白山麓・O村にあった小さな食堂の味噌ラーメンは、家庭の味噌の味だった。

 ボクはその味噌ラーメンが大好きで、20~30代の頃は、月に二度以上は食っていたような気がする。

 それは家庭の味噌汁のような風味のラーメンだった。

 北海道でも、東京吉祥寺でも同じような味噌ラーメンと出会ったことがあるが、その店のものは「素朴度」が違った。

 飾らない正真正銘の“味噌”でスープが作られていたに違いない。

 あれ以来、味噌ラーメンの懐かしさは、あの味に還ることになってしまう。

 そして、今日ボクは風邪で休ませていただいたおかげで、そのことを再確認する機会を得た。

 味噌煮込みうどんのあとは、家人が用意してくれた伊予かんなども食った。

 味噌煮込みと一緒に、昨夜のおかずの残り、肉じゃがも食っていたので、もう腹はいっぱいだ。

 さらに見渡せば、正月明けのせいか、我が家にはさまざまな食材が散在していることも発見。

 現代日本における、雑食文化の煽りを実感。反省しつつ、賞味期限ギリギリ待ったなし状態の金沢伝統和菓子も、ついでにいただいた。

 この満腹感は、風邪で休ませていただいている者としてはどうも心苦しい。

 アタマはボーっとしているが、満腹過ぎて、すぐベッドに入るのも少し控えなければならないほどだ。

 この無作為な文章も、腹ごなしのつもりで打っているのだが、どうも収拾がつかなくなってきたので、このあたりで終わりにしよう……

バット名人との思い出

久保田さん

 この春、バット作りの名人・久保田五十一さんが現役を退くという。

 2005年の11月8日、岐阜県養老町のMIZUNOバット工場で、久保田さんとお会いしたことが当時のノートに走り書きされていた。

 しかし、それ以上に鮮明な記憶がアタマに残っている。

 早朝に金沢を発ち、約束時間よりもかなり早めに到着していた。

 空には雲ひとつなく、近くの河川敷や広大な平野と丘陵が美しかった。

 一ヶ月後に開館を控えた松井秀喜BBMに、松井選手が使ってきたバットの変遷を紹介しようと企画していた。

 そのための最終打ち合わせが目的だった。松井BBMの仕事というだけでボクは手厚く迎えられ、早々に久保田さんの作業場へと案内された。

 久保田さんに会った瞬間、飾らない性格がそのまま言動に表れる人だと思った。

 名人はボクの目の前で、当時の松井モデルを一本作ってくれた。その作業風景をボクはカメラに収めた。腰をかがめながら、定規を当てて微妙な寸法を調整していく。回転刃から弾き飛ばされる木が、作業場に独特の匂いを放つ。

 ネームの入っていない出来たてバットは、“これがあの松井のバットか?”と思うほどに細く、軽く感じるものだった。

 名人はそのバットをビニールの専用袋に入れて渡してくれた。

 工場を回りながら、バットのことをいろいろな角度から説明してくれる名人は、多くのプロ野球選手たちの特性やクセのようなものを感じ取っているように見える。

 落合モデルのバット、イチローモデルのバット… ずらりと並んだ有名選手たちのバットたちは壮観な印象を醸し出し、何だかとんでもない空気の中にいるように感じさせる。

 名人は、「松井さんは、一年に一度もバットを修正しませんでしたね。不振になっても、バットのせいにしなかったですよ。他の人はよくシーズン中に修正しましたが……。バットの重さの感じ方で、自分の調子を見てるという話もされてましたね…」と話した。

 正午に近づいた頃、名人は松井さんが訪れた時に必ず行ったという近くの食堂へ連れて行ってくれた。

 同じメニューの定食をご馳走してくれ、その席でも松井さんの話を楽しそうに語ってくれた。

 「松井さんが来ると、店に近所の人たちがたくさん集まってくるんです。松井さんは一人一人と握手したり、サインしたりしてましたね。とにかく人柄も素晴らしかったです…」

 そうこうしているうちに、店が少し賑やかになった。入り口の方からこちらを覗き込むような人が数人いる。

 名人が、「松井記念館のプロデューサーさんです」と、その人たちに紹介してくれると、その人たちも松井さんの印象などの話をしてくれた。

 バットを作る名人と、そのバットで一年を野球に打ち込む松井さんとの関係とはどういうものか?

 そんなことも感じ取ってみたいと思ったが、その場では結論らしきものは出ず、ボクはその後の展示プランを作成する際になって初めて、すべては一本のホームランなのではないかと思ったりした。

 ニューヨークデビュー戦で打ったグランドスラムの時の話を思い出したからだ。

 「嬉しかったです。ホッとしましたね…」

 名人の思いのこもった一言だった……

星は星の数ほどある

KICX7336

 ジャズや文学や落語やその他、日々のどうでもいいようなことを語り合ってきた今は亡き酔生虫(俳号)さんは、かつてこう言ったのだ。 「星は、星の数ほどある」と。

 経緯は忘れたが、当然何らかの流れの中から星の数についての話題に移っていった時のことだったろう。

 ボクもこう切り返した。 「と言うことはやはり、山は、山ほどあるんやろね」

 東京からの帰りの、特急「はくたか」の中・・・・

 イヤホーンから耳へと入ったキース・ジャレットとチャーリー・ヘイデンのデュオが、そのさらに奥へと静かに響いていき、生まれつきわずかに内蔵されてきた脳ミソに安らぐとはこういうものぞと教えている。

 窓外の景色はすでに闇の中だが、様々な明かりが小さく刻まれた雪景色を浮かび上がらせていた。

 相変わらずオレは疲れているんだと思う。そう思いながら、でも気のせいかも知れないぞと自分に言い聞かせてもいる。そうやってここまで来てしまったのだとも考えている。

 人生には、世の中には考えなきゃならないことがたくさんある。 普通に言えば、山ほどあるということになる。

 ボクは山が大好きだが、日本に山というものがいくつあるのかは知らない。とにかくたくさんあることになっている。

 しかし、星の数ほどはないのだから少し安心しよう。

 座席シートの暖房が強く、背中から眠気がやってくる。 もう少しだけ活字を追って、そのまま潔く眠ることにする……

山旅の歴史も面白い

100年前…

 年末の金沢駅は予想していたほどの混雑ではなかった。帰省する次女を迎えに来たのだが、駅に着いた途端、バスが20分ほど遅れているらしいとメールが入ってくる。

 少し荒れ気味の天候だった分、ちょっとは覚悟してきたのだが20分は長い。何しろ到着予定の時間にもまだ10分ほど達していないのだ。

 こうなると行くところはコーヒー屋さんしかない。ただ、ぼんやりとコーヒーを飲んでばかりではつまらないので、その前にコーヒー屋さんでの時間を有効に過ごすための本が必要だ。

 幸いにも金沢駅の商業ゾーンには本屋さんがある。すぐにそこへと向かった。

 意外とこういう時にいい本との出会いがあったりする。思惑どおり文庫のコーナーに向かって行くと、すぐに平置きになった一冊の本が目に飛び込んできた。

 『百年前の山を旅する』。タイトルも装丁もよかったのは言うまでもなく、中をパラパラめくってみると、さらに確信が深まった。すぐに決めた。

 出張の電車に乗る前とか、都会の街中のように歩いている最中の書店立ち寄りには、いい本との出会いがあったりするのだ。気持ちが、短時間でいい本との出会いを…と緊張するのかも知れない。

 コーヒー屋さんに入って、すぐにページをめくった。予想どおりなかなか面白い。著者は、山岳雑誌「岳人」の編集に携わっていたという服部文祥という人なのだが、ボクがかつて山に足を向けるようになった動機に近いものを持ち合わせているかのように感じた。もちろん、服部氏はK2などに登頂した凄い山岳家でもあるので、レベルは全く違う。

 それほど大袈裟な話でもないが、ボクは20代の中頃から長野や山梨などの高原地帯へ出かけるようになり、その中でも特に上高地が気に入って以降は、その隅々まで歩き尽くすくらいの頻度で出かけていた。

 それ以前の旅の基本は主に歴史だったのだが、それに自然の美しさや生活感みたいなものが加わっていき、いつの間にか歴史と自然とか、歴史と自然と民俗とか、何だかそういった要素が自分の興味の主流になっていったのだ。

 どこかでも同じことを書いたが、そうなってくると、例えば上高地の歴史みたいなことに好奇心が向くようになり、旧松本藩の杣人たちや梓川のイワナ採りの人たちの話なんかが気になり始め、そのうち槍ヶ岳を開山した播隆(ばんりゅう)上人の話や、この本にも出てくる上条嘉門次やその他の山案内人たちの話など興味の輪は無制限に広がっていった。

 そして、そのまま自分自身が山に入るようにもなっていったのだ。

 この本では、日本の山岳紀行の草分けとも言える田部重治が明治の頃に辿った稜線や、日本アルプスを世界に紹介した有名なウォルター・ウエストン、そして彼を案内した上条嘉門次の登山ルートなどを、今の時代に体験しながら、自然と人間、過去と現代などといった視点から考察がされている。

 同じ装備で同じものを食しながら、その困難さなどを記しているが、現代人である自分が便利というものを得た上で感じていることなどを力を抜きつつ書いているのがいい。昔の人は強かったということだが、現代人には必要がなくなった当時の苦労を振り返ることもなくなり、その弱さに気が付く機会も失っていったということか…と思ったりする。

 福井の小浜と京都を結んだ今の「鯖街道」の、原形の山道を歩くというのも興味深くて面白かった。ボクもよく知っているが、鯖街道なる名称は、ついこの前出来たもので歴史的には存在しない。

 たしかに、鯖などを運んだ道らしいが、ボクは「朽木(くつぎ)街道」という名前で認識していて、何度も書いているが、そのことは司馬遼太郎の『街道をゆく』でも詳しく紹介されていた。

 今の時代の著者が、昔のように鯖の入った籠を背に担ぎ、一昼夜で京都に辿り着けるかという試みはそれほどの成果を見なかったみたいだが、当時と同じ服装で、しかも当時のルートを歩くという設定など、多少バカバカしさもあるがそれでも楽しいのだ。

 読書がいよいよ佳境に入ってきたところで、バスの到着時間となった。続きがますます楽しみになってきたのだが、実は師走からの読書は徐々に乱読傾向に偏っていき、この本もまだ完読には至っていない。断片的に読み続けている。数冊同時進行の中で、雪解け前には完読となるのであろう……

まみむMEMO・書きくけこ

note

 会社勤めになって、25年くらいはメモ帳として大学ノートを使ってきた。

 仕事柄、“メモ魔”的な部分が大きく、大学ノートは重宝した。

 それ以前は若気の至りで、カッコいい手帳型などを使っていたが、元来が公私混同の走り書き屋なので不相応だった。

 だいたい季節が二つ過ぎると一冊が終わる。

 ノートにはタイトルがあった。初期の頃は『モロモロ・ノート』としていた。

 その後、何気にペンを走らせていてあることに気付く。それは「memo書き」と記した直後のことだった。

 「メモ」は、「まみむ・メモ」につながり、「書き」は「書き・くけこ」につながるという、言葉遊びが好きな自分としては、かなり “うれしい法則?” の発見だった。

 こうして、ボクのノートは『まみむ~MEMO書き~くけこノート』という、歯切れは悪いが、その分ニタニタとしながら呼んでもらえる名前が付けられたのである。

 メモ用という域をはるかに超越したこのノートたちは、まさしく自分の分身になっていく。書いている内容も見境がなくなり、ほとんど人には見せられないことも多くなってきて、厳重なる機密ノートになっていった(…というほど大袈裟ではないが)。

 ところが、数年前からボクの好きだった大学ノートが店頭から消え始めた。

 形状としては似ていても、もう前のような分厚さがなくなっていた。ボクにとって、あの分厚さこそがノートの大切な要素だったから、薄っぺらな大学ノートには興味がなくなっていく。

 そして、ついに大学ノートの使用はやめにしたのだ。

 新しいノートは、かなり上品になった。結局走り書きしているだけの中身なのだが、上品すぎて、時々戸惑うこともある。

 メモの内容自体も少しずつ変わってきて、“ 感情 ”が入らなくなっている。そんなもん入れる必要もないだろうと言う御方もいらっしゃるかも知れないが、そんなこともなく、ボクとしては感情が入っていないメモには、何となく淋しさのようなものすら感じてしまうのだ。

 そんなわけで、分厚い大学ノートの再来に少しだけ期待しつつ、今はその上品なノートと素っ気ない付き合い方をしていくのである……

92年秋の薬師岳閉山山行

 ※この文章は、『山と渓谷』1993年3月号に掲載された「薬師如来感謝祭 快晴の秋山行」に加筆したものです……

薬師

 北アルプス・薬師岳に初めて出かけたのは、もう10年近く前のことだ。

 恒例になっている夏山開きの登頂会に参加し、雨の中をひたすら歩いた記憶がある。

 翌日の快晴を期待しながら、太郎平小屋での豪勢な夕食と酒に酔っている間に、天気はますます悪化し、結局登頂は断念させられた。そして翌日、そのまま雨の中を下ったのだ。

 それから何年も、薬師岳はボクにとって遠い存在になってしまった。

 薬師岳の頂上に立てなかったことに対する思い残しも、いつの間にか消え失せていた。

 そして、二年前の夏山開山祭に参加するまで、ボクにとっての薬師岳は雨の中の記憶だけが残った山であった。

 それまでも、そう多くの山を登ってきたわけではなかったが、なんとなく山慣れしてきた自分にも自信のようなものが芽生え始めていた。雨の中の登行も、それなりに楽しめるという思いもあったのである。

 しかし、何年ぶりかの薬師は、またしても激しい雨の中の登行を強いてきた。仲直りの握手を求めて差し出した手を、思い切り振り払われたようなそんな仕打ちにも思われた。

 ボクは、ほとんど山は初めてという会社の同僚5人を誘い、彼らに山の素晴らしさを教えてやろうと意気込んでいた。しかし、あまりの厳しい条件に内心不安でいっぱいになっていた。

 ところが、その翌日は、見違えるような青空がボクたちを待っていてくれた。

 残雪を踏みながら、みるみる切れていく白い雲に目をやっていると、はじめに槍の穂先が姿を現した。有頂天になったボクは、パーティのみんなに「見ろ、あれが槍ヶ岳だ」と指さし、正真正銘のほがらか人間へと変身していたのだ。

 ボクの薬師岳に対する思いは、このときをきっかけにして大きく変わった。

 山は晴れてくれさえすれば素晴らしいところという自分勝手さによって、単純に薬師もボクにとっては、好きな山ということになってしまったのだった。

 それから2年後の今年、好きになった山・薬師岳に、また出かけることとなった。

 今度は夏山ではなく、10月の秋深き山行であり、なによりも薬師岳の地元・大山町山岳会が中心となった「薬師岳如来感謝祭」という記念登行会であった。

 夏のはじめに行われる開山祭で、地元・大川寺の住職が頂上に納めた薬師如来を、秋の山小屋閉鎖と同時に大川寺に戻す。その役目を地元の山岳会が担っているのだ。

 開山祭との違いは、何と言っても参加人員の少なさである。当然のことながら山では10月中旬といえば厳しい環境に見舞われる。中途半端な登山者にとっては、思わぬ事故に巻き込まれる危険性もあり、そのあたりは地元山岳会の適切なチェックがされていた。

 ボクは一般参加という立場にあったが、山岳会の会員で会社の大先輩であるTさんに連れられての参加であった。

 出発の二日前、Tさんから防寒具などの確認の電話が入った。一応準備は整っていたのだが、Tさんの入念な確認に、ボクもそれなりの対応をした。

 10月中旬の本格的な山行は何年ぶりかのことであり、かつて涸沢で味わった切ない記憶を蘇らせながら、予備の衣類などに気を配った。

 下界の天気予報では、山行予定の二日間とも雨。

 こうなれば、我慢の登行を強いられるのは覚悟しなければならない。

 ただ、今回の山行に対して、ボクはあまり天候を気にしなかった。それは、漠然としていたが、開山祭と違って少数の、しかも山慣れした人たちとの山行であるという別の意味の緊張感によるものだったのかも知れない。

 出発の朝の空は、二日前の予報に反して快晴だった。

 剣・立山・薬師のシルエットが朝焼けの空にくっきりと浮かび上がり、晴れ上がったにしてはさほど冷え込みも感じられない。絶好の秋山日和となった。

 大山町の役場の前でタバコを吹かしていると、いかにも山慣れした雰囲気の男たちがぽつぽつと集まってくる。山岳会のリーダー的存在であるKさんが、登山口までの車の配分を決めるために忙しく動き回っている。

 ボクとTさんは、大阪からやって来たカメラマン・Mさんのワゴンカーに便乗させてもらうことになった。Mさんは一見スリムで、山とは縁遠い人のように思えたが、途中の車の中での会話で、想像をはるかに超えた山屋さんであることがわかり、意外なことでつい嬉しくなった。

 登山口である折立に着くと、先発隊がすでに出発したあとだった。折立の小屋の前には、Kさんと太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんが立っている。Mさんの都合でちょっと遅くなってしまったボクたちを、ふたりは待っていてくれたのだった。

 「じゃあ、ぼちぼち行こうか……」 Kさんが余裕のある声で言った。枯葉が落ちた樹林帯の登り道は、まさに秋山の静かな雰囲気に満たされていた。

 真夏の草いきれなど忘れさせるような冷気が心地よいくらいに漂い、歩きながら交わされている五十嶋さんとKさんとの素朴な会話も耳に快く届いてくる。

 登り始めてしばらくのところで先発隊に追いつくと、一団はにわかに賑やかになった。山岳会のナンバーワンアタッカーと思われるEさんは、どうやら会のムードメーカー的存在でもあり、十一月にヒマラヤへ行くという健脚ぶりをいかんなく発揮している。Eさんの身のこなしを見ていると、もうほとんど平地との区別がないように感じられ、年齢的にはまだ若いボクを驚かせた。

 森林限界を越えた三角点のすぐ上で休憩をとり、ゆっくりと剣・立山の眺望を楽しむ。なんとなくよそ者的な自分を感じながらタバコを吹かし、会のメンバーの会話を聞いていた。

 五十嶋さんの言った、「今日でこの道歩くの今年18回目だよ……」という言葉が耳に残っていた。

 今回の山行はかなりハードな行程が組まれていた。太郎平小屋に着いて昼食をとった後、すぐに頂上を目指すという計画であって、とにかくその日のうちに薬師如来を小屋まで下ろすことが目標になっていたのだった。

 Tさんは、しんどかったらやめりゃいいさと軽く言ってはいたが、そう言われれば言われたなりに、やはり頂上へと言ってきたいと思ってしまう。休憩のあと、ちょっと出遅れて出発したボクは、やや焦る気持ちとは裏腹にゆっくりと歩くことにした。

 太郎平小屋に着いたのは正午過ぎだった。EさんやKさんはもうかなり前に着いていたらしく、外のテーブルの上には空っぽになったビールの缶が二、三本置かれている。Kさんは時計を見ながら、もう頂上へ向かう段取りをしているようだ。

 慌ただしく昼食をすませると、防寒具一式をリュックから取り出し、着込んだ。

 Kさんを先頭に頂上へと向かう。一旦、キャンプ場のある谷に下り、そこからは一気の急登となる。ボクは、キャンプ場に新しくできたばかりの真新しいトイレに立ち寄ったために、またしても遅れをとることになった。

 ようやく先行の一団に追いつきはしたが、休憩も思うように取れないまま登り続けなければならなかった。

 しばらく行くと、数日前に降り積もった雪の上の登行が待っていた。「肩の小屋」と会の人たちが呼ぶ薬師岳山荘で一息ついたが、さらにまた雪上の直登が待つ。ここはさらに切なかった。

 「往年の馬力はなくなったなあ……」と、Tさんがボクに言う。たしかにTさんがボクの前を歩くなど、これまでなかったことだった。

 やっとの思いで頂上に辿り着くと、Kさんが相変わらずの余裕の顔で迎えてくれた。

 祠の戸が開けられ、薬師如来像を直に見ながら合掌する。何度も山に登っているが、こんな経験は初めてのことだ。

 Tさんが呼ばれた。実はTさんは閉山祭にはなくてはならない存在なのだ。それはTさんが山岳会の中で、唯一お経の読める人だからであり、会では秘かに「権化さん」と呼ばれている。

 その権化さんが詠む般若心経が厳かに響きはじめると、薬師岳山頂付近が急に聖地に化した。読経が進むと、お神酒代わりのブランデーがまわってきた。小さなボトルのキャップ一杯だが、実に美味かった。

 早々に下山に移る。下りに入るとさっきまでのつらさも忘れ、今年から始めたテレマークスキーの真似事に興じた。

 太郎平に着いたのは、雲海が夕陽に染まり始めた頃だった。

 その夜、太郎平小屋は今年最後のにぎわいに沸いた。開山祭とは比べものにならない豪勢な料理が、テーブルを片付け、畳を敷いた食堂に並んでいた。中央には祭壇が作られ、再びTさんがお勤めをしたあと、全員で焼香した。

 にぎやかな語らいの中で、五十嶋さんの満足そうな顔が印象的だった。

 夜が更けても、空は明るく、かすかに薬師岳の稜線が見えていた。

 

秋、山の文化館に立寄る

吊るし柿2

 久しぶりに訪れた「深田久弥山の文化館」で、20年ほど前に書いた自分の文章三篇を見つけた。

 山の話を書くのが好きだったことを、あらためて思い出した。

 秋の色が染み込んだ館の回廊には、柿が吊るされている。庭に柿の木があって、今年はたくさん実を付けたらしい。

 案内してくれた館の女性が、「渋柿なんですよ」と、楽しそうに教えてくれた。

 以前は、この館にはよく知っているスタッフがいて、ゆっくりと話などをしたのだが、今は時折訪れても、何となく時間を過ごすだけだ。

 それでも、この場所はいい。周辺の気配も館の佇まいもグッとくる。ほんとは、もっとゆっくりできるというか、ボーっとできるくらいのスペースがあってもいいなあなどと思ったりするのだが、贅沢だ。

ミニコ~2

 数年前の暑い夏の日だった。

 太陽が照りつける旧大聖寺川沿いの道を歩いていると、どこからかオカリナらしき音色が聞こえてきた。

 特に興味があったわけではないが、その音色が山の文化館の方から聞こえてくるような気がしたので、やはり行ってみることにした。

 一緒にいたのは、ボクシングに挫折し、俳句とジャズに自身の日常を求めていた一人の青年だった。

 ボクはこの青年の持つ独特の感性に興味を抱き、彼にいろいろなモノ・コトを体感させようとしていた。

 彼は悪く言えば、世間知らずでもあった。

 しかし、そのことがまた、ボクの興味に火をつけた。そして、彼は中途半端だったそれまでの日々に終止符を打ち、一応社会人として人の役に立つことを覚え始める。

 その後、やさしくて、可愛くて知性に溢れた一人の女性と知り合い結婚もした。

 数ヶ月後には子供の親にもなる……

 夏の日差しを受けながら、山の文化館の門を過ぎると、左手のデッキにオカリナ奏者の姿が見えた。

 わずか数人の聴き手しかいなかったが、それがまたこの場所にふさわしい雰囲気を作り出し、ボクらも静かに聴き入ることにする。

 気が付くと、彼は数歩前に歩み寄っている。そして、何かに取りつかれたようなその姿を見たとき、ボクはこのニンゲンはホンモノだなと感じた。

 いつも前向きでなくては世の中面白くないということを、彼は今もボクに教えてくれている……

吊るし柿4

今回の京都(4/4) ここでお終いにしよう

大徳寺の境内

 四条まで歩いて地下鉄に乗る。京都駅に戻ると、もう夕暮れ時だった。

 伊勢丹の地下、つまり「デパ地下」でおかずを調達し、コンビニでビールも揃えてホテルへと向かう。

 京都ではめずらしいワイルドなディナーになりそうでワクワクする。家人も心の底から楽しそうだ。

   ホテルのロビーは多国籍宿泊者で、昼来た時以上に混雑状態。持ち込み荷物を極力控えめに抱え、満員のエレベーターに乗り込んだ。

 翌朝は、桂の次女宅へ。そして、次女も連れてまず広隆寺へと向かった。

 例の弥勒菩薩(半跏思惟像)さんに会いたかったのだ。ただ、実際に宝物館に入ってみると、心を奪われたのは弥勒菩薩さんよりも、大きな千手観音さんたちであった。

 ここでも合掌しながら「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟く自分がいた。

 見上げる視線の先に、見下ろす仏様の高貴な目がある。すべてを見透かされているかのようなその目の奥へと、自分の中にある何かが吸い上げられていく力を感じる。じっと見つめていれば、その吸い上げられていく何かが「自分自身の悪」のようなものにも感じられて、しばらくじっと目を離せなくなる。

 特にかなり傷みの激しい巨大な坐像には、ひたすら従順になるしかなかった。

 こういうところに立たされていると、素直に仏の力は偉大なのだと感じる。何を教えられてきたわけでもないのに、その目に見えない説得力に自分を押さえてしまう作用がはたらく。そして、何だか急に自分自身を反省したり、未来を安泰にしたがったりするのである。

 そして、さらに言うならば、日本人にとっての仏様という存在は、世界中のどんな宗教環境においても、最も静かで奥ゆかしいものではないかと勝手に思ったりする。

 見つめるとか、合掌するといった行為の美しさを、我々日本人はもっと大切に受け止めるべきなのかも知れないのだ。

 外は前日に続いて快晴。空が眩しい。

 大徳寺へと向かう。大徳寺は、北区の紫野(むらさきの)という美しい名の付いた町にある。

 このサイトの名前にもなっている『ヒトビト』という雑誌を出していた頃、京都の出版社に勤務する女性ライターが寄稿してくれていた。その彼女が住んでいたのが、この紫野で、大徳寺のすぐ近くだとよく語っていたのを思い出す。

 背がかなり高く、酒もかなり強く、言葉にかなりチカラがあり、今風に言えば、かなりのアナログ派で、自然の成り行きなどを素直に受け入れながら優雅に生きている人だった。

 もう一人、同僚の女性も寄稿してくれていたが、この二人が揃うと実にパワフルであった。二人とも、もうかなりのおばさんのはずだ。

 大徳寺は二度目だ。一度目は、金沢の前田家についての仕事をしていた時。大徳寺の中にある、おまつさんの芳春院を見に来た。ただ、その時は中に入ることもできずに、外観だけを見て帰ったのを覚えている。

 今回は、大徳寺の多くの塔頭が公開されていた。一応目的場所にしていたのが高桐院(こうとういん)という小さな寺。

 細川家の菩提寺であり、ガラシャさんの墓があることで有名らしいが、こちらはそのことをあまり期待していたわけではない。何となくこじんまりとした寺の雰囲気などに浸りたいだけだった。

 しかし、京都の連休、しかも塔頭が公開されているという大徳寺。静かな散歩などは望むべくもなく、ましてや落ち着いて庭を眺めるなどといった贅沢も期待してはいけない。

 それでも広い境内の中の道を歩いて行くと、まず大徳寺という寺の凄さが感じられてきた。広さだ。前に来た時に全く感じなかった不思議さを思いながら、足を進める。ずっと奥に、めざす高桐院があった。

 高桐院はアプローチが美しい。その美しさを一度は見ておきたいと思ってきた。境内の道から少し入ったところで、左に折れながら門をくぐる。すでに見えているが、その奥の竹林が美しく、門をくぐってすぐにまた右に曲がる。距離は全く短い。

 その道がこじんまりとまとめられた、何とも言えない美しさを醸し出している。目で見ているだけの美しさではない、何か体で感じ取るような美しさだ。多くの人が列を作って進んでいく。中には写真を撮るために立ち止まり、列の流れを止める人もいる。せっかく来たのだから、写真ぐらい撮らせてやろうと思う。

 そういう自分もちょっと脇に外れる場所があったので、そこからゆっくりとカメラを構えさせてもらった。人がいない時のイメージが強く、かなりがっかりしているが、贅沢は言えない。

高桐院参道

 中へ入ると、これまた凄い人。昔のこの古い佇まいでは、入場制限でもしないと床が抜けたりはしないのだろうかと余計なお世話に思いがゆく。

 少なくとも、自分の周囲にいる多くの人たちはアジア系だ。京都が、アメリカの旅行雑誌が選んだアジア第一の観光都市であるということを裏付ける光景だ。中国か台湾の観光客たちが、中国の影響を強く受けた日本人の絵画や書を見るというのは、どういう感情なんだろうと、また余計なことを考えた。

 高桐院の庭は質素で、一旦体を庭の方に向け腰を下ろしてしまうと、妙に落ち着いた。

高桐院庭

 灯篭が立つが、ガラシャの墓を模したものだという。本物はさらに奥、庭に下りてすぐのところにある。

 詩仙堂でも感じたが、この小さな佇まいと、それを囲む想像以上に広い庭のバランスがいい。しかも樹木に被われた庭は一望できずに、その奥行き感は歩いてみないと分からない。

 かつてここに住んでいた人たちは、その奥行き感を当然知っていて、隅々にまで神経を注ぎ花々などを楽しんだのだろうと想像する。もちろん、もうすぐ訪れるであろう紅葉のあざやかさも、降り積もる雪がもたらす静寂の中の空気感も楽しんでいたことだろう。

 今はとてもそのような状況ではないが、ひたすらゆっくりと自分を制し、想像力を働かせるしかない。

 次女が空腹を訴え始めるが、何とか宥めて、せっかくだからとあと二つ三つ見て来ようということになった。

 緩やかな斜面に並ぶ塔頭の間の真っ直ぐな長い道を、ゆっくりと歩く。学生時代にこの辺りを歩いたことがあるという次女も、ここがこれほど広かったのかと不思議がっている。

 我々三人は、それから割りとこじんまりとした寺院ばかりを選んで中に入った。そして、そのどこでも美しい庭や質素な佇まいと出会った。

 京都は頑固に思いを整えてくれば、やはりそれなりに楽しみを提供してくれる。今回はこじんまりとした寺にこだわってきた。建仁寺のように単体として大きなところもあったが、お目当ての一品や庭などに的を絞れば、それもまたこだわりであった。

 腹が減った我々は、それから北山の方へとクルマを走らせ、青空の下で京野菜の畑が並ぶ中に建つ、地元健康食材が売り物らしきこじんまりとしたレストランで、ガーリックライスのランチとしたのである………

ガラシャの墓高桐院屋根石の鉢・龍院の庭・龍院の小さな庭

今回の京都(3/4)今日の終いは、建仁寺

建仁寺の瓦

 今日はまだ終わっていない。

 強い日差しを受けながら、詩仙堂・小有門のちょっと上にある駐車場まで戻り、クルマでとりあえずホテルに向かうことにした。クルマの運転から解放されたいのだ。

 当然すぐにでも昼ご飯を食べなくてはならない。全く当てもなく坂道を下っていくと、突然小さな看板が目に入った。いかにも京都らしいメニュー写真。

 “中谷”という歴史のあるお菓子屋さんだった。お菓子屋さんにカフェがあり、昼ご飯セットもある。咄嗟に隣席の家人が、駐車場のあることを確認した。狭い駐車場の三台のうちの一台が空いていた。食事中か買い物中のお客さんを待つタクシーの運転手が、わざわざスペースを空けてくれる。京都の“おもてなし”だ。

 お粥と餅の入った味噌味?の吸い物と、豆腐と…、それから食後は栗のモンブランと上品な味のコーヒーをいただいた。この店は、和洋両方の菓子を製造販売している。

 いい気分になれる店だった。若い何代目かのご主人も、いかにもお菓子屋さんの跡取りといった柔らかな雰囲気で家人を喜ばせていた。

 さて、駅近くのホテルにとりあえずチェックイン。目的はクルマを置きたいだけだったが、大きなホテルだけあって人が大勢いる。クルマを横づけにして、ボーイさんに聞いてみると、クルマはすぐ目の前のかなり幸運な場所に停めることが出来た。時間が異様に早かったので、そのことが却ってよかったみたいだ。

 再びホテルを出たのが、3時半頃だったろうか。もうひとつ楽しみにしている寺があった。禅寺・建仁寺だ……

 場外馬券の売り場も隣接し、人でごった返す花見小路の方から入り、いきなり法堂で本日の目玉と対面。

 撮影は自由ですと、敢えて大きな声で案内を受ける。俵屋宗達の『風神雷神図屏風』が正面に見え、その左手前にダウン症の女流書道家・金澤翔子さんの書『風神雷神』が展示されている。

風神雷神・屏風風神雷神

 最新のデジタルプリント技術によって複製された屏風の美しさに見入る。金箔のテイストが本物以上に金という色の特性を現しているような、もちろん本質的なことは分かっていないのだが、そんな錯覚?に陥った。

 自分の仕事柄や、何人かの友人たちにこのような関係の仕事をする者がいるが、自分としては、これは正しいやり方だと思っている。作品の素晴らしさを製作時の雰囲気と合わせて伝えることには、文句なしに意味があると思う。

 本物の展示は、時として本質を伝えていない時がある。特に褪色や傷み防止などに厳しい条件が付けられ、明るさの制限など、鑑賞する者にとっては決して望ましい状況でないことが多い。

 しかし、この屏風にはそんな心配は要らないのだ。前に立って、堂々とカメラを構え、鑑賞することよりも撮影することだけを目的にしたような人たちも大勢いた。

 人の波が一度静かになったところで、ゆっくりとカメラを手にした。真正面にしゃがんでカメラを構えると、とりあえず瞬間的に人は入って来られなくなる。何度もシャッターを押した。レプリカとは言え、国宝に向かってこれだけシャッターを押せるなど滅多にない。

 さて、金澤翔子さんの書である。屏風の絵をそのまま書で表現したような文字のレイアウトに“なるほど”と、まず唸る。それから表現された筆致について、“ふむ”と考えた。

 もう一度、屏風に目をやり、そして“そうか”と納得。この筆致は、雷神・風神という二人の神の表情や動作などがインスパイア-されたものだと確信した。

 800年を越えた臨済宗の本山。京都という都市の中で生かされていく、偉大な寺院のポテンシャルというのはこういうものなのだろうかと思う。奥へ進もう。

 人の数に京都の、しかも連休の初日を思った。これまでにも何度もこういった状況の中で京都を楽しんできた。無理して二人の娘を京都の大学に送り込んだことで、我々は京都にかなり慣れ親しんでいる。親としては、それなりに“してやったり?”なのかも知れない。

 さて、建仁寺は庭もいい。それも中庭がいいと聞いている。

 四方から眺められる「潮音庭」が気に入った。人の多さにじっくりと座れるまでには時間を要したが、中央に「三尊石」と呼ばれる庭石を眺めるのは格別だった。その隣には「座禅石」。まだ紅葉には早いが、質素で頑固な禅庭のイメージを強く意識させられる。ぐるりと回って回廊を下るあたりも上品で、脇の小さな部屋で写経する人たちの押し殺した息が伝わってくるようだ。

庭石を見る庭と回廊回廊退き

 建仁寺はまだ終わらない。もう西日が色濃く差しはじめ、空気もやや冷たく感じられるようになった頃、法堂であの天井画と初の対面だ。

 入ってすぐに、大きな柱の間から10年ほど前に作られたという巨大な双竜の図を見上げる。開創800年を記念しての一大事業。こうしたことが現代において実行されているのが京都の凄いところなのだ。やはり都だ。やはり、日本に京都があって良かった。

天井画と明かり

 足を進めていくと、正面奥に釈迦如来坐像が光り輝いていた。自分でもこの建仁寺に今まで来ていなかったことを不思議に思いながら、ゆっくりと合掌した。

 生まれて初めて、「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟いた。一瞬だが、まわりの人の声も聞こえなくなった気がした。今回の京都は、まだ終わらない……

勅使門木魚と屋根庭石と日差し天井画庭を見ている人たち天井画と仏像

今回の京都(2/4) そして、曼殊院門跡へ

曼殊院門跡前

 詩仙堂から15分も歩けば、曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)に着く。

 15分というのは大した時間ではないが、この日は10月の半ばだというのに30度位の気温があり、日差しも強く、さらに空腹も手伝ってか、思った以上にきつく感じた。

 道は山裾の住宅地のはずれをゆく。右手が小高い傾斜になっていて、左手には見下ろすというほどではないにしろ、京都の街並みが見えている。途中にも寺などがあったりして、静かな場所だ。

 最後の曼殊院道に出て坂道をしばらく行くと、両側に木立が並び参道の雰囲気が濃くなった。左手の神社で、幼い子供が父親と一緒に遊んでいる。この近所に住んでいるのだろうかと想像するだけで、その環境のよさに羨ましさが募った。

勅使門

 奥の石段の上に山門が見える。由緒正しさが伝わる凛々しい勅使門だ。何しろ「門跡」というのは、皇族・貴族などが出家して居住した寺院のことをさすのだから、凛々しいのは当たり前だ。

 その勅使門前を左に折れ、さらに右に折れると通用口。入り口になる庫裡は重要文化財だという。

 曼殊院がこの地に移ったのは江戸のはじめの明暦2年(1656)。8世紀におこり、12世紀のはじめに現在の名を称するようになった。

 虎の間で、狩野永徳筆の虎の絵が描かれた襖などを薄らぼんやりと眺めた後、奥へと進む。ガラス張りのぽかぽかする回廊を通って、大書院へ。江戸時代初期の代表的書院建築というだけあって、バランスの良さに心地よさを感じる。

 庭園を見るその視界の構成がいい。レベルの高い京都の寺では、こうしたことが当たり前のように出来ていて、だからこそ飽きさせないのだと思ったりする。

 大書院には、本尊の阿弥陀如来さんが静かに立たれていた。

 縁側には赤い毛氈が敷かれていて、その赤さが日差しを受けて眩しいくらいに際立つ。すぐには座ろうとはせず、先の小書院の方にも足を向けてみた。やや寂れた感じが、この京の中心からかなり離れた位置関係とも合うような気がして、余計に心を落ち着かせる。

 もう名前も忘れてしまったが、大学を出たばかりの頃、奈良の山寺に出かけたことがあった。バスに乗り、一日にひとつの寺しか行けないような行程だったが、とても満足したことをよく覚えている。今はクルマで自由に動けるが、その時はそれが精一杯だった。そして、それがよかった。

 ほんの短い時間、そんな思いに浸った。そして、あらためてゆっくりと庭を眺める。

 水の流れのような白砂の美しさなのである。樹齢400年という五葉の松は、鶴をかたどり、地を這うように幹を伸ばしているのである。

 日差しは強く、空は普通に青い。白くて柔らかそうな雲たちが、甍の上を流れていく。

 しかし、何とも言えない幸福感に文句などないはずなのだが、如何せん、無情にも、ただひたすら腹が減っていたのだ。

 曼殊院という名前の響きから、白くて中にあんこの入った、あの丸い和菓子を想像してしまった自分にも責任はあったのだが、このことは致命的だった……

曼殊院門跡庭白砂五葉の松曼殊院門跡廊下甍と雲

今回の京都(1/4) 詩仙堂から

小有洞

 今回の京都は、詩仙堂の小さな門から、いきなり始まったような気がする。

 京都東インターから山科あたりの混雑も、南禅寺周辺の慌ただしい気配も、一乗寺という土地に近付いていくうちに、何となく目的地への予感みたいなものに変わっていた。そして、狭い道へと右折して登りに差しかかった頃からは、それは現実のものとなった。

 小有洞(しょうゆうどう)の門というのが正式らしいが、その小さな門は苔むした屋根にさらに夏草を茂らせ、背景の緑と溶け込んで見える。門の奥へと緩く登る石段の参道もシンプルで美しい。

 時計は午前11時過ぎ。まだ人もまばらだと石段を登る。石段を登ってすぐに通路は直角に折れ、さらに門をくぐって堂の中へ。

 人はまばらと思っていたが、やはりそれなりにいた。小さな、そして至って質素な庭に向かい座っている。

 凹凸窠(おうとつか)というのが全体の名称であり、詩仙堂というのはその一室のことをさす……ということが、パンフレットを開けてすぐに分かった。凹凸窠というのは、で こぼこした土地に建つ住いを意味するのだそうだ。

 そのことは、庭に下りてみるとよく分かる。堂は小さいが、庭は意外にも広い。しかも堂から離れれば離れるほど、下っていくことになっている。小さな堂は、庭木に阻まれて屋根が見える程度だ。

 獅子おどしの音が痛快に響き渡っていて、10月半ばとはいえ、秋にはほど遠い完璧な緑の中に吸い込まれていく。ところどころに咲く花たちも上品だ。

 もともとは徳川家の臣であった、石川丈山(じょうさん)という人が造営した。人生の最後を、と言っても30余年という長い年月を、清貧の中に文人として過ごし、90歳まで生きたとある。隷書、漢詩の大家、煎茶の開祖とも紹介されている。

 そんな丈山の生きざまは、もう一度堂に戻り、庭を見た時に薄っすらと想像できた。座敷の細く見える柱も、小さな灯篭も、清貧の中で学ぼうとする丈山そのものに見えてくる。

 書き忘れていたが、造営されたのは江戸初期の寛永18年(1641)。丈山、59歳の時。まさに今の自分と同じ歳。

 愚かにも、今からの30年をこれほどに濃いものにできるかと自問するが、答は当然、できませんだ。

 帰りにもう一度、小有洞の門の外から石段を振り返る。また静かな時に来いと、丈山が言ってくれているような、いないような……、とにかくどちらにせよ、また行くことになるのは間違いないとだけ思った……

堂

石垣上品な花獅子おどし花の道灯篭と柱庵質素な庭

ドラマー少年だった頃

stick

 小学校高学年の頃、我が家の後ろに繋がる撚糸工場の空きスペースに、ギターのアンプやドラムセットが置かれていた。高校生だった兄が“エレキバンド”をやり始めた頃で、休みになると、そのスペースが練習場になっていた。

 エレキバンドはそれなりにどころか、かなりうるさく、練習場を探すだけでもむずかしい。今ならスタジオを借りれば済むが、時代的(60年代中頃)にも地理的にも、当然そんな場所など身近ではない。だから、撚糸工場という盆と正月以外一年中機械が動いている場所は、ある意味、バンドの音を吸収してくれる格好の練習場でもあったのだ。

 ギターはもの心付く頃から触っていたが、ドラムセットを初めて見た時は胸がときめいた。バスドラの正面に描かれた「Pearl」の文字もカッコよかった。だから、叩いてみたくて仕方がない。

 当然、誰もいない時を見つけて軽く叩いてみる。ませガキだったので、見よう見まねで何とか形になる。もともと家には洋楽ばかり流れていたが、当時の兄はとにかくベンチャーズだった。聴いているだけの頃は、ビートルズだったのだが、自分がギターを弾き出すとベンチャーズになった。当然のごとく、ボクの耳にも自然にベンチャーズが入り込むようになる。

 バンドをやっているせいか、ベンチャーズを聴くのは特にライブ盤が多かった。当時は“実況録音盤”と言っていたが、スタジオ録音と比べると全く音質が違う。ライブになるとギターがFUZZを使った重い音になってサウンドが厚くなるのである。

 兄は金沢やその周辺でのコンサートには欠かさず行っていて、よく話を聞かされた。ベンチャーズはとにかく巧い。四人がステージ上、横一列に並ぶ。うろうろと歩き回ったりせず、ただひたすら、余裕さえ感じさせながら名演を披露する。そんな感じだった。

 ステージのパフォーマンスとして、兄が興奮しながら話していたのが、ベースの弦をドラムのスティックで叩きながらの演奏で、その様子を伝える写真や音は、じっと聴き入ったのを思い出す。このパフォーマンスは、ベンチャーズの十八番だったのだ。

 ボクはその頃(小学校の高学年)に、兄の友人に連れられて、アストロノウツというバンドのコンサートに行った経験がある。兄が急に行けなくなり、代わりに連れて行ってもらったのだ。『太陽の彼方』という超ビッグヒットをもつバンドだったが、その時の生エレキサウンドのインパクトは凄かった。

 話を戻そう。

 いつの間にか、それなりに、ボクはドラムの基礎中の基礎を身に付けていった。

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 ある時、兄が弾くギターに合わせて叩いてみるチャンスが訪れる。曲はエレキサウンズのバイブルとも言うべき、『パイプライン』だった。自分でも驚くほどに“サマ”になって?いた。兄のバンドのリード・ギターリストMさんがやって来て、セッション風の練習が始まった。Mさんは、ちょっと長髪のカッコいいお兄さんだったが、ギターも抜群に巧かった。

 ベースはいなかったが、リードとリズムの二本のギターが揃うだけで、音は一気に厚みを増す。アンプもかなり大きめのものを使っていたので、初めて二人まとめたギターの音を聴いた時は耳が痛くなった。

 もう一度『パイプライン』が始まる。所謂“テケテケ”なのだが、ライブのイメージでは“ズグズグ”といった感じで重い。そのあとにお決まりのフレーズが繰り返され、コードをジャーン、ジャーンと弾いてMさんがお馴染みのメロディを弾きはじめた。

 参加していいのかどうか分からないまま、スティックを持って二人を見ていると、兄が顔をこちらに向けて催促してくる。邪魔してはいけないと思いつつも、それなりに自信をもっている自分がいることも事実だった。

 兄の顔がちょっときつくなり、早く入って来いという目付きになった。恐る恐る右手のスティックでシンバルを小刻みに叩きながら、左手のスティックはスネアに。何秒かして、兄の顔を見ながらMさんがかすかに笑った。いや、笑ってくれた。

 このことが勇気づけた。ベンチャーズは、いつもライブ盤しか聴いていないから、スタジオ録音の『パイプライン』のように、柔らかいサウンドは馴染んでいない。だから、ボクもライブ盤で聞こえてくるように、シンバルにもスネアにも力を入れた。

 “ン、タタ、ン、タ”のリズムに、タイミングよく“タカタンタ”を入れたりして調子が出てきた。

 Mさんの表情がまた緩んだ。やったなと思うと、バスドラにもハイハットのリズム感にも自信が出てくる。曲が『ダイヤモンドヘッド』に変わっても、基本はほとんど変わらない。

 こうして、ボクの影武者ドラマー体験は始まった。

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 再び、突然影武者ドラマーのオファーがかかったのは、それから3年後だったろうか。時間的感覚が鈍っているが、中学の二年生だった…はずだ。兄のバンドは、いつの間にかローリング・ストーンズのコピーバンドに変身していて、地元ではそれなりに売れている雰囲気だった。そして、ドラムの人がケガか何かで叩けなくなったのだ。

 グループサウンズの時代、ボクはその頃からジャズも聴き始めていたのだが、いきなり連れて行かれた町はずれの砂取り場の、壊れたバスの中でドラムを叩くことになった。

 ボクの生まれ育った町は砂丘地にあり、今から振り返れば、とてつもなく広い砂取り場が周囲にあった。その奥の一画に古びたバスが置かれていて、その中がバンドの練習場だったのである。もともと砂取り作業に来ている人たちの休憩場所だったのだろう。

 それは本当に突然やって来た時間で、兄から言われるまま(実際、兄には逆らえなかった)に、晩飯を終えると、その砂取り場のバスへと向かった。

 今でもはっきり覚えているが、最初に始めた曲はストーンズの『テルミー』だった。

 それなりに明るくされたバスの中で、縦に独りずつ並び、ドラムが最奥。その前にボーカルが立ち、その後ろにベースとギターが二人。みなドラムの方、つまりボクの方を向いていた。

 『テルミー』という曲を知っている人なら分かるが、原曲ではイントロにアコースティックな音のギターが入り、すぐ後にドラムが入る。静かな曲なのだが、やはりここでもライブ感覚がベース。

 兄がギターを弾きながら力いっぱい叩けと言う。曲が進んでいっても、ドラムが弱いと何度も言われた。すぐに感覚的に分かってきたが、とにかくスネアにスティックを叩きつけるのである。そして連打のところでも、思い切りよく叩くのだ。

 『サティスファクション』でも、最初は同じように言われたが、すぐに感覚が体に沁みてきた。ドラムセットが大きく揺れるほどになってくると、ようやく合格点だった。その頃はかなり音楽にのめり込んでいたので、自分のドラムがバンドの勢いを生んでいるみたいな感覚が分かった。レコードで原曲のドラムを聴くより、自分の感覚で叩く方がいいような気がしていた。

 暗闇の中に怪しい明かりを洩らすバスというのは、中学二年の中途半端な男の子にとって、かなりスリリングな世界でもあった。なにしろ、野球部の丸坊主アタマ、しかもその頃、どういうわけか生徒会の副会長なんかもやっていて、一応品行方正っぽい印象を放っていた。

 実体は、その頃から石原慎太郎なんぞを読み始め、世界を斜視するような、一種のヒロイズムみたいなものに憧れる扱いにくい少年だった。そんな少年だったから、ドラムの世界には自分を満たしてくれる何かがあるような気がしていたのかも知れない。

 一週間もやれば、自分でもほとんど違和感がなくなり、かなり決まってきたなという感じになった。そして、そんな時、突然、兄から次の土曜日、となり町の体育館で演奏会やるから出ろと言われた。さすがにびっくりだ。

 練習のための影武者ドラマーとして軽く考えていたので、驚いて当然なのだ。ボクはすぐに出られないと答えたが、兄の論理では、皆そのために練習してきた、お前の勝手は許さん…だった。しかし、兄の要請は絶対に受けられなかった。実はその日は生徒会が開催される予定になっていたのだ。生徒会のために部活も遅れていくという、そのことにも気後れがあったのに、生徒会も出ないで、小さな町の体育館でドラムを叩いているなどは、とてもできることではなかった。

 結局、その話が出てから、ボクは影武者ドラマーを首になった。兄のバンドが演奏会に出たのかは知らないままだった。

 ふと体がドラムを叩いていた頃の動きをすることに気が付くことがある。今もメンバーを変えて活動を続けるベンチャーズの演奏をテレビで見て、CD(廉価盤500円)を購入。名曲『十番街の殺人』が流れてくると、イントロのタムタム、フロアタム(かつてはバスタムタムと呼んでいたような)を同時に叩く動作が自然に出てきた。

 生意気に、子供の頃からドラムを叩いていたという話だが、その頃の印象を言葉にすると、“スリル”という表現がぴったり合っていたと思う。スリルとは演奏そのものと、当時のバンドをやっているニンゲンたちへの視線みたいなものとが合体したイメージだ。

 ただ、そんなスリルを味わいながら、それ以上の楽しさをも感じ取っていたことだけは間違いない……と、しておこう。

白虎隊の墓前に立って

白虎隊の墓

 

白虎隊の墓の前には、いつも人がいます。

と、地元の人らしい誰かの声が聞こえた。

一見、観光地としてしか見えない飯盛山。

わずか、140年ほど前か…と、

頭の中で、何度も呟いている自分がいる。

十代半ば過ぎの少年たちが、図らずも、

美しい日本人の心情を示すことになり、

美しい日本人の象徴のひとつとなってしまった。

この出来事を知らない日本人は少ないだろう。

ただ、悔しいのは、彼らがあまりにも若過ぎて、

奪われたものは、誇りなどだけでなく、

“未来”だったということだ。

普通に考えれば、残されていた人生の方が、

ずっと長かったということだ。

彼らが自決した場所からの会津城は、

予想していたよりも、はるかに小さく見えた。

そのことがまた胸を打ち、彼らの決意を想像させる。

その城や城下の惨状から彼らは自国の敗北を悟り、

生き恥をさらしてはいけないという教えを守って、

自ら命を絶つことを決意した。

わずか、140年ほど前の出来事なのに、

はるかずっと昔のことのように思えるのは、

日本がその直後から急激に変貌していくからだろう。

しかし、墓の前に立ち、

目を閉じて深々と手を合わせる人たちを見ていると、

日本人はやはり何も変わっていないのではないだろうか、

と、思ってしまう。

やはり、会津は不思議な国だ……

 

会津を旅するということは

 

石垣と堀と枯れゆく草

会津若松は不思議な街だった。

NHKの『八重の桜』を毎週欠かさず見ているが、その影響もあって、自分の中にも会津という国自体への“同情”みたいなものと、“憧れ”みたいなものが生まれていた。そして、会津を訪れてみて、それがものの見事に自分の中で形になっていくのを感じた。

司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、戊辰戦争時に会津で起きた出来事は、歴史上、全国どこにも例のないことだという意味のことを書いている。それは、最も不幸な結末に至った国という意味でもあり、読みながら体の中が熱くなったのを覚えている。

圧倒的な数の官軍に迫られ会津藩は、最後の籠城戦を決意した際、婦女子にも城内に入るよう指示を出していた。しかし、食料を浪費してしまうだけと判断した多くの婦女子は、敢えて城に入らなかった。そして、彼女らは敵が迫るに及び自ら命を絶つ。

藩の家老・西郷頼母の妻や娘たちが自刀した話は、あまりにも有名だ。

そして、日本の悲劇を象徴するような、白虎隊の少年たちの死。彼らもまた、自ら若い命を絶っていることが虚しい。

その後、会津藩はその存在をも打ち消されるように、国名も失い、下北半島の端へと移される。しかし、厳しい自然条件のその土地も、決して藩士やその家族たちをやさしく迎えてはくれない。そこでも多くの会津人が命を落とす。

廃藩置県が施行された後も、会津若松には、結局、県庁は置かれなかった。何よりも、“朝敵”とされた不名誉は、誇り高い会津人にとって、どれほど悔しかったことだろう。

会津城

 会津を観光するというのは、そういった会津の人たちの無念さに浸ることだ。そして、その不運や不幸の中からも、人間は必ず希望を見つけたり、勇気を振り絞るということを発見することだ。そして、さらに、新しい時代の中に、山本覚馬をはじめ多くの偉人を輩出させた会津の魂に触れることでもある。

今回会津で、旧東京帝大や旧京都帝大の総長を務めた山川健次郎などの人物像に触れた。

大河ドラマにもあったように、彼らは戊辰戦争の最中、家族によって家名を守るためや自身の未来を拓くために生かされている。そして、このような逸話が美しいのは、小説や映画の中ではない事実として伝えられているからだ。

会津には、磐梯山もあり、猪苗代湖もあり、いい温泉もある。鶴ヶ城、日新館、御薬園、飯盛山、その他、会津を知る術が多く残されている。

西から追いかけてくる台風を逃げるように、忙しなく会津に向かっていたが、会津は青空で迎えてくれた。

何だか、不思議な勇気を、いっぱいもらったのだ……

 

白虎隊の墓日新館1西郷頼母邸御薬園山川健次郎

 

歴史が好きだから思うこと

歴博の夏

 

夏真っ盛りの午後、本多の森の歴博の展示室を緑の隙間から見ていた。

中を見たかったというわけではなく、周囲を歩きたかった。

煉瓦壁の、夏でも涼しげな雰囲気が好きだ。

汗もかかず、いつもサラサラとした肌触りをイメージさせる。

歴博の窓の奥には明かりが見えた。その下で、石川の歴史が語られている……

 

もともと歴史、特に日本の歴史が大好きだった。

NHK出版の「知られざる古代」などから始まり、武田信玄を軸にした戦国時代が最も盛り上がった。

奈良や京都の古寺や古道もめぐり歩いた。

司馬遼太郎との出会いによって、街道めぐりもした。

宮本常一を知って、さらに農村や漁村、一般民衆社会の歴史にも心を傾けた。

宿場はずれの松の木を見ていると、そこを通り過ぎて行った旅人たちの思いも伝わってくるような、そんな感性も持ち合わせているような気がした。

ずっと信州の上高地を、自分にとっての聖地のように位置付けてきたが、それは風景の美しさだけでなく、上高地の歴史を知るようになったことも大きかった。

たとえば、人気のない梓川の川原に立つと、旧松本藩の林業に携わっていた杣人たちの姿や、W・ウエストンを導いた上条嘉門次など山案内人たちの表情が想像できた。

空気がその時代に戻ったような感覚になり、どのような場所にいても、今自分は時の流れの中にいるのだと考えるようになった。不思議な感覚だった。

ついでに見境なく書くと、野球の歴史やジャズの歴史などにもかなりのめり込んだ。

仕事の上でも、展示施設の計画などには、まず歴史を第一に考えるようになる。

ヒトにも、土地にも必ず歴史があり、それは絶対に外すことのできないものであると認識していた。

歴史とはそんな存在だったのだ。

 

…… 最近、「歴史認識」という言葉をよく耳にするようになっている。

歴史にはひとつの事実しかなかったはずだが、後に何とおりもの解釈が生まれる。

それで普通だと自分では思っていたのだが、どうやら「歴史認識への認識」という点にポイントをおくと、歴史を考えるということが少し面倒臭くなった感じだ。

歴史小説の作家たちが、自分の解釈であれやこれやと物語化していくのを読み、それはないだろうと思っても、それを歴史認識が……とは言わない。

政治家が動くと、歴史認識がどうのこうのといった話になる。

だから、身近に戦争、特に第二次大戦とか太平洋戦争という事件を考えさせられると、そのことを歴史というカテゴリーに入れることそのものに、ボクは抵抗してしまうのだ。

もともと平安期と、明治から昭和の戦前までが、唯一好きになれない日本史のゾーンだった。

明治維新後、清もロシアも打ち破って、日本は一応強国の一員となっていくが、そのことにより却って少しずつおかしくもなっていく。

司馬遼太郎も書いているように、日本にとっては、帝国陸軍の横暴さが増長していく暗い時代なのだ。

明治維新はそういう意味で、どうも胡散臭い。

アジアへの侵攻などという言葉には寒気がするし、現にそういったことが新政府の課題として生まれてきたことに大きな疑問が生じる。

古くは白村江の戦いというのがあり、秀吉の朝鮮出兵もあったが、日本人は何を基本に考えてきたのだろう。

明治政府軍の将兵たちは新式兵器の効き目に陶酔し、無力な反体制派(彼らが称した朝敵)の国を徹底的にぶちのめして、のし上がっていった。

歴史という言葉を使うから、美しく聞こえたり、同情的に解釈されたりするが、こういったひとつひとつの“事件”は、かなり恐ろしい要素を持っている。

たとえば、信長の比叡山焼き討ちなどの行為を、信長ファンどころか、一般の人たちも決して否定的に見ていないことにずっと疑問を抱いてきた。

武田信玄の武将としての才能と、為政者としての才能を中心に据えてきたボクとしては、信長は軽石みたいな存在としてしか見えない。

そして、日本における最初で最後の無差別大量殺人の首謀者であるのに、現代ではヒーローなのである。

さらに、信長は重要な家臣であったはずの明智光秀によって殺されている。

つまり、信長は人望もなかった。あのように無残な反抗を受けるくらいであったということは、かなり低次元な指導者であったとも考えられる。

ただ高圧的に、家臣たちを押さえつけていただけで、情けをかけることも知らなかった。

北条早雲や斎藤道三のような下剋上の例はあっても、憎しみや切迫感だけによって、あのような最期を遂げたのは信長くらいではないか。

日本人は、そんな男をヒーローにしている。

その後の秀吉も家康も、信長派の流れを汲むことから、歴史は、信長を悪人にしないまま甘やかし、そしてヒーローにしてきたのだ。

ちなみに、信長がかなりの強運のもとに命拾いをしてきたことは、戦国時代に造詣の深い人なら知っているだろう。

戦国最強と言われた信玄は、信長を都から蹴散らすために軍を進めていた途上、持病の労咳が悪化し死んだ。

もうひとりの猛将・上杉謙信も、その数年後にこの世を去り、信長は蹴散らされずにすんだ。

信玄上洛の報を受けた時の信長は、間違いなく乱心したことだろう。

 

話はちょっと外れ気味に進むが、ボクは、ジャズも好きだし、ベースボールも好きだし、西部劇も好きで、もっと言うとカリフォルニアのワインも好きだ。

アメリカという国と仲良くなかったら、ボクの人生は決して楽しいモノにはならなかったかも知れない。

しかし、今この話題の中で語るアメリカという国には大いに疑問がある。

アメリカ自体へというよりは、アメリカに対する日本人への疑問と言えばいいのかも知れない。

アメリカはかつて、大戦末期に日本本土の多くを空襲し焦土化させた。

とどめは、広島と長崎へ原爆まで落としていった……

一般市民の犠牲者数は、歴史の上でもケタ外れである。

しかし、日本人はやはりアメリカを、多くの自国民を殺害した国として見ていない。

アメリカの攻撃は仕方なかったという思いなのだろうか?

だとすれば、自分たちが近隣諸国にしたとされる愚行の責任も認めているということなのか?

信長もアメリカも、日本ではヒーローなのだ。

このことがボクの考える“歴史認識”という認識には、どこかおかしな認識があるということなのかも知れない。

 

これ以上むずかしく考えたくないので、これくらいにしておく。

やはり日常に歴史がないと面白くない……、そのことだけは確かなのだ。

 

体験活動中の少女

 

この前入ったと同じ、某店の同じカウンター。

ひとつ置いた次の席のおばちゃんが、塩ラーメンと

ギョーザとおにぎり(とろろ)を、

さらりと、時間にすれば2秒半ほどで注文した。

たくさん食うんだなあ~と感心していたら、

それを伝票に書き込んでいる店員さんが、

では、ギョーザセットとおにぎりにしておきますねと、

さらに1秒半ほどで答え、丁寧にお辞儀をする。

おばちゃんも、そうかあ~と嬉しそうだ。

そこまでのやり取りもいい感じだったが、

さらにまた横にいた店員さんを見て、ちょっと驚く。

どう見ても幼いのだ。名札が見える。

目の前にいる店員さんは、「猪熊とら子」(仮名)と

正しい名前が書かれているが、幼い彼女の名札には

「体験活動中」と書かれている。

この場合、「体験活」が姓で、「動中」が名ではないことは明白だ。

一応解説すると、

彼女は地元の中学生で、所謂、職業体験みたいなことをやっているのである。

少し緊張気味の様子だが、用事を言われるとキビキビと動く。

猪熊とら子(仮名)さんが、××をお願いと言うと、

はいッと気持ちよく答える。

その様子を、忙しいはずの厨房からご主人だろうか、心配そうに見ている。

最近は、味はなかなかだが、食べている最中に、

アタマの上で店員に怒鳴られるラーメン屋が増えてきた。

それで嫌いになっているわけではないが、

やはり、ラーメン屋さんには、店員の声のデカさを

決め手にしていない客もいるということを知っていただきたい。

そんなわけで、当方のBセットも滞りなく食べ終え、

いい気分だったせいか、思わずラーメンのスープも

いつもより、やや多めに啜ったりした。

頑張れ、動中ちゃん! 巨匠と呼ばれる日まで………?

図書館が好きだということについて

本棚

 図書館について、自分なりの理想がある。

 実現するとかしないとかに執着はしていないが、実現するとそれなりに嬉しいだろうなあと思ったりもする。

 そんなことを肯定的な視点から考えたのは、能登の、ある町の図書館で、熱心な司書さんたちと出会ってからだ。

 その人たちは地元出身の作家や詩人、画家などを広く町の人たちに伝えるサポート活動をしていた。

 ボクはその人たちをさらにサポートする立場にいて、地元の愛好者の皆さんの中に入り、楽しく仕事をさせてもらってきた。

 作家の記念室を作ったり、冊子の編集、画家の作品展示の企画を手伝ったりしながら、地元の風土のようなものを感じ取るのは楽しいものだ。

もうかなり時は過ぎたが、これだけ活力のある図書館であれば、町を元気にする活力も提供できるのではないかと思えていた。

そんな時、地元の人から聞いた話がヒントになった。

 “図書館で町おこし”などというと俗っぽさも度が過ぎるが、好きな本を読みに能登の海辺の町に来てもらおう……という素朴な提案だった。

 ボクはマジメに面白い企画だと思った。

 衰退していく民宿や町の宿泊施設などを見ていると、図書館と絡めたこの企画もやりようによっては、渋く浸透していく要素があるのではないか?

 そう思うと、最近、書店へ行っても、かつての名作と呼ばれる本が売られていないことなどがアタマに浮かんできた。

 海外の文学作品はもちろん、日本の文学作品などもほとんど本棚には並んでいない。

 いや、もう本そのものが作られていないと言っていい。

 そういうものを取り揃えて、昔の文学少女や文学青年たちに読んでもらおうというのは、まさに名案中の名案であるとしか言いようがなかった。

 しかも、季節感あふれる能登で、夏は海風を受けながら、芥川龍之介と冷の地酒を味わい、冬は炬燵に体を埋めながら、川端康成と燗酒を愉しむ……

 そんなこんなで、何度想像しても素晴らしいアイデアであるなあ~と、ボクはそれこそ何度も何度もふんぞり返っていたのだ。

 しかし、現実はそれほど甘くはない。

 当然このアイデアは日の目を見ることもなく、ある日の夕暮れ、静かに渚の波にさらわれていった……

 話は想定以上に長くなっていくが、もう一方の否定的視点から図書館の理想を考えるきっかけになったのは、「金沢市海みらい図書館」の存在である。

 金沢市の西部、海側環状道路の脇に建つこの図書館を悪く言う人はあまりいないだろう。

 駐車場が狭いなどという声は聞くが、それらを吹き飛ばすほどのカッコよさで、かなりの人気を集めている。

 しかし、ボクがこの図書館に違和感を持つのは、そのネーミングだ。

 なぜ、「海みらい図書館」などと呼ばせるんだろうという、素朴な疑問だ。

 あの図書館のどこにいたら、海が、海の未来が見えるのだろう?

 屋上にでも登れば見えるのかも知れないが、誰も自由に屋上へは登れない。

 もし、海側環状道路沿いにあるからだという、それこそ安直の極みのような理由だとしたら情けないかぎりだ。

 館内に弱い光を差し込ませる、あの窮屈そうな丸い窓が船を連想させているとしても、窓の外には実際の海はないのである。

 目に見えないから「海みらい」なのだとしても、あの住宅地に建つだけのロケーションでは物足りない。

 こんなことを書いていくと、「海みらい図書館」そのものを批判していると思われるかも知れないが、決してそうではない。

 図書館に理想を持っているからで、その理想とどこかチグハグに絡み合った存在として「海みらい図書館」があるだけだ。

 そのチグハグさを明解にするために、遅くなったが、図書館についての自分の理想について書く。

 ボクがもともと持っていた理想とは、「海の見える図書館」とか、「夕陽を映す図書館」とか、「落日に涙する図書館」…?とか、そういう自然風景の中にある図書館という素朴なものだ。

 ボクの生地であり、今も住む内灘にそのベースを置いて発想したと言っていい。

 砂丘台地の上、ガラス張りの、少々西日が差そうが何しようが、とにかくひたすら海が見える図書館がいい。

 カフェなどもあれば、このロケーションはますます効果的になる。

 読書は思索なのだから、隣の家の屋根や壁が見えているだけではつまらない。やはり、自然がいい。しかも“天然の自然”だ。

 だから、「山の見える図書館」も好きだし、「森の中の図書館」でも、「川辺にたたずむ図書館」でもいい。

 図書館は街にあるべきものという考え方も、もう古いだろう。

 わざわざ出かけていく図書館、図書館で一日を過ごすという上品な休日の過ごし方なども提案しよう。

 そんなわけで、図書館へのささやかな夢、いや図書館が好きになる理想の話なのであった……

ボクらの浜のゴミ拾い

砂浜

6月最後の日曜日は、6月最後の日でもあった。

が、そんなこととは特に関係ないと思うが、わが内灘町では、町の代名詞とも言える海岸の一斉清掃に、朝から町民たちは汗を流していたのだ。

と言っても、当然ながら内灘28000人の町民が全員海岸に押しかけたのではない。

もし、内灘町民全員が海岸に集まってしまったら、砂浜は立錐の余地もなくなり、ゴミ拾いどころか、身動きもとれない状態になってしまって大変なのだ。

そんなわけで、有志と各種団体、家族連れなどが参加し、それでもかなりの人数で賑々しく砂浜のゴミ拾いが続けられたのである。

公式開始時間は、午前7時。

しかし、ボクなどの地区役員はなぜか6時集合と聞かされていた。

ボクたちの拠点となるのは、権現(ゴンゲン)森海水浴場だ。

小さな海水浴場だが、夏真っ盛りの頃になると、それなりに金沢などから客が来る。

会社などのレクリエーションなどにも使われるケースが多く、人気がある。

海水浴場はというか、最初の浜茶屋がボクが小学生だった頃、地元のよく知っている人たちによって作られたと記憶する。

それまでは何にもない、ただの広い砂浜だった。

海水浴場が作られる時、権現森に一台のブルドーザーが入り込んで、まるでバリカンでアタマを刈るようにしながら森の中に一本の道を造ったのだ。

あの時代は、自然保護がどうのこうのなどと言う人もいなかったのだろう?

実を言うと、我々「悪ガキ隊」(もしくは「全ガキ連」とも言う)は、いち早くそのニュースをキャッチしていた。

そして、工事の始まるその日、すぐに権現森の手前にあったニセアカシヤの林の入り口へと走っていたのだ。

真新しいブルドーザーに跨り(実際、運転席に座っていたのは言うまでもないが)、颯爽と道を切り開いていく運転手のお兄さんとは、すぐに仲良しとなっていた。

それからは、毎日学校が終わると権現森に出かけ、ブルドーザーにも乗せてもらったりした。

その日の作業が終わり、開いた道を戻る時に乗せてもらったのだと思う。

樹木や雑草などで暗く薄気味悪かった権現森が、明るく開放的なイメージになり、もうビクビクしながら森の細い道を歩いて行かなくていいと思うと、高いブルドーザーの席から勝ち誇ったような気持ちで森を見下ろしていた。

本題とはあまり関係ないが、そんなわけで、とにかく権現森海水浴場は出来たという話である。

時計は6時半になっていた。しかし、ボクを入れて四人が集まっているだけで、あとは誰も来ない。

どうせ7時からだし、みんなはまだだろうと思っていると、後から来た一人が手にゴミ袋を持って砂浜に下りて行った。

聞くと、海水浴場駐車場のずっと手前で、ゴミ袋が渡されているという。

つまり、我々は事務局よりもちょっと早く来すぎていたのだ。

一人がわざわざゴミ袋を取りに戻ってくれた。

いよいよ浜茶屋あたりから砂浜に下り、ゴミ拾いをしながら進んで行くと、先の方には大勢の人だかりが見える。

あの集団はいい時間に来たので、そのままゴミ袋を手にゴミ拾いを始めていた。

早く来ていながら不覚をとったと、川中島の合戦における武田軍の山本勘助になった心境でいる……(それほど深くはない)

ゴミは無数に、しかも時折悪意のようなものを匂わせながら、ボクたちの足元に落ちていた。

しかも砂浜だから、ほとんどは砂に埋まっている。

ハングル文字の入ったものも多くある。

悪意を感じるのは、四駆車が入り込んできたあとに散乱しているペットボトル類だ。

大きなものが、海浜植物の隙間に多く散乱している様は、目にしただけでも気分が悪くなる。

と言っても、ゴミ拾いの面々は地元の仲間だ。やらねばならぬ的にやるしかないと思っている。

7時を過ぎてからか、雲が切れ、本格的に太陽が出はじめた。

海の朝はそれなりに空気も冷たいが、東からの陽光を受けるようになると一気に暑くなる。

鼻が高いせいだろうか、いつの間にか鼻のアタマに熱気を感じるようにもなっていた。

数百メートルにわたって、人のかたまりが動いて行く。

清掃部隊に少し遠慮しがちな釣り人たちも増えてきた。

ところどころに設置された、ゴミの集積場に流木などと一般的なゴミなどが分けられ、その量は見る見るうちに増えていく。

見た目に分かるほどに、砂浜はきれいになった。

そして、そろそろゴミも目途が立ち、少し身体も疲れてくると、そこかしこに立ち話チームが出てきた。

昨日の夜は一緒に飲んでいたという人たちもいれば、久しぶりに会ったということで会話が弾んでいるグループもある。

役場の中の委員会に参加したりして、かなりストレスが溜まったりするケースもあるのだが、こういった場はむずかしく考えなくていいから楽だ。

クルマに戻ろうと、砂浜をずっと歩いて行くと、砂の上に朽ち果てた椰子の実があった。

実は朝一番に目に付き、これはゴミではないと自分で決めていた椰子の実だった。

誰もこれをゴミ袋に入れようとしなかったことに、なぜかホッとした。

陽が出る前は、小さく波打っていたような海面が、今はもう穏やかに揺れている。

すぐには帰らずに、海浜植物の群れの中を高台に登ってみた。

かつては、完全に砂の山で、一気に浜へ駆け下りるといった醍醐味があったが、今は植物が執拗に拒む。

狭く小さくなった砂浜を見下ろしたが、特に何の感慨もなかった。

沖には小さなボートが浮かび、釣り人の赤いウエアがあざやかに浮かび上がっている。

小さかった頃は、毎日のようにこのあたりで遊んでいたような気がするが、こうして海岸清掃という行事をとおして来てみると、地元の人たちの顔もあってか、急にその思い出も濃くなったような気がする。

よくは分からないが、とにかく不思議なものだ……

狭くなった海岸海を背景にしたスコップヤシの実穏やかな海に釣り船砂の感触

ここには、一貫したテーマがないまま、ただ無作為に書いてきた文章が積み上げられてあります。今年中にタイトルを変えようと考えていますが、新しい名前はどうなるか分かりません。大雑把に言うと、いろいろなことの企画をやってきました。文章もさまざまな形態で書いてきました。硬いモノから柔らかいものまで、一応公に出てるものがたくさんあります。しかし、原点は私的な文章にあり、このサイトも私的な雑誌を発行していたことの延長線上にあります。自分本位に書き下ろしていくのが大好きです。ただ、印刷物になっていた時の方が、文章は丁寧に書いていたような気がしており、ときどき読み返しては直したりもしています。そんなことで、ここはボクの原点。どうせなら、じっくりと読み込んでいってください……… 文章と写真 中居ヒサシ