文章は志賀直哉から

志賀直哉

文章を書くのが趣味のひとつと、ずっと言ってきた。

この雑文集がそれだ。

一応、仕事でも数多くの文章を書いてきたから、比較してみると、意外と仕事で書いた文章の方が多いかもしれない。

が、仕事で書いてきた文章は、一部を除き自分自身ではない。

ところで、若い頃はもっと多趣味だったが、最近はそれらのいくつかが過去の遺物みたいに思えて、時々情けなくなることがある。

いくつかは体力的なものがあるが、多くは時間を作れないとか、やる気が湧いてこないという理由で、その理由そのものが情けないのだ。

文章は、そういう意味では肉体的に疲れることもなく、たいしたものも書いていないから、精神や神経を病むといったものでもない。

ボクに文章を書く面白さを教えてくれたのは、志賀直哉だ。

当然直接教わったのではないが、何となくいつの間にか志賀直哉の文章の潔さのようなものを手本にするようになった。

偉そうに言っているが、そのようなことは多くの作家たちが書いている。

文章ばかりではなく、その顔付きも気に入っていて、特に老いてからの風貌はきわめてかっこいいと勝手に思っているのである。

先日、駅のうつのみやさんで買い、何十年ぶりかで志賀作品を読んだ。

と言っても、長編大作の『暗夜行路』を再び読む気力には自信がなく、真骨頂と言える短編集だ。

二十歳くらいの頃に読んだものばかりで、その頃の本は当然行方知れずになっており、新しく買うしかなかった。もちろん、文庫だ。

代名詞になっている『城崎にて』は、自分自身も実際に城崎を訪れる直前に読み返していたが、それ以外はなんと四十年ぶりくらいの再読である。

そして、その再読は自分でも驚くほどのスピードで進んだ。

それが志賀作品なのだとあらためて思ったが、久しぶりに読中読後の爽快感を味わった。

今でも覚えているが、昔、『或る朝』という短編の半分ほどをそんぐりそのまま書き写したことがある。

志賀直哉の文章を自分自身の手で体感せよと、何かに書かれていたことを実践したのだ。

その作品は、何でもない朝の出来事(というほどのことでもない日常事)を淡々と綴ったものだが、紙と鉛筆があればそのまま文章にするという、素朴な楽しみを教えてくれた。

詩的な表現や、形容詞の段重ねといった技法もなく、そのままをそのままに書くという、スケッチのようなものだ。

そして、その夏。ボクは金沢の中央公園で見た若い母親と幼い女の子の何でもない姿を目に焼き付け、原稿用紙20枚の短文にした。

一般教養で受けていた日本文学の先生にそれを読んでもらうと、それなりの言い方で褒めてくれた。

筋がいいから、書きつづけなさいよ………

しかし、ボクはその後、さまざまな方向への道に言い訳を見つけ、自分自身の究極を詰めるといったことから逃避してしまう。

そして、志賀直哉の顔を見るたびに目を逸らしてきた。

ただ、今回作品を再読し、久しぶりにその顔を見て思い出したことがある。

それは、志賀直哉の顔付きに当時の文学青年たちの“ひ弱さ”を感じなかったということだ。

そのことはとても重要なことだった。

このようなことを書くと怒られそうだが、体育会系のやや異色の文学セーネンであったボクにとって、志賀直哉や梶井基次郎などは同朋的存在(失礼ながら)であったのだ。

 

この齢になって、再び志賀直哉への尊敬の気持ちと親しみとに気付かされるとは思ってもみなかった。

そして、このような感動らしき何かがまだ待っているんだナと思うと、もう少し緻密に毎日を過ごしていかなくてはならないぞ…とも考えてしまうのである。

無花果とミミズと少年の頃の夏

無花果

6月なのに、真夏のような熱気が支配する午後だった。

山里の田園風景をぼーっと眺めていると、急に無花果の匂いがしたような気がして周囲を見回した。

が、それらしきものはどこにもない。

無花果の匂いが脳を刺激すると、反射的に小学校の頃の夏休みを思い出す。

近所にあった無花果の木の下を小枝で掘って、ミミズをかき出し、魚釣りの餌にしていた。

ミミズは十匹くらい獲れると十分で、餌がなくなればそれで終わりという釣りだった。

今でも無花果があまり好きではない。

それは、木の根っこの部分に、ミミズがいっぱいいたからなのだろうと思う。

家を建ててからの最初の夏、朝になると砂の上に物凄い数のミミズたちがいるのを見た。

不規則に移動してきたその形跡が、砂の上にはっきりと残されていた。

特に二階から見下ろしていたから、それは鮮明でもあった。

しかし、彼らは徐々に昇ってくる太陽の存在を知らないでいたのか、気温の上昇とともに動かなくなり、そのまま干からびていく。

毎日それが繰り返されると、砂の上はミミズの干物だらけになった。

夥しい数に不快感が募り、休みになるとまた砂の中へと返したりしていた。

そんな夏は長く続かなかったが、それから何年かして、家人の実家から無花果の枝を一本もらうことになった。

挿し木しておくと、それは腰の高さほどまで伸び、その段階でついに実を一個だけつけた。

しかし、特に大事にしていたわけでもなく、いつの間にか木は弱っていき、その後何かの機会に切り倒している。

その小さな無花果の木を見る度にも、いつもミミズのことがアタマに浮かんでいた。

居なくなっていたミミズたちが、またその無花果の木の下に集まっているのではないだろうかと思ったりした。

 

無花果の匂いは、少年の頃の夏へとつながっている。

特に男の子から少年へと変わっていくことの、ひとつの証としても、ミミズを平気で手で掴み、ビニール袋に入れては河北潟へと通っていた思い出が強く残っているのだろうと思う。

それにしても、あの熱気の中で感じた無花果の匂いは、どこから来たのだろうか………

小林輝冶先生の想い出

小林輝冶

石川の文学研究をリードされてきた小林輝冶先生が亡くなり、送る会に出てきた。

先生の後、湯涌夢二館の館長になられたO田先生の隣に座らせていただき、O田先生とも久しぶりにお話しをした。

小林先生とも関係が深い、志賀町富来出身の作家・加能作次郎のことをO田先生にお話したら、少し興味を持たれた様子だった。

小林先生との繋がりは、もう20年以上も前に遡る。

何度か書いているが、島田清次郎に関する展示の仕事が最初だった。

その時に、義姉が先生の教え子だったということも分かり、そのことも先生に親しみを持っていただいた要因のひとつだった。

その仕事でボクはまず先生を驚かせたようだ。

それは、二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいたからだ。

たまたま偶然だったが、ボクは友人から読んでみたらと言われて、それを読んだ。

ほとんど面白味など感じない内容だったが、さらにその友人から島田清次郎の一生(31歳で他界)が書かれた『天才と狂人の間』(杉森久英著)という本を借り、ぬかるみにはまるように(表現はよくないが、まさにそんな感じで)読んでしまった。

読み込んでいくうちに、島田清次郎という人物が大嫌いになっていったが、そのことが仕事上では役に立ったようにも思う。

余談だが、この作品で杉森久英は直木賞を受賞している。

先生はよく、杉森さんに貸した清次郎の日記が返ってこなかったと話されていた。

杉森久英は七尾市出身で、今テレビドラマで人気の『天皇の料理番』の原作者としても知られている。

清次郎の仕事で、ボクは、小林先生の清次郎研究における結論みたいなものを具現化するという、そのお手伝いをさせていただいた……と、自分なりに思っている。

それは、挫折や堕落から復活を図ろうとしていた清次郎の無念さを、当時の彼の最晩年の書簡から伝えようというもので、先生はそのことに強い思いと確信をもっていたように思う。

だから、ボクも出来るかぎりドラマチックにと考えていた。

おかげさまで、この仕事以来ボクは先生に、「この手の仕事は、やっぱり中居さんとやりたいね」と言われるようになった。

そして、その言葉どおり、先生がさらに力を入れていた金沢湯涌夢二館の仕事へと繋がっていく。

夢二館の時には、ボクにも優秀なスタッフたちが何人もいて、特にハマちゃんことNY女史のアシストは、小林先生に高評価をいただいた。

実は彼女の結婚式(相手もボクのスタッフ)には、主賓として小林先生が招待されている。

長い長い仕事だったが、文学だけでなく美術に対する先生の感性にも触れ、楽しい仕事でもあった。

夢二作品のレプリカを作る依頼があった時だ。

金沢市から特別に持ち出し許可をいただいたある有名作品を、富山の画家の先生宅へと持ち込み、複製を依頼した。

同じく富山で活動するアーチストの方に仲介役を頼んでいた。

仕事場には、とても繊細なタッチで描かれた製作中の作品が天井から吊り下げられていて、そのあまりの凄さに驚いたのを覚えている。

その絵を見た瞬間、この先生なら大丈夫だろうと確信した。

そして、数週間後、出来上がった作品を見て、その凄さにさらに驚嘆したボクは、すぐに小林先生に連絡をとる。

場所は忘れたが、少し誇らしげな気持ちで、その作品を先生の前に広げた。

先生は、見るなりこう言った。

「中居さん、上手すぎるよ……」

その一言は、初め先生自身も驚かれたのだと思わせた。

そうでしょ、先生…… そして、ボクは自慢げにそう答えようとしていた。

しかし、先生の言われる意味は、ボクの考えていたことと全く逆だった。

「こんな繊細なタッチじゃ、夢二の作品でなくなっちゃうよ」

ハッとして、そのまま軽い放心状態に陥っていく。

レプリカ=複製画。当然全く同じに描かれていなければならない。

しかし、横に本物を置いて見比べると、それは同じ絵ではなかった。

依頼した画家の先生の、繊細な筆遣いが際立っていた。

「夢二の、画家としてのテクニックはそれほどでもないんだよね」

いつもの先生のやさしい言い回しが、余計に胸に迫り、仕事の大事な要素を忘れてしまっていた自分を情けなく思った。

結局その複製画は、仲介してくれたアーチストさんに頼み出来上がったが、先生はそれを見て、うん、素晴らしいと褒めてくれた。

アマチュア・アーチストの技術で十分という意味ではなく、アマチュア・アーチストだから、自分自身の個性にこだわることなく、大胆に夢二の筆遣いが真似出来るのだということを初めて知った。

 

その頃、ボクは何度も先生のご自宅を訪問した。

家じゅう本だらけの、凄いお宅だった。

いろいろなものを見せていただいたが、いつだったか、内灘闘争時の絵葉書(写真)の中に、反対集会に参加している若い頃の母の姿を見つけた。

先生も大変驚いた様子だったが、お借りして複写させていただいた写真は、今実家の居間に飾られている。

大学の研究室も本だらけだったが、まだゆとりがあって寛げた。

夢二館の一大仕事が終わりを迎えようとしていた頃から、その後開館する鏡花記念館の話題によくなった。

夢二をやっているから、鏡花記念館新設時の仕事は無理だったが、先生もそのことが残念だったろうと思う。

やはり、鏡花も小林先生の重要な研究対象だったからだ。

ボクも展示計画のプロポーザルに参加していたが採用を逃し、一応蚊帳の外にいた。

鏡花記念館がオープンした一ヶ月後のある日、

「中居さん、鏡花記念館どう思うかね?」と、幾らかぼやけた表現でボクに問われた。

ボクは素直に自分の感じたとおりのことを話したが、先生から時折まじめな顔付きでこうしたことを問われると非常に困ったのだ。

ボクは、鏡花についてあまり多くは知らなかった。

それに計画時にいろいろ調べたりはしたが、根本的に鏡花は好きというほどでもない。

だから、先生からの問いかけに適当に答えたつもりだった。

なんと答えたかというと、生家跡に建つ記念館としては、金沢や地元との関連が薄いように感じます……だった。

生意気のようだが、金沢にいて金沢の文豪について語るのだから、その生い立ちや環境などを軸にするべきだと思っていた。

作品評価も大事だが、やはり自身の生まれ育った場所に建つのであれば、もっと地元と関連するストーリーがあってもいいのではと思ったのだ。

話は全く外れるが、そのずっと後、松井秀喜ベースボール・ミュージアムをやらせていただいた時も、野球選手としての実績とともに、その生い立ちや選手になった後のさまざまなエピソードを紹介しないと、松井秀喜は伝えられないと思った。

小林先生との仕事で、何となく身に付いた考え方なのかも知れない。

ついでに書くと、そう言う意味での室生犀星記念館は、ボクにとってかなり物足りない。

夢二館初代館長になられた先生だったが、鏡花についても当然金沢市からいろいろと相談を受けていたのだろう。

話は曲がりくねったが、鏡花記念館にはそのすぐ後、鏡花が亡き母の面影を求めて訪ねていた二つの寺にある摩耶夫人像の写真数点を展示した。

先生とカメラマンとで撮影に行ったが、先生はとても楽しそうだった。

その後も、いろいろなことで先生との接点が出来た。

夢二館に行くと、よく一緒に昼ご飯を食べるために湯涌の温泉街を歩いた。

先生との食事というのは、いつもとてつもなく長い時間となったが、先生の話は尽きなかった。

島田清次郎の生誕地である旧美川町でトークショーを企画した時には、早めの昼ご飯ということで、そば屋でおろしそばを食べたが、軽めにしておかなきゃと言いながら、何となく物足りなかったのだろう、その後に黄粉もちを追加注文し、これ美味いねえと嬉しそうに頬張っておられた。

その他、地元文学全集の監修や、徳田秋聲記念館、山中節コンクールの審査員長など、数えたら切りがないほど、とにかく先生はよく働かれた。

金沢市・石川県から文化功労の賞を受けられたが、そんな中にあって、学芸員たちの待遇改善などにも努力されていた。

ただやはり働き過ぎだった。

体調を崩しながら市役所に出勤されていた頃、市役所の前の舗道で偶然お会いした時も、先生は嬉しそうにボクに語りかけてくれ、そのまま30分以上も立ち話をしていたことがある。

ボクには、その時の先生の顔が最も強烈な印象として残っているが、白髪の下の両方の目が、眼鏡の奥で輝いていた。

そして、先生との最後の会話は、2011年の4月。

徳田秋聲記念館のロビーで、学芸員さんが呼んでくれた時だった。

おお、中居さん……から始まり、ボクはそこで、加能作次郎に関する終わった仕事と、折口信夫について企んでいた仕事について先生に話した。

15分ほどだったろうか。ボクもなぜか早口で話していたような気がする。

そろそろ透析に行かなければならない時間だと先生が言われた。

雨の中をタクシーがやって来る。

ゆっくりと立ち上がり、先生が言う。

こんなことをやれる人がいるっていうのは、いいことだね………

こういう楽しみがないと、仕事に潤いがなくなって面白くないんですよ……と、一丁前に答えた。

別れ際、いつまでも、一兵卒で頑張りなさいよ。中居さんには、それが一番なんだ……

これが先生がくれた最後の言葉になった。

祭壇の遺影の先生の出で立ちは、ボクがよく見ていたジャケットとハイネックのセーターだった。

まったく、あの小林輝冶先生だったのだ………

先生ゆっくり本でも読みながら、お過ごしください。もうそうしているかな……

観葉植物と「卒業」と抜歯と

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居間に観葉植物を置いてから一ヶ月ほどして、その木が「ベンジャミン」という名前であることを知った。

なぜ知ろうとしたのかというと、あまりに落葉が多く、その対処法を調べるために木の名前が必要だったからだ。

そして、落葉に対する処置はすぐに分かったのだが、その「ベンジャミン」という木の名前が気に入ってしまった。

ベンジャミンは、映画『卒業』でダスティン・ホフマンが演じた主人公の名前だ。

たしかベンジャミン・ブラドック。スペルは、Benjamin Bruddockだったろうか?

何を隠そう(と言うほどでもないが)、大学一年になったばかりの6月だったと思う、

ボクは新宿の小さな映画館(たぶん「名画座ミラノ」?)でその『卒業』を見た。

それまでああいう系統の映画にはほとんど興味を持てなかったのだが、何となく大学生になったのだからみたいな感じで見てしまった。

その後、何を血迷ったか、紀伊國屋へ行き、洋書コーナーで原作を買い、辞書なし読みをした。

英会話をマスターして大学を出ようと、当時は真剣に考えていて、この時の真摯な気持ちが続いていたら人生変わっていたかもしれない。

一本300円くらいだったと思う。

ボクはそこで寅さんシリーズを、一度に6本連続して見たことがある。

5本目あたりから、同じ失恋ばかり繰り返す寅さんのどうしようもないバカぶりが許せなくなり、7本目の途中で帰った。

『男はつらいよ』10本立てという、今では考えられない企画で、10本立てでも値段は大して変わらなかったと思う。

ついでにそういう映画館の話をする。

兄弟が多く、しかも末っ子だったボクは幼い頃から洋画好きの兄の影響を受け、映画雑誌「スクリーン」や「映画の友」「キネマ旬報」などからませた情報を数多く入手していた。

小学生だった頃から、リアルタイムに上映されていた映画は連れて行ってもらっていた。

たとえば、バート・ランカスターなど錚々たる俳優たちが揃った『プロフェッショナル』とか、ジョン・ウエインの『リオ・ロボ』、それにクリント・イーストウッドやジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロらのマカロニウエスタン。ゲイリー・ルイスのコメディ。数えあげたらきりがないほどの映画を見ている。

しかし、もうすでに上映期が終わっていたものは、兄からストーリーや、サウンドトラックなどを聞かされるだけで、それでも好奇心旺盛の少年には強く心に響くものがあったのだ。

そんな話だけ聞いていた映画の数々を、学生時代に実際に見て回った。

特に兄が大好きだった西部劇などのアクションものは、その頃初めて見に行き、初めて見るのに懐かしさを覚えると言った不思議な感覚になっていたのを覚えている。

『シェーン』や『OK牧場の決斗』、『真昼の決闘』、『リオ・ブラボー』など、数えたら切りがないほどだが、幸か不幸かほとんどストーリーを先読みできた。

さらにあの『ローマの休日』もその頃、300円で見た記憶がある。

あれはひょっとして二度目だったかもしれない。

ただ、自分が生まれた年に初上映された映画の中の、オードリー・ヘプバーンのあの容姿、声、話し方、仕草、そして、グレゴリー・ペックとのラストのキスシーンなど、すべてが胸に迫るばかりだった。

ボクの人生観を変えるほどだった(…かも知れない)とも言っていい(…かも知れない)。

話を『卒業』に戻そう。

と思ったが、本題は観葉植物である「ベンジャミン」である……

ベンジャミンのよく落ちる葉が気になり始めた頃、ボクの歯医者行きが決まった。

葉っぱの「は」と、虫歯の「は」が繋がった…のかもしれない。

予約から10日ほどが過ぎた休日明けのお昼前、ボクは金沢竪町のMさんという歯科医院を訪ねていた。

虫歯になってから放置してきた親知らずが、原形を崩してギザギザ状(それほど大袈裟ではないが)になり、それが舌に触れて痛かった。

その場でギザギザを少し削り、それから数日後、その歯つまり親知らずを抜いた。

親も知らないほどの奥歯なのだが、持ち主の本人も初めてその姿を見た。

どこがどうなっているのか? 説明を聞きたいと思った。

しかし、その惨めな姿と対面した時にはもうどうでもよくなっていた。

こんなふうになるまで見捨ててきた自分の罪深さを恥じたのだ……

映画『卒業』の中で、ラストに教会から一緒に逃げ出すエレーヌ(キャサリン・ロス)は、ベンジャミンのことを「ベン」と呼んでいた。

突然また話が戻ったが、ベンが教会のガラスを叩きながら、「エレーヌ、エレーヌ」と泣き叫ぶと、エレーヌも「ベン」と答える… 感動的なラスト・シーンへと向かう場面だ。

しかし、我が家では居間のベンジャミンのことを「ベン」とは呼んでいない。

実は今日あたりからそうしようかと思っているのだが、家人たちの反応が気になっている。

そんなわけで、ベンジャミンの葉っぱ落としグセも、処置後はだいぶよくなってきた。

初夏に向けて、新しい葉っぱの色も爽やかな緑で気持ちいい。

照れ臭いが、今夜から「ベン」と呼んでやろうかな………

 

 

キゴ山で雪に遊ばれた日

雪平線

二月最後の日は土曜日で、それまでの忙(せわ)しなさと、それからの間違いなく訪れる慌ただしさに挟まれた、完全休みの一日だった。

二月の終わりという響きも何となくいい感じで、加えて天気もそれなりによさそうな雰囲気になっており、数日前から自然(特に雪)の中へと出かけようと決めていた。

しかし、そう思いつつも、二三日前になると、よく予定が埋まっていく。

しかも、一日のうちの二、三時間という埋まり方もあったりして油断はできない。

その日も前日の昼間はおとなしくしていて、夜家に戻ってからも静かに酒を飲んで過ごしていた。

そして、当日の朝。まだ電話、メールはない。

家人がめずらしく出勤の日となっていて、しかも半ドンの後、お友達とランチに行く予定だと言う。

家人も最近の亭主のお疲れ度というか、楽しみの不足度について理解を示していたので、ここは大好きな雪の山なんぞへ行って来た方が、心身共によいのよと言ってくれた。

ところがである……

家人が出かけた後、速やかに準備に入ったところで、スキーのストックがいつもの位置にないことに気が付く。

二畳半の自分の部屋に、整然とカッ詰められている山の道具のうち、テレマークスキー用の皮のブーツに差し込んである(はずの)ストックがないのだ。

物置なども念のために見てみるがない。

そして、思い出した。

昨年の夏、薬師岳でのトレーニング不足による苦闘の際に、ストックに頼りすぎて、繋ぎ目などを壊していたのだ。

その壊したストックはどこへやったのか……?

とにかく、これでテレマークは出来ないことが分かった。

こうなったら、登りに行くだけだと腹を括る。

行き先も曖昧なままクルマを走らせた……

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時計は9時半をまわっている。

一番行きたいのは立山山麓だが、今からではきつい。

しかもスキーが出来ないのであれば意味もなく、近くの低山を登り歩いて来るくらいでいいだろう。

というわけで、医王山方面へととりあえずクルマを走らせることにした。

医王山の手前に位置するキゴ山には金沢市営のスキー場がある。

その駐車場にクルマを置いて、キゴ山のてっぺんまで登って来ようと決めた。

新雪の木々雪の中の小屋

裸木には、うっすらと雪が載っている。

昨夜は冷え込んだから、いくらかの降雪があったみたいで、雪面の白さも強烈だ。

一応、軽い雪中行軍の出で立ちになって歩き始めた。

そして、除雪された道から奥へと進もうとしていたが、すぐにいつものクセでいきなり雪の中へ。

足跡

たしかに近道ではあるが、スキーもカンジキも持っていないのはかなり辛い。

予想していた以上に積雪も多く、しかもアップダウンもあったりして思いのほか苦戦を強いられる。

時間的には無意味に近かったが、一応、距離的には大幅にショートカットして、再び登りの除雪された道に出た。

このすぐ上で、キゴ山スキー場の最上部から滑り降りてくる林道コースと出合う。

このコースは市民スキー場らしく、超ファミリー向けで超ゆったりしているのが特徴だ。

登り口トレイル

案内板があり、その横にカンジキによる踏み跡を見つけた。

コースに沿って歩かずに、直登している二人組のカンジキ跡だ。

シメたと思って、その踏み跡をトレースさせていただくことに。

しかし、最初の傾斜の緩いところは良かったが、徐々に傾斜がきつくなってくると、足の取られ方が予想以上に激しくなっていく。

一歩ごとに深く、膝どころか太腿あたりまで潜り込んでしまうと、身動きもとれなくなる始末だ。

まだ先は長そうだと覚悟を決めて行く。

ようやく一旦コースに飛び出して、一息つく。

上から幼い女の子を従えてのママさんスキーヤーが降りてきた。

女の子が奇声を上げたりすると、ガマンよガマンよと振り返りもせずに叫ぶ。

こっちの姿に驚いたのか、女の子が転んだ。

こういう場合、手を差し伸べてあげるべきかどうか迷うが、厳しい母親に叱られそうなのでやめにした。

その代り、ニコリと笑って頑張れと小声で女の子に伝える。

女の子は倒れたまま戸惑っていた……

コースはほんのわずかに登ったところで右に大きくカーブしていて、その真正面にまた直登の踏み跡が見えた。

そこへ着くまで迷っていたが、そこまで来てしまうと、足が自然と直登の方へと動き出す。

しかし、そこからの直登はさっきよりも一段ときつくなり、途中で引き返しコースを歩こうかと思った。

だが、なかなかそう簡単に自分自身が許してくれない。

芽吹き1大木と雪

まるで人生そのものだ……などと、半分諦めながら直登を繰り返す。

膝辺りまで潜ってしまうくらいはほとんど平気だが、それ以上に足が入り込んでしまうと、それから抜け出すたびに片方の足が深く潜り込む。

木の幹や枝などが手元にあればまだいいが、何もない場所では拳を雪面に突っ込んでチカラを入れる。

なぜ、カンジキを持って来ないのだと、山に理解のある人は必ず言うだろうなあと思いながら、情けない登りが続いた。

そんなところへ、上の方から話し声が聞こえてきた。

姿はまだ見えないが、ひょっとするとこの踏み跡の持ち主たちかも知れない。

そう思いながら、悪戦苦闘しているうちに、上品そうな熟年夫婦が下りて来た。

カンジキが心地よく雪面をとらえて快適に下山中といった雰囲気だ。

互いの距離が10mを切った辺りになって、トレースさせてもらったこと、その踏み跡を穴だらけにしてしまったことなどを詫びた。

ご夫人の方からは、寛大なお許しの言葉をいただき、ご主人の方からは、「ゴボッって、大変でしょう」と、嬉しい励ましの言葉をいただいた。

特にご主人からの「ゴボる」という言葉にはホッとした。

自分自身の状況を、「カンジキがないと、やはりゴボりますねえ」と伝えたかったのだが、その地元言葉が通じるかと懸念していたのだ。

安心して「こんなにゴボるとは、甘くみてました…」と答える。

気持ちを入れ直して、最後の短い急登へ。

雪原と青空医王山

久しぶりにたどり着いたキゴ山のてっぺんは、予想以上に晴れ渡り、金沢市内も日本海も、医王山の山並みも美しく見渡せた。

雪に半分ほど埋もれた展望台に登って、コンビニおにぎり三個で昼飯。

そしてコーヒーと、デザートは小さなドーナツと柿の種一袋。

山で食う柿の種は、なぜかコーヒーにもよく合う。

靴で踏み固めた雪上ベンチは快適だったが、長く座っているとケツが冷たくなる。

“凍ケツ(結)”状態になる前に立ちあがり、雪が凍って滑りそうな階段をゆっくりと下った。

ウサギ足跡縦断ウサギ足跡横断

あとは、台地上になっている雪野原を思い切り歩きまわるだけ。

何年か前に来た時は、テレマークスキーを履いてここまで登り、そのまま奥まで入って、そこで雪上ランチを作って食べた。

そのあたりまで行ってみようと、とりあえず緩やかな雪原を下ることにする。

しばらくして、下りは上りに変わり、ここでも雪は深く、ミニラッセル状態だ。

てっぺんの足跡遠いスキーヤーと青空

近くで自分を見た人は、こんなオッサンだったのかと驚くに違いないと思う。

それほどまでに気持ちははしゃいでいる。

しゃがみ込んでカメラを構えたり、大きく背伸びしたり、本人はとにかく楽しくて仕方がない。

まだまだ楽しもうと足を踏み込んでいった矢先、遠くから独りの山スキーオトコが近付いてくるのが見えた。

蛇の道は蛇。一目でそれと分かる同類の匂いがプンプンしてくる。

しかし、彼はこっちを同類と見てくれなかったみたいだ。

距離はあるが、こっちの視線を無視してすれ違って行く。

それもそのはず、こんな雪原をカンジキもスキーも履かずに彷徨っているなど正気の沙汰ではない。

彼のツンと吊り上ったようなクロカンスキーの先端が凛々しく見えた。

まっさらな雪原に残した自分のズタズタなトレイルを振り返りながら、彼の雄々しい姿も見つめた。

縄張り争いに負けた狼のような気分だ。

青空とクロスカントリークロスカントリーの男

休み明け、ストックを買いに行くことをその場で決めた。

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下山はまた樹林帯に入っていった。

コースをのんびり下ればいいのにと、もう一人の自分が言っているのだが、もう一人の自分は、いやもう一度難コースへ行けと言っていたのだ。

ニンゲン、ふたつの道が目の前にあったら、より険しい方の道を行けと誰か偉い方が言っていたのを思い出した。

そんな青年向けの言葉を真に受けなくても…と、またもう一人の自分が言っていたが、もう引き返すこともできなかった。

太陽と雪平原

下山の途中、荒い息を弾ませながら、湯涌ゲストハウス自炊部へ電話を入れると、番頭・Aが洗い物中ですとのこと。

彼の淹れてくれる美味いコーヒーが飲みたくて、雪を踏む足にチカラを込めたのだが、時間短縮には全く至らなかった………

雪の上の影

 

西茶屋資料館の仕事‐2 茶屋の風情

座敷

西茶屋資料館は小さな展示館だ。

自分が関わった展示施設の中では最も小さな部類に入る。

ところで、茶屋街は「にし茶屋」なのに、資料館ではなぜか「西茶屋」と表記する。

「ひがし茶屋街」と「にし茶屋街」という場合、このひらがな表記のもつ趣や空気感みたいなものが伝わるが、資料館の名前には敢えて漢字を使っている。

そうなった背景を今思い出そうとしているが、カンペキに忘れた。

一階の話は-1で書いた。今回は二階。

「茶屋の風情」というタイトルで括った座敷空間の話だ。

一階テーマの「島田清次郎の世界」と比べると、二階はついでのような感じで捉えていた仕事と言っていい。

段取りとしても、かなり後回しにしていたところがあった。

しかし、市の担当者と、廃業(だったか)した茶屋を一緒に見に行ってからだろうか、全く興味もなかった茶屋の中の様子に関心が湧いてくる。

展示に面白味が見出せるようになっていった。

その茶屋には何度も入らせていただいた。

記憶がかなり薄まってはいるが、入ってすぐの幅の広い階段や、ゆったりとした座敷、食材や飲み物などを保管しておく地下室など、茶屋の表と裏の世界のようなものをストレートに感じた気がした。

何でもない小さな飾りなどを見つけては、カメラに収めていたこともよく覚えている。

それから後、建築工事が終わった資料館の二階に上がると、何となくそれらしい展示のイメージが湧いてきた。

真ん中にテーブル、そして座布団と肘掛けを置き、太鼓と三味線、それに屏風……

狭い空間だから、これで十分それらしくなると考えた。

そして、それらをさっきの茶屋から持って来て置けばいいと思い実行していく。

太鼓

これは意外と簡単に事足りた。

その茶屋に残されていたものも、それなりに立派なものばかりで、屏風も火鉢も太鼓も、それと豪華な造りの小さな棚なども、さすがにうまく雰囲気づくりに貢献してくれた。

そして、またボクの思いは一階の島田清次郎の世界へと重きを置いていったのだ………

何となく館内全体がカタチを成してきて、もうだいたいやり尽くしたかなと思っていた頃だった。

座敷と廊下

一人で二階へと上がり、初めてじっくりと座敷空間を前にして座った。

するとすぐに、奥の朱塗りの壁に何かを置きたいという思いが湧いた。

現実感のない演出だけのイメージなのだが、そのアイテムがすぐに扇子だと、自分のアタマの中では決められていった。

またさっきの茶屋へと足を向け、片付けられていた扇子を持ち出して展示した。

何となく見栄え的にはどうなのかなと思ったが、扇子は扇子と、簡単に割り切れた。

そして、今度は手前の小さな間ではなく、座敷内の客が座る座布団の上に堂々と座ったのだ。

横には肘掛があった。

正座をしたが、何となくぎこちなく、胡坐をかいてみる。

しかし、どうやっても落ち着かず、また手前の間に戻ってしまった。

自分がこのような場には、カンペキに相応しくないニンゲンなんだなと思ったかどうか覚えていないが、それも間違いない。

そして、ふと思ったのだ……

金屏風と三味線

自分が得意?とするところの“物語”がない。

訪れた人たちは、ただボーッと見回すだけで、すぐにこの場を立ち去るだろう… そう思った。

ただ、茶屋の物語はなかなか切り口がむずかしい。

堅苦しい歴史の話なんかでは面白みがない。

さらに階下の島田清次郎の物語と合わせられると、まったく暗いイメージそのものになってしまう。

その辺のところは、-1を読んでいただくとよく分かると思うのだが、とにかくただひたすら虚しく陰湿なのである。

廊下 座敷前から振り返る

ボクはその時、市の担当者の方とよく相談に行っていた、茶屋の女将・みねさんの顔を思い浮かべていた。

みねさんとは、金沢の茶屋文化を代表するパフォーマンス『一調一管』の、横笛の名手である。

あの演奏スタイルはジャズ的だ。

セッション風であり、インタープレイ的である。

話はそれたが、とにかく、その頃のボクはそんな笛の名手とも知らず、何度かお会いしていた。

第一印象は、小うるさく(すいません)、扱いにくく(以下同文)、とにかく怖いおばさんだった。

しかし、何度もお会いしていくうちに、叱られてばかりではあったが、その奥にある温かいものを感じるようになっていく。

そして、二階の茶屋を再現した空間に、みねさんの思い出みたいなものを書かせていただき置きたいと強く思った。

何度かお会いしていくうちに、みねさんから子供の頃すでに西茶屋で下働きをしていたという話を聞いていたからだ。

そんな時代の話を、紹介できないだろうか。

実を言うと、この辺りの話は過去に書いた 『みねさんは、やっぱドルフィーだった』 という雑文の中に詳しく書いている(から、そちらを読んでいただきたい)。

市の担当者にその話を持ちかけると、それはN居さんの口からどうぞ…と言われた。

そして、決して快くといった感じではなかった(少なくとも表面的には)が、みねさんは取材に応じてくれた。

三月の終わりとは言え、まだ寒い日のお昼前で、脇で鉄瓶の湯気が心地よく舞っていた。

そして、みねさんは、両手で覆った湯呑の中の、熱いお茶をすすりながら、昔を懐かしむように語ってくれたのだ。

ボクにとっては、それを受けて書き上げた文章の奥に広がる、みねさんの幼い頃の思い出が、この展示空間のすべてに生気を沁み込ませると思えた。

みねさんの淹れてくれたお茶が心にも沁みていくようだった。

ボクはずっと、こうした生の語りが伝える匂いみたいなものを大事にしてきたが、まさにこの時の自分のやり方も、そんな自分自身を大いに納得させるものだったと思う。

座敷の手前に置かれた一枚の板に記された、下手ながらも渾身の一文だ。

芸妓の話

それから、みねさんは開館直前になって、壁に展示したあった例の扇子に大いにケチをつけ、私のをしばらくだけ貸すから、取りにおいでと言ってくれた。

開館記念のセレモニーにも関わらせていただいたが、にしの芸妓さんたち全員による素晴らしい踊りも披露されて賑やかだった。

もちろん、その交渉もみねさんとだ。

西茶屋資料館は、当時からほとんど展示は変わっていない。

金沢の場合、茶屋そのもので言えばやはり「ひがし」に圧倒的に人が多く集まり、「にし」はかなり遅れてしまった。

仕方がないが、金沢の象徴的な匂いを醸し出す場としての存在感は、何と言っても大きいのだと思う。

一月の終わり頃、ふらっと立ち寄った資料館で、二十代後半から三十代初めだろうかと思われる女性が、独りで二階の間の前に座っているのを見た。

たしかに、みねさんのあの話を読んでくれていた。

ボクが上がってきたことによって、邪魔をしたみたいだった。

この静かで小さな空間には、わずかな数の人ですら相応しくない。

そんな場所を、開館する前、独占していたのだなと思った。

今から思えば、ここには贅沢な時間があったのだ……

扇子

 

みねさんの話は、こちらへ。

『みねさんは、やっぱドルフィーだ…』   http://htbt.jp/?p=3308

西茶屋資料館の仕事‐1 「島田清次郎の世界」

清次郎肖像画

金沢三茶屋街のひとつ、にし茶屋街の奥に「金沢市西茶屋資料館」がある。1996年の春にオープンした。

今はどうか知らないが、出来てしばらくの頃はほとんど誰に聞いても行ったことはないと言われた。

最近は茶屋街の中に人気のお菓子屋が出来て、ウィークデーでも人の気配が多くなったりしているみたいだ。

この資料館の仕事は、自分自身の中では大きなターニングポイントになったもので、小さな資料館ながら今でもそれなりに思い入れがある。

テーマとなっているのは、島田清次郎という大正時代の作家の生涯だ。

島田清次郎の世界

清次郎については、今多くの場で紹介されているから省略するが、31歳という若さで死ぬまでの間に、さまざまな苦難と栄光と没落を経験した人物だ。

ただ、人間的には決して一般に好かれるタイプではなかった。これは間違いない。

資料館の建物は清次郎の母方の祖父が営み、清次郎自身も母親と住んでいた「吉米楼(よしよねろう)」という茶屋を復元したものである。

入り口二階から

一階は清次郎について紹介・解説する展示空間で、二階には茶屋の風情を再現した展示もされているが、チカラの入れ方の比重で言えば、一階の清次郎空間への方が圧倒的に強かった。

こういう場合、仕事だから個人的な思いなんぞ入れることは出来ないだろうと言う人もいるが、そんなことはない。

人をテーマにした資料館などは、人物史が最も重要だと思っているので、それをどれだけ吸収するかだと思う。でないと、まず面白くない。

西茶屋資料館に関わったのは四十歳の頃だが、実を言うとボクは二十歳の頃に島田清次郎の代表作『地上』を読んでいた。

映画化もされた、一般的に言う第一部(四部構成)の話だ。

今では想像もつかない大正時代の大ベストセラーで、新潮社のビルが、この作品一本の儲けで建ったと言われる。

地上紹介パネル

ボクがそれを読んでいたことが、展示計画の監修者であった小林輝冶先生(当時北陸大学教授)にまず気に入られた理由だ。

読んでいたということ自体も驚かれたが、それ以上に二十歳の頃というのが凄かったみたいだ。

先生からは、なんで清次郎なんか読んだの?と、聞かれたほどだ。

それくらい不思議なことだったのかも知れないが、ボクにとっても、たまたま本好きだった友人が、読んでみたらいいと言って貸してくれた一冊だったに過ぎない。

実を言うと、大して面白くはなかった。

大正時代の青年たちとは違い、彼をヒーローなんぞには出来なかった。

その思いが後に鮮明になっていく。

貸してくれた友人が、さらにその清次郎の波乱万丈の生涯を書いた、杉森久英の『天才と狂人の間』という直木賞作品も薦めてくれた。

これは俗っぽい好奇心みたいなものを伴って、それなりに読み込んでしまった。

読みモノとして面白かったからではない。

島田清次郎というニンゲンの、恐ろしいほどの極悪非道ぶりが強調されていて、その毒々しさがついつい文章を追わせただけだった。

その後味の悪さは、読後のシミのようになって体に残ったような気がした。

そして、『地上』の異常に美化された虚偽の世界が余計に気に入らなくなっていく。

島田清次郎というニンゲンが恐ろしくなった。

それまで金沢の文学は、鏡花であり、犀星であり、秋声であった。

そこに清次郎という存在が現れてきたことは、少なくとも自分の中では「招かれざる客」がやって来たようなものだった。

パネル1パネル2

 

小林輝冶先生は、島田清次郎研究の第一人者だ。

清次郎は二十歳にして『地上』を世に出し、大ベストセラー作家となり、天才と褒めたたえられ、貧乏のどん底から大きな富を得るまでの大成功をおさめた。

しかし、並はずれた高慢さで、茶屋に育った背景からか女性を軽視する傾向もあり、後に大スキャンダルを犯し、そして最後は思想的にも危険分子とされて、精神を病んだまま東京巣鴨の保養院(精神病院)で独り死んでいったことになっている。

小林先生がこの仕事の中でこだわっていらっしゃったのは、彼の最期についてのところだ。

清次郎が本当に精神を病んだまま死んでいったのか? 先生はそのことに強い疑問を持っておられた。

徳富蘇峰への書簡

これ読んでよ…と言って渡された、保養院から徳富蘇峰あてに書いた手紙を読んだ時、ボクも先生の言われる意味が少し分かったような気持ちになった。

走り書きのような、ところどころ書き直されたその手紙、いや文章には清次郎の真実のようなものがあるような気がした。

それでも完全に認めることはできなかったが、展示のストーリーは、この文章を読んですぐにボクのアタマの中に展開されていったのだ。

島田清次郎を好きになっていったのではないが、ドラマは明確になった。

玄関に下げられている「島田清次郎の世界」というのは、ボクのネーミングだ。

平凡ではあるが、ほとんど知られていない清次郎の生涯のことを思うと、その素朴なタイトルがふさわしいと思えた。

清次郎の顔も、彼の残された写真の中から、もっともやさしさを感じさせるものを選び、当時スタッフだったイラストレーター・森田加奈子クンに描いてもらった。

本展示

中の展示空間は、ほとんどが文字と写真とイメージデザインだけで構成されている。

年表形式の一般的なものだが、大正という時代や清次郎の残した詩などからイメージする色などに気を使った。

ただ、小林先生といろいろやりとりしながら、いつも気持ちは複雑だった。

それは、やはり島田清次郎という人物をどう表現しようとも、美しいストーリーにはなりえないだろうなという思いだった。

しかし、せめて金沢に育った一人の天才作家が、紆余曲折の末に最期は精神の病で死んでいったという切ない結末から解放され、かすかに残されていたのかも知れないその希望に光を当てていく…… そういった思いになっていった。

大袈裟だが、小林先生の思いを具現化し、あの島田清次郎に少しでも温かい目が注がれるようにする… ボクはスタッフたちにそんな半分冗談みたいなことを語っていた。

地元の金沢商業に通学していた頃に、清次郎に強い影響を与えた橋場忠三郎という人の日記が貴重な資料となっているが、そのご子息がいつもお世話になっていた方だったという不思議な縁もあり、親しみもいくらか増した。

橋場ノート

オープンの日の朝、展示室の中にある小さなケースの中に、赤いバラを一本入れた。

今はっきりとは思い出せないが、どこかで彼の作品に描かれていた赤いバラだったと思う。

当然、今はもう置かれていない。

しかし、ずっとオープンの朝にはそうしようと考えていたことだった。そのことはなぜか忘れていない。

ところで、今、石川近代文学館で開催されている企画展・『彷徨の作家 島田清次郎』へ行くと、赤い風船が入場記念?にもらえる。

これは、『明るいペシミストの唄』という詩に出てくる、“わたしは昨日昇天した風船である”の一節からのものだろうと思っている。

詩の後半に赤い風船と、色を伝えている。

実は、西茶屋資料館の展示でもこの詩を紹介しているのだが、近代文学館の受付でそれをもらった時、ドキッとした。

何か通じるものがあったのかと、ドキドキしながら嬉しくなった。

こういう仕事にはやり残し感がつきものである。時間がたてばたつほど、それが積み重なっていくのはやむを得ないことなのかも知れない。

徳富蘇峰宛ての書簡については、近代文学館の企画展の中でもはっきりと問題提起されていたような気がするし、別にボクがどうのこうの言っても始まらないが、小林先生の思いには忠実にいようと思う………

入院記事

その2 茶屋空間の話につづく。

 

モンク短文

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1月も半ばなのに、今年初めての日銀裏。

カウンターの隅に置かれた、古ぼけたレコードジャケット。

その数日前、映像屋の仕事仲間から、「今度モンクでも聞きながら飲みましょう」というメールが来ていたのを思い出した。

言うまでもなく、このジャケットを目にしたからだ。

このジャケットは、この店のサインにも使われている。

店主としばらくセロニアス・モンクについて喋った。

この奇才ピアニストの名を知ったのは15歳の頃だ。

「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」でその名を知り、最初はモダンジャズ発祥時の歴史的存在として認識していた。

が、少しずつ耳に触れるにつれ、その特異性が気になり始める。

これから本格的にジャズにのめり込んでいこうとしていた純粋少年には、かなり耳障りな音楽でしかなく、マイルスから「オレの演奏中は伴奏するな」と言われたというエピソードが、痛快にアタマに残っていた。

しかし、それからまた数年後、そんな思いなど全くなかったかのようにモンクの世界が普通になっていく。

ミュージシャンだけでなく、リスナーというポジションにも挑戦的な姿勢がある。

特にフリージャズを聴き始める頃には、それが強くなったりする。

今でも自分の中では主流ではないが、それがまたジャズピアニストとしてのモンクらしさなのだろう。

そんな思いの一端に、このミュージシャンの存在があったのだと、今、思う。

実を言うと、モンクの顔がアップになったTシャツを持っていて、かなり気に入ってもいるのだ・・・・・・

……

勝沼~ブドウとワインと友のこと

勝沼ワイン

今から35年ほど前の話である。

大学時代の親友Mの実家のある山梨県勝沼町(現甲州市)で、貴重な体験をした。

彼の実家には現役時代にも何度もお邪魔していたが、卒業してからも毎年夏になると出かけていた。

勝沼と言えば、ブドウである。

と言っても、学生時代に彼と会わなかったら、そんな知識も希薄なものだっただろう。

初めて中央線の勝沼駅に降り立った時の驚きは今でも忘れない。

眼下に広がった勝沼の町は、ブドウ畑で覆われていた。

ブドウ畑の棚の隙間に家々の屋根が見えているといった感じだった。

南アルプスの逞しく美しい姿にも圧倒された。

当たり前だが、彼の家へ行けば必ずブドウ酒が出た。

彼の家もまた、ブドウ栽培の農家であった。

まだワインという呼び方も定番ではなかったと思う。

何度目かの訪問の時、そのブドウ酒一升瓶6本入の木箱を予約し、石川の自分の実家へ送ったこともある。

市場では一本が千円あまりで、飲みやすいブドウ酒だった。実家でも好評で、それから何度か送っていた。

大学を卒業してから、毎年夏には信州から八ヶ岳山麓へと出かけるようになった。

そして、その際にはいつもMの家に寄り、同行もよくしていた。

その最初か二回目あたりだったと思う。勝沼に着いた日にMから、夜、地元の愛好家たちで結成されている「ワインの会?」に一緒に出ないかと誘われた。

彼の家に独りでいるわけにはいかない。面倒だが行くことにした。

勝沼町内のペンションが会場だった。そのペンションには数年後に泊まったこともある。

昼間は暑さの厳しい甲府盆地だが、夜になると涼しい風が吹き始め、グッと過ごしやすくなる。その夜もそんな感じだった。

ペンション一階のレストランには、大きなテーブルに向かう十人ほどのワイン愛好家たちがいた。

年齢はばらばら、知的な匂いが漂う若い女性も独りだけだがいた。

天井では優雅にプロペラがまわっている。

今なら普通であろうが、その頃にワインの会と聞かされると緊張度は異常に高まるのだ。

嫌な予感どおり、ボクはテーブルの真ん中あたりに座らされ、金沢からのスペシャルゲストのような紹介をされた。

たしかにゲストではあっただろうが、その後の情けない行動からすれば、実にみじめな数時間のスタートであった。

テーブルの真ん中に、ハムや新鮮な野菜などが並べられていた。

そして、会の代表らしき男性が話し始める。これから十種類ほどのワインを飲み、ランク付けをする……というのだ。

何? ボクはたしか左横にいたMの顔を見た。彼は笑いながら、まあまあといった顔をしている。

困った。お遊びでやっていい会なのかどうなのかと、Mに問おうとしたが、彼は相変わらず楽しそうに笑っている。

ワインが、いやボクの認識ではブドウ酒がどんどんグラスに注がれて運ばれてくる。

グラスの下に番号が書かれたカードが置かれていて、その番号をランク表に記入していくのだ。

何だかよく分からないうちに、ひと通り口に運んだ。そして、ランク表に何とか数字を入れた。

慣れていないせいもあって、どれも酸味が強く感じられた。正直、積極的に飲みたいと思ったものはなかった。

その中で、なんとか口に合ったブドウ酒がひとつだけあった。

全く口に合わないブドウ酒も明解に自覚できた。

先に後者(つまり最下位)から言うと、恥ずかしながら、それはボルドーの最高級ワインらしかった。

赤のフルボディ、うま味など全く感じ取れなかった。

そして、前者、つまり口に合った唯一のブドウ酒が地元勝沼産。

例の一升瓶で販売されているブドウ酒だったのである。

正直言って、赤のフルボディは“まずい”とさえ感じた。

咽喉を通すのもかなりの労力と勇気を必要とした(少なくとも当時の自分には)。

さすがに、地元の人たちはボクが最下位にしたワインを一番にしていた。

見た目だけで判別がつくくらいの人たちばかりだった。

紅一点、大学で日本文学を専攻していたという女性も、柔らかな物腰のイメージを吹き飛ばすほどの酒豪、いやワイン通であった。

その利き酒会的なイベントの終わりに、代表の方がやさしく言った。

たぶん、今日のゲストであるボクの感覚(無知か未知かの)が、今の日本人の平均的なワイン感覚なのであろうと。

救われたのか、いやその逆なのかと一瞬戸惑いながら、グラスに残ったままの高級赤ワインを見た。

Mが横で笑っていた。

甲州シュールリーアジロン

話は一気にその数年後に飛ぶ。

クリスマス・イブの夜、金沢の行きつけになっていたバーで、ワイン・パーティをやることにした。

その店はマスターの高齢化でとっくに閉じられているが、初めてシングルモルトの美味さを教えてもらった店で、その後ボクにとっては貴重な場所でもあった。

パーティのことはマスターに一任した。

すると、テーブルの真ん中にワインの入った小さな樽が置かれるという、なかなかオシャレな趣向になっていて、マスターに感謝した。

参加者である会社の同僚たちも喜んでいたが、ワインなどほとんど飲む機会はない。正直企画した者としては大いに不安でもあったのだ。

樽はお店用の簡易な水道栓が付いたもので、中の小さなタンクが取り外し可能になっている。

空っぽになったら、マスターがそのタンクを裏へと持って行きワインを補充するのだ。

小さめのグラスにワインが注がれると、皆珍しそうにその“ 液体 を眺めている。

そして、乾杯。全員が美味いとか、飲みやすいとか、とにかく初めてのワインに驚きの声を上げた。

ボクはちょっと誇らしげだった。皆のグラスにどんどんワインが注がれていく。

マスターの作ってくれる料理との相性もいいみたいだ。

そして、ワイン補充の頻度も高くなってきた。

手の回らないマスターに言われて、ボクが裏へと入りそのタンクを取りに行くことになる。

そして、カウンターを抜けて裏へと入った時、そこにあったワイン、いやブドウ酒を見て驚いた。

あの懐かしい勝沼の一升瓶がそこにあった。

しかも、我が家に送ったこともある木箱に入っていた。

その時、思った。

あの夏の日の、勝沼のペンションでの感覚は決して間違いではなかったのだな……と。

たしかに日本においても、昔から高級ワインを飲んでいる人たちはいただろうが、平たく言えば、普通の日本人にはこのブドウ酒が“最も馴染めるワイン”の味なのかも知れない……と。

そして、あの会で代表の方が最後に言ってくれた言葉をあらためて思い出していた………。

それから後、いつの間にか一気にワインブームが来た。

誰もがワイン愛好家になっていた。

昔の勝沼の想い出話をしても、誰も信じてくれないような時代になった。

それどころか、半分バカにされたりもする始末だ。

若い女性たちが、ワイン評論家になる時代なのだ。

シトラス甲州シャトーメルシャンの甲州

今勝沼のワインは、「甲州」というブランドでヨーロッパでも非常に高い評価を得ている。

Mは大学卒業後、地元公務員になり、20代の頃から勝沼のワインを普及するための研究に力を注いできた。

ヨーロッパやアメリカ西海岸などの産地に渡り、そこでの成果を地元の農家やワイナリーの人たちとの研究材料にもしていた。

若かった彼が記したそれらのレポートには、単にブドウ栽培やワインづくりの話ばかりではなく、ブドウ畑が作り出す美しい自然景観の話などが活き活きと綴られている。

ついでに書くと、ボクがかつて出していた『ヒトビト』という雑誌にも、彼は創刊から協力してくれ、勝沼からの季節感あふれるレポートを送ってくれていた。

その文章も、今風に言えば、ふるさと愛に満ちた温かく素晴らしい内容のものだった。

実際、勝沼におけるブドウの存在は完全に地域の文化だ。

今のワインブームの中では忘れられがちな、土地(地域)の匂いのようなものが伝わってくる。

それは、8世紀とか12世紀とかいう発祥説が物語る、勝沼のブドウの歴史そのものでもあるからだ。

勝沼グラス

そして、明治の初め、ワインづくりのためにフランスへ若者二人を送り込んだという剛健な気質にも、それは示されている。

その気候風土に合った文化を継承するワイナリーオーナーたちも見識が高い。

今、テレビをとおして国産ウイスキーの物語が人気を博しているが、ブドウづくりとワインづくりの歴史にも、多くの物語があったに違いない。

もうそろそろ5年前のことになるが、ボクは金沢の茶屋で甲州ワインを飲む会を催した。

そのために勝沼にMを訪ね、何軒かのワイナリーを巡ったが、あらためて感じ入ったのは、それぞれのワイナリーが実に個性的(平凡かつ軽薄な表現で恥ずかしいが)であったことだ。

そして、とても日本的であった?ということにも驚かされた。

明治の農村にあった「和と洋」。

……というとまた違っているかもしれないが、その独特の空気感は初めて味わうものだったのだ。

それもまた、ブドウやワインと言う日本国内では特殊な性格をもつ産物のせいとも言えた。

会は一応盛況だった。勝沼で買い込んだ数種類の甲州ワインを順番に出した。

ボクはMからもらった資料をもとに、勝沼の土地柄などの話を交えながら会をナビゲートした。

すでに世の中ワイン通だらけで、今さら国産ワインなどと言う人も多くいたが、一口飲んだだけで皆その口当たりの良さに驚いていた。

ただ、その時失敗したと思ったのは、茶屋という場を意識しすぎて、妙な高級感が出てしまったことだ。

口当たりが良くて、食べ物も進み、おしゃべりも弾むという、そんな生活感のあるワインの場にするべきだった。

それが自分が知っている勝沼らしい魅力の発信に繋がっただろうに…と、ずっと後悔している。

日本酒ももちろんだが、国産ワインにもその土地の個性がある。

こと国産ワインについて言えば、勝沼ほどそれが顕著な場所はないだろうと思う。

ブドウ畑が作り出すのどかな風景は、その第一の要素だ。

だから、本当のことを言えば、やはり甲州ワインは勝沼の地で楽しむのが一番いいと思う。

あのブドウ畑が広がる風景や、ワイナリーの新旧の香りが漂う佇まいなどを目にすると、ワインの味が確実に大きく広がっていくのは間違いない。

最近は我が家でも外国産のワインが普通になっているが、やはり甲州ワイン、いや勝沼のワインは別モノだ。

ボクにとっては、たくさんの大事なものが詰まっている、特別なモノであることは間違いない。

ここまで書いてきたら、飲みたくなってきたのだ………

ルバイヤート甲州勝沼の甲州

※使った写真は、たまたま最近飲んだ銘柄のもの。

勝沼ボトル

 

 

 

晩秋京旅・圧倒編その2

土塀屋根の紅葉

京・高雄方面は実に深いのである。

市の中心部からすると、その奥まり方はかなりな印象がある。

さらに、クルマを下りてからの道も、さらにまだ奥があったのかと思わせる。

急な石段登りは、断片的に登山に近い印象を与える。

晩秋京旅の二日目は高雄に決めていた。

予習資料には厳しい道とあった。

午前10時頃、阪急桂駅前で娘たちと合流した。

大阪豊中に住む次女のところに、前日一緒に来て、JR山科駅から電車に乗り換え大阪で友達と会っていた長女が泊まりに行き、その日の朝阪急で桂まで二人一緒に来た。

桂はこの前まで次女が住んでいた町だ。

こっちも少しは土地勘のあるところだったので、待ち合わせ地点になった。

到着が予定よりも一本遅れた電車になったのは、多分朝が早かったせいだろう。

久しぶりに四人が揃った… と言っても特に儀式などないが。

高雄までは道中が長い。

それに何しろ、晩秋京旅である。

しばらく走って、すぐに渋滞らしき雰囲気。

まあこんなもんだろうと覚悟を決める。

ところが、途中から交通事情は恐れたほどのこともなくスムーズになった。

周辺の風景は、高雄に向かっていることを少しずつ印象付けるものとなっていく。

この先はたしか周山街道と呼ばれる道だ。

かなり山間に入って、周辺が騒がしくなってきたあたりが神護寺へと向かう拠点だった。

無理やりのように、民家の庭がそのまま駐車場になったスペースにクルマを突っ込む。

このあたりの民家は、この時季いい稼ぎになるのだろうなあと余計なことを考える。

清滝川

神護寺へは混み合う道路をしばらく歩き、それから左に折れて清滝川沿いを行く。

清流を見下ろしながら歩くうちに、西明寺への道を右に見送ってまっすぐ進む。

西明寺は帰りに寄ることになる。

しばらく歩くと、左手に急な石段が延びている。

目にした瞬間から、家人が神妙な顔付きになった。

家人にとってはかなりきつそうな登りである。

山で鍛えている長女は、屁みたいなものといった顔で登り始め、毎日自分の住まいと駅とのアップダウンを自転車で往復している次女も同じように登り始めた。

家人をサポートしながら、次女の大学入学式の翌日(だったか)、三人で鞍馬山に登ったのを思い出した。

履物が適合しておらず、二人は苦労したみたいだったが、天候にも恵まれいい思い出になったという話題が出て懐かしかった。

神護寺への道は厳しい…というほどではないが、やはり普通に考えれば楽な道ではない。

笠

途中には休憩処が何軒かあり、その前を通るたびに出ているメニューを覗き込む。

昼に近い時間であるから、団子などのおやつ系よりも、うどんや丼物などのメシ系に目が行く。

秘かに「きつねうどん」に目を付けておいた。

ただ出来れば、「いなりうどん」の方がネーミングとしてはいい。

立ち寄るのは帰りだ。

楼門と呼ばれる、神護寺の正門が、最強に急な石段の向こうに見えてきた。

その前に、道から見下ろす休憩処の情景に目を奪われる。

モミジ食堂

強弱の光に包まれた全面紅葉の中に、食事する人たちの影が動いている。

あの人たちは自分たちの置かれた素晴らしい状況を理解した上で、食事をしているのだろうか?

もしそうでないとすれば、実に不幸なことかも知れない。

同じ状況下で後ほど食事をしようと考えている者としては、しっかりと今目に焼き付けておく必要があった。

神護寺正門

先を行く娘たちの後姿を追い、家人を励ましながら石段を登った。

ほどなく山門に辿り着く。

境内には山里の寺らしい、のどかな空気が流れていて、ふんわりと落ち着く。

金堂石段引き金堂より

当たり前だが、周囲に街中の寺でよく見られる現代建築などは見えず、そのことが新鮮に感じられる。

昔、街道探索などをしていた頃、視覚的な静寂というものを感じたことがあったが、まさにそれに近い感覚が蘇ってきた。

さらに石段を登ったところにある金堂を見上げていると、周囲の人たちの声も聞こえなくなった。

天気ののどかさが何よりだった。

金堂1神護寺境内2

神護寺は、約1200年前に出来たと言われる寺だ。

日本史に出てくる和気清麻呂(すぐに変換されて快感)ゆかりの寺で、後世では、空海や最澄とも深い縁があるらしい。

最も高い位置にある金堂前で、石段の下から写真を撮ってもらった。

家族四人の写真など久しぶりのことだ。

娘たちが進学で京都に移ってからは、そんなショットはすべて京都が舞台となっている。

ヒトは確かに多いのだが、前日の永観堂で見たうねりのような流れもなく、山寺の空気感もたまらなくいい。

金堂石段

金堂からの石段を下ると、またぶらぶらしたり、佇んだりを繰り返す。

だが、そのうち、例の「きつねうどん」のことが気になり始めた。

坂道を下りながら、上から数えて二軒目の店に入った。

屋根のあるテーブルと露天のテーブルが、それなりに整然?と並んでいて、すでに多くのテーブルが埋まっていた。

どのテーブルにも紅葉が舞い落ち、手元も足元も周囲は紅の斑模様だ。

きつねうどん

きつねうどんに、小さな松茸ご飯が付いた、上品な昼飯をいただく。

しかし、環境的にはそれなりにワイルドでもある。

京都らしい“はんなり”系の出汁が美味い。

そのやさしさを何かに例えようと考えたが、なかなかむずかしいので考えるのをやめた。

それくらいにやさしい味であるということにした。

大阪で独り住まいの次女だけが、とろとろ卵の親子丼を選び、残りの加賀の国内灘村からのお上り三人組はきつねうどんを食った。

何気なく、次女の日頃の食料事情について思う……

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再び清滝川沿いの道に下り、しばらくして西明寺への急坂を上る。

この急坂はかなりな角度である。

またしても家人の不安そうな顔に悩まされるが、ここは行くしかない。

あとで分かったのだが、最初に通り過ぎた分岐の道から上がるのが正しいアプローチらしかった。

だましだまし、いややさしく励ましながら、何とか急坂を上った。

想像していたよりも距離は短かった。

西明寺

西明寺は空海の弟子によって、9世紀の初め神護寺の別院として創建されたとある。

その後鎌倉時代に独立した寺になったらしい。

それほどの広さは感じないが、ここでも山里の空気感が存在感を高めている。

苔むした灯篭が並び、その上にふわりと乗っかった葉っぱたちが、どこか子供たちの無邪気に遊ぶ姿のようにも見えてくる。

灯篭に紅葉西明寺の下り

本堂にある釈迦如来さんたちは重要文化財であった。

本来の参道を逆に下って、現世とあの世との境目になるという橋を渡った。

この手の橋はよく渡っているので、何度もあの世に行ってきたことになるが、あの世の印象は全く残っていない。

茶屋のトイレを借りるかどうか、家族内でしばらく検討の時間があったが、まだ大丈夫ということで、もうひとつの目的地・高山寺へと向かう。

周山街道に戻って、さらに奥へと歩く。

少しずつヒトの数が減っていくのが分かる。

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高山寺石碑高山寺入り口

高山寺は「こうざんじ」や「こうさんじ」と呼ぶのだそうだ。

平安時代から山岳信仰の小さな寺が存在していたらしいが、鎌倉時代の明恵という僧によって開かれたとある。

街道から脇に登り始めた頃から、その凄さが予感できる空気感だ。

なぜか妙に懐かしさに駆られる。

参道に立つと、森の深さが静寂のためのエネルギーを醸し出しているのが分かる。

敷石

みな、声を落として話している。

しつこいが、境内は森の中であり、われわれが歩いている道は、その森の空気によって守られてきた聖なる道なのだ(と、神妙な思いが生まれた)。

どこかで味わった空気感だと何度も試みるが、やはり思い出せない。

家人に聞いたりもするが、知らないと言う。

その空気感は、ずっと若い頃に感じたものだったのかも知れなかった。

娘たちも、この空気感が気に入っている様子だった。

高山寺下石段高山寺

金堂への高い石段を上り、またその石段を下って、聖なる道を進む。

グッと現実に戻って、トイレにも立ち寄る。

そして、国宝の石水院へと足を向けた。

予習資料には、ここに置かれてある善財童子の像が美しく紹介されていた。

京都国立博物館で鳥獣戯画展が開かれていたが、その原本は高山寺所蔵のものだった。

(翌日、最終日のその展覧会行きを予定していたのだが、あまりの混乱に入館はやめにした)

石水院縁側

縁側に腰をおろし、晩秋の山並み風景に目をやるのは、かなりの贅沢さだった。

座敷の展示ケースの中に、申し訳なさそうに展示されていた「鳥獣戯画」も色あせて見えた。

善財童子の像は、屋久杉の床板が張られた“廂(ひさし)の間”に置かれてある。

童子童子2

床板は創建時(鎌倉初期)のものだそうだ。

高雄の山の深さとともに、その文化を生み育て、そして継承してきた人たちの思いの深さも感じる。

周囲の濃淡が続く晩秋の気配に包まれながら、中央に置かれた「善財童子」のシルエットに目を凝らした。

紅、橙、黄…… 石水院を出てからも、圧倒的な色のインタープレイに惑わされていた。

高山寺境内2案内板の屋根

池に紅葉樹間の紅葉

樹木に残った葉っぱたち、地上に落ちた葉っぱたち、その途中の何かの上に乗っかった葉っぱたち、それらが一帯を埋め尽くす彩は“圧倒的”という以外に表現言葉がないと思わせる(もちろん、ボクの場合であるが)。

今日めぐった三つの寺は、「三尾(さんび)の山寺」と言われるらしい。

この辺りが、高雄(高尾/たかお)・槇尾(まきのお)・栂尾(とがのお)と呼ばれるからだ。

たしかに見ごたえ十分な山寺めぐりだと感じた。

視覚だけでなく、カラダ全体が、もちろん精神も含めて、しっかりと充足感に浸れる場所だった。

大した足の疲れもなく、周山街道に戻った。

まだ晩秋の洛北の空は明るい。

歩きながらも、眩しいくらいの美しい大樹に長女がカメラを向けている。

家人と次女は何やら楽しそうに話し合っている。

午後のやや遅い時間。われわれはまた雑踏を求めて、京都市街のど真ん中へと向かった。家族四人で泊まる宿へと………

 

石水院からの紅葉

 

 

 

内灘・私的メッセージ

内灘海岸

内灘といえば、海です。

ただ、さまざまな表情があって、

どれが内灘の海だとは

簡単に言えません。

渚夕陽波白い船

はまなすハマエンドウ

筋雲と海岸uchinada beach

落日砂紋

 

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トーチカ

内灘の海には

ちょっとつらい歴史がありました。

1950年代初めの頃です。

アメリカ軍の砲弾を試射する場所として

内灘の海岸が選ばれてしまったのです。

内灘の人々は、自分たちの“浜”を守ろうと

座り込みをして抵抗しました。

しかし、その甲斐もなく

砲弾は浜に突き刺さり、砂を蹴散らし、

人々を恐れさせたのです。

今は、かすかな残像として

その時代の遺構が立ち尽くしています。

砂浜の枯草

 

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白い波の上の小鳥

内灘の海は今も

たくさんの人たちに愛されています。

内灘の海を見つめながら、

それぞれの時代を振り返る人もいれば、

内灘の海を見つめながら、

それぞれの未来を夢見る人もいます。

多くの人たちが、内灘の海に何かを語りかけ、

内灘の海から、

何かを語りかけられてきたのだと思います。

問いかけも、叫びも、歓びも、

すべてを受け入れてくれる、内灘の海です。

黄金の海井上靖文学碑

 

 

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水面と鳥

河北潟の半分ほどが干拓されるまで、

内灘は文字どおり水域に挟まれた町でした。

その面影は、

今もはっきりと残っています。

そして、大地として生まれ変わった後には、

それまで見ることのなかった美しい風景が、

私たちの目と心を楽しませてくれるようになっています。

美しい風景がまた美しい風景を生み、

今多くの人々が、

その大地に集っています。

西日水田林立麦たちのサンバ

麦の緑2草原3

下流

 

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行くぞ、白獅子

内灘はかつて貧しい村でした。

しかし、もうその貧しさの記憶を

甦らせるものはありません。

古くは加賀の殿様のご加護を

いただいたという神社が砂丘にあり、

その神社がいくつかの変遷を経て

人里に下りたという物語もありました。

大きな遊園地ができ、

電車が走り始めたという出来事もありました。

そして、内灘闘争―。

今、内灘は恵まれた環境の中で

そこに住む人々や

訪れる人々に安らぎを提供しています。

そして、内灘の人々はいつも元気です。

遊園ゲート小浜神社跡と医科大など

浅電が来る朝日の中の遊園地

 

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空が広い

内灘の砂丘台地からは、

遠く北アルプスの山並みから登る朝日も

穏やかに日本海へと沈む

夕陽も見ることができます。

空は360度の広がりを見せ、

青く澄みきった空に浮かぶ雲たちにも

心安らぐ表情があったりします。

空が広いこと……

それは内灘の〝タカラ〞です。

朝霧の河北潟

剣岳・立山薬師岳2

 

 

 

 

 

 

晩秋京旅・圧倒編 その1

永観堂の日差しの中の紅葉

京都の歴史と季節感を、同時に楽しみに行くというのは壮大なプランである。

しかも圧倒的な紅葉の時季に訪ねるというのは、一種の冒険に近い。

京都はすでに人(観光客という種類の)の受け入れに相当な寛容さを持っている都市であるが、訪ねる方からすれば、その度を過ぎた(ような)人の波は簡単に受け入れがたい。

しかし、と言いつつ、いざ京都となると覚悟は決まる。

不思議だが、そこが京都のチカラの証だ。

少し前、「日本に京都があってよかった」というコピーがあったが、ボクは激しく同感している。

出だしで少しカッコつけたが、そんなわけで、一年と一ヶ月ぶりの京都なのであった。

めずらしく、最初の目的地は平安神宮近くの某カフェになっていた。

もちろん家人のリクエストであり、その店の何とかという洋菓子をいただくというので、開店直前の店の前で名前まで書かされ並ぶことになった。

最近はこうした列のできる店がステイタスを持っていて、客を並ばせることを喜びにしているように見えたりする。

「おもてなし」などと片方で言っておきながら、客を長時間待たせるのはどこかおかしいと思うので、ボクは単独の時は絶対にこうした列には加わらない。

ほどなく開店した店でいただいた菓子も珈琲もごくごく普通であった(少なくともボクには)。

この店が最初の目的地となったせい(?)で、近くの南禅寺と永観堂が今回の寺めぐりのスタートになった。

二つの寺とも名前のよく知られた名刹であるが、南禅寺は十年以上行っていないし、永観堂は恥ずかしながら初めてとなる。

クルマは岡崎公園の地下駐車場に入れた。

この平安神宮を含む一帯は、かつて次女が学生時代に参画していた「京都学生の祭典」という、学生の自主イベントとしてはとてつもないスケールのイベント会場になっていて、構造はそれなりに分かっていた。

その時、次女と待ち合わせした店もまだ健在で、スタッフジャンパーを着込み歩道に立っていた次女の姿が思い浮かぶ。

まだまだ幼いもんだと思っていた次女が、初めて逞しく見えた時だった。

南禅寺へ向かう道に、長蛇の列となった客たちを待たせる店がある。

まだ開店まで一時間ほどもあるというのに、歩道は完全に占拠されている。

こんな客たちを受け入れなければならない店側も、味を維持していくのは大変だろうなあと思うが、そんなこと気にしていても始まらない。

動物園の横を通って、川沿いの道を歩き、南禅寺へのアプローチ。

ヒトもクルマも半端ではない。

何とか境内に入って、早速山門に上ろうということになったが、階段もその上の展望台もヒトの波。

上から見下ろしてもヒトの波。紅葉ももちろんそれなりに美しい。

南禅寺山門から

この圧倒的なヒトと紅葉の融合が京都の京都たる所以なのだと、あらためて納得した。

七百年ほどの歴史を持つ南禅寺だが、百年ちょっと前に出来た、ご存じレンガ造りの水道橋の存在が大きい(少なくともボクにとっては)。

あれを見ると、南禅寺に来たなと思う。

水道橋

それに宗教には関係なく、しかも六百年ほどの時代の差があるというのに、水道橋はかなり南禅寺に馴染んでいるなとも思う。

レンガは不思議なチカラを持っているのだ。

南禅院の庭を見て歩いていると、地元人らしき老紳士の「もうピークは過ぎたなあ。この前来た時はもっと凄かった…」という独り言が耳に届いた。

観光客の前で、いくら地元とは言え、このような発言は軽率および無責任だ。

こちらはひたすら楽しんでいるのであるから。

それにしても池に映る紅葉は見事だった。

南禅院

時間の関係で、久しぶりに水道沿いの道を歩けなかったのが残念だったが、また今度ということにして永観堂へと向かう。

 

永観堂は、「禅林寺」という古刹の通称だとある。

今は京都を代表する紅葉の名所として高い人気を誇る。

それゆえ、歴史や宗教文化の遺産に加え、紅葉の凄さが備わったこの永観堂をゆっくりと堪能しようというのは浅はかな考えだ。

ヒトでごった返す総門を抜け、中門(券売所がある)に至るだけにも気合が要る。

人ごみ

あちこちで必要以上に(と思えるほどに)写真を撮りたがる人たちが、塀に体を擦りつけるようにしてカメラを向けている。

しかし、その姿はかなり醜く、アルバイトの俄か係員たちが大声で制止したりしている。

何事も度が過ぎるとよくないのだ。

葉っぱだけ撮るなら、近くの公園でもいいよとアドバイスしたくなる。

さすがに京都を代表する紅葉の名所、境内は圧倒的な混み具合だった。

混み具合も凄いが、やはり紅葉の美しさも凄い。

質的にも量的にも気合が入っている。

永観堂の紅葉

重なり合う部分の深さや、木の大きさなども心に響いてくる。

陽光を透かして見せる美しさなども唸らせるものがある。

ところで、永観堂には季節に関係なく、もうひとつ人々を惹きつけているものがあるのだ。

「みかえり阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来像(重要文化財)だ。

鎌倉時代に作られた仏像だが、写真などで紹介されているイメージからすると、かなり大きな像を想像する。

が、実際は(その小ささに)多少ガッカリさせられる。

家人などはかなりその度合いが強かったらしく、最初にボクが指さした時(不謹慎だが)には信じられないという顔をした。

名前のとおり顔を左横に向けて立つ仏像で、わざわざその方向に拝顔できる場を設けてある。

そこには当然列ができていた。

空に突き上げる紅葉

諸堂めぐりを終えてまた外に出ると、そこは前にも増してのヒトの数(量)。

放生池という紅葉を映す水面に、カメラが無数に向けられている。

日本の今夜のFacebookが、永観堂の紅葉で被い尽くされるのではないかと心配になる。

家人が、わざわざ空いている場所を見つけて手招きしてくれた。

ならばと、こちらもカメラを構えてシャッターを押した。

放生池の紅葉

振り返ると、茶店の広いスペースもヒトでいっぱいだ。

毛氈の敷かれた無数の床几に、ヒトがまた無数に腰掛け、顔を中空に向けている。

紅い葉蔭から差し込む柔らかな陽光に、その顔たちが揺れて見えている。

永観堂には、広い空間がない分、ヒトの密度も高くなっているのかも知れないと思う。

そして、それはちょっと当たっているような気がした。

落葉の黄色

 

十一月の下旬とは思えない、もったいないような日差し。

周辺はクルマが列を作り、その間隙をぬってヒトが動く。

岡崎公園の地下駐車場にクルマを入れたのは、大が三つ付くくらいの正解だった。

次女がイベントをやってくれたおかげだ。

戻ってくる途中には、さっきの店でいまだに長い行列を作っているヒトたちの姿を見た。

せっかく穏やかな晩秋の京都にいながら、他に行くところはないのだろうか?

余計なお世話的に、わざと珍しいものを見るような顔をして通り過ぎてやる。

ここへ来てあらためて分かったのだが、ボクは京都の紅葉を見に来ているのではなく、京都の文化を見に(感じに)来ているのだ。

だから、この行列も、ある意味、京都の文化が成したコトなのだろうと思う。

ずっと昔、都へ上った地方の人たちが、その様子に驚いたであろうヒトの波。

見上げる大きな神社仏閣や、豊かな物品など。

こうしたモノゴトに出会うのが京都の文化の感触のようにも思えてくる。

複雑な思いのまま、今日の宿がある烏丸あたりへ………

 

四角の石2

 

 

 

 

“ I Want MILES ”のとき

we want

一年に数回はこのアルバムを聴く。

最初の「ジャンピエール 」と、最後の「キックス 」だけだが。

この前の休日もそうだった。

何の前兆もなく? 何となくCDを取り出すと、いつものように大きめの音で聴いた。

いつも先に「キックス」を聴く。

イントロから懐かしい気分になってくる。

30年ほど前、このアルバムがNHK-FMのジャズ番組で紹介された時、DJでスイング・ジャーナル編集長だったKK氏が、マイルスの復活を告げた。

70年代中頃から、マイルスは病気療養のため引退状態にあった。

だから、流れてきた「キックス」はKK氏の言葉を裏付けるものだった。

聴きながら熱くなった。

マイルスが、マイルスらしくトランペットを吹いている。

特に、後半(12分あたり)からのソロは痛快だ。

ハイテンポのバックに乗せられながら、マイルスのトランペットが伸び伸びと歌い始める。

マイルスの普通のスタイルからすれば、たいして目新しいわけではないが、それでもその時は嬉しかった……

カラダが前へ前へといく……

マイルスはこのアルバムで、ボクに対して何度目かの“偉大さ”を示した。

今でもマイルスは別格である。

マイルスに初めて感化された時、ボクは15歳の終わり頃で、その5年前(64年)に録音された「フォア&モア 」というライブアルバムに狂っていた。

振り返ってみると、その一年前、FMラジオで、コルトレーンの「マイ フェバリット シングス」(「セルフレスネス」)と、エバンスの「ワルツフォーデビー」を同時に聴き、ジャズへ本格的になだれ込み始めていた。

考えてみれば、両方ともライブ録音だった。

今でもジャズは特にライブ録音(もちろん名演)がいい。

そして、マイルスがセッションやライブ録音によるアルバムのみに移っていったことにも、ボクとしては十分納得できるわけを感じていた。

話を戻す。

「フォア&モア」に狂っていた頃、リアルタイムのマイルスはすでに「ビッチェズ・ブリュー 」(69年)を世に出し、ジャズに新しい息吹を植え付け始めていた。

ボクはそれから何とかリアルタイム(5年先)のマイルスに追い付こうとし、そうすることに成功する。

特に「ビッチェズ・ブリュー」を本気で聴いた時には、かなり感動的な気分になっていた。

そして、「ライブ・イビル」(70年)やその他のアルバムも実に見事だった。

あれはやはり、バックに「ビッチェズ・ブリュー」のメンバーたちが残っていたせいだろう。

(1973年の金沢初コンサートで目の当たりにしたマイルスサウンドには、正直後ずさり……)

「アガルタ 」(75年)や「パンゲア 」(同年同日)にも完璧に納得。

そして、「 We Want MILES 」(81年)だ。

マイルスはトランペット奏者のジャズマンではなく、ミュージシャン、コンポーザーになっていたが、このアルバムで、もう一度トランペット奏者に戻っていた。

しかし…、ボクにとってのマイルスはそこまでだった。

仕方ないが、マイルスもまた年齢と共に衰えていくしかなかった。

ただ、このようなことを語れるのは、ジャズシーンの中でもマイルスしかいなかったとボクは思っている。

別にマイルスのようなやり方をしなくても、ジャズは多くの人たちに愛されてきたのだ。

たとえば、ドルフィーやコルトレーンの寿命がもっと長かったらと考えてみても仕方がない。

60年代の演奏スタイルとして際立っていた彼らの個性は、その後どのように発展していっただろうか。

想像してみるのは楽しいが、当然楽しくない結末もあったかもしれない。

マイルスはたまたま長生きした。

そして、自分がマイルスから離れていったのは、進化や変化や挑戦などといった形容が相応しかったマイルスだったからだ。

ボクにとって「キックス」という曲は、そうしたマイルスとの付き合いの中で、一度だけ体験した救いの一曲だったような気がする。

マイルスについては、いつまでも書ききれないもどかしさがある。

ジャズがとても身近な音楽になっている今だから、なおさら語るのが難しくなってきた。

何だかさびしくて、疲れる話だ……

『島の時間』 赤瀬川原平の粋

 

嶋の時間

赤瀬川原平死すというニュースを、ネット上で知った。

別に個人的な知り合いであるわけではなく、単なる一読者及びファンなのであるが、ネット上で知ったことにちょっと淋しさを感じた。

この人の死はもっとアナログな媒体をとおして知るべきであったと思った。

 

一ヶ月ぶりの東京で、さっきまで神田のジャズの店にいた。

ジャズに詳しくない連中を前に、久しぶりに熱を入れて語っていた。

そして、ホテルで独りになり、赤瀬川原平のことを思い返している。

植草甚一や赤瀬川原平や別役実(まだいそうだが、今は思い浮かばない)は、ボクにとって特別な存在だ。

うまく説明は出来ないが、ボクの中の表舞台ではないところで楽しい時間を提供してくれた人たちだ。

だから、植草甚一の死からはかなりの間を置いたが、赤瀬川原平もいなくなってしまい、自分自身の老い(…そんな大袈裟な感覚ではないが)を思い知らされている。

そして、そんな感傷を蹴飛ばして赤瀬川原平のことを書こうと思ったが、ここは家に帰ってあの人の本の中から、自分がいちばん好きだった『島の時間』という一冊を取り出し再読するのが一番いいという結論に至る………

 

以下の文章は、13年前(2011)の初冬、当時有り余る作文意欲とかすかに降りそそがれたわずかな時間の中で作り上げていた、私的エネルギー追求誌『ヒトビト~雪の便りと第6号』に掲載したものだ。

 

≪ ヒトビト的BOOK REVIEW 『島の時間』赤瀬川原平 ≫

 

…………。今回はまたしてもの赤瀬川原平サンである。いかに筆者が赤瀬川サンを好いているか、あるいは気にしているか、あるいは羨ましく思っているか、その他これで十分理解していただけるだろうと思う。

しかし、最近というか近年というか、赤瀬川サンは本人の意志とは関係なく売れっ子になってしまった気がする。意志というより自覚というべきか、とにかく広範な角度から注目されてしまった。その根源となったのが、ご存じ『老人力』かも知れない。

あの本は誤解されていると筆者は思う。誤解がそのまま通ってしまい、赤瀬川サンのエキスが抜けきったまま世の中を徘徊していったような気がしてならない。出た当初、コソコソと、そしてニタニタと読んでいた純正赤瀬川ファンはガッカリしてしまった。

ボクの中では、赤瀬川サンは90年代始め、もしくは80年代の終わりあたりから変わったのだという感じがある。本当に前衛芸術家らしかった頃のものは正直こっちもキツネにつままれたようで、こんな本読んでいてオレ大丈夫かなって気にもなったもんだ。だから露骨に一線を引いた状態で読んでいたところもある。

しかし、路上観察あたりから赤瀬川サンはボクの味方になった。安心して人前で読めるようになった。そうなるとトコトン付いていける。安心は大きなパートナー。一旦信じ込むと赤瀬川サンの魅力は一気に膨らんだ。特に面白いのが連載もの。とにかく赤瀬川サンには連載ものがそのまま本になったというやつが多くて、そういうものの中に魅力がカッ詰まっているのである。自分の身の回りにある、ちょっとした専門誌などに目を透してみてほしい。ふと赤瀬川サンのミニエッセイに出会えるかも知れない。

 

たとえば、赤瀬川サンの表現は心憎いほどの「平坦さ」でもって、ぐぐっと迫ってきたりする。これが分かるには年季が要る。ここで敢えて文字にしている自分自身もいやになる。ただの年季ではない。少なくとも落語や漫才の笑いを知らない人間には伝わらないかも知れない。ボケがいかに知的な演出の上に成り立っているか… いやそんなことも敢えて文字にするのは無意味だ。

だから敢えて、ここは『島の時間』なのである。

しかもこの本、九州博多の某デパートの会員誌に連載していたものを平凡社がまとめたという「平坦さ」でもって、そのタイトルも、本人のあとがきでは「本にまとめる時に苦しまぎれにポンとつけた名前…」というぐらいに凄いのである。これが赤瀬川サンのエキスの一部。

さらに解説(そんなお堅いものではなく、これもまた愉しいエッセイだが)には、あの、ねじめ正一氏が登場し、「もうひとつのお天道さま」と題して赤瀬川サンのエキスを語っている。 (注:ちなみに赤瀬川サンにとっての本命のお天道様は、長嶋茂雄だったのだ)

「どこにも力がはいっていない。常態のままである。常態人間。……見ているだけでのどかな気分にさせてくれる。」

まさに赤瀬川サンのそのまま原寸大写実描写ではないか。そういえば、ねじめ氏は南伸坊氏も含めた三人の対談集『こいつらが日本語をダメにした』とかいう本の一員だったな。

 

ということで、この本は沖縄周辺の島々をめぐって書かれた紀行エッセイである。たぶん旅行雑誌などで十分に紹介された所ばかりであろうが、赤瀬川サンならではの目と耳と鼻と肌と舌などによって楽しい世界が表現されていく。観光キャンペーン用に使えるかというと、ほとんど向いていない。

一見(読)、例えば「種子島」の章のように司馬遼太郎の『街道をゆく』っぽく感じるところもあったりするが、鉄砲の話がロケットの話になったあたりからおかしくなってきて、読んでいる当方としては妙に嬉しくなったりする。それはこうだ。

「アメリカのロケットは垂直にしっかり立てて、どーんと垂直に昇っていく。それが日本のは斜めで、ちょっとコソコソと昇っていくみたいで、こんなことはロケット関係者にとっては的外れなことだろうが、何となく幼稚っぽい感じがしていた。

こんど種子島の宇宙センターに行ってみると、巨大な発射台はちゃんと垂直に立っている。ああ日本もとうとう垂直のところまできたか、という感慨をもった。もちろん専門家に聞いてみると、打ち上げる衛星の軌道とか種類によって垂直や斜めがあるらしくて、別にそれがステイタスに関わる問題ではないという。まあそれはそうだろうが、一般国民としてはやはり堂々と垂直に、という思いがあるのである。

垂直がなぜ堂々なんだ。と問い詰められても答えに窮するけれど、とにかくそんな感じがするじゃありませんか。」

愉しいなア………

冥福を祈る。

 

 

二冊のうちの一冊を閉じて

二冊の本

眠気と闘いながら本屋で本を選ぶというのは実にきつい作業だ。

ただ漠然と本棚の前に立ち、タイトルと作家の名前を見比べながら、少しでも興味が湧きそうな本がないかと目を這わせる。

こんな場合、ほとんどは平積みになった表紙の見える本に目が集中し、背表紙しか見せていない棚の中の本には、目が行っても神経は届かない。

しかも、もともと探している本などなく、行き当たりばったりで選ぼうとしているのだから、平積みの本にさえも集中力はそれほど高くはならない。

ましてや、今は眠いのだ。

二冊で千円ちょっとという文庫を買ったのは、ほとんど居直り型衝動買いといってよかった。

早く帰りたかったのだ。だったら、真っ直ぐ帰ればいいのに…なのだが。

クルマに戻って、二冊の本をそれぞれ開いてみるが、それほど興味深いというほどのものではないことにあらためて納得した。

特に一冊はカンペキにそうだった。

大正生まれで文章表現が実に巧みと言われる某作家の作品だ。

当然知ってはいたが、初体験である。

その本をなぜ買ったのかというと、いつもの気まぐれで、巧みな表現と言われる文章を機械的に読んでみようという思いからだ。

かつて活字中毒という言葉が流行ったが、その菌に侵されていた頃はどんな本でも、読んでいれば何事も知識や思いや考え方や表現などに繋がっていき楽しかった。

まあ、世の中そのものが楽しかったのだ。

しかし、今は違う。

世の中が、少なくとも自分の周辺がそれほど楽しくないから、せめて本には楽しいことを期待する。

いや、楽しくなくてもいい。

日常から離れて、どうでもいいような話にのめり込んだり、何か小さな発見や納得みたいなものを得ることが出来たらいい。

この本に求めた小さな納得は、文章表現の巧みさの実感だった。

こっちを先にしようと、その夜から読み始めた。

機械的に読んだ。感情にほとんど動きが生じないまま読み進んだ。

そして、短編の一話を読み終えた時思った……もう読むのはやめようと。

文章表現の巧みさだけでは、やはり楽しくなかった。

やはり今自分に当てはめた時の何かが足りない。

 

もう一冊の方は、よく読んできた作家の作品だ。

そう言えば、この間またN賞を逃した。

全くのなんとなく的意見だが、この人にはN賞は似合わないような気がしている。

受賞できればそれなりに凄いことだが、この人の文章はN賞ッぽくないような気がしてならない。

そもそもN賞っぽいとは何かと言われても巧く言えないし、いい加減なことは言えないが、この作家はそういうものと一線を引くところにいるということがいいのだと思っている。

いろいろあるが、これ以上書くとボロが出そうだ。

この人の場合、新作はまったく読んでいない。

どちらかというと、小説よりもエッセイの方が好きで、小説も若い頃のモノしか読んでいない。

ただ、だいたい雰囲気は熟知しているつもりなので、こちらは安心して相対することができる。

この本も同時進行で読み始めた。

相変わらずの、淡々とした、そして軽快な文体で行が進んでいく。

このスピード感は文章読みの楽しさの大きな要素であると思う。

もちろん、スピード感は軽快さだけではない。

スローというスピード感もいい。

問題は、心地いいかだ。

文章の中の時空の流れなどと、文章そのものとが一体化して伝わってくるものは、とにかく心地いい。

だから、話がややこしくなってきても、何となく読み続けようとしてしまう。

ここを乗り越えれば、また話は面白くなるだろうと勝手に思い込む。

そんなわけで、先の一冊は途中棄権し、この一冊に集中することにした。

読み進むと、やはりサイクルが合ってくる。

音楽で言えば、適度に転調していくように、話題がスムーズに移動してモチベーションが新しく作り出されていく……

この作家の文章から離れていくきっかけとなったある小説のことを思い出す。

あれはなんと、昔会社の女の子の バレンタインデー・プレゼントでもらった一冊だった。

ああいうのを本命というのかどうか知らないが、ああいうプレゼントは最高に嬉しくなるものだ。

ちょうど新作が出て、ボクがその本を買おうとしているのを知ってくれてたんだろう。

しかし、あの小説は面白くなかった。

ボクにはなんとなく、書くのに飽きていたのか、もしくは行き詰まっていたのかと思わせる内容だった。

読者というのも、自分勝手でいい加減なものだ。

この作家と出会う前の話だが、ジャズと映画と本の話を自由気ままに書き綴る某氏の本に傾倒していた時代がある。

主に東京にいた頃だ。

いろいろなモノゴトを吸収したが、その頃に文章の読み方としての心地よさみたいなものを知ったような気がする。

その頃から自分も好きなことを好きなように文章にしていいいのだなあと思い始めた。

ただ才能が凡庸だっただけだ。

その頃のような、見境なしの濫読時代は二度と訪れないだろう。

しかも今は仕事の上での読み物たちが周囲で自分を見張っているような状況でもある。

だから、せめて趣味の世界では、無理してややこしい本は手にしないようにしていこうと思う。

書くことも、ゆったりと構えていけばいい。

二冊のうちの一冊を閉じて、心地よさを取り戻し、とりあえず気が楽になった………

 

18年ぶり父娘山行の反省

おねえと剣岳

還暦山行…… どこかでこんな言葉を聞いたことがあると思ったのは、その山行から帰って三日後だ。

行く前は、そんなことなど考えてもいなかった。

しかし、久しぶりの山行でズタズタになって下山してきたことを思った時、自分の年齢を考えた。

そして気が付いた時には、自分が60歳であり、一般的に還暦であって、そんな自分が登山をするのであるから、これはもう還暦山行で間違いないと思うしかなかったのだ。

何だかいきなり初老の無気力オトッツァンの書く文章みたいになってしまったが、とにかく、そういうところから話を始めるしかない……

 

今から18年前の夏休み、翌日9歳の誕生日を迎えるという長女を連れ、北アルプス薬師岳へとつながる登山口・折立にボクはいた。

未明に石川県内灘の自宅を出て、一気に折立まで来ていた。

幼い頃からとにかく足が強かった長女は、まだ幼稚園に入る前に夏のスキー場の斜面を一気に登って行ったり、一輪車なども自由に乗りこなした。

小1の時には長距離走で2位に入るなど、そのパワーの凄さを見せつけていた。

山へ連れて行きたいという思いも、すでに早いうちから持っていた。

どうして9歳になろうという時にしたのかというと、その年の誕生日が月曜日で、日月で登山ができるめぐり合わせだったからだ。

ボクは月曜日を休みにし、少しでも小屋の混み具合が緩むと思われる日曜日に小屋泊まりの予約をした。

その頃、すでに薬師岳登山のベースとなる太郎平小屋の五十嶋博文マスターと親しくさせていただいており、それがあって気持ち的には楽だったのだ。

日帰り用の小さなリュックを背負った長女は、ボクの想像したとおり、全く弱音を吐かないまま黙々と最初の樹林帯を登った。

飴を持たせていて、自分でそれを取り出しては口にし、いつも口をモグモグさせながら歩いていた。

「アラレちゃん」の看板が目印となっている最初の休憩場所でも、長女は疲れた表情ひとつ見せず、カメラを向けると照れ臭そうに笑った。

樹林帯を抜けて太郎小屋までの登山道は、長女にとって単調なだけだったかも知れない。

ボクは気が付かなかったが、やはりまだ美しい山岳風景に感激するといった感じではなかったのだろう。

石が敷かれた登山道の、その石を囲うためにある角材の上を長女は楽しいのかどうなのか、こちらには分からないまま歩いていた。

石の上を歩いたほうがいいよと言っても、こっちの方が歩きやすいと長女は答えた。

左手には、明日登る薬師岳の美しい稜線が見えている。

天気は全く心配なかった。

太郎小屋に着くと、マスターが「おお、来たか」といつもの笑顔で迎えてくれた。

ボクたちは二階の山岳警備隊の向かい側にある個室にお世話になった。

ボクも初めて使わせてもらう部屋で、二人で使うには勿体くらいの広さだった。

日曜ではあっても、やはり夏休みだ。

夕食が数回に分けられるなど、混み具合はさすがだ。

マスターから夕食はスタッフと一緒にと言われていたので、長女は少し腹を減らしていたみたいだったが、ボクたちは客の食事が終わるのを待った。

山の夕食時間は早い。バイトさんに呼ばれて一階の食堂へと向かう。

奥の窓際のテーブルに皆が勢ぞろいしている。

正直言って、夕食は何を食べたのか、ビール以外は覚えていない。

長女はカンペキに緊張していた。

マスターが大きな握り飯を、モルツの500mlと一緒に食べていた。

その横で本当に小さい長女が、静かに箸を動かしていた……

 

部屋の窓からは、自分でもそれまで目にしたことがないほどの星空が見えていた。

窓辺に長女を呼んだが、しばらく見上げていただけですぐに部屋の布団の上へ。

持ってきた夏休みの宿題?を広げ始める。

そして、それが終わると、ゲーム。

何を話したのか、何を思ったのか覚えていない。

ただ、時間が過ぎていき小屋の明かりが消えた……

 

翌朝、つまり長女の9回目の誕生日の朝、マスターが貸してくれたナップザックに防寒具などを入れて、小屋を出発した。

6時半頃だろうか。

テント場を過ぎた岩場の急登に少し緊張したみたいだったが、小さな流れを渡る時には楽しそうにも見えた。

薬師平では、遠くに槍ヶ岳が見えていた。

長女はその奥へと足を進め、目の前に広がった雄大な風景に見入っているようすだ。

ガレ場の登りが続くが、長女はしっかりとボクについて来る。

途中の薬師岳山荘で水分補給をし、その上のジグザグ登行に備えて上着を着せる。

ここからは吹きさらしの稜線歩きだ。

単調にジグザグを繰り返すと、いよいよ頂上への最後のアプローチ。

岩がごろごろする子供には少し危険な場所もあるが、特に気を遣わせることもなく進んだ。

そして、もう頂上まで残りわずかというところで、長女に前を歩けと告げた。

全く問題ないように長女はボクの前に立ち、そのままどんどん歩いて行く。

その姿を見て、やはりボクも親バカになってしまった。

目頭が熱くなってくるのだ。

そして、ついに登頂。

直前に擦れ違ったパーティの女性から、「凄いねえ、何歳?」と問われ、今日が9歳の誕生日であることを告げると、そのパーティはわざわざ引き返して、ボクたちを、いや長女を祝福してくれた。

ただ長女は、自分が男の子と間違えられたことに釈然としない顔をしている。

そう言えば、マスターも最初、男の子やったっけ?と聞いてきた。

 

太郎小屋に戻ったのは昼少し前。

長女は眠いのだろう、小屋の前のベンチに寝そべっている。

またマスターはじめ、スタッフたちと昼食をとり、マスターから記念のバッヂをもらい、小屋前でマスターとお世話してくれたバイトの女の子と一緒に記念撮影。

午後になって、下山を始めた。快調な足取りだった。

 

18年後、27歳になった長女との二度目の山行が実現した。

ボクは少なくとも5年以上は、本格的な山から遠ざかり、靴なども傷んだままにしていた。

長女との山行を決めてから、生涯で4足目の山靴を買った。

しかし、カラダの準備はほとんどしていなかったと言わざるを得ない。

スポーツセンターで、マシーンの角度を最大限にして歩行訓練などをしていたが、3000m級はそんなに甘くはなかった。

今回の薬師岳山行で、自分の肉体的な弱さを実感した。

登りはまだしも、下りでは全く歯が立たなくなっていた。

かつてはコースタイムの半分近い時間で歩いていたといっても、それは今の長女の話になっていた。

ボクは太郎小屋からの下山道で、ガレ場で踏ん張れなくなり、樹林帯の下りでは、大きな木の根っこのある段差を下りることができなくなっていた。

二度も転んだ。膝が崩れたと言った方がいい。

最後は、長女がボクの重いリュックを前で担ぎ、ふたつのリュックを持っての下山となったのだ。

薄暗くなった樹林帯の下りは、正直言って焦った。

そんな時には、また熊のことなども考えたりして冷静さも欠く。

下山のコースタイムを一時間もオーバーして、折立に戻ったのは午後5時過ぎ。

クルマも長女が運転して、夕闇の迫る有峰の谷間を下った。

 

長女には申し訳ない山行だった。

思い出の薬師岳であったのに、最後にはつらい思いをさせてしまった。

そういう結果を招いた父親の責任は重大である。

ただ、少しの救いは、太郎小屋の前でいただいた生ビールの美味さや、そのあと好天の中で楽しむことができた美しい山岳景観など、長女も北アルプスを大いに楽しんでくれただろうという思いだ。

そして、もう一度、なまったカラダを鍛え直すことにした。

リベンジは来年夏の山行。それまでにもスキーではない春山行もあるだろう…?

長女にもう一度、強い父親を見せない限り、リベンジはあり得ない。

もう二週間ほどが過ぎたし、そろそろ山靴の汚れなど落とさねば。

当然、長女の靴も父がしなければならないと思っている……・

薬師岳

薬師平

太郎山の道1

頂上から槍

 

音楽はそれなりの音で聴く

21美のラッパ

珈琲屋さんで、小うるさいオッカさんたち、いや、賑やかなご婦人たちと隣席になった時などには、潔くイヤホンで音楽を聴く。

本を読んだり、考え事をする程度なら少しは我慢するが、仕事の書類を作ったり、私的に文章を書いていたりする場合は、カンペキに耳の穴をふさぐことにしている。

この前も、運悪くそれなりの四人組が横に座り、株の話かなんかで盛り上がってしまった。

その中の一人(いちばん派手な)が株で当てたらしく、まるで人生に勝ち誇ったような口ぶりなのだ。

他の三人に、夢を叶えるには、ずっと毎日夢を描いていなければダメなのよと、いかにも成金的雰囲気丸出しでけしかけている。

そのあたりまで、くっきりスッキリと耳に届いてきて、ついにイヤホンを取り出すことにした。

こういう時はデヴィッド・マレーでも聴くのがいいと思ったが、一週間ほど前に中身を入れ替えていて、それなりに優しい音楽ばかりにライブラリーが変わっている。

仕方なく、残っていたロイ・ヘインズ・トリオをと思い、いつもより少し音量を上げて聴きはじめる。

そして、にわかに嬉しくなった。

それは、ご婦人たちの声が聞こえなくなったからだけではなく、久々に聴いたR・H3の演奏が実に良かったからだ。

そして、音量を上げて聴くというのは、音楽を聴く上でとても重要なことなのだというのを思い出した。

ジャズ喫茶の大音量に耳が慣れていた時代、音を聴いているという感覚よりも、音に包まれているといった感覚が強かったような気がする。

ハイテンポのスティックに弾かれるシンバルの微動、ベースの弦のしなり、スネアに叩きつけられるブラシの抑制された躍動感など、あげれば切りがないくらいの音的感動があった。

音楽イベントをいくつか企画運営したが、その中でいつも思ったのが、大きくて鮮明な音で音楽を聴くことの大切さだった。

金沢芸術村での音楽イベントで、ある著名な音楽関係者の方とトークセッションをすることになり、ステージに上がっていただく前、ツェッペリンの『胸いっぱいの愛』をかけた。

スーパー・オーディオで再生するのであるから、音としての質的な意味では、生で聴いているよりは鮮明に響いていたはずだった。

そして、ステージに上がったその方はこう言った。

「この曲には、パーカッションが入ってたんですね…」

プロでもこういうことがある。

ましてや、普通の人たちにとって、こういうことはごくごく日常的な感覚でしかない。

言うまでもなく、ツェッペリンは四人組のロックバンド。

ギター、ベース、ドラムにボーカル。基本的にパーカッションは入っていない。

だから、先入観が働けば聴こえなくても仕方ない。

しかし、音の厚みなどをこのパーカッションが担っていたのは間違いのない事実だった。

だからどうなのだ?と言われても困るが、一応そういうことなので、出来れば音楽は大きい音で聴いた方がいいよということなのである。

ボクが46年程聴いてきたジャズは個性を大切にする音楽である。

つまり、演奏メンバーが誰であるかということを重視する。

それは演奏者の個性を大切にしているからであり、ジャズは個性の集まりによって創られるということを、大切な楽しみ方の要素にしている音楽なのだと思う(表現が難解?)。

だから、ベースは誰だ?とか、ドラムは誰?などといったことが知りたくなる。

この人のベースの方が、あの人のベースより好きだとか、このグループに合っているといった感覚が生まれる。

昔、金沢片町の某ジャズ喫茶で、そこのマスターがこう言った。

「音楽は大きな音で聴いてあげないと、ミュージシャンに失礼だよ。少なくとも、生で聴いているくらいの音量で聴いてあげないとねえ………」

誰かも言っていたが、録音の技術がなかった時代には、音楽はすべて生だった。

レコードやCDが出来てオーディオが発達して、当たり前のように自分自身で音量を調節出来るようになった。

BGMといった音楽も生まれたし、自分自身もそれ系のものにお世話になることも多い。

珈琲屋さんで隣席となった賑やかご婦人たちの話から大きく脱線して、音楽はそれなりの音量で聴くべし的話題へと移行したが、書いている自分自身もそれなりに納得した内容となってきた(ホントは尽きてきた)ので、ここらへんでやめておこうと思う……

布橋とプモリと芦峅寺と

布橋1

めずらしく家人が立山山麓へ行こうと言ってくれた。

当然二つ返事どころか、四つか五つほど返事して行くことになった。

当方にとっても、ふらりと行きたいところ・不動のベスト3ぐらいには入っているので、行かないわけがない。

それに9月の休日も、ほとんどどこへも出かけられない下品さだった。

立山山麓には山関係を中心に、いろいろと知り合いも多い。

天気は最高。非の打ちどころのないカンペキな初秋の青空である。

目的となる場所を細かく言うと、立山博物館から遥望館という施設に向かう途中の「布橋」。

布とあるが、アーチ型の木橋だ。

数日前、「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」という行事をテレビで見た家人が、是非その布橋に立ってみたいと言ったのである。

布橋灌頂会とは、かつて立山へ入山が禁じられていた女人たちのためにと営まれてきた儀式で、布橋はこの世とあの世の境界になるという。

そんな橋の上に立つのであるから、それなりにしっかりと考えてから行く必要があったが、当然そんなことはなかった。

もう四度目となる立山博物館に、まず立ち寄った。

ここから遥望館に向かえば、否応なく布橋を通ることになる。

それが自分にとっての常道?でもあった。

ところが、受付嬢さんが言うには、遥望館の映像が始まるまでに時間がない。

今からすぐクルマで「まんだら遊園」に向かい、そこの駐車場から遥望館へ向かえば上映時間に間に合うというのだ。

緊急の決断が求められた。

遥望館の映像は、今を見逃すと数時間後になる。今しかない。

彼女の目はそう訴えていた。

その目に家人は負けた。

正直言って、ボクはもう何度も見ているので、今見なくてはならないといった緊急性はない。

たしか、家人も一度見ているはずである。

ただ、もう何年も過ぎているから、ひょっとして映像が新調されているかも知れない。

そのことに期待することとした。

われわれは再びクルマに戻り、800メートルほど走って「まんだら遊園」の第1駐車場に入った。

そこから“熊の目撃情報あり…”の看板を横目に歩いた。

遥望館の裏側に辿り着くと、すぐに入館。立山博物館とまんだら遊園も含めた共通チケットを購入した。

正面に回っていたが、布橋の存在には気が付いていない。

予想どおり? 映像はほとんど変わっていなかった。

畳の上に腰を下ろして見るシステムは同じで、上映終了後に壁が開放され、はるか彼方に立山連峰を望んだ時だけがよかった。

それまで見てきた中で、最も好天に恵まれていたせいだろう。

遥望館

 

トイレを済ませて、「まんだら遊園」に入り散策。

この施設はかなり難解ながらも、体感的には楽しい。

 

まんだらのブリッジ

 

遥望館の映像の上映時間が長く、気が付くと昼時間を過ぎていて空腹である。

このまま立山博物館に戻る気はなく、昼飯を求めて決めていた「プモリ」へと向かった。

ところが、プモリのまわりはクルマで溢れかえり、玄関先にはヒトがいっぱいだ。

恐れていたことが現実となった。

ひとつは、映画『春を背負って』の主人公俳優がテレビで紹介したために、多くの客が訪れているだろうなあという恐れ。

もうひとつは、遥望館で時間を費やし過ぎたことによって、お昼ど真ん中になってしまい、これもまた多くの客でごった返しているだろうなあという恐れだ。

両方共が当たった。見事に。

空腹は耐え難く、われわれはすぐ近くにあり、この間名前を変えてリニューアルされた「ホテル森の風立山」に向かうことにした。

二階にあるレストランで和食の昼飯を食った。

ついでに二階フロアの椅子で軽く昼寝。

うまく時間がつぶれて、再び「プモリ」へ。時計は2時を回っていた。

こうなったら、プモリでのんびり美味しいコーヒーをいただく。

久しぶりだ。オーナーのHさんとも長いこと顔を合わせていない。

覚えていてくれるかも半信半疑だ。

予想どおり、さっきのランチ族は退去し、わずかに二組ほどの客がいただけだった。

ケーキセット、つまりケーキにコーヒーが付いたものをオーダーすると、美味しいチーズケーキとチョコレートケーキが出てきて満足した。

家人はチーズケーキはワタシのよと言っていたが、チョコレートの方も気に入ったらしく、最終的にはほぼ半々くらいの分配となったのである。

プモリのテーブルと窓

砂糖入れ

 

相変わらず店の空気感が素晴らしく、オーナー夫妻の心づくしが至る所に息づいている。

もう二十年ほどになるだろうか、Hさんとは地元である旧大山町の仕事の関係で知り合った。

中身はややこしいので省略するが、町の観光に関わる人たちから意見を聞かせてもらう会をつくり、当時、憧れの人であった太郎平小屋のIさんを中心にして活動した。

その会に、Iさんの推薦で入っていただいたのがHさんだったのだ。

帰り際、厨房にいるHさんの顔が見たくて声をかけると、ああ~と久しぶりの再会を喜んでくれたみたいだった。

実を言うと、最近クマと遭遇し、その時に大ケガを負ったという話を聞いていた。

そのことを聞くと、まだ後遺症が残っているとHさんは笑いながら話してくれた。

Hさんと話ができたことで、満足度は二十倍くらい大きくなった。

真昼間の大忙しタイムに来ていたら、話どころか挨拶もできなかっただろう。

大事にしてください…また来ます。と、お二人に声をかけ店を出る。

名物カレーとの再会は果たせなかったが、また楽しみが続くだけだ。

外にも夫妻の大事にしてきた庭があり、そこも覗いてきた……

プモリの庭の花

プモリの庭

 

グッと下って立山博物館駐車場に戻る。そのままお目当ての布橋へと歩いた。

懐かしいTさんのギャラリーの前を通り、坂道を下る。

ほどなく前方に布橋。そのはるか彼方に、立山連峰が秋らしい装いで控えていた。

先にも書いたが、布橋はこの世とあの世の境界。

その下にほとんどせせらぎしか聞こえないほどの小さな流れがある。

その“うば堂川”が三途の川なのだそうだ。

布橋タイトル

明治初めの廃仏毀釈によって消滅したが、布橋灌頂会には白装束に目隠しをした女性たちがこの布橋を渡った。

その奥にある“うば堂”でお参りした後、もう一度布橋を渡って戻ってくると、極楽浄土に行けるということだった。

この儀式は平成8年、138年ぶりに再現された。その後も今年を含めて数回再現されている。

いつだったか忘れたが、一度だけ偶然見た記憶があるが、よく覚えてはいない。

橋の頂点よりやや下の位置から見上げると、立山連峰とのバランスがよく、清々しい心持ちになる。

家人も落ち着いた空気感に満足しているようだ。

ここまで来るにはかなりの曲折?があったが、久しぶりに来てみて充足感は高まった。

帰り道には石仏が並ぶ短い石段を上り、木洩れ日と、石仏一体一体に添えられた素朴な花たちに癒される。

石仏坂

上り切ったところにある閻魔堂で、閻魔さまにお参りすることも忘れなかった。

これで少しは死後の極楽行きに光が差し込んだかもしれない。

立山博物館もすでに歳月が経ち、中の展示はかなり冷めた感覚で見てしまった。

それよりも、その両隣にある「教算坊」というかつての宿坊の庭や、芦峅雄山神社の杉林を歩く方が印象深かった。

教算坊

立山大宮

すでに陽は西に傾いているはずだが、まだ木洩れ日には強い力が残っている。

芦峅雄山神社の鳥居まで戻り、振り返って一礼。

今日一日の締めくくりらしい場所だなと、ふと思った。

立山山麓には自分なりに好きな場所が多くあるが、今日のように家人と一緒でなければ、その魅力を再確認できなかったかも知れない。

そんなことを思いながら、楽しい一日が終わろうとしていたのだ……

 

ある古い洋風の家

袋町の洋館だ

子供の頃、この家に友だちがいて、中で遊んどったことがあるよ……

近所にお住まいの、七十才を過ぎたある方がそう言った。

板壁の塗装は褪色し、木肌も傷み、窓の飾りもいくつか朽ち落ちている。

何よりも傾きが気になると、その方は屋根を見上げていた。

ある著名な作家さんも、偶然この家を見つけて、何とか残して活かせればいいと言ったそうだ。

かつて金沢の街並みを取材する仕事で、このような洋風の家がいくつも残っていることを知った。

しかし、歴史と絡んだテーマが主であったから、あまり大きく取り上げられなかった。

この家もそのひとつだ。

あの時よりも、はるかに傷みはひどくなっていた。

今から思えば、町家もいいが、こんな洋風の家も捨てがたい。

私的感覚で言えば、無理して畳の上でジャズをやっているより、フローリングの床でやってくれる方がいいように、このような建物には新たなそれらしい使い道を見つけてやるべきなのだろう。

いろいろと課題もあるだろうが、まずは柔軟に、普通に、当たり前に思い描くのがいいのかもしれない。

ボクもその方も、かなり大雑把な方なのでこれ以上は言わない。

隣りにある、江戸時代の建物を補強したという古風で小さな店の二階で、お昼ご飯をいただいた後、一部に陽の当たった洋風の家の前で、その方と長く立ち話をした。

話はこの建物から始まって、京都の町家の方向へと流れた。

そして、もう一度この家の話に戻り、ではまた…ということになった。

狭い路地に、秋の風が一筋、二筋と吹いていたのだ………

袋町の洋館

 

 

 

山の空と妄想と

山の雲

今でも山を見ていると、不思議と永遠な何かを思ったりする。

山は空に繋がっているからだと思っている。

空にある雲も同じだ。

雲はそんな空に浮かんでいたり、空を流れていたりするからだろう。

昔のメモを見ながら書く……

かなり前のことだが、北アルプス奥黒部の山々を見渡せる場所で、岩の上に寝っころがり空を見ていた。

午後の空は、青が一層濃くなったように感じられ、わずかに浮かんでいた雲たちもどこか遠慮しがちだった。

しかし、時間がたつにつれ、その雲たちの存在がぽつんぽつんと空に広がり始めた。

気が付くと、自分より少しだけ高い位置で、並びながら静かに浮かんでいるようになった。

そして、その様子を見続けていると、なぜか激しい無力感に襲われ始めたのだ。

それは自分の中で、死後の世界のようなものに繋がっていた。

そして、西日が薄く広がってくると、あまりにもその気配が強くなりすぎ、息苦しささえ感じるようになってきた。

空の上に、また空がある。

その空はもうどこまでも続く空で、下界で見ていた空とは違った。

雲の上にも、また雲がある。さらに、その上にも。

宇宙が昼間の状態で明るく広がっているのだ。

実際はそうではないことも知っているつもりだが、その昼間の宇宙が永遠という感覚を煽っている。

そして、自分はその昼間の宇宙の永遠の中に、ぽっかりと浮かんでいて、二度と戻れない……

ふと、家族のことを思った。

自分が死んでいく時の家族のことだ。

そんなことを思うこと自体で、すでに自分が弱い存在として今あることも感じた。

空を見ていることに耐えられなくなり体を起こすと、空はやや前方に広がり始める。

ダイナミックな稜線が、広い視野の中に戻ってくると少しホッとした。

身体が冷え込み始めていることにも気が付く。

傍らには、空っぽになって握りつぶされたモルツの空き缶とカメラ。

現実に戻ったのかどうか、山にいるから、その感覚もおかしいのだが、とにかく下の山小屋に向かって、来た道を下り始めた………

しばらく行ってない珈琲屋

ブラジル倶楽部

しばらく行っていない珈琲屋さんがある。

JR松任駅から真っ直ぐ。

二つ目の交差点で、カックンと右に曲がったところにある本当に小さな珈琲屋さんだ。

椅子は11脚しかないが、それがまた丁度いい。

知ったかぶりをしているが、三度しか行ったことはない。

二度目の時に、「有機栽培 鈴木さん」という銘柄の珈琲を淹れてもらった。

鈴木さんとは、ブラジルで有機JAS認証コーヒーを生産する有名な人だ。

店ではそのままの名前で豆を販売している。

それがまた新鮮でよかった。

もちろんいい味だったので、100gだけ挽いてもらった。

たしかに家で飲んでも美味しかった。

細長くて狭い店には、金沢美大生の作品などもさり気なく展示されている。

店は飾らない女性主人が切り盛りしているらしく、客はご近所の、ちょっと立ち寄ったという人ばかりのようにも思える。

なかなか四度目に至っていないのは、こっちが慌ただしくしているせいだ。

心地よく過ごせるいい店だと気に入っているから、しばらく顔を出さないでいると余計に行きにくくなる。

こういうことは時折あって、次に行く頃合いがむずかしいのだ。

ただ、夏も終わりかけているし、そろそろ足を運んでもいい頃だと、少し焦り始めているのも事実なのだ………

 

 

金沢湯涌ゲストハウスにて

GH外観

 今年も数日間の旧盆休暇がやってきた。

 我が家では、この時期にちゃんとした連休があるのは自分だけで、あとの家族はみなカレンダーどおりに仕事をしている。

 だから、申し訳ないが休暇期間中のウィークデーは自分一人の時間となるわけだ。

 と言っても、自由を満喫するなどといった余裕があるわけではない。

 初日は、先日在庫切れとなった山の水を補充にと、いつもの湯涌までやって来た。

 夏なので大量に持って帰っても保存が大変なので、今は40リットルほどを汲んで帰る。

 気候が涼しくなれば、その倍くらいは汲む。

 かなり蒸し暑かったが、水を汲んでいる時は涼感たっぷりで爽快である。

 最後にいただく一杯も、相変わらずいい味だった。

 湯涌まで来れば、当然「湯涌ゲストハウス」に立ち寄り、番頭さんのA立クンと語らって行くことになる。

 あらかじめ連絡を入れておいた。なにしろ多くの関心が集まり、なかなか好調なスタートらしいのだ。

 午後一時近くに行ってみると、すでに泊まり客は帰っていたが、予約なしの飛び込み客が多くて、嬉しいながらも困ったナ的表情をしていた。

 一応自炊だから、食料の仕込みとかは特に必要ないみたいだが、やはり布団を用意したりするなど飛び込みではきついらしい。

 それに今はまだ不慣れな上に、独りでやり繰りしなければならないから大変だろう。

 たぶんこんな状態の中で客数が増えていき、そのうちやり方も安定していくのだろうなあ…などと勝手に思ってしまった。

 忙しいのは、何よりいいことだ。

 聞いていたが、しばらくして地元テレビ局の若いディレクターが来店。

 近々、現場からの中継をやってくれるという話だ。さすがに注目度は高い。

 軽い雰囲気の打ち合わせが始まったので、勝手知ったるなんとか、ボクは購買部の部屋に隠れる。

購買部

 実はこの雑文、その六畳ほどの部屋で書下ろし中なのだ。

 購買部といっても、それらしきものは奥の小さなショーケースにあるカップ麺とオリジナルタオルくらいか。

 やたらとジャズのCDと山関係の本がカッ詰まっていたり、カヌーのパドルなどもあったりで、十分にそれらしくない。

 しかし、そこがこの湯涌ゲストハウスのいいところで、購買部はボクの大好きな空間となっている。

 欲を言えば、イスとテーブル、さらにオーディアがあればと思う。

 床に座って小さなちゃぶ台のようなテーブルに向かうのは、ちょっときつかったりする。

 このような場所は、ある意味いい仕事場にもなる。

 昔、バリバリに現場で頑張っていた頃には、企画書を書き下ろすのにこういう場所をよく使わせてもらった。

 金沢市内にある某ビルの一室では、共同で金(もちろん自前)を出し合い、空いている時にはいつでも使えるというシステムで利用していたことがある。

 ちょっと郊外にある自然の中の展望のいい、そして人が滅多に来ない東屋みたいなところで、涼しい風を受けながらのお仕事タイムもあった。

 怖いのは熊ぐらいで、コーヒーもその場で淹れるという用意周到さだった。

 さすがに今はそんな大胆な?ことはしないが、私的な部分ではまだまだ感覚はそれに近かったりする。

 だから、この湯涌ゲストハウスの存在は重要なのだが、たぶんそのうちゆっくりできなくなるだろう。

 ボクにとっては、泊りよりも休日の昼間にちょっと長めの滞在をさせてもらうというシステムがいい。

 眺望はないが、A立クンが淹れてくれるコーヒーも美味いし、ジャズも聴こえてくるし、至れり尽くせりなのである。もちろん有料だ。

 ところで、まだ整理できていないまま書いてしまうが、この湯涌ゲストハウスの個性というのは土地柄はもちろん、A立クンというニンゲンの存在にかかっているような気がしている。

 前にも書いたが、湯涌は「山里の農村」なのである。そして、今風に言えば「里山の遊び場」なのでもある。

 街なかのゲストハウスとの違いを明確にしていけば、自然遊びにも通じたA立クンのチカラははますます発揮されていくだろう。

 もちろん歴史があり温泉があるが、音楽や文学や、その他趣味・雑学の話題にも事欠かないゲストハウスがいい。

 そんなゲストハウスになってくれたらいいなあ…と、これも勝手に思っている。

 創作の森も、夢二館も、江戸村も、そして、その他のさまざまな活動団体もあって文化度も低くない。

 表の幕に記されている「Micasa,Tucasa」は、「私の家は、あなたの家」という意味らしい。

 あまり伝わっていないが、これからこのキャッチの意味が活かされていくことだろう。

 打ち合わせはそろそろ終盤に入っているらしく、A立クンの吸うたばこの匂いが漂ってきた。

 そろそろこっちも、体勢に疲れてきたところ。

 コーヒーをもう一杯いただきに、向うへ移ることにする………

幕湯涌ゲスト音

 

 

 

アジフライと、「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」と

マイルス

 店名のわりにはそれほど入り口の戸が大きくないなあと思うある店で、夏メニューだという“アジフライ定食”を食べた。

 実は中学二年の夏頃から、にわかにアジフライ好きになり今日に至っている。

 今は亡き母が、突然アジフライを作るようになった。

 もともとが漁師の家だから、アジなどは簡単に手に入ったのかもしれないが、よく大皿に山のように盛られた小ぶりのアジフライが出てきたものである。

 中学三年の時、野球の試合中にケガをし二ヶ月ほど入院したことがあるが、その時、退院間近になって食欲も出てきた頃の母の差し入れはアジフライだった。

 それも大量に持ってきて、同室のご近所さんたちに配ったりしていた。

 大人になってからも、漁港のある町などで食堂に入ったりすると、アジフライ定食の存在が気になった。

 最近では金沢市内にある小さな大衆食堂と、ちょっと足を伸ばし、県境越えをしたあたりにある某所のアジフライ定食が特に好きだ。

 それで、店名のわりには入り口の戸がそれほど大きくないある店のアジフライなのだが、これもまたそれなりにいい感じだなと思った。おしゃれなアジフライだった。

 ソースがユニークで、洋風と和風の二種類が楽しめるようになっている。

 最初は洋風で食べ始めたが、途中から和風に切り替えると、その新鮮な食感に納得した。夏メニューの意味が理解できた。

 早い話が見た目は大根おろしなのだ。が、味は大根なます。つまり醤油ではなく酢が味の決め手になっている感じだ。

 それをアジフライの上にふわりと乗せて、オオ~ッと、といった具合に口に運ぶ。

 この場合のオオ~ッとは、こぼしちゃいけないという意味で出てくる感じである。

 ただひとつ残念だったことがあった。それは開きのフライでなかったことだ。

 やはりアジフライは、大らかに開かれたシンメトリー的形状のもので、箸にあのふっくら感が伝わってくるものが自分にとっては基本になっている。

 というわけで、待つこと数分で夏のアジフライ定食が届けられた。

 開きでないことでの違和感は拭い去れないが、二種類のソースに興味が移る。

 健康のためにと最近家人からも言われているので、まず“野菜の先食い”からだ。

 そして、ひと切れ目のアジフライを先程の要領で…… 味には十分満足。

 そして、食べ終えた時のことだ。

 店内に流れるBGMが聴覚をじわりと刺激した。一応味覚の後でよかったとも言える。

 やや聴きづらいながらも、懐かしきそのサウンドは鼓膜を震わせカンペキに脳まで伝わってくる。

 マイルスの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」だ。

 最近はどこでもジャズブームで、ジャズを流さないと世間体が悪いのだろうか。

 それはいいとして、あのミュートソロを聴覚で意識しながら、一方で大根なますを乗せたアジフライを、味覚の方でエンジョイする。これはなかなかむずかしい。

 しかも、ほとんど覚えてしまっているメロディラインだから、どんどん先走って脳ミソがソロでハミングしていく。

 気が付くと、アジフライは知らぬ間に(?)二切れ減っていた。

 気を取り直して、最後の一切れに集中したが、やはりうまくいっていない。

 それに、あのクールで研ぎ澄まされたマイルスのミュートソロが終わって、豪放なコルトレーンのテナーに移るあたりで、またしても脳が活性化した。

 そう言えば、マイルスのぐっと抑えたソロのあと、あのアンサンブルはないわナア~と、かつて周辺の偏屈ジャズ通たちは語っていたのだ。そのことが俄かに蘇ってくる。

 マイルスからコルトレーンへのソロの繋ぎ。曲はモンクの名作「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」。

 レッド・ガーランドのピアノがシンプルに響いたあと、ここであのチャッ、チャッ、チャー、チャッ、チャッはなア~なのだ。

 それほどまでに、想定内の、さらにその中心に近いあたりの平凡な展開で、時間がなかったのか、あまり考慮のあとを感じさせない編曲であった……

 そのあたりのところ、もしレコードやCDのない方は、香林坊・ヨークや、尾山町・穆然、柿木畠・もっきりや、さらに湯涌ゲストハウス・自炊部あたりで確かめてもらえればいい。

 ただ、モダンジャズが誕生して15年ほど、これからジャズが一気に音楽性を高めていく時代の歴史的転換期を示す演奏と知れば、それも納得できる。

 演奏は聞けるが、湯涌ゲストハウス・自炊部はもちろん、その他の店にもアジフライがないことは了解しておこう……

 話は戻る。コルトレーンのソロが始まると少し解放感に浸れて、気分的にも肉体的にも楽になったような気がしてきた。

 しかし、せっかくのアジフライが十分に堪能できないまま胃の中へと行ってしまったことで、やや消化不良の感。

 この場合、もしアジフライが開き状態で来ていたら、様子は変わったかも知れないなと振り返る。

 明確にアジフライを意識させ、箸でコロモと身を裂きながらという本来の食べ方の習性が活かされていれば、もう少し集中できたに違いないのだ。

 それに開きの場合には、骨に注意するなどのことも求められるし、集中力はさらに増す。

 気が付くと、またマイルスのソロに戻って、そして静かにゆっくりと演奏は消えていった。

 残されたわずかな味噌汁とお新香と、それにひと掻きほどのご飯をランダムにいただいて、夏のアジフライ定食は終了した。

 ただ、出だしに感じたあの爽やかな夏の風味は忘れていなかった。

 あとから近くに座ったご婦人たちの一人も、夏のアジフライ定食を注文している。

 しっかりと気をそらさないように食べなくちゃダメですよと、余計なお世話的に思う。

 自分ももう一回来てみようと思った。

 レジを済ませて外へと出た。体中を包み込む夏の熱気が凄まじい。

 もう、店の戸の大きさのことは忘れていた………

 

 

地下40mにあった夏の夢・JR筒石駅

駅名サイン

 上越の海岸線、国道八号線を時速五十キロほどで走っている。

 砂浜にはところどころに海水浴場があり、駐車場へ誘導しようとするお兄さんたちと目を合わさないようにしながらの運転だ。

 朝の海は穏やかながら、気温は三十五度を超える予想。まだ九時前だが、その予想をフロントガラスに広がる青い空と日差しが裏付けている。

 しばらく快適なドライブが続いた。そして、そろそろ左へ進路を変える頃に。

 目的地は、JRの筒石(つついし)という駅。

 そこから汽車に乗って、旅に出ようというのではない。

 地下四十メートルにあるという、その駅のホームを見てみたかった。数年前から考えていたことだ。

 そのホームの存在は新潟への出張時、特急「北越」の車窓からかすかに確認していた。同じ特急でも、上越新幹線と繋がる「はくたか」では速すぎて、ほとんど分からない。

 どちらにせよ、そのホームの存在を知り、さらにそのホームの駅舎が急峻な崖道を登ったところにあって、改札から長いトンネルの階段を下りてホームに出るということを知ってからは、いつか必ず出かけなくてはならないなと考えてきた。

 そして、チャンスは意外にも身近な月一予定の歪みから生まれた。

 クルマでの新潟出張の帰路、翌日富山県某町のイベントに立ち寄ることにしていたが、その付近にホテルがなく手前の上越市にホテルをとった。

 あとで上越市ではなく、糸魚川市にとった方が得策だったと気付いたが仕方ない。

 夜の八時半頃、上越のホテルに着き、部屋の弾力のないベッドに腰を下ろしたところで急に閃いた。

 明日少し早く出れば、あの筒石の駅に立ち寄ることができるかも……

 パソコンを開いてすぐに間違いないことを確認すると、星ひとつ半だったホテルが三ツ半くらいにまでに変わる………

 翌朝は快晴。分厚いカーテンを透して日差しの熱が伝わってきた。

 窓が東側に向いているのは間違いなく、カーテンをちょっとだけ開けてみて、思わずウッと唸っていた。

 ナビが言うように「筒石駅」の表示が目に入ってくる。

 えっと思うほどの急な進路変更。少なくともそう感じた。さらに入り込んだところは、洗濯ものだらけの家並みが続く狭い道だった。

 しばらくゆっくり走ったところで、漁港らしき雰囲気となり、道は左へと曲がる。そして、クルマを止めた。

 ナビはこのまま真っ直ぐ行けと言っている。しかし、どう見てもこのまま真っ直ぐ行っていいのか戸惑うのが普通だろう。急な斜面に家々が並び、その隙間を縫うように狭い道が上に向かって一気に延びている。

 クルマを下りてみると、上から電動車イスに乗ったおばあさんが下りて来た。

 筒石駅へはこの道を登ればいいんですかと聞いてみると、普通にそうですよと答える。

 何を聞くのかと思ったら、なあんだ、そうなこと? といった顔だ。

 これ上がると小学校があって、そこからどうのこうのとかで、すぐだと言う。

 皆さんここ登って行くんですか?と、執拗にもう一回聞くと、そうそうと、こちらの心配を察したかのように笑って答えてくれた。

 坂道は短いが、急で狭かった。が、その急で狭い坂を過ぎると、地元小学校の脇を通り、一気に山の中の道といった雰囲気になる。このあたりの、海岸から一気に突き上がった地形を肌で感じとることができる。

 しばらく進むと、左手に筒石駅を示す看板があった。

駅舎

 下りて行くと、すでに写真で見ていたが、駅舎の味気ない建ち方に改めて消沈。しかし、ここまで来るまでの焦燥と期待感を思えば、そんなことに落胆などしてはいられない。

 クルマを止め外に出ると、一気に真夏の熱気に身体中が包み込まれた。

 しかし、その感触は懐かしい何かとの再会を思わせ、吸い込んだ空気の匂いもそのことを煽るものだった。

 まずは駅舎の写真をと道に戻ってみる。深い緑の中の小さな、そして平凡な駅舎がぼんやりと夏を思わせる。

 そうだ、さっき懐かしく感じたのは、夏の空気のことだったのかと思う。

 駅舎に入ると、中は小さな待合室といった感じだ。若者カップルが一組。電車の待ち時間なのだろうか。女の子の方はかなり疲れ気味で、ベンチに座ってうな垂れていた。

 さっそく入場券を買おうと窓口に立つが、誰もいない。横に回ってみて奥に駅員がいるのを確認して声をかけた。

 そうこうしているうち、振り返ると待合室にまたもう一組の若者カップルがいた。彼らは地下のホームの方から上がってきたみたいだ。 彼らも少し疲れている。

 入場券と入場証明書も兼ねた絵ハガキをもらい、自分も下のホームへと向かう。

 しばらく歩き、すぐに足が止まった。凄いのだ…… 想像を超える凄さなのだ。

最初の階段

 目が慣れ始めると、撮影道具を背負った青年が独り、階段をゆっくり登って来るのが見えた。こっちはカメラを構えたが、彼を焦らせてはいけないと、ゆっくりでいいよと声をかける。

 さっき待合室で見た若者たちの疲れた様子が、ここで理解できた。彼らもこの階段を登ってきたんだ。

 撮影道具を担いで上がってきた青年はかなりの量の汗を浮かべ、いやあ、ここは凄いですと話しかけてきた。

 実はこの青年との出会いがなかったら、この“探検”はかなり味気ないものになっていたかもしれない。この鉄道マニアの青年が、その後いろいろと教えてくれたおかげで、これからの一時間足らずが、とても素晴らしい時間になったのだ。

 では、行ってきます。そう言って青年と離れ、ボクは階段を下りた。

 階段は決して高くはなく、むしろ登る人のためにか低く造られていた。

 それにしても深い。しかも、真っ直ぐに下って行くトンネル壁面のラインが、より一層落ちてゆくイメージをデフォルメする。

 誰ひとりすれ違うこともなく、登ってきた人を見送った自分としては、何となく淋しい気持ちにもなるが、その分楽しみも増えていく。

 トンネルに向かって、トンネルを下る。地下鉄の駅に向かって階段を下るのとは、完全に何かが違っている。

 下り切ると、左にまたトンネルが延びる。「富山・金沢方面」と「直江津方面」の乗り場が案内されている。このふたつの乗り場(ホーム)は、向かい合って造られていない。何か理由があるのだろう。

のりば案内ガスの通路

 ガスが通路、いやトンネルの奥でうごめいている。まるで映画の世界だなと、平凡な感慨に耽った。

 遠い方から先に行って来ようと、富山・金沢方面のホームへと向かった。

 ホームへ出るには、また一段と深い急な階段を下りなければならない。一度下り切ったと思ったら、さらにまた左に折れてまた下る。

 そこにはイスが並び、出口戸はしっかりと閉じられていた。電車はここで待つのだ。

ホームへの階段

 少し躊躇しながらも、すぐに戸を開けてみる。

 そこは非日常的で、異次元的で、何もかもすべて失われたような、多くは閉鎖的だが、ある意味開放的で、そして、ただ素朴に暗くて静かな……そんな空間だった。不思議な空気感が漂っていた。

ホーム

 稲見一良の小説に出て来るように、廃線になった線路の上を走ってくる幻の蒸気機関車が、今にも飛び出して来そうな気配が漂う。

 ホームは狭い。黄色い線の内側などと言っていたら、すぐに壁にぶつかってしまいそうな感じだ。

 端から端まで歩いてまた椅子の並んだ空間に戻り、今度は急な階段を登り返した。

 地上が暑かった分、中は快適過ぎるくらいの気温となっている。冬は逆に暖かいのだろうと想像する。

 このホームを利用する多くは地元の生徒たちだと聞いたが、彼らの日常はなんとドラマチックなんだろうと勝手に思ったりしている。

 次は直江津方面のホームだ。階段を登り、ほぼ平坦なトンネル通路を戻って行くと、ホームへ下る階段の手前に、さっきの鉄道マニア青年が立っていた。

 もうすぐ、「北越」がホームを通過しますと言う。その言葉になぜか一瞬動揺し、この絶好の機会を見逃すわけにはいかないと思う。

 ボクと青年はホームに出た。若い女性駅員がいて、思わず、コンチワと挨拶。

 ちなみに、筒石駅には大きさの割に多くの駅員さんが働いている。事情は十分理解できる。

 さっきのホームとほとんど区別がつかない風景が眼前に広がっていた。いや左右に延びていたと言う方が正しい。

 「北越」は反対側の線路を通過すると青年が教えてくれた。そして、青年は三脚を用意し始めた。

 ボクは彼から二十メートルほど離れた場所で、カメラをテストする。鼓動が少し小刻みになったのが分かる。久々の緊張感。青年と何度 も目を合わせたように思うが、実際は暗くてよく見えていない。

 青年があらためてこっちを見た。その時だ。

北越が来た北越通過

 風が、いや空気の波のようなものがトンネルを通して流れ込んでくるのを、しっかりと全身で感じた。いや、感じたなどという生易しいものではなかった。大きな空気のうねりに全身が襲われた。恐怖感のようなものが、いや恐怖感そのものが背中を走った。

 次の瞬間、線路を滑りながら近づいてくる大きな物体の音が重なった。ライトが光っている。それだけを見ているとそれほどのスピード 感ではなかったが、目の前を通り過ぎる頃にはかなりの速さで流れ去って行った。

 いい歳をしたオトッつぁんの言うセリフではないが、夢のように「特急北越」は過ぎ去っていったのだ。さらに加えれば、銀河鉄道のようにとも言えた。

 ここは、やはり凄いです。青年が言う。こちらは写真撮影どころではなかった。

 そしてすぐに、今度は「はくたか」が来ますとも言った。さらに、今度はこのホームを通過するから、凄い迫力ですよとも言った。ボクはまた動揺した。

はくたかが来た

 「はくたか」の通過は、これまでの人生の中で片手に入るくらいのド迫力だった。

 「北越」の時を上まわる空気のうねりがあり、大音響があり、そして乗っていた人たちの顔など全く認識できないほどのスピードがあった。

 ただひたすら、身体をホームの壁側に傾け、風圧に耐えていなければならなかった。

 青年が言ったように、それはまさにこの駅だからこそ体験できる冒険だった。さっきの「北越」と比べると、スピードの違いが歴然としていて、「はくたか」の車窓からこのホームが確認しにくいということをあらためて理解した。

 青年に近寄ると、青年はまた、ここは凄いですと言った。

 そして、しばらく興奮を慰め合うと、あと何分後かに、今度は普通列車がここで停車しますよと、とんでもないことを口にしたのだ。

 それはもう至れり尽くせりのプレゼントだった。これこそ、筒石駅の“おもてなし”だ。

 その電車に乗ろうとする若者たちも下りてきて、にわかにホームはにぎやかになる。といっても、総勢十名足らずなのだが。

 さっきまでの特急と違って、普通列車は落ち着いた素振りでホームに入ってきた。乗客たちの中にはこの不思議な光景に一度下車する人もいた。

普通電車が来た

 若い母親が、周囲を見回している子供たちを促し出口へと向かう。

 旅人らしき中年夫婦が、しきりに感嘆の声を上げている。

 そして、普通列車が去って行くと、ホームはまた静かになった。

 青年が、ではお先に上がりますと、この駅らしい表現で出て行く。

 ボクは最後までホームに留まり、女性駅員さんになぜか礼を言って出口へと向かった。

 このトンネルの名が「頚城トンネル」であるということは、あとから知った。

 JR能生駅と名立駅の間、11,353メートルがすべてトンネルであり、筒石駅は、そのトンネルの中にホームをもつのだ。分かったようで、分かっていないような話だ。

 かつて地滑りによって、急な崖の下に造られていた筒石駅は何度も破壊されたという。

 しかし、1963年3月から1966年9月にかけてのトンネル工事とともにホームが完成。

 トンネルの中にあるホームへと下りるためのトンネルは、工事用に掘られたトンネルを、そのまま使っているとのことだ。

 地上から四十メートル下に造られたホームというより、地下ホームから四十メートル上の地上に造られた駅というのが本来のような気がする。

 後ろ髪を引かれるような思いのまま、最後の長い階段を見上げた。

帰りの上り

 そして、空気が変わったと思った。地上の熱気が流れ落ちてきていた。

 外に出ると、さっきの普通列車で下車した母子を、子供たちの祖母らしき婦人が迎えに来ていた。これから楽しい夏休みなのだろう。海が待っている。

 一緒に下りたソロの若者は、大きなリュックを担ぎ、そのまま徒歩で海沿いの町へと下るみたいだ。

 中年夫婦は、駅員にこの辺りで食事できる場所はないかと尋ねている。駅員が、ここは観光地ではないので…と説明している。

 鉄道マニアの青年はと言うと、すでにその姿は見えなくなっていた。

 まだ午前中だと言うのに、日差しはすでにピークに近く感じた。

 夏だなあと思う。ずっと昔のことだが、いつもこんな夏があったんだと思う。

 何かを思い出させてくれた、夏の、五十数分間の、胸躍る大冒険だったのだ………

水滴

 

不思議な距離

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 仕事で自分の生まれ育った町と関わりを持つというのは、何だか奇妙なものだ。

 自分自身、その類の仕事で満足したことは一度もない。

 不思議なことに、最終的には投げやりに近い状態になっていることが多く、やはり何となく寂しい気持ちになるのだ。

 なぜなんだろうと、今あらためて新しい関わり(仕事)を持つことになったのをきっかけに考え直している。

 ふと思うのは、自分自身が自分の故郷である町に対して、それほどの愛情や親しみを持っていないのではないかということだ。

 これはある意味で当たっている気がしないでもない。

 しかし、誰しもが持つ正反対の心象のようでもあるし、それを第一の要因にするのは適当でないと思うのである。

 皆、少なからずそのようなものを持っていながら、故郷のことを思っているのだと思う。

 小さい頃からかなりのませガキであったボクは、さも当然のように大人になったら都会へ出て、自分の好きなことを自分のやり方でやるのだという強い思いを持っていた。

 都会というのは、小学校中学年の頃は東京であり、中学の頃には生意気にもニューヨークあたりになった。

 その後は趣を変えてまた国内に戻り、八ヶ岳山麓あたりに移行していき都会志向は消えていったが、とにかく故郷で生活するという選択はなかった。

 それが直接的になぜこうなったかは今書かないが、いざそうなってしまうと、逆に身動きがとれなくなるものらしい。

 大学を卒業する時には、ボクは完全にUターン志向になっていて、東京の暮らしには興味を失っていた。

 趣味の世界では東京に多くの未練はあったが、それ以外には何も魅力を感じなかった。

 しかし、今になって思うのは、ただ単に見つめる世界が少年時代より狭くなっていただけではなかったかということだ。

 もちろんそれは、大人になったからこそ分かる世界であったのかも知れないが、基本的なところでボクにはそれほど深い考えはなかった。

 Uターンした後、新たに見つけた趣味の世界に没頭していったが、本質的なところで大事なものを見失っていったのだと思う。

 当然見失っていることには気が付かなかったし、周囲は趣味の世界を楽しむボクのことを好意的に見てくれていた………

 故郷の町の仕事をする時には、少し腰を浮かせている自分に気が付く。

 悪い言い方をすると、完全は望めないと思っている(ように思う)。

 そして、望まれていないようにも思える。

 そうではない町では、もっとチカラが入っているのに、なぜかこの町ではそうならないのである。

 自分がこの町を見くびっていたニンゲンだった…?…からだろうか?

 あるいは、思いが強すぎる…?…のだろうか?

 どちらにせよ、また新しい関わりが始まる。年齢も、立場も環境もそれなりに変わっている中で。

 ボクの故郷である町は、「内灘」という………

石段

トマソン的石段

 金沢観光の仕事にチカラを入れ始めた頃、「ひがし」はまだそれほどでもなかった。

 今の「ひがし」ではなく、「東山界隈」というイメージを重視していたくらいだった。

 しかし、「ひがし」の人気が急激に上昇し始めると、実は西もなかなかいいのだヨ的空気が漂い始めた。

 依頼されて文学をベースにしたストーリーを作り、室生犀星から始まって、島田清次郎、松尾芭蕉、それに中原中也などといったゆかりの文人たちをめぐるコースを企画した。

 タイトルは「金沢のにしを歩く」にした……。

 室生犀星が育った雨宝院の前から、にし茶屋街の方向へ抜ける狭い道がある。

 左手に高い石垣が続く、なかなか雰囲気のいい道だ。

 そして、その道に入ってしばらく歩いたところにこの石段はあった。

 しばらく眺めていると、あやしげな曲がり方をした手すりにも、微妙な組み合わせで成立してしまっている石段そのものにも、誰かの思いが込められているような気がしてきた。

 かつて、一度だけこの石段を上ってみようと思ったことがある。

 しかし、これは鑑賞のためにあるのだと自分に言い聞かせてやめた……

梅雨のせいではないモタモタについて

枝の小鳥

ここ最近は、アタマの中がモタモタである。

決して悪い意味のモタモタではないのだが、とにかくモタモタであるという状況に対しては決してよくないと思っている。

このようなモタモタ期には、ひたすら焦っている自分がいる。

冷静さもそれなりに持っているから、尚更焦りもしっかり自覚していたりする。

こういう場合、いったいどうすればいいかなのだが、やはりボクの場合はこのモタモタの中でずっとやり過ごしていくしかないと思っている。

決して悪い状態ではないのだから、そのうちモタモタそのものは消え失せていくだろうと思っている。

やらねばならないことと、やりたいことが、またまた目の前に山積み状態となってきた感じだ。

それはいくらかは仕事であり、いくらかは自分自身の楽しみでもあり、いくらかは自分の課題(使命?…そんなわけないか)でもある。

だから焦り自体も、何となく嬉しかったりして、これを忘れてしまってはいけないのだと自分に言い聞かせてもいる。

梅雨に入って、スカッとした朝や昼や夕方などがなくなっている。

やはりちょっと物足りないが、まあ今は、モタモタしていることに満足していることにしよう……

自分なりのクリエイティブ

 先日、あるお偉い方から、N居さんって、結構クリエイティブな世界でやってきたんですってね…と、突然言われた。

 ボクが関わってきたことを何かで知られたらしく、いきなりそんな話になったみたいだ。

 しかし、ボクとしてはかなりの違和感があり、クリエイティブな世界にいたという認識などない。

 そもそもクリエイティブとは何なんだろう?

 今身近にとてもお世話になっていて、その物腰や言葉の柔らかさが大好きな先生がいらっしゃるが、その先生や華やかなデザイナーの人たちこそが、俗に言うクリエイティブ・ニンゲンなのだと思っている。

 と、ここまで書いて思い出した。

 まだ20代の終わり頃だったと思うが、会社の中に企画部門を立ち上げ、「クリエイティブ・チーム」などといった図々しい名を付けていた時代がある。

 その後に、少し自重して「プランニング室」、その後ちょっと成長して「プランニングセンター」という名前で現在も続けているが、やはり「クリエイティブ」には遠慮があった。

 広告やデザイン、モノづくり・コトづくりなどの世界には、どうしても「クリエイティブ」が要る。

 しかし、ボクの進んでいった道は少しずれていたように思う。

 敢えて、そう呼ばれたくない道に進んでいったようにも感じる。

 ボクをクリエイティブだと言ってくれた方の感じ方には、やはりボクがやってきたことへの肯定的な認識があったのは間違いない。

 さまざまなことに首を突っ込んできたのはたしかだ。

 しかし、ただボクはやはり中途半端にやり過ごしてきた。

 ある計画に関わり、そのグループのまとめ役みたいな立場に置かれてたことが何度かある。

 あるボスからはこう言われた。

 「これを成功させれば、N居さん、凄い実績になるよ…。いよいよこれから大飛躍だね」

 たしかに成功はしたと思うが、ボクはその事業が終わりに近付けば近付くほど表側から身を引くようにして、結局最後はほとんど自分の影を残さないようにしてきた気がする。

 それは、一会社の一企画屋という、他人が言うには少しよそよそしい認識でいたからで、一個人としての立場があれば、もっと違った主張をしていたかもしれない。

 このような経験は、覚えているだけでそれから数回あった。

 しかし、ボクは同じようなスタンスでやり過ごしている。

 仕事の上で考えると、デザイナーの人たちにはクリエイティブ、特に言葉としてのクリエイティブは必要なのだろうが、自分のように中途半端な立ち位置のニンゲンには表面的にそうあるべき理由はない。

 ただ、今回このクリエイティブについて、某氏に言われてから少し考え方が変わった。

 もっと平凡に日常の中で考えていけば、ボクは十分にクリエイティブなのだと思う。

 デザインや広告などといった、クリエイティブが商売道具として使われている世界ではないところで、ボクはボクなりのクリエイティブを駆使してきたと思うのだ。

 潜在的なクリエイティブとでも言うか、モノゴトの接し方そのものがクリエイティブであったという自覚が、少しは芽生えた。

 だからこそ、クリエイティブな世界にいたと言われるのだと思えるようになった。

 生意気なことを書いているなあという思いに揺れつつ、クリエイティブについて、今もなお表面的ではないのだぞと自分自身に言い聞かせている……

新緑がいい

上高地の森

 この齢になって新緑の素晴らしさを語ったりしたら、加齢の仕業のように言われた…と同年代のある人が話していた。

 その人は、齢を食うと季節に敏感になっていくからイヤだねと、ただそれだけの理由で納得していたようだったが、少なくとも自分は違うなと思っていた。

 自然の移り変わりというか、季節の表情がいろいろと変わっていく様子というのは、人それぞれの感性や経験などによって違うのであり、その両方に明確な覚えのある者にとってはそんな単純な理由に納得できるはずがない。

 ボクと新緑との付き合いは、二十代初めの信州上高地から始まった。

 まだマイカー規制が緩かった時代、夏山真っ盛り期の前にはかなりクルマで入れる期間があり、そのチャンスを利用して頻繁に上高地に通った。

 その頻度は自分でも異様に感じるほどで、多い時には一ヶ月に五回ほど出かけていたこともある。

 上高地は四月の後半に一応開かれるが、飛騨方面からだと今と違って安房峠越えという厳しい条件があった。

 だから、少し落ち着く五月の連休明け頃から入り、ウエストン祭の頃から先の目覚め始めた大自然を満喫した。

 頻度に比例して上高地の隅々まで歩くようになり、それから後、上高地を通過点にして山の世界に入っていったのだが、秋の紅葉の時季よりも圧倒的に春から初夏にかけての新緑の時季が好きだった。

 ボクはそれまで、新緑に対する認識(大袈裟だが)というもののを感じたことはなかった。

 しかし、上高地という特別な環境がそうさせたのは間違いなく、梓川の桁外れな清流と穂高の圧倒的な山岳景観などが、新緑という何気ない自然の産物にも魅力を感じさせたのだろう。

田代池 (1)

 上高地での体感以来、ボクにとって新緑はどんな場所においても大事なものになっていく。

 そして、新緑は最もシンプルな季節的シンボルのひとつであって、自然の中でいちばんテンションを高揚させるエキスをもつものだと思うようになった。

 たしかに真っ青な空も入道雲も、晴天の日の雪原なども見ていて元気をくれるが、新緑とはどこかが違った。

 新緑にはこれからまた物事がスタートしていく時の期待感、いやちょっと違うか…、もっとシンプルで、具体性のない何かに対する“楽しみ”を煽るような、そういうものが潜んでいるような気がする。

 そして何よりも美しいし、清々しい。

 田んぼが水田になり、苗が植えられ、その後しばらく鏡のようになって空や山々を映し出す時季、新緑も負けじとその本領を発揮していく。

 風に揺れながら波のように色を変化させたりする様子は、新緑期ならではの目の保養になる。

 ボクにとっては、“シンリョク”という響きも、“新緑”というこの二文字の組み合わせもなかなかにいい感じだ。

 そんなわけで、できれば一年中新緑が続いてくれたらと思うが、それじゃダメなのも分かっていて、とにかく出来るだけ、“今の新緑”を楽しもうと考えるのだ……

緑陰1

緑陰3

卯辰山の竹藪のこと

燃える竹

 枯れた竹が放置されたままの藪では、陽が差し込むと、突然その隙間に伸びていた新緑が輝き出す。

 春の始めだったりすると、その勢いも激しく、目がくらむというと大袈裟だが、ちょっとびっくりしたりする。

 金沢の卯辰山には、ところどころに竹林か竹藪かといった感じの場所があるが、どこもあまり整備されているとは言えず、かなり中途半端な様相だ。

 金沢といえば、やはり別所などの竹林が有名で、その美しさは卯辰山の比ではない。

 それはやはりよく整備されているからで、タケノコの産地であるということがそのことを裏付けてもいる。

 しかし、前にも書いたが、竹林というのは何となく日本の象徴的な風景をつくり出していて、その点でも卯辰山はちょっともったいない。

 たとえば、小さな社が三つ並ぶ卯辰三社周辺の竹藪はかなり傷んでいる。

 山麓の寺院群をめぐる「心の道」周辺も然りだ。

 傷んでいるから、整備されていないから竹林ではなく、竹藪なのだろうと勝手に思ってもいる。

 「心の道」の仕事に携わっていた頃、旧鶯町の松尾神社を抜け、そこから先、右に上るか左に下るかで結論を待たされたことがあった。

 ボクには当然決定権などなかったが、圧倒的に右行き派で、そこからの風景や空気感がこのルートの核心部になるとさえ思っていた。

 現にガイドを作った際、ボクはこの場所に向かう道の石柱と山門を撮影し使用している。

 小さな寺院と墓地。道は辛うじて木漏れ日が差す程度の明るさで静まり返っている。

西養寺墓地の道

 しかし、薄暗く荒れた墓地の中の道であることや、最後は厳しい下り坂となることもあって、雨の日の調査により、その道は危険と判断された。

 ルートは松尾神社を出て、左に下ることに決まったのだ。

 その辺りにも竹藪が続いていた。とても大きな竹が笹を垂れながら揺れていた。

 そして、それはそれなりに豪快で美しいものでもあった。

 竹藪というのは、なかなか手を入れるというのもむずかしいのだろうが、とにかく手を入れる価値が見出されていないのが本当のところなのかも知れない。

 卯辰山の瓢箪池から苔むした石段を登り、卯辰三社に上がると右手に深い竹藪が見えてくるが、その中の様子も荒れている。

竹藪の道

 しかし、竹藪に目をやりながら短い道を歩き、その途中に架かる小さなアーチ形の橋から見下ろすと、その竹藪が意外と深い広がりをもっていることに気が付く。

 その辺りまで来ると、少し竹藪が竹林になっているのではと期待ももたせてくれ、足を運ばせようとする。

 卯辰山は金沢市民にとって、あまりにも身近な存在だ。

 ボク自身も小学生の頃、天神橋の脇の旧御歩町に親戚があって、そこへ遊びに来ると、すぐに卯辰山に上った。

 もちろん歩いてであり、頂上?付近のグラウンドで遊んでいた。

 今から思えば、田舎から出てきた少年が、何の懸念もなく上り下りしていたのだから、やはりごく普通の丘みたいな山だったのだろう。

 墓地や健民公園や相撲場などがあって、今も日常の中にもそれなりに位置付けられているのはまちがいない。

 かつては相撲場で野外コンサートがあったりして、国内のそれなりに有名なジャズミュージシャンなどが来演していたこともあった。

 竹藪の話にまた戻すと、ボクはやはり、卯辰山の場合はもう少し手を入れて、せめて竹林と呼んでもおかしくないくらいにしたらどうだろうかと思う。

 前にも書いたとおり、「金沢らしさ」は「日本らしさ」なのだ。

 兼六園も武家屋敷も茶屋街も、伝統工芸も伝統料理も伝統芸能も、みな「日本らしさ」であり、今ははるかに及ばないが、卯辰山の竹藪、いや竹林もまた「日本らしさ」になる。

 卯辰山へ出かけたが、桜の印象は全くなく、ただ竹のことばかり考えて歩いていた……

卯辰山三社の石段と鳥居散策路の桜と

アイドルを逃がせ !!

 クルマで移動中、久しぶりに聞いたNHKラジオの“ 午後マリ ”。

 その日のゲストは YA(さん=省略)。アイドルなどとはあまり関わりのない人生を送ってきたつもりだが、恥ずかしながら、このYAだけには思い出がある。

 と言っても、ファンクラブに入っていたとかではなく、当然全国追いかけまわしていたというのでもない。

 1988年、金沢で『食と緑の博覧会いしかわ』という大きなイベントが開催された。

 地方博というのが盛んに行われていた頃で、そのような博覧会には決まって人寄せコンサートみたいのが付いていた。今でも同じかな。

 金沢の博覧会もご多聞に漏れず、会場となった西部緑地公園特設ステージにおける最大イベントが、YAのコンサートだったのだ。

 YAと言えば、泣く子も黙る当時の超売れっ子(らしかった)。

 博覧会の立ち上げから運営にまで関わっていたボクや仲間たちは、その超売れっ子を守るため警備補助の仕事を課せられた。

 警備補助とは、コンサートが終わったのに帰らないお兄ちゃんたちが、Yちァ~んなどと叫びながら柵を越えて来た場合、力づくで押さえつけ、テメェ、コノヤロー、逮捕すっどというもので、実際数名が芝生の上にねじ伏せられたりしていた。

 ボクはその様子を、博覧会テーマ館の正面エントランスから見ていた。

 ボクの横には事務局スタッフ。そして、恐ろしく機嫌の悪いYAの関係者……?

 そして、さらにもう一人……小柄な…YA…本人。帽子を深くかぶり顔はほとんど見えない。

 その数日前のこと。

 ボクは、コンサート終了後、YA様ご一行を速やかに会場から外へ出すための秘密誘導員係を告げられていた。

 ほとんど耳元でのささやきに近いカタチでだった。

 しかし、コトは順当には動いていなかった。お兄ちゃんたちのほとんどが帰らずにいたからだ。

 不機嫌な関係者のオトッツァンが、事務局の段取りの悪さ?にどんどん表情をこわばらせていく。

 いつ怒りの罵声が吐き散らされるか分からない。

 段取りがどこかでズレ始め、怪訝な空気がエントランスに漂う。

 その時、「タクシーをテーマ館の裏に付けたから、テーマ館の中を通って行ってくれ」

 と、事務局の人がボクに言った。今回も耳元でのささやきに近かった。

 その手で行くのか…… とボクは首を縦に振った。つまり肯いたのだ。

 不機嫌なオトッツァンにも同じことが告げられていた。

 オトッツァンは、よく聞き取れない声で何ごとか発したが、すぐに体を回転させた。

 振り返ると、奥にYAがいる。

 えっ?と思って横を見ると、ここにもYA…だ?

 全く姿カタチの同じ少女が、ボクの周囲半径約5.0m以内に二人いる。

 驚いている暇はなかった。影武者かと考えている暇なんぞもない。

 オトッツァンが腹の底からダイレクトに響くような声で、早くしろ!と言った(ような記憶がある)。

 ボクはホンモノのYAらしき少女とオトッツァンを引き連れて、人のいない静まり返ったテーマ館の展示ゾーンの中を走った。

 何だかディズニーの映画みたいだなと思ったような、思わなかったような、必死なわりには楽しい時間であったような、なかったような。

 裏にある搬入口の大きなシャッターが半分ほど開けられていた。

 タクシーの運転手が、何かあったんですかといった顔で迎える。

 いえ特に何もないですといった顔で応えようとしたが、多分オトッツァンの雰囲気で、運転手は何かあったに違いないと思ったことだろう。

 タクシーが見えなくなるのを待って、フーッと息を吐き、スタッフの人たちの顔を見た。

 みなそれ相応の安堵顔だった…………

 何年も経ってから、YAの存在を知る機会があると、そのことを思い出すようになった。

 今日も、ラジオから聞こえてきた、もうお母さんだというYAの声を聞きながら、なぜか一方的に身近な存在になってしまってるなあと思ったりした。

 もともとの芸能界入りのきっかけは、応募したオーディションの副賞が真っ赤なラジカセで、それが欲しかったからとか。

 素朴な、どこにでもいる女の子だったのだと、あの日見た小さな姿を思い返す。

 今、幾分衰えつつ?ある感性にムチ打って、ミュージカルの稽古中だとラジオで話していた。

 そうか、ガンバレ、Yちゃん。なんかあったら、オレがまた、誘導してやるから………?

山里の陽だまりと、読本と、春眠と

福光の道

 福光からの帰り道、持って出ていた本を読もうとクルマを止める。

 日差しも温もりも春の兆し。

 運転しながら、瞬間的に目に飛び込んできた光景が、まさにその雰囲気に合う場所であると感じさせた。

 早春の陽だまりを求めての、三連休最後の日に訪れた短い自分時間。

 できるだけそれらしい雰囲気を自分自身にも課して、短い時間を楽しもうとしている。

 久しぶりだった医王山富山県側山麓の道も、飛越の山並みにまだまだ残雪が光っていて、手前の青麦畑やこれから始動する水田とのコントラストが美しかった。

青麦と残雪の山水田と残雪の山

 IOX-AROSAのゲレンデにも十分な残雪。

 来週は、立山山麓へ出かけるつもりでいる…と、敢えて自分に言い聞かせたりする。

 無造作に部屋の壁に立てかけられ、静かに息を殺しているテレマークの板たちのことを思う。

 彼らにはまだ十分な楽しみを与えていない。

 ただでさえ古い道具たちだ。

 このまま老いていかせるには勿体なく、自分自身を責めたりもする。

 陽はかなり西に傾いてきたが、さすがに春が近づいていると見えて、一日は確実に長くなっている。

 クルマのエンジンを切って、まずは周辺を散策する。

早春風景

 小川が流れ、そこに付けられたコンクリートの橋を渡ると、広くはないが美しい水田の空間がある。

 その手前には素朴な小屋が建てられていて、それがまたいい雰囲気を醸し出している。

 ただ近くまで来ると、トタン葺きだったりして少しがっかりした。

 畦道の草はまだ秋に枯れたままの状態で、雪の下で冬を過ごしてきたものたちだ。

 雪の重みに耐えた後の乾いた草の感触もなぜか懐かしい。

 しばらく歩き、写真も撮って、何度か振り返りながらクルマに戻る。

 フロントガラスいっぱいに、今見ていた風景が広がるようにクルマを移動。

北への旅

 シートをゆったりめにして、先日買った三冊のうちの一冊、『北への旅』(椎名誠著)を開く。

 分厚い。さらに、文庫だが紙質が重く手応えも心地よい。

 五十二ページまで一気にいく。といっても、四十二ページまでが写真。

 カメラマン・シーナ氏のちょっとクールで温かい写真に集中してしまった。

 話は、いや文章は津軽半島から始まり、いつものようにテンポよく進む。

 本当はキルギスへ行く予定だったが、なぜか津軽へと向かう。

 そのあたりの事情は読めば分かるので省略。

 五能線というローカル線で、五所川原に着いたところから本題に入っていくが、そのあたりのことも読めば分かるので省略したい。

 とにかく、夜になってコンビニのあんちゃんから聞いたうまいラーメン屋で体を温め、その温もりが冷めないうちにホテルに戻って寝たというところで序章は終わった。

土手の青草

 一段落したところで休憩。最近疲れ気味の目を休めようと、フロントガラスの光景をもう一度眺める。

 そして、そのまま眠ってしまった。

 春の陽だまりの中で活字(写真もだが)を追うというのは、最終的にこうなるのが正しい。

 しばらくだったが、目が覚めるとかすかに汗をかいていた。

 時計は五時少し前。クルマを降りて、身体を伸ばす。

 空気は少し冷えてきた。が、春がそこにあって気持ちが柔軟になっているのは間違いない。

 冬はすでに遠い空の果てから宇宙のどこかへと消え去っていったのだと、宮沢賢治的?に思ったりもする。

 やはり、春はいいのかも知れないのである……

南砺の里

室生犀星記念館  「桃色の電車」との再会

犀星

 

 

 

 

 

 

会社で展示リニューアルの仕事をさせていただいた、室生犀星記念館を訪ねた。

出る時まで名乗らず、普通に入って一時間近くもいた。

犀星については、思い入れがある。

その分、正直言って自分の考える犀星の世界と、記念館が描く世界には大きな差があったりもする……

鏡花よりも、犀星の方が金沢そのものだと思ってきた。

初期小説の中に描かれる、素朴で美しい金沢風景の描写を知らない金沢人は不幸だ……

今日本中の人たちが向き合っている「ふるさと」への思いにも、犀星の世界は切なくもしっかりと通じている………

二階に上がり、閲覧コーナーで全集を引っ張り出し、「桃色の電車」という随筆を探した。

と言っても、随筆だったか詩だったかの記憶もなく、ただ漠然と探していたら、第2巻の中にあった。

久々の対面。二十歳の頃、激しく心を揺さぶられた出だしの文章に、青かった時代の自分を投影する。

詳細なことは書く気にもならないが、この文章を読んだ時感じたのは、詩のような随筆…みたいなことだった。

ジャズ・活字・映画・芸術・歴史・野球・ファッション…手当たり次第に向き合っていたその時代の感性が、あの「桃色の電車」という不思議な?文章との出会いに繋がったのかも知れないと思う。

このことは実に稀有。

数年前、地元文学の権威である小林輝冶先生に聞いた時も、先生は首をかしげられた。

犀星の世界で「桃色の電車」を語るのは、自分だけかもしれない?

ちょっと恐ろしいことのように響いてきた。

実に、稀有なのだ……

2014.3.11 母の声

浅沼さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014.3.11 追悼式。

遺族代表として最初に言葉を述べられた浅沼ミキ子さん。

元気に避難誘導にあたっていたという25歳の亡き息子へ、

あなたを誇りに思いますと語りかける。

その瞬間、母としてのやさしい思いが堪えていたものを崩れかけさせたが、

浅沼さんは気丈に言葉をつないだ……

聞き終わった後、平凡な言い方だが立派な母親だと思った。

同じ年頃の子供を持つ親として、

自分にはこの人のような気骨はあるのだろうか?とも思った。

日常のいとしさ、かけがえのなさ……

これもまた平凡な言い方だが、大切なものを、

浅沼さんの言葉が思い出せてくれた気がした……

3月のありがとう

3月

  「3月のありがとう」はいつもより少し重い。

 高校生の間、通勤がてら二人の娘をほぼ毎朝学校の近くまで乗せていった。

 ほとんど会話らしきものはなかったが、当たり前の日課だった。

 そして、二人とも3月の初めのある朝、「3年間ありがとう」と照れ臭そうに父に言って車を降りて行った。

 家人から事前に聞いてはいたが、知らなかったふりをした。

 そして、わざとらしく「おっ、そうやったっけ」と、とぼけた。

 二人とも高校を出ると、京都へと巣立った。

 長女の引っ越しの時は、母親を残して独りで先に帰らねばならず、こっちも敢えて急を装うようにして帰ってしまった。

 翌日、母親を京都駅まで送った長女は、バスに乗ろうとした母親に「お母さん、いろいろありがとう」と礼を言ったという。

 バスの中、涙が止まらなかったと母親が言った。

 … 二年後、次女を京都に置いてくる時も、車で立ち去る直前になって「いろいろ、ありがとね」と言われた。

 ただそれだけの言葉だったが、母親の目には涙があふれていた。不覚にもこっちもグッときた……

 今朝、父と高校生の娘らしき二人が車で通り過ぎていくのを見た。

 かつての「3月のありがとう」を思い出し、そろそろ、あの父娘にも同じような「3月のありがとう」が訪れるのだろうなと思ったのだ……

壁時計が消えて知ったこと

花1

 居間の壁から時計がなくなって、もう三週間ほどが過ぎた。

 なんと、ある日突然…、まるで昔の歌のタイトルのようにその時計は落下した。

 真っ直ぐに落ちて、文字盤を被っていた透明のガラスを割った。

 たぶん、年末の大掃除の時にいい加減に取り付けたのだろう。

 落ちたところがテレビの裏側だったので、ガラスが飛び散ることはなかったが、その破壊的な音の響きには正直驚いてしまった。

 時計は一辺が30センチの正方形をしていた。

 木製フレームの形としては非常にオーソドックスなもので、どこといって特徴があったわけではない。

 ただその分、見やすくて時計の本来の機能からすれば、文句のつけようはなかった。

 当然のように次の休みには時計を買いに出かけた。

 しかし、思うようなものとの出会いはなかった。

 そのうち、だんだん見に行くのも億劫になってきて、居間のそこら中に置時計を散在させるようになると、壁の時計はなくても、何となく時間は分かるようになる。

 これでいいんじゃないのと、家族たちもしばらくはそう思ったみたいだ。

 しかし、何気なく壁を見る癖は、二十年近い我が家の歴史とともに家族全員に植え付けられたもの。

 目線の先にあるべき時計がないということに、不便さ以上のものを思い知らされていく。

 ちょっと腹が減ったなと目をやる癖。寝ようかと立ち上がりながら目をやる癖。日々の癖は留まることを知らない。

 そして、その癖は限りなく身体に染みつき、簡単には抜けきらない。

 やはり、日常は時間(時計)とともに動いているのだなあと思った。

 そろそろ真面目に、あるべきものを壁に戻さなければならないとも思いはじめた。

 これまで壁にあったのは、時計という道具ではなく、時間という大袈裟にいえば“安心”みたいなものだったのかも知れない。

 次の休みには、絶対に時計を、いや時間という安心を買いに行こうと思う……

笠谷から 葛西へ

笠谷photo6

 ソチ・オリンピック、男子ジャンプ陣の活躍が嬉しかった。

 長野大会ではバカ騒ぎしたが、今回の感動は静かに、そしてジワーッとくるものがあった。

 ジワーッときたその一番の要因は言うと、リアルタイムで見ていなかったことになる。

 しかし、それ以上にレジェンドと呼ばれた葛西紀明と、若手・中堅ジャンパーたちとの深い結びつきが、少しずつ明らかになっていったことが大きかった。

 ところで、ボクにとって日本のジャンプと言えば、やはり笠谷幸生の存在から始まる。

 札幌オリンピックで金メダルを取る少し前から、笠谷が大好きになっていた。

 今はもうなくなってしまったが、当時高校生だったボクは、笠谷の活躍を知らせる新聞記事でスクラップ・ブックを作っていた。

 金メダルを取った日の数日後、クラスの当番がまわってきて、ボクは学級日誌?に笠谷を称える短文を綴った。

 内容は忘れたが、次の当番だった女の子が、ボクの文章に同感するようなことを書いてくれて嬉しくなったのを覚えている。

 今でもジャンプは超短い時間の中での競技だと思うが、当時はもっと短いように感じられた。

 今のノーマルヒルのK点が90mくらいであることを考えると、当時70m級ジャンプで、笠谷の84mと79mのジャンプは、それこそアッという間の出来事だった。

 今と比べると、ふわりと浮いたというような印象がない。

 脇を絞り、両手を前に突き出すようにしてアプローチを滑り降りてくる笠谷。

 何となく“日本人らしく表現された気合”が伝わってくる。

 そして、踏切からきれいなフォームで空中に飛び出すと、高くというより、すーっと一気に、美しく落ちて行く。

 V字飛行ではなく、スキーは揃えられている。

 当時のテレマークの深さは今の選手とは比較にならない。

 折った膝はほとんどスキーの上にあり、体勢的には、スキーの上にしゃがみ込んでいると言った方が当たっているかも知れない。

 テレマークスキーをやる者としての経験から言わせていただくと、とにかくあの膝の折れ方は尋常ではないのだ。

 今のようなV字飛行だとテレマークも入れにくいのかも知れないが、笠谷の着地とテレマークはそれこそ“レジェンド級”だった。

 笠谷のカッコよさは、クールで照れ屋さんだった一面にもあったとボクは思っている。

 スクラップした新聞の中にあった、表彰式のあと、金メダルを無造作にバッグに放り込んで帰路に就いたという記事。

 ジャンプという競技は自然相手だからと、優勝にも驕らなかった。

 そして、90m級での敗北。風で大きくスキーが乱れた瞬間をカメラがとらえ、翌日の朝刊一面にその写真が載った。

 笠谷は片方の腕をくの字に曲げて、顔を隠し、そしてブレーキングゾーンにしゃがみ込んだ。

 テレビでその瞬間を見ていたボクにとっても、それはショッキングなシーンだった。

 普通に飛べば、楽々2個目の金メダルが手に入った…はずだった。

 ボクは自分でも分かるくらいに茫然となり、その時吹いた“風”というものに激しい怒りを感じた。

 しかし、笠谷は敗北を風のせいにはしなかった。

 1回目風に恵まれて大ジャンプをした(2回目は失敗)、フォルトナという19歳の少年ジャンパーに金メダルが贈られるのを、笠谷は人ごみの中からじっと見つめていた。

 ところで、冬のスポーツ競技の中で、ボクは特に複合やジャンプの団体戦が好きだ。

 個人競技でありながら、チームとして戦うスタイルに、本来のチームスポーツとは異なるものを感じる。

 それは、力量に差がある個人が同じことをしながらチームとして順位を競っていくという点だ。駅伝も似ている。

 そして、もう一つ大きなこととして挙げたいのは、戦い終えた後に見せる選手同士のさまざまな交流の姿だ。

 喜びだけでなく、悔しさや無念さ、そして互いの健闘…、分かち合うものの大きさにこちらも感動をもらう。

 笠谷が優勝した70m級ジャンプでは、誰もが知っている「日の丸飛行隊」という名前が生まれた。

 団体戦ではなかったが、表彰台を独占したあの誇らしい光景は、日本というチームがいかに素晴らしい絆で結ばれていたかを物語るものだった。

 笠谷・金野・青地といったメダル獲得選手だけでなく、その他の選手、スタッフや関係者、そして応援する人たちが一体化するスポーツの凄さに、感情を控えめに表現してきた日本人自身が驚かされた。

皆嬉しかった

 そして時間を経て、無念ではあったがリレハンメルでの団体銀、長野の団体金、今回ソチでの銅と、日本チームは常に世界の中で実績を残していく。

 やはり日本ジャンプの礎は札幌までの笠谷個人の活躍にあり、さらにその後の団体戦での実績を考えると、札幌での日本人選手によるメダル独占がもたらしたものだなと思える。

 葛西紀明が団体戦終了後に流した涙も、いかにチームとしての日本を、彼が心の中で大切にしてきたかの証だった。

 さらに葛西の前を飛んだ三人の“勇者たち”が、それぞれに体を張って果敢な挑戦を見せてくれたことにも、そのことが表れている。

 思えば70年代のはじめ、笠谷が本場ヨーロッパを遠征しながら優勝を重ねていくニュースも、当時の日本人にとってはある意味不思議な出来事であっただろう。

 そして、アジアの小さな国のスキーチームが、世界で戦うチカラを維持しているという今も、その思いがどこかにあったりする。

 最近あまり顔を見ることもなくなった笠谷幸生だが、日本チームの活躍に目を細める表情も見たかった……

東向きは神々しい

朝日のさす部屋

 小雪のちらつく休日の朝。

 用足しに寝室を出ると、少し開いた自分の部屋のドアの隙間から、オレンジ色の明かりが洩れている。

 ドアを開けると、三段になった小さな窓がオレンジ色の光で膨張しているように見えた。

 足を踏み入れ、小さな窓から外を見れば、雪雲の中に横に広がる明るい空間がある。

 そして、遠く東に聳える北アルプスの剣・立山・薬師の稜線がちょうど見え隠れしている。

 出てきたばかりの朝日がその細長い空間にあって、真っ直ぐに部屋へと光を差し込んでいるのだ。

 むかし、NHKの『知られざる古代』という番組に夢中になり、出版局が出した同名の分厚い本を買って読んだ。

 そして、神仏は東か南に向いているということを知り、日本の仏様も大陸の仏様も同じ向きに置かれているということに激しく感動したが、そのことを思い出していた。

 例えば、太平洋の水平線に向いた日本の寺院の仏像の顔に朝日が当たる。

 それは当然大陸からの教えに倣ったことであり、大陸でも同じように仏像の顔に朝日が当たるようになっていた。もちろん、暦上などの何らかのことと関係してだったと思う…

 このような話を、具体的に、そしてドラマチックに証明していくこの番組の凄さは、当時の自分の中では格別な冒険ドラマ的存在だった。

 そして、この番組と本との出会いによって、その後奈良の「山の辺の道」を歩き、さらに京などの古寺を探索するという上質な旅にも駆り出されていく。

 そこまでその時思い出していたかは曖昧だが、とにかく自分の部屋の、あまりの“神々しさ”に、部屋にあったカメラでそれを撮影しようと思ったのは当然であった。

 そう言えば、我が家も東に向いていたのだと、あらためて思った。

 家を建てるなら、やはり東側に向けて建てるべきだなとも思った。

 やはり、何と言ってもそれなりに神々しいのだ。

 ただ残念なことには、年末に瞬間物置状態になってからの自分の部屋は、年が明けてもまだその状況を改善していなかった。

 だから、その日明るくなるにつれ、明け方の畏れ多き神々しさは徐々に化けの皮がはがれていき、朝飯が終わった頃には、古代からのロマンなんぞも一気に失せていったのである……

吉祥寺ジャズが懐かしい

ドルフィー

 東京・お茶の水周辺にジャズの聴ける店があることは、ご当地大学の学生だった時代から知っていた。

 むしろ、その頃の方が今よりジャズがジャズ的だったし、学生街にジャズ喫茶などがないというのは、ボクにとってはむしろ違和感を覚える環境だった。

 最近、東京へ出かけると、夜の遅い時間、その辺りにあるジャズの店に時々立ち寄るようになった。

 昔はなかった今風の店だが、美味いシングルモルトも飲めて、それなりに安らげるようになってきた。

 かつてのジャズの店では、会話禁止とか、リズムに合わせてテーブルをコツコツやっていても怒られるという店もあったが、今では聴くことよりも会話を楽しめるように店が出来ている。

 だから音量もまあまあ、昔のようにスピーカーそのもので圧倒するようなレイアウトもない。

 カウンターの後ろにはレコード、CDがずらりと並ぶが、レコードはきれいなビニールに入れられていたりする。

 歴史を感じさせるような名盤のレコードといったイメージも強調されていないし、実際にはそういうレコードは置いてないのかも知れない。

 この前は、チコ・ハミルトンの超懐かしい『ブルー・サンズ』(CD)がかかっていたりして嬉しかった。

 ところで、先日、東京でお会いしたある人が、かつて井の頭線の永福町に住んでいたという話をされた。

 反射的に、自分の東京生活は同じ井の頭線の三鷹台から始まったんだということを思い出した。

 そして、その仮の住まいからすぐのところに井の頭公園への入り口があり、公園の中を歩いて吉祥寺の街へと出ると、東京へ行ったら必ず行ってみようと考えていたジャズ喫茶があったこともあらためて思い出した。

 東京に着いた三日目のことだった。ついでに書くと、二日目は新宿に出て、紀伊國屋で長時間の立ち読み(もちろん買い物もした)を楽しんでいた。

 金沢のジャズ喫茶に慣れてしまっていたボクは、相席も構わずに空いた席に座らなければならないシステムに少し戸惑った。

 店の中がイスとテーブルで埋め尽くされているといった感じだった。

 しかし、それに慣れていくと、その店の居心地は最高のものとなり、ボクはそれ以来、この店を自分の東京の最も好きな場所のひとつにしていく。

 カンペキなリスニングルーム。有名メーカーのスピーカーから遠慮なく響き渡る音は強さがあり、キレがあり、一曲一曲、一音一音を、じっくりと身体中に感じさせてくれた。

 だからか、ボクは心地よくそこで本を読むことができた。ジャズに包まれている感じだった。

 演奏者たちと自分との間に隙間がなかったような、いや、その奏でられた音の層と自分との間にか……、よくは分からないがそんな錯覚?さえあったような気がする。

 東京一の保有数を誇ると言われるレコード(スタジオ)室のカッコいいお兄さんとも仲良く?なり、リクエストは当然のこと、いろいろな質問なども浴びせられるようになったのは、夏になってからだった。と言っても、もちろん長々と話したりする時間はない。

 お兄さんはトレーナーやジーンズ。大きなエプロンが短い頭髪に似合っていた。

 ボクはきびきびした動作と、いつも笑顔で対応してくれるそのお兄さんが大好きになっていく。

 結局、大学の四年間、ボクはその店に何度となく足を運んだ。

 住いが三鷹台から変わった後も、店へ行く頻度はそれほど変わらず、クラブの合宿などで長期間行っていない時などは、久しぶりに顔を出すと、オッという顔をされ、「帰省?」などと聞かれたりした。

 金沢にもジャズの師を得ていたが、東京でのジャズ生活は、そのお兄さんのおかげで楽しく充実したものになったのだとボクは思う。

 しかし、卒業以来、その店には一度も足を向けなかった。有名なオーナーもなくなり、今はもう形態そのものが変わってしまっている。

 それでも、できれば近いうちに、その周辺にだけでも行ってみたいと思う。

 かつては気持ちの中で近く感じていた吉祥寺だが、今はなぜか遠い街にしてしまっているのだ……

風邪ひき午後の味噌煮込みうどん

yagi

 年の始めからの過密?スケジュールが災いしたのか、一月の終わりになって風邪をひいてしまった。

 今の風邪は、ちょっと治ったかなと思っても会社などからは来なくていいと言われるので、その辺で喜んでいいのかどうか浮ついたりするのである。

 しかし、知り合いが風邪で休んでいたりすると、しっかりクスリを飲んで寝て、いいモノを食い、いい音楽といい文章に囲まれていれば、すぐに風邪なんか飛んで行ってしまうのだよ……とカッコいいことを言っているが、いざ自分の番になると、なかなかそんな美しい境遇には恵まれなくなる。

 予測なく鼻水がタラ~ッと出て来そうな雰囲気の時などには、いい音楽もいい文章もあったものではない。

 ましてや、咳に上半身を煽られ、体全体が熱に冒され始めたりすると、音も活字も神経を逆撫でする補助凶器にさえなってしまうのだ。

 昨日早退、本日お休みとなった今など、一応昨日医者にも行ってきたので、ひたすらじっとしているといったことなどが要求されている。

 しかし、人間、そうじっとしてはいられないし、たまには体を動かすことも求められる。

 そういう時に、忘れていたものとの再会や、また大きな発見などもあったりするのだ。

 そんなわけで、先ほど冷蔵庫にあったうどん一袋にネギその他を放り込み、味噌煮込みうどんを作って食った。

 もともとは醤油煮込み味だったのだが、そのスープは引き出しにしまって、味噌汁用の味噌を使った。

 味噌の量が少し多過ぎて塩っぽさが強調されたが、タマゴの絶妙な崩れ具合が、自分としてもかなりの満足度だったので、まあまあ良しとしておくことにした。

 かつて白山麓・O村にあった小さな食堂の味噌ラーメンは、家庭の味噌の味だった。

 ボクはその味噌ラーメンが大好きで、20~30代の頃は、月に二度以上は食っていたような気がする。

 それは家庭の味噌汁のような風味のラーメンだった。

 北海道でも、東京吉祥寺でも同じような味噌ラーメンと出会ったことがあるが、その店のものは「素朴度」が違った。

 飾らない正真正銘の“味噌”でスープが作られていたに違いない。

 あれ以来、味噌ラーメンの懐かしさは、あの味に還ることになってしまう。

 そして、今日ボクは風邪で休ませていただいたおかげで、そのことを再確認する機会を得た。

 味噌煮込みうどんのあとは、家人が用意してくれた伊予かんなども食った。

 味噌煮込みと一緒に、昨夜のおかずの残り、肉じゃがも食っていたので、もう腹はいっぱいだ。

 さらに見渡せば、正月明けのせいか、我が家にはさまざまな食材が散在していることも発見。

 現代日本における、雑食文化の煽りを実感。反省しつつ、賞味期限ギリギリ待ったなし状態の金沢伝統和菓子も、ついでにいただいた。

 この満腹感は、風邪で休ませていただいている者としてはどうも心苦しい。

 アタマはボーっとしているが、満腹過ぎて、すぐベッドに入るのも少し控えなければならないほどだ。

 この無作為な文章も、腹ごなしのつもりで打っているのだが、どうも収拾がつかなくなってきたので、このあたりで終わりにしよう……

バット名人との思い出

久保田さん

 この春、バット作りの名人・久保田五十一さんが現役を退くという。

 2005年の11月8日、岐阜県養老町のMIZUNOバット工場で、久保田さんとお会いしたことが当時のノートに走り書きされていた。

 しかし、それ以上に鮮明な記憶がアタマに残っている。

 早朝に金沢を発ち、約束時間よりもかなり早めに到着していた。

 空には雲ひとつなく、近くの河川敷や広大な平野と丘陵が美しかった。

 一ヶ月後に開館を控えた松井秀喜BBMに、松井選手が使ってきたバットの変遷を紹介しようと企画していた。

 そのための最終打ち合わせが目的だった。松井BBMの仕事というだけでボクは手厚く迎えられ、早々に久保田さんの作業場へと案内された。

 久保田さんに会った瞬間、飾らない性格がそのまま言動に表れる人だと思った。

 名人はボクの目の前で、当時の松井モデルを一本作ってくれた。その作業風景をボクはカメラに収めた。腰をかがめながら、定規を当てて微妙な寸法を調整していく。回転刃から弾き飛ばされる木が、作業場に独特の匂いを放つ。

 ネームの入っていない出来たてバットは、“これがあの松井のバットか?”と思うほどに細く、軽く感じるものだった。

 名人はそのバットをビニールの専用袋に入れて渡してくれた。

 工場を回りながら、バットのことをいろいろな角度から説明してくれる名人は、多くのプロ野球選手たちの特性やクセのようなものを感じ取っているように見える。

 落合モデルのバット、イチローモデルのバット… ずらりと並んだ有名選手たちのバットたちは壮観な印象を醸し出し、何だかとんでもない空気の中にいるように感じさせる。

 名人は、「松井さんは、一年に一度もバットを修正しませんでしたね。不振になっても、バットのせいにしなかったですよ。他の人はよくシーズン中に修正しましたが……。バットの重さの感じ方で、自分の調子を見てるという話もされてましたね…」と話した。

 正午に近づいた頃、名人は松井さんが訪れた時に必ず行ったという近くの食堂へ連れて行ってくれた。

 同じメニューの定食をご馳走してくれ、その席でも松井さんの話を楽しそうに語ってくれた。

 「松井さんが来ると、店に近所の人たちがたくさん集まってくるんです。松井さんは一人一人と握手したり、サインしたりしてましたね。とにかく人柄も素晴らしかったです…」

 そうこうしているうちに、店が少し賑やかになった。入り口の方からこちらを覗き込むような人が数人いる。

 名人が、「松井記念館のプロデューサーさんです」と、その人たちに紹介してくれると、その人たちも松井さんの印象などの話をしてくれた。

 バットを作る名人と、そのバットで一年を野球に打ち込む松井さんとの関係とはどういうものか?

 そんなことも感じ取ってみたいと思ったが、その場では結論らしきものは出ず、ボクはその後の展示プランを作成する際になって初めて、すべては一本のホームランなのではないかと思ったりした。

 ニューヨークデビュー戦で打ったグランドスラムの時の話を思い出したからだ。

 「嬉しかったです。ホッとしましたね…」

 名人の思いのこもった一言だった……

星は星の数ほどある

KICX7336

 ジャズや文学や落語やその他、日々のどうでもいいようなことを語り合ってきた今は亡き酔生虫(俳号)さんは、かつてこう言ったのだ。 「星は、星の数ほどある」と。

 経緯は忘れたが、当然何らかの流れの中から星の数についての話題に移っていった時のことだったろう。

 ボクもこう切り返した。 「と言うことはやはり、山は、山ほどあるんやろね」

 東京からの帰りの、特急「はくたか」の中・・・・

 イヤホーンから耳へと入ったキース・ジャレットとチャーリー・ヘイデンのデュオが、そのさらに奥へと静かに響いていき、生まれつきわずかに内蔵されてきた脳ミソに安らぐとはこういうものぞと教えている。

 窓外の景色はすでに闇の中だが、様々な明かりが小さく刻まれた雪景色を浮かび上がらせていた。

 相変わらずオレは疲れているんだと思う。そう思いながら、でも気のせいかも知れないぞと自分に言い聞かせてもいる。そうやってここまで来てしまったのだとも考えている。

 人生には、世の中には考えなきゃならないことがたくさんある。 普通に言えば、山ほどあるということになる。

 ボクは山が大好きだが、日本に山というものがいくつあるのかは知らない。とにかくたくさんあることになっている。

 しかし、星の数ほどはないのだから少し安心しよう。

 座席シートの暖房が強く、背中から眠気がやってくる。 もう少しだけ活字を追って、そのまま潔く眠ることにする……

山旅の歴史も面白い

100年前…

 年末の金沢駅は予想していたほどの混雑ではなかった。帰省する次女を迎えに来たのだが、駅に着いた途端、バスが20分ほど遅れているらしいとメールが入ってくる。

 少し荒れ気味の天候だった分、ちょっとは覚悟してきたのだが20分は長い。何しろ到着予定の時間にもまだ10分ほど達していないのだ。

 こうなると行くところはコーヒー屋さんしかない。ただ、ぼんやりとコーヒーを飲んでばかりではつまらないので、その前にコーヒー屋さんでの時間を有効に過ごすための本が必要だ。

 幸いにも金沢駅の商業ゾーンには本屋さんがある。すぐにそこへと向かった。

 意外とこういう時にいい本との出会いがあったりする。思惑どおり文庫のコーナーに向かって行くと、すぐに平置きになった一冊の本が目に飛び込んできた。

 『百年前の山を旅する』。タイトルも装丁もよかったのは言うまでもなく、中をパラパラめくってみると、さらに確信が深まった。すぐに決めた。

 出張の電車に乗る前とか、都会の街中のように歩いている最中の書店立ち寄りには、いい本との出会いがあったりするのだ。気持ちが、短時間でいい本との出会いを…と緊張するのかも知れない。

 コーヒー屋さんに入って、すぐにページをめくった。予想どおりなかなか面白い。著者は、山岳雑誌「岳人」の編集に携わっていたという服部文祥という人なのだが、ボクがかつて山に足を向けるようになった動機に近いものを持ち合わせているかのように感じた。もちろん、服部氏はK2などに登頂した凄い山岳家でもあるので、レベルは全く違う。

 それほど大袈裟な話でもないが、ボクは20代の中頃から長野や山梨などの高原地帯へ出かけるようになり、その中でも特に上高地が気に入って以降は、その隅々まで歩き尽くすくらいの頻度で出かけていた。

 それ以前の旅の基本は主に歴史だったのだが、それに自然の美しさや生活感みたいなものが加わっていき、いつの間にか歴史と自然とか、歴史と自然と民俗とか、何だかそういった要素が自分の興味の主流になっていったのだ。

 どこかでも同じことを書いたが、そうなってくると、例えば上高地の歴史みたいなことに好奇心が向くようになり、旧松本藩の杣人たちや梓川のイワナ採りの人たちの話なんかが気になり始め、そのうち槍ヶ岳を開山した播隆(ばんりゅう)上人の話や、この本にも出てくる上条嘉門次やその他の山案内人たちの話など興味の輪は無制限に広がっていった。

 そして、そのまま自分自身が山に入るようにもなっていったのだ。

 この本では、日本の山岳紀行の草分けとも言える田部重治が明治の頃に辿った稜線や、日本アルプスを世界に紹介した有名なウォルター・ウエストン、そして彼を案内した上条嘉門次の登山ルートなどを、今の時代に体験しながら、自然と人間、過去と現代などといった視点から考察がされている。

 同じ装備で同じものを食しながら、その困難さなどを記しているが、現代人である自分が便利というものを得た上で感じていることなどを力を抜きつつ書いているのがいい。昔の人は強かったということだが、現代人には必要がなくなった当時の苦労を振り返ることもなくなり、その弱さに気が付く機会も失っていったということか…と思ったりする。

 福井の小浜と京都を結んだ今の「鯖街道」の、原形の山道を歩くというのも興味深くて面白かった。ボクもよく知っているが、鯖街道なる名称は、ついこの前出来たもので歴史的には存在しない。

 たしかに、鯖などを運んだ道らしいが、ボクは「朽木(くつぎ)街道」という名前で認識していて、何度も書いているが、そのことは司馬遼太郎の『街道をゆく』でも詳しく紹介されていた。

 今の時代の著者が、昔のように鯖の入った籠を背に担ぎ、一昼夜で京都に辿り着けるかという試みはそれほどの成果を見なかったみたいだが、当時と同じ服装で、しかも当時のルートを歩くという設定など、多少バカバカしさもあるがそれでも楽しいのだ。

 読書がいよいよ佳境に入ってきたところで、バスの到着時間となった。続きがますます楽しみになってきたのだが、実は師走からの読書は徐々に乱読傾向に偏っていき、この本もまだ完読には至っていない。断片的に読み続けている。数冊同時進行の中で、雪解け前には完読となるのであろう……

まみむMEMO・書きくけこ

note

 会社勤めになって、25年くらいはメモ帳として大学ノートを使ってきた。

 仕事柄、“メモ魔”的な部分が大きく、大学ノートは重宝した。

 それ以前は若気の至りで、カッコいい手帳型などを使っていたが、元来が公私混同の走り書き屋なので不相応だった。

 だいたい季節が二つ過ぎると一冊が終わる。

 ノートにはタイトルがあった。初期の頃は『モロモロ・ノート』としていた。

 その後、何気にペンを走らせていてあることに気付く。それは「memo書き」と記した直後のことだった。

 「メモ」は、「まみむ・メモ」につながり、「書き」は「書き・くけこ」につながるという、言葉遊びが好きな自分としては、かなり “うれしい法則?” の発見だった。

 こうして、ボクのノートは『まみむ~MEMO書き~くけこノート』という、歯切れは悪いが、その分ニタニタとしながら呼んでもらえる名前が付けられたのである。

 メモ用という域をはるかに超越したこのノートたちは、まさしく自分の分身になっていく。書いている内容も見境がなくなり、ほとんど人には見せられないことも多くなってきて、厳重なる機密ノートになっていった(…というほど大袈裟ではないが)。

 ところが、数年前からボクの好きだった大学ノートが店頭から消え始めた。

 形状としては似ていても、もう前のような分厚さがなくなっていた。ボクにとって、あの分厚さこそがノートの大切な要素だったから、薄っぺらな大学ノートには興味がなくなっていく。

 そして、ついに大学ノートの使用はやめにしたのだ。

 新しいノートは、かなり上品になった。結局走り書きしているだけの中身なのだが、上品すぎて、時々戸惑うこともある。

 メモの内容自体も少しずつ変わってきて、“ 感情 ”が入らなくなっている。そんなもん入れる必要もないだろうと言う御方もいらっしゃるかも知れないが、そんなこともなく、ボクとしては感情が入っていないメモには、何となく淋しさのようなものすら感じてしまうのだ。

 そんなわけで、分厚い大学ノートの再来に少しだけ期待しつつ、今はその上品なノートと素っ気ない付き合い方をしていくのである……

92年秋の薬師岳閉山山行

 ※この文章は、『山と渓谷』1993年3月号に掲載された「薬師如来感謝祭 快晴の秋山行」に加筆したものです……

薬師

 北アルプス・薬師岳に初めて出かけたのは、もう10年近く前のことだ。

 恒例になっている夏山開きの登頂会に参加し、雨の中をひたすら歩いた記憶がある。

 翌日の快晴を期待しながら、太郎平小屋での豪勢な夕食と酒に酔っている間に、天気はますます悪化し、結局登頂は断念させられた。そして翌日、そのまま雨の中を下ったのだ。

 それから何年も、薬師岳はボクにとって遠い存在になってしまった。

 薬師岳の頂上に立てなかったことに対する思い残しも、いつの間にか消え失せていた。

 そして、二年前の夏山開山祭に参加するまで、ボクにとっての薬師岳は雨の中の記憶だけが残った山であった。

 それまでも、そう多くの山を登ってきたわけではなかったが、なんとなく山慣れしてきた自分にも自信のようなものが芽生え始めていた。雨の中の登行も、それなりに楽しめるという思いもあったのである。

 しかし、何年ぶりかの薬師は、またしても激しい雨の中の登行を強いてきた。仲直りの握手を求めて差し出した手を、思い切り振り払われたようなそんな仕打ちにも思われた。

 ボクは、ほとんど山は初めてという会社の同僚5人を誘い、彼らに山の素晴らしさを教えてやろうと意気込んでいた。しかし、あまりの厳しい条件に内心不安でいっぱいになっていた。

 ところが、その翌日は、見違えるような青空がボクたちを待っていてくれた。

 残雪を踏みながら、みるみる切れていく白い雲に目をやっていると、はじめに槍の穂先が姿を現した。有頂天になったボクは、パーティのみんなに「見ろ、あれが槍ヶ岳だ」と指さし、正真正銘のほがらか人間へと変身していたのだ。

 ボクの薬師岳に対する思いは、このときをきっかけにして大きく変わった。

 山は晴れてくれさえすれば素晴らしいところという自分勝手さによって、単純に薬師もボクにとっては、好きな山ということになってしまったのだった。

 それから2年後の今年、好きになった山・薬師岳に、また出かけることとなった。

 今度は夏山ではなく、10月の秋深き山行であり、なによりも薬師岳の地元・大山町山岳会が中心となった「薬師岳如来感謝祭」という記念登行会であった。

 夏のはじめに行われる開山祭で、地元・大川寺の住職が頂上に納めた薬師如来を、秋の山小屋閉鎖と同時に大川寺に戻す。その役目を地元の山岳会が担っているのだ。

 開山祭との違いは、何と言っても参加人員の少なさである。当然のことながら山では10月中旬といえば厳しい環境に見舞われる。中途半端な登山者にとっては、思わぬ事故に巻き込まれる危険性もあり、そのあたりは地元山岳会の適切なチェックがされていた。

 ボクは一般参加という立場にあったが、山岳会の会員で会社の大先輩であるTさんに連れられての参加であった。

 出発の二日前、Tさんから防寒具などの確認の電話が入った。一応準備は整っていたのだが、Tさんの入念な確認に、ボクもそれなりの対応をした。

 10月中旬の本格的な山行は何年ぶりかのことであり、かつて涸沢で味わった切ない記憶を蘇らせながら、予備の衣類などに気を配った。

 下界の天気予報では、山行予定の二日間とも雨。

 こうなれば、我慢の登行を強いられるのは覚悟しなければならない。

 ただ、今回の山行に対して、ボクはあまり天候を気にしなかった。それは、漠然としていたが、開山祭と違って少数の、しかも山慣れした人たちとの山行であるという別の意味の緊張感によるものだったのかも知れない。

 出発の朝の空は、二日前の予報に反して快晴だった。

 剣・立山・薬師のシルエットが朝焼けの空にくっきりと浮かび上がり、晴れ上がったにしてはさほど冷え込みも感じられない。絶好の秋山日和となった。

 大山町の役場の前でタバコを吹かしていると、いかにも山慣れした雰囲気の男たちがぽつぽつと集まってくる。山岳会のリーダー的存在であるKさんが、登山口までの車の配分を決めるために忙しく動き回っている。

 ボクとTさんは、大阪からやって来たカメラマン・Mさんのワゴンカーに便乗させてもらうことになった。Mさんは一見スリムで、山とは縁遠い人のように思えたが、途中の車の中での会話で、想像をはるかに超えた山屋さんであることがわかり、意外なことでつい嬉しくなった。

 登山口である折立に着くと、先発隊がすでに出発したあとだった。折立の小屋の前には、Kさんと太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんが立っている。Mさんの都合でちょっと遅くなってしまったボクたちを、ふたりは待っていてくれたのだった。

 「じゃあ、ぼちぼち行こうか……」 Kさんが余裕のある声で言った。枯葉が落ちた樹林帯の登り道は、まさに秋山の静かな雰囲気に満たされていた。

 真夏の草いきれなど忘れさせるような冷気が心地よいくらいに漂い、歩きながら交わされている五十嶋さんとKさんとの素朴な会話も耳に快く届いてくる。

 登り始めてしばらくのところで先発隊に追いつくと、一団はにわかに賑やかになった。山岳会のナンバーワンアタッカーと思われるEさんは、どうやら会のムードメーカー的存在でもあり、十一月にヒマラヤへ行くという健脚ぶりをいかんなく発揮している。Eさんの身のこなしを見ていると、もうほとんど平地との区別がないように感じられ、年齢的にはまだ若いボクを驚かせた。

 森林限界を越えた三角点のすぐ上で休憩をとり、ゆっくりと剣・立山の眺望を楽しむ。なんとなくよそ者的な自分を感じながらタバコを吹かし、会のメンバーの会話を聞いていた。

 五十嶋さんの言った、「今日でこの道歩くの今年18回目だよ……」という言葉が耳に残っていた。

 今回の山行はかなりハードな行程が組まれていた。太郎平小屋に着いて昼食をとった後、すぐに頂上を目指すという計画であって、とにかくその日のうちに薬師如来を小屋まで下ろすことが目標になっていたのだった。

 Tさんは、しんどかったらやめりゃいいさと軽く言ってはいたが、そう言われれば言われたなりに、やはり頂上へと言ってきたいと思ってしまう。休憩のあと、ちょっと出遅れて出発したボクは、やや焦る気持ちとは裏腹にゆっくりと歩くことにした。

 太郎平小屋に着いたのは正午過ぎだった。EさんやKさんはもうかなり前に着いていたらしく、外のテーブルの上には空っぽになったビールの缶が二、三本置かれている。Kさんは時計を見ながら、もう頂上へ向かう段取りをしているようだ。

 慌ただしく昼食をすませると、防寒具一式をリュックから取り出し、着込んだ。

 Kさんを先頭に頂上へと向かう。一旦、キャンプ場のある谷に下り、そこからは一気の急登となる。ボクは、キャンプ場に新しくできたばかりの真新しいトイレに立ち寄ったために、またしても遅れをとることになった。

 ようやく先行の一団に追いつきはしたが、休憩も思うように取れないまま登り続けなければならなかった。

 しばらく行くと、数日前に降り積もった雪の上の登行が待っていた。「肩の小屋」と会の人たちが呼ぶ薬師岳山荘で一息ついたが、さらにまた雪上の直登が待つ。ここはさらに切なかった。

 「往年の馬力はなくなったなあ……」と、Tさんがボクに言う。たしかにTさんがボクの前を歩くなど、これまでなかったことだった。

 やっとの思いで頂上に辿り着くと、Kさんが相変わらずの余裕の顔で迎えてくれた。

 祠の戸が開けられ、薬師如来像を直に見ながら合掌する。何度も山に登っているが、こんな経験は初めてのことだ。

 Tさんが呼ばれた。実はTさんは閉山祭にはなくてはならない存在なのだ。それはTさんが山岳会の中で、唯一お経の読める人だからであり、会では秘かに「権化さん」と呼ばれている。

 その権化さんが詠む般若心経が厳かに響きはじめると、薬師岳山頂付近が急に聖地に化した。読経が進むと、お神酒代わりのブランデーがまわってきた。小さなボトルのキャップ一杯だが、実に美味かった。

 早々に下山に移る。下りに入るとさっきまでのつらさも忘れ、今年から始めたテレマークスキーの真似事に興じた。

 太郎平に着いたのは、雲海が夕陽に染まり始めた頃だった。

 その夜、太郎平小屋は今年最後のにぎわいに沸いた。開山祭とは比べものにならない豪勢な料理が、テーブルを片付け、畳を敷いた食堂に並んでいた。中央には祭壇が作られ、再びTさんがお勤めをしたあと、全員で焼香した。

 にぎやかな語らいの中で、五十嶋さんの満足そうな顔が印象的だった。

 夜が更けても、空は明るく、かすかに薬師岳の稜線が見えていた。

 

秋、山の文化館に立寄る

吊るし柿2

 久しぶりに訪れた「深田久弥山の文化館」で、20年ほど前に書いた自分の文章三篇を見つけた。

 山の話を書くのが好きだったことを、あらためて思い出した。

 秋の色が染み込んだ館の回廊には、柿が吊るされている。庭に柿の木があって、今年はたくさん実を付けたらしい。

 案内してくれた館の女性が、「渋柿なんですよ」と、楽しそうに教えてくれた。

 以前は、この館にはよく知っているスタッフがいて、ゆっくりと話などをしたのだが、今は時折訪れても、何となく時間を過ごすだけだ。

 それでも、この場所はいい。周辺の気配も館の佇まいもグッとくる。ほんとは、もっとゆっくりできるというか、ボーっとできるくらいのスペースがあってもいいなあなどと思ったりするのだが、贅沢だ。

ミニコ~2

 数年前の暑い夏の日だった。

 太陽が照りつける旧大聖寺川沿いの道を歩いていると、どこからかオカリナらしき音色が聞こえてきた。

 特に興味があったわけではないが、その音色が山の文化館の方から聞こえてくるような気がしたので、やはり行ってみることにした。

 一緒にいたのは、ボクシングに挫折し、俳句とジャズに自身の日常を求めていた一人の青年だった。

 ボクはこの青年の持つ独特の感性に興味を抱き、彼にいろいろなモノ・コトを体感させようとしていた。

 彼は悪く言えば、世間知らずでもあった。

 しかし、そのことがまた、ボクの興味に火をつけた。そして、彼は中途半端だったそれまでの日々に終止符を打ち、一応社会人として人の役に立つことを覚え始める。

 その後、やさしくて、可愛くて知性に溢れた一人の女性と知り合い結婚もした。

 数ヶ月後には子供の親にもなる……

 夏の日差しを受けながら、山の文化館の門を過ぎると、左手のデッキにオカリナ奏者の姿が見えた。

 わずか数人の聴き手しかいなかったが、それがまたこの場所にふさわしい雰囲気を作り出し、ボクらも静かに聴き入ることにする。

 気が付くと、彼は数歩前に歩み寄っている。そして、何かに取りつかれたようなその姿を見たとき、ボクはこのニンゲンはホンモノだなと感じた。

 いつも前向きでなくては世の中面白くないということを、彼は今もボクに教えてくれている……

吊るし柿4

今回の京都(4/4) ここでお終いにしよう

大徳寺の境内

 四条まで歩いて地下鉄に乗る。京都駅に戻ると、もう夕暮れ時だった。

 伊勢丹の地下、つまり「デパ地下」でおかずを調達し、コンビニでビールも揃えてホテルへと向かう。

 京都ではめずらしいワイルドなディナーになりそうでワクワクする。家人も心の底から楽しそうだ。

   ホテルのロビーは多国籍宿泊者で、昼来た時以上に混雑状態。持ち込み荷物を極力控えめに抱え、満員のエレベーターに乗り込んだ。

 翌朝は、桂の次女宅へ。そして、次女も連れてまず広隆寺へと向かった。

 例の弥勒菩薩(半跏思惟像)さんに会いたかったのだ。ただ、実際に宝物館に入ってみると、心を奪われたのは弥勒菩薩さんよりも、大きな千手観音さんたちであった。

 ここでも合掌しながら「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟く自分がいた。

 見上げる視線の先に、見下ろす仏様の高貴な目がある。すべてを見透かされているかのようなその目の奥へと、自分の中にある何かが吸い上げられていく力を感じる。じっと見つめていれば、その吸い上げられていく何かが「自分自身の悪」のようなものにも感じられて、しばらくじっと目を離せなくなる。

 特にかなり傷みの激しい巨大な坐像には、ひたすら従順になるしかなかった。

 こういうところに立たされていると、素直に仏の力は偉大なのだと感じる。何を教えられてきたわけでもないのに、その目に見えない説得力に自分を押さえてしまう作用がはたらく。そして、何だか急に自分自身を反省したり、未来を安泰にしたがったりするのである。

 そして、さらに言うならば、日本人にとっての仏様という存在は、世界中のどんな宗教環境においても、最も静かで奥ゆかしいものではないかと勝手に思ったりする。

 見つめるとか、合掌するといった行為の美しさを、我々日本人はもっと大切に受け止めるべきなのかも知れないのだ。

 外は前日に続いて快晴。空が眩しい。

 大徳寺へと向かう。大徳寺は、北区の紫野(むらさきの)という美しい名の付いた町にある。

 このサイトの名前にもなっている『ヒトビト』という雑誌を出していた頃、京都の出版社に勤務する女性ライターが寄稿してくれていた。その彼女が住んでいたのが、この紫野で、大徳寺のすぐ近くだとよく語っていたのを思い出す。

 背がかなり高く、酒もかなり強く、言葉にかなりチカラがあり、今風に言えば、かなりのアナログ派で、自然の成り行きなどを素直に受け入れながら優雅に生きている人だった。

 もう一人、同僚の女性も寄稿してくれていたが、この二人が揃うと実にパワフルであった。二人とも、もうかなりのおばさんのはずだ。

 大徳寺は二度目だ。一度目は、金沢の前田家についての仕事をしていた時。大徳寺の中にある、おまつさんの芳春院を見に来た。ただ、その時は中に入ることもできずに、外観だけを見て帰ったのを覚えている。

 今回は、大徳寺の多くの塔頭が公開されていた。一応目的場所にしていたのが高桐院(こうとういん)という小さな寺。

 細川家の菩提寺であり、ガラシャさんの墓があることで有名らしいが、こちらはそのことをあまり期待していたわけではない。何となくこじんまりとした寺の雰囲気などに浸りたいだけだった。

 しかし、京都の連休、しかも塔頭が公開されているという大徳寺。静かな散歩などは望むべくもなく、ましてや落ち着いて庭を眺めるなどといった贅沢も期待してはいけない。

 それでも広い境内の中の道を歩いて行くと、まず大徳寺という寺の凄さが感じられてきた。広さだ。前に来た時に全く感じなかった不思議さを思いながら、足を進める。ずっと奥に、めざす高桐院があった。

 高桐院はアプローチが美しい。その美しさを一度は見ておきたいと思ってきた。境内の道から少し入ったところで、左に折れながら門をくぐる。すでに見えているが、その奥の竹林が美しく、門をくぐってすぐにまた右に曲がる。距離は全く短い。

 その道がこじんまりとまとめられた、何とも言えない美しさを醸し出している。目で見ているだけの美しさではない、何か体で感じ取るような美しさだ。多くの人が列を作って進んでいく。中には写真を撮るために立ち止まり、列の流れを止める人もいる。せっかく来たのだから、写真ぐらい撮らせてやろうと思う。

 そういう自分もちょっと脇に外れる場所があったので、そこからゆっくりとカメラを構えさせてもらった。人がいない時のイメージが強く、かなりがっかりしているが、贅沢は言えない。

高桐院参道

 中へ入ると、これまた凄い人。昔のこの古い佇まいでは、入場制限でもしないと床が抜けたりはしないのだろうかと余計なお世話に思いがゆく。

 少なくとも、自分の周囲にいる多くの人たちはアジア系だ。京都が、アメリカの旅行雑誌が選んだアジア第一の観光都市であるということを裏付ける光景だ。中国か台湾の観光客たちが、中国の影響を強く受けた日本人の絵画や書を見るというのは、どういう感情なんだろうと、また余計なことを考えた。

 高桐院の庭は質素で、一旦体を庭の方に向け腰を下ろしてしまうと、妙に落ち着いた。

高桐院庭

 灯篭が立つが、ガラシャの墓を模したものだという。本物はさらに奥、庭に下りてすぐのところにある。

 詩仙堂でも感じたが、この小さな佇まいと、それを囲む想像以上に広い庭のバランスがいい。しかも樹木に被われた庭は一望できずに、その奥行き感は歩いてみないと分からない。

 かつてここに住んでいた人たちは、その奥行き感を当然知っていて、隅々にまで神経を注ぎ花々などを楽しんだのだろうと想像する。もちろん、もうすぐ訪れるであろう紅葉のあざやかさも、降り積もる雪がもたらす静寂の中の空気感も楽しんでいたことだろう。

 今はとてもそのような状況ではないが、ひたすらゆっくりと自分を制し、想像力を働かせるしかない。

 次女が空腹を訴え始めるが、何とか宥めて、せっかくだからとあと二つ三つ見て来ようということになった。

 緩やかな斜面に並ぶ塔頭の間の真っ直ぐな長い道を、ゆっくりと歩く。学生時代にこの辺りを歩いたことがあるという次女も、ここがこれほど広かったのかと不思議がっている。

 我々三人は、それから割りとこじんまりとした寺院ばかりを選んで中に入った。そして、そのどこでも美しい庭や質素な佇まいと出会った。

 京都は頑固に思いを整えてくれば、やはりそれなりに楽しみを提供してくれる。今回はこじんまりとした寺にこだわってきた。建仁寺のように単体として大きなところもあったが、お目当ての一品や庭などに的を絞れば、それもまたこだわりであった。

 腹が減った我々は、それから北山の方へとクルマを走らせ、青空の下で京野菜の畑が並ぶ中に建つ、地元健康食材が売り物らしきこじんまりとしたレストランで、ガーリックライスのランチとしたのである………

ガラシャの墓高桐院屋根石の鉢・龍院の庭・龍院の小さな庭

今回の京都(3/4)今日の終いは、建仁寺

建仁寺の瓦

 今日はまだ終わっていない。

 強い日差しを受けながら、詩仙堂・小有門のちょっと上にある駐車場まで戻り、クルマでとりあえずホテルに向かうことにした。クルマの運転から解放されたいのだ。

 当然すぐにでも昼ご飯を食べなくてはならない。全く当てもなく坂道を下っていくと、突然小さな看板が目に入った。いかにも京都らしいメニュー写真。

 “中谷”という歴史のあるお菓子屋さんだった。お菓子屋さんにカフェがあり、昼ご飯セットもある。咄嗟に隣席の家人が、駐車場のあることを確認した。狭い駐車場の三台のうちの一台が空いていた。食事中か買い物中のお客さんを待つタクシーの運転手が、わざわざスペースを空けてくれる。京都の“おもてなし”だ。

 お粥と餅の入った味噌味?の吸い物と、豆腐と…、それから食後は栗のモンブランと上品な味のコーヒーをいただいた。この店は、和洋両方の菓子を製造販売している。

 いい気分になれる店だった。若い何代目かのご主人も、いかにもお菓子屋さんの跡取りといった柔らかな雰囲気で家人を喜ばせていた。

 さて、駅近くのホテルにとりあえずチェックイン。目的はクルマを置きたいだけだったが、大きなホテルだけあって人が大勢いる。クルマを横づけにして、ボーイさんに聞いてみると、クルマはすぐ目の前のかなり幸運な場所に停めることが出来た。時間が異様に早かったので、そのことが却ってよかったみたいだ。

 再びホテルを出たのが、3時半頃だったろうか。もうひとつ楽しみにしている寺があった。禅寺・建仁寺だ……

 場外馬券の売り場も隣接し、人でごった返す花見小路の方から入り、いきなり法堂で本日の目玉と対面。

 撮影は自由ですと、敢えて大きな声で案内を受ける。俵屋宗達の『風神雷神図屏風』が正面に見え、その左手前にダウン症の女流書道家・金澤翔子さんの書『風神雷神』が展示されている。

風神雷神・屏風風神雷神

 最新のデジタルプリント技術によって複製された屏風の美しさに見入る。金箔のテイストが本物以上に金という色の特性を現しているような、もちろん本質的なことは分かっていないのだが、そんな錯覚?に陥った。

 自分の仕事柄や、何人かの友人たちにこのような関係の仕事をする者がいるが、自分としては、これは正しいやり方だと思っている。作品の素晴らしさを製作時の雰囲気と合わせて伝えることには、文句なしに意味があると思う。

 本物の展示は、時として本質を伝えていない時がある。特に褪色や傷み防止などに厳しい条件が付けられ、明るさの制限など、鑑賞する者にとっては決して望ましい状況でないことが多い。

 しかし、この屏風にはそんな心配は要らないのだ。前に立って、堂々とカメラを構え、鑑賞することよりも撮影することだけを目的にしたような人たちも大勢いた。

 人の波が一度静かになったところで、ゆっくりとカメラを手にした。真正面にしゃがんでカメラを構えると、とりあえず瞬間的に人は入って来られなくなる。何度もシャッターを押した。レプリカとは言え、国宝に向かってこれだけシャッターを押せるなど滅多にない。

 さて、金澤翔子さんの書である。屏風の絵をそのまま書で表現したような文字のレイアウトに“なるほど”と、まず唸る。それから表現された筆致について、“ふむ”と考えた。

 もう一度、屏風に目をやり、そして“そうか”と納得。この筆致は、雷神・風神という二人の神の表情や動作などがインスパイア-されたものだと確信した。

 800年を越えた臨済宗の本山。京都という都市の中で生かされていく、偉大な寺院のポテンシャルというのはこういうものなのだろうかと思う。奥へ進もう。

 人の数に京都の、しかも連休の初日を思った。これまでにも何度もこういった状況の中で京都を楽しんできた。無理して二人の娘を京都の大学に送り込んだことで、我々は京都にかなり慣れ親しんでいる。親としては、それなりに“してやったり?”なのかも知れない。

 さて、建仁寺は庭もいい。それも中庭がいいと聞いている。

 四方から眺められる「潮音庭」が気に入った。人の多さにじっくりと座れるまでには時間を要したが、中央に「三尊石」と呼ばれる庭石を眺めるのは格別だった。その隣には「座禅石」。まだ紅葉には早いが、質素で頑固な禅庭のイメージを強く意識させられる。ぐるりと回って回廊を下るあたりも上品で、脇の小さな部屋で写経する人たちの押し殺した息が伝わってくるようだ。

庭石を見る庭と回廊回廊退き

 建仁寺はまだ終わらない。もう西日が色濃く差しはじめ、空気もやや冷たく感じられるようになった頃、法堂であの天井画と初の対面だ。

 入ってすぐに、大きな柱の間から10年ほど前に作られたという巨大な双竜の図を見上げる。開創800年を記念しての一大事業。こうしたことが現代において実行されているのが京都の凄いところなのだ。やはり都だ。やはり、日本に京都があって良かった。

天井画と明かり

 足を進めていくと、正面奥に釈迦如来坐像が光り輝いていた。自分でもこの建仁寺に今まで来ていなかったことを不思議に思いながら、ゆっくりと合掌した。

 生まれて初めて、「お招きいただき、ありがとうございました」と心の中で呟いた。一瞬だが、まわりの人の声も聞こえなくなった気がした。今回の京都は、まだ終わらない……

勅使門木魚と屋根庭石と日差し天井画庭を見ている人たち天井画と仏像

今回の京都(2/4) そして、曼殊院門跡へ

曼殊院門跡前

 詩仙堂から15分も歩けば、曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)に着く。

 15分というのは大した時間ではないが、この日は10月の半ばだというのに30度位の気温があり、日差しも強く、さらに空腹も手伝ってか、思った以上にきつく感じた。

 道は山裾の住宅地のはずれをゆく。右手が小高い傾斜になっていて、左手には見下ろすというほどではないにしろ、京都の街並みが見えている。途中にも寺などがあったりして、静かな場所だ。

 最後の曼殊院道に出て坂道をしばらく行くと、両側に木立が並び参道の雰囲気が濃くなった。左手の神社で、幼い子供が父親と一緒に遊んでいる。この近所に住んでいるのだろうかと想像するだけで、その環境のよさに羨ましさが募った。

勅使門

 奥の石段の上に山門が見える。由緒正しさが伝わる凛々しい勅使門だ。何しろ「門跡」というのは、皇族・貴族などが出家して居住した寺院のことをさすのだから、凛々しいのは当たり前だ。

 その勅使門前を左に折れ、さらに右に折れると通用口。入り口になる庫裡は重要文化財だという。

 曼殊院がこの地に移ったのは江戸のはじめの明暦2年(1656)。8世紀におこり、12世紀のはじめに現在の名を称するようになった。

 虎の間で、狩野永徳筆の虎の絵が描かれた襖などを薄らぼんやりと眺めた後、奥へと進む。ガラス張りのぽかぽかする回廊を通って、大書院へ。江戸時代初期の代表的書院建築というだけあって、バランスの良さに心地よさを感じる。

 庭園を見るその視界の構成がいい。レベルの高い京都の寺では、こうしたことが当たり前のように出来ていて、だからこそ飽きさせないのだと思ったりする。

 大書院には、本尊の阿弥陀如来さんが静かに立たれていた。

 縁側には赤い毛氈が敷かれていて、その赤さが日差しを受けて眩しいくらいに際立つ。すぐには座ろうとはせず、先の小書院の方にも足を向けてみた。やや寂れた感じが、この京の中心からかなり離れた位置関係とも合うような気がして、余計に心を落ち着かせる。

 もう名前も忘れてしまったが、大学を出たばかりの頃、奈良の山寺に出かけたことがあった。バスに乗り、一日にひとつの寺しか行けないような行程だったが、とても満足したことをよく覚えている。今はクルマで自由に動けるが、その時はそれが精一杯だった。そして、それがよかった。

 ほんの短い時間、そんな思いに浸った。そして、あらためてゆっくりと庭を眺める。

 水の流れのような白砂の美しさなのである。樹齢400年という五葉の松は、鶴をかたどり、地を這うように幹を伸ばしているのである。

 日差しは強く、空は普通に青い。白くて柔らかそうな雲たちが、甍の上を流れていく。

 しかし、何とも言えない幸福感に文句などないはずなのだが、如何せん、無情にも、ただひたすら腹が減っていたのだ。

 曼殊院という名前の響きから、白くて中にあんこの入った、あの丸い和菓子を想像してしまった自分にも責任はあったのだが、このことは致命的だった……

曼殊院門跡庭白砂五葉の松曼殊院門跡廊下甍と雲

今回の京都(1/4) 詩仙堂から

小有洞

 今回の京都は、詩仙堂の小さな門から、いきなり始まったような気がする。

 京都東インターから山科あたりの混雑も、南禅寺周辺の慌ただしい気配も、一乗寺という土地に近付いていくうちに、何となく目的地への予感みたいなものに変わっていた。そして、狭い道へと右折して登りに差しかかった頃からは、それは現実のものとなった。

 小有洞(しょうゆうどう)の門というのが正式らしいが、その小さな門は苔むした屋根にさらに夏草を茂らせ、背景の緑と溶け込んで見える。門の奥へと緩く登る石段の参道もシンプルで美しい。

 時計は午前11時過ぎ。まだ人もまばらだと石段を登る。石段を登ってすぐに通路は直角に折れ、さらに門をくぐって堂の中へ。

 人はまばらと思っていたが、やはりそれなりにいた。小さな、そして至って質素な庭に向かい座っている。

 凹凸窠(おうとつか)というのが全体の名称であり、詩仙堂というのはその一室のことをさす……ということが、パンフレットを開けてすぐに分かった。凹凸窠というのは、で こぼこした土地に建つ住いを意味するのだそうだ。

 そのことは、庭に下りてみるとよく分かる。堂は小さいが、庭は意外にも広い。しかも堂から離れれば離れるほど、下っていくことになっている。小さな堂は、庭木に阻まれて屋根が見える程度だ。

 獅子おどしの音が痛快に響き渡っていて、10月半ばとはいえ、秋にはほど遠い完璧な緑の中に吸い込まれていく。ところどころに咲く花たちも上品だ。

 もともとは徳川家の臣であった、石川丈山(じょうさん)という人が造営した。人生の最後を、と言っても30余年という長い年月を、清貧の中に文人として過ごし、90歳まで生きたとある。隷書、漢詩の大家、煎茶の開祖とも紹介されている。

 そんな丈山の生きざまは、もう一度堂に戻り、庭を見た時に薄っすらと想像できた。座敷の細く見える柱も、小さな灯篭も、清貧の中で学ぼうとする丈山そのものに見えてくる。

 書き忘れていたが、造営されたのは江戸初期の寛永18年(1641)。丈山、59歳の時。まさに今の自分と同じ歳。

 愚かにも、今からの30年をこれほどに濃いものにできるかと自問するが、答は当然、できませんだ。

 帰りにもう一度、小有洞の門の外から石段を振り返る。また静かな時に来いと、丈山が言ってくれているような、いないような……、とにかくどちらにせよ、また行くことになるのは間違いないとだけ思った……

堂

石垣上品な花獅子おどし花の道灯篭と柱庵質素な庭

ドラマー少年だった頃

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 小学校高学年の頃、我が家の後ろに繋がる撚糸工場の空きスペースに、ギターのアンプやドラムセットが置かれていた。高校生だった兄が“エレキバンド”をやり始めた頃で、休みになると、そのスペースが練習場になっていた。

 エレキバンドはそれなりにどころか、かなりうるさく、練習場を探すだけでもむずかしい。今ならスタジオを借りれば済むが、時代的(60年代中頃)にも地理的にも、当然そんな場所など身近ではない。だから、撚糸工場という盆と正月以外一年中機械が動いている場所は、ある意味、バンドの音を吸収してくれる格好の練習場でもあったのだ。

 ギターはもの心付く頃から触っていたが、ドラムセットを初めて見た時は胸がときめいた。バスドラの正面に描かれた「Pearl」の文字もカッコよかった。だから、叩いてみたくて仕方がない。

 当然、誰もいない時を見つけて軽く叩いてみる。ませガキだったので、見よう見まねで何とか形になる。もともと家には洋楽ばかり流れていたが、当時の兄はとにかくベンチャーズだった。聴いているだけの頃は、ビートルズだったのだが、自分がギターを弾き出すとベンチャーズになった。当然のごとく、ボクの耳にも自然にベンチャーズが入り込むようになる。

 バンドをやっているせいか、ベンチャーズを聴くのは特にライブ盤が多かった。当時は“実況録音盤”と言っていたが、スタジオ録音と比べると全く音質が違う。ライブになるとギターがFUZZを使った重い音になってサウンドが厚くなるのである。

 兄は金沢やその周辺でのコンサートには欠かさず行っていて、よく話を聞かされた。ベンチャーズはとにかく巧い。四人がステージ上、横一列に並ぶ。うろうろと歩き回ったりせず、ただひたすら、余裕さえ感じさせながら名演を披露する。そんな感じだった。

 ステージのパフォーマンスとして、兄が興奮しながら話していたのが、ベースの弦をドラムのスティックで叩きながらの演奏で、その様子を伝える写真や音は、じっと聴き入ったのを思い出す。このパフォーマンスは、ベンチャーズの十八番だったのだ。

 ボクはその頃(小学校の高学年)に、兄の友人に連れられて、アストロノウツというバンドのコンサートに行った経験がある。兄が急に行けなくなり、代わりに連れて行ってもらったのだ。『太陽の彼方』という超ビッグヒットをもつバンドだったが、その時の生エレキサウンドのインパクトは凄かった。

 話を戻そう。

 いつの間にか、それなりに、ボクはドラムの基礎中の基礎を身に付けていった。

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 ある時、兄が弾くギターに合わせて叩いてみるチャンスが訪れる。曲はエレキサウンズのバイブルとも言うべき、『パイプライン』だった。自分でも驚くほどに“サマ”になって?いた。兄のバンドのリード・ギターリストMさんがやって来て、セッション風の練習が始まった。Mさんは、ちょっと長髪のカッコいいお兄さんだったが、ギターも抜群に巧かった。

 ベースはいなかったが、リードとリズムの二本のギターが揃うだけで、音は一気に厚みを増す。アンプもかなり大きめのものを使っていたので、初めて二人まとめたギターの音を聴いた時は耳が痛くなった。

 もう一度『パイプライン』が始まる。所謂“テケテケ”なのだが、ライブのイメージでは“ズグズグ”といった感じで重い。そのあとにお決まりのフレーズが繰り返され、コードをジャーン、ジャーンと弾いてMさんがお馴染みのメロディを弾きはじめた。

 参加していいのかどうか分からないまま、スティックを持って二人を見ていると、兄が顔をこちらに向けて催促してくる。邪魔してはいけないと思いつつも、それなりに自信をもっている自分がいることも事実だった。

 兄の顔がちょっときつくなり、早く入って来いという目付きになった。恐る恐る右手のスティックでシンバルを小刻みに叩きながら、左手のスティックはスネアに。何秒かして、兄の顔を見ながらMさんがかすかに笑った。いや、笑ってくれた。

 このことが勇気づけた。ベンチャーズは、いつもライブ盤しか聴いていないから、スタジオ録音の『パイプライン』のように、柔らかいサウンドは馴染んでいない。だから、ボクもライブ盤で聞こえてくるように、シンバルにもスネアにも力を入れた。

 “ン、タタ、ン、タ”のリズムに、タイミングよく“タカタンタ”を入れたりして調子が出てきた。

 Mさんの表情がまた緩んだ。やったなと思うと、バスドラにもハイハットのリズム感にも自信が出てくる。曲が『ダイヤモンドヘッド』に変わっても、基本はほとんど変わらない。

 こうして、ボクの影武者ドラマー体験は始まった。

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 再び、突然影武者ドラマーのオファーがかかったのは、それから3年後だったろうか。時間的感覚が鈍っているが、中学の二年生だった…はずだ。兄のバンドは、いつの間にかローリング・ストーンズのコピーバンドに変身していて、地元ではそれなりに売れている雰囲気だった。そして、ドラムの人がケガか何かで叩けなくなったのだ。

 グループサウンズの時代、ボクはその頃からジャズも聴き始めていたのだが、いきなり連れて行かれた町はずれの砂取り場の、壊れたバスの中でドラムを叩くことになった。

 ボクの生まれ育った町は砂丘地にあり、今から振り返れば、とてつもなく広い砂取り場が周囲にあった。その奥の一画に古びたバスが置かれていて、その中がバンドの練習場だったのである。もともと砂取り作業に来ている人たちの休憩場所だったのだろう。

 それは本当に突然やって来た時間で、兄から言われるまま(実際、兄には逆らえなかった)に、晩飯を終えると、その砂取り場のバスへと向かった。

 今でもはっきり覚えているが、最初に始めた曲はストーンズの『テルミー』だった。

 それなりに明るくされたバスの中で、縦に独りずつ並び、ドラムが最奥。その前にボーカルが立ち、その後ろにベースとギターが二人。みなドラムの方、つまりボクの方を向いていた。

 『テルミー』という曲を知っている人なら分かるが、原曲ではイントロにアコースティックな音のギターが入り、すぐ後にドラムが入る。静かな曲なのだが、やはりここでもライブ感覚がベース。

 兄がギターを弾きながら力いっぱい叩けと言う。曲が進んでいっても、ドラムが弱いと何度も言われた。すぐに感覚的に分かってきたが、とにかくスネアにスティックを叩きつけるのである。そして連打のところでも、思い切りよく叩くのだ。

 『サティスファクション』でも、最初は同じように言われたが、すぐに感覚が体に沁みてきた。ドラムセットが大きく揺れるほどになってくると、ようやく合格点だった。その頃はかなり音楽にのめり込んでいたので、自分のドラムがバンドの勢いを生んでいるみたいな感覚が分かった。レコードで原曲のドラムを聴くより、自分の感覚で叩く方がいいような気がしていた。

 暗闇の中に怪しい明かりを洩らすバスというのは、中学二年の中途半端な男の子にとって、かなりスリリングな世界でもあった。なにしろ、野球部の丸坊主アタマ、しかもその頃、どういうわけか生徒会の副会長なんかもやっていて、一応品行方正っぽい印象を放っていた。

 実体は、その頃から石原慎太郎なんぞを読み始め、世界を斜視するような、一種のヒロイズムみたいなものに憧れる扱いにくい少年だった。そんな少年だったから、ドラムの世界には自分を満たしてくれる何かがあるような気がしていたのかも知れない。

 一週間もやれば、自分でもほとんど違和感がなくなり、かなり決まってきたなという感じになった。そして、そんな時、突然、兄から次の土曜日、となり町の体育館で演奏会やるから出ろと言われた。さすがにびっくりだ。

 練習のための影武者ドラマーとして軽く考えていたので、驚いて当然なのだ。ボクはすぐに出られないと答えたが、兄の論理では、皆そのために練習してきた、お前の勝手は許さん…だった。しかし、兄の要請は絶対に受けられなかった。実はその日は生徒会が開催される予定になっていたのだ。生徒会のために部活も遅れていくという、そのことにも気後れがあったのに、生徒会も出ないで、小さな町の体育館でドラムを叩いているなどは、とてもできることではなかった。

 結局、その話が出てから、ボクは影武者ドラマーを首になった。兄のバンドが演奏会に出たのかは知らないままだった。

 ふと体がドラムを叩いていた頃の動きをすることに気が付くことがある。今もメンバーを変えて活動を続けるベンチャーズの演奏をテレビで見て、CD(廉価盤500円)を購入。名曲『十番街の殺人』が流れてくると、イントロのタムタム、フロアタム(かつてはバスタムタムと呼んでいたような)を同時に叩く動作が自然に出てきた。

 生意気に、子供の頃からドラムを叩いていたという話だが、その頃の印象を言葉にすると、“スリル”という表現がぴったり合っていたと思う。スリルとは演奏そのものと、当時のバンドをやっているニンゲンたちへの視線みたいなものとが合体したイメージだ。

 ただ、そんなスリルを味わいながら、それ以上の楽しさをも感じ取っていたことだけは間違いない……と、しておこう。

金沢的広告景観雑記

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1.サインにおける「金沢らしさ」

もう25年ほど前の話である。金沢市に歩行者用の本格的な観光サイン計画を提案し、さまざまなプロセスを経て実施が決まった。そして、サイン本体には指揮者の譜面台をモチーフにしたデザインが採用された。その後、そのデザインはどんどんとバリエーションを増していく。イメージが固定化されていき、特に決まり事ができたわけではないが、さらに広く応用、展開されるようになった。金沢らしい空間の一隅で、金沢のサインはどうあるのが好ましいか? ちょっと大袈裟だが、少なくとも、それに近い観点での思慮が生まれた。

その時には気が付いていなかったが、それは間違いなくサインにおける「金沢らしさ」を考える起点にもなっていた。

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金沢には、その歴史文化の匂いを軽視できない空気がある。そのことを踏まえていくと、金沢の観光サインにはそれなりの役割が課せられていることに直面する。そして、その最も端的な要素が、“控えめに”というニュアンスだったように思う。もちろん質感などに対する配慮は言うまでもなく、表示の基準づくりなどについても、地方都市としてはかなり先を行っていたのは間違いない。ただ、狭い路地や歴史空間などにおけるサインのポジションを考える時、そこにはやはり、シンプルであることの重要性が共通認識として存在していった。

元来、金沢にはデザインを議論する環境があった。多くのクリエイターたちは、自身のメッセージと表現手法に苦心しながら、そのことを楽しんでもいた。景観という言葉も使うことはなかったが、このようなことが原点になって、金沢らしい景観という課題を考えるようになっていったのだと思う。

2.低さのこだわり…兼六園周辺などにおける展開

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金沢の代名詞とも言える兼六園周辺ゾーンでは、“控えめに”の典型的な例を見ることができる。近年、金沢城公園や21世紀美術館、しいのき迎賓館などのスポットが人気を集め、さらに歴史博物館など古い施設の再生が計画される中、一帯は「文化の森」と称され整備が進められてきた。

大木が並び豊かな季節感を醸し出す森。用水と散策路。そして憩いの象徴となる広場。それらの中に美術館や博物館などが建つ。言わば、金沢文化を直接的間接的に感受できる場所である。サインも、県と市によって鋭意検討されてきたが、ここでのサインは、既存の継続使用は別として、基本的にすべてが色調や高さに条件を付けたものばかりである。

特にサインの高さについては、特有のこだわりが幅を利かせている。それは、景観を視野に確保するという、非常にシンプルな目的のためだ。

景観を視野に確保するということは、サインはそのための妨げにならない、つまり視界を遮らないということである。そして、それらの考え方をとおして到達したのが、傾斜型の表示面を持つ、高さを抑制したサインである。つまり“譜面台型”の応用であった。

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サインを見る人は、サインの前に立つが、視界は広がっている。周囲の景観や状況を把握しながら情報を得ている。何でもないことだが、素朴にそのことに向き合い、そのことに徹した。さらにここでは、北陸特有の積雪状況についても検討され、平均積雪量を考慮するなどして根拠を持たせている。

高さと言うより、“低さの維持”を基準に置いた考え方だった。サイン自体への積雪も、それ自体にひとつの景観美があると考えた。敢えて強調したわけではないが、表示面に雪が積もった場合でも、それを手で払うという仕草そのものに、金沢らしさがあるとまで考えた。

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このようなサインの考え方には、特に際立ったデザイン性は必要とされない。繰り返すが、前述のように出来るかぎりシンプルであろうとする。そういう意味で、グラフィックの精度は別にして、本体の製作上では特に問題が発生しないようにとも考慮されている。

金沢の街中を流れる無数の用水や庭園などを紹介するサインにも、この考え方は応用され、街歩きの観光客などに親しまれている。

3.元気の表現…片町商店街などにおける展開

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前述のように、金沢では特に文化的な匂いを醸し出すデザインが歓迎される。しかし、商業ゾーンでは、景観への認識をどのように捉えるかが課題であった。

筆者は、金沢市に景観行政のセクションが生まれてすぐ、その仕事に関わるようになったが、市担当者との意見(感覚?)の違いに何度も戸惑った。よくある認識の違いで、良い景観を創るのは大きさや面積や素材でなく良いデザインである……、そのような考えの説得に、多くのエネルギーを費やしていたように思う。実際、調査対象となった地域の住民や商業者などに事例を示すと、自分が予想していたとおりの答えが返ってくることが多かった。

しかし、筆者の考えも決して深かったとは言えない。良いデザインという意味を説明しきれないでいたのも事実だった。景観の仕事はそれほど甘くはなかった。ただ、金沢市は粛々と景観行政を前進させてきている。時折、首を傾げざるを得ない時もあるが、長い歳月を経て、商業サイン環境をもしっかりと「金沢的」にまとめつつあると思う。

ところで、金沢の中心、北陸一の繁華街と言われる片町エリアでは、再開発事業が決まった。新幹線がやって来る都市らしく、その動きにますます加速がついている。それに先立ち、片町商店街では既存アーケードのサイン約100台をLED化し、両面発光の薄型でスマートなものに統一した。夜間は、お店や、商店街が金沢のPRのために掲載した、金沢市のキャッチコピー「いいね金沢」のロゴが浮かび上がっている。(※この一連のサインは、いしかわ広告景観賞・知事賞を受賞)

また、6月のはじめ、同じ片町にコカ・コーラの新しい広告サインが披露された。これも、金沢における広告景観の在り方に、ひとつのヒントを示唆するものとなっている。

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これまでにも議論されてきた「活性化と景観づくり」という、一見相反する繁華街での広告物のデザインに可能性を示したと言える。

ブランド力に負うところはもちろん大きいが、それゆえに誰もがイメージするビジュアルをシンプルにアレンジした広告サインは、大人の手法として評価されるべきだと思う。金沢という厳しい景観環境の中で、大らかにイメージを発信している。また、金沢最大のイベント「金沢百万石まつり」とスケジュールを合わせ、地元片町商店街のイベントの中でお披露目式を開催するなども、広告サインが街や地域と一体化し、歓迎される術を示した絶妙のアイデアであった。

もちろん、そのセレモニーを受け入れた地元も見事というしかない。

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その他の商店街で見られるサインにおいても、すでに整備イメージが定着する中、独自に個性的な展開を図ろうという動きが進んでいる。商店街関係者たちの意識は非常に高いレベルにあると言っていい。だからこそ、金沢の商業サイン環境は進んでいるのだ。

4.自発力の再生…新竪町周辺における展開

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片町から若者の街として人気の竪町を抜け、さらに進むと、今静かに注目を集める「新竪町通り」がある。多分何も知らずに入り口に立った人は、ただの寂れゆく、もしくはすでに寂れてしまった商店街としか見ないだろう。今は三丁目しかないという妙にドラマチックな?町だが、ここもまた若者たちの町である。

ただ、竪町と大きく違うのはその気配。竪町がよりトレンド系だとすると、新竪町は“我が道をゆく”系。気負わず自分たちのペースを守っている町なのである。もともと骨董品店などが多くあった通りだが、最近は古い店をアレンジした個性的な商品(作品)を売る店や、ユニークな飲食店ができ、訪れる人たちも個性派が多い。

金沢を普通にイメージした「古い町並み」ではないが、その町並みの中に、隠れた新しさみたいなものを感じさせる。店のファサードやウインドーなどを見ているだけでも楽しめる。金沢には美大をはじめとして、多くの大学があるということを思い浮かべさせてくれる。伝統工芸も、芸能も盛んなのであったと、何となく気付かせてもくれる。こういった通りが生まれ、息づいていくということが、金沢に特有のエネルギーが存在している証なのかも知れない。

54新竪ウインドー

 

 

 

 

 

筆者にも、たまに出かける店があるが、その店をやっている夫婦は、二人とも金沢美大の卒業生だ。しかも、二人とも県外から美大に入り、卒業後も金沢にそのまま住みついている。そういう人間たちの集まりだから、町は思慮深く、サインも実にシンプルに、さり気なく気取らず、さらに自分たち自身と、お店と、通りの雰囲気に溶け込んでいる。もちろん主張もしながら。

古くなった商店街のアーチも、新調される話が進行中らしい。ちなみに、新しいロゴもアーチ自体のデザインも、美大卒の女性クリエイターが担当している。筆者は、こういうパワーのことを“自発力”と呼んでいるが、“自発力”をもった町がいい文化を創り出していく。

かつて金沢には、ジャズや演劇やアートその他ユニークなこだわり人間たちが集う店があった。新竪町にはそんなポテンシャルがあるような気がする。歴史文化の気骨を武器にする金沢にあって、この町は欠かせない存在になっていくだろう。

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5.金沢の金沢による金沢のための表現

3年前、建築家たちが主催するフォーラムで、『トークセッション~「私たちが描く金澤とKANAZAWA」』のコーディネイターをさせていただいた。金沢で活躍する若手(一部古手もいたが)気鋭の、建築家、広告プランナー、映像プロデューサー、コミュニケーション・デザイナー、コピーライター等々に声をかけ、それぞれの立場から金沢の表現手法について語ってもらう企画を立てた。

我々の世界では、金沢が、「金澤」にも、「かなざわ」にも、「カナザワ」にもなる。また「KANAZAWA」になることもある。つまり、金沢はいろいろな顔をもつようになってきている。そのことを考えようとした。そして、セッションをとおして、それぞれが素晴らしい才能とアイデアをもち、日常の仕事の中でそのことを活かしているという頼もしさを感じた。以前、主催者の代表に筆者はこう語っていた。

「街の要素の中で視覚的な部分での建築家の責任が最も大きい。なのに建築家の皆さんは、建築のことしか考えていないのでは? クリエイターの中で、いちばん知的水準が高いのは建築家なのだから、建築家は建築と同時に、街を考えるべきです。そのお手伝いを我々は十分にできますよ…」

酒の席での放言であったが、忘れられてはいなかった。その後、このセッションの成果が十分に活かされてきたわけではないが、景観というものを考えるについても、いかに多様な感性の関与が必要かを痛感する機会となった。

金沢には優秀なクリエイターたちが数多くいる。一般の市民の中にも、ユニークな感性の持ち主が盛り沢山だ。その感性を活用しない手はない。

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金沢と景観。歴史文化都市なのであるから、その関係は深く永遠に続くものである。新幹線による国内からの流入ばかりでなく、観光の国際化もますます進み、金沢の表現はさらに多様化していくことだろう。

我々が関わっていく広告というジャンルにも、その多様性が求められていくのは明白だ。そのことにいち早く着目し、金沢らしい表現の手法を広げていくことが大切である。

 

風景は普遍的な要素の上に面白味をもち、景観は成長していく過程に面白味をもつもの…と思う。そのバランスが大切である。そういうふうに考えていくと、金沢の課題は大きいものになる。両者が重要な役割のもとに共存しているからだ。

100年と言わず、10年後の金沢を想像するだけでも、それなりになかなかスリルがある。そのスリルを楽しみながら、もう少し金沢を見ていきたいと思う。

 

※この文章は、サイン専門誌「SIGNS 2013-Autumn」に寄稿したものの原文です。

白虎隊の墓前に立って

白虎隊の墓

 

白虎隊の墓の前には、いつも人がいます。

と、地元の人らしい誰かの声が聞こえた。

一見、観光地としてしか見えない飯盛山。

わずか、140年ほど前か…と、

頭の中で、何度も呟いている自分がいる。

十代半ば過ぎの少年たちが、図らずも、

美しい日本人の心情を示すことになり、

美しい日本人の象徴のひとつとなってしまった。

この出来事を知らない日本人は少ないだろう。

ただ、悔しいのは、彼らがあまりにも若過ぎて、

奪われたものは、誇りなどだけでなく、

“未来”だったということだ。

普通に考えれば、残されていた人生の方が、

ずっと長かったということだ。

彼らが自決した場所からの会津城は、

予想していたよりも、はるかに小さく見えた。

そのことがまた胸を打ち、彼らの決意を想像させる。

その城や城下の惨状から彼らは自国の敗北を悟り、

生き恥をさらしてはいけないという教えを守って、

自ら命を絶つことを決意した。

わずか、140年ほど前の出来事なのに、

はるかずっと昔のことのように思えるのは、

日本がその直後から急激に変貌していくからだろう。

しかし、墓の前に立ち、

目を閉じて深々と手を合わせる人たちを見ていると、

日本人はやはり何も変わっていないのではないだろうか、

と、思ってしまう。

やはり、会津は不思議な国だ……

 

会津を旅するということは

 

石垣と堀と枯れゆく草

会津若松は不思議な街だった。

NHKの『八重の桜』を毎週欠かさず見ているが、その影響もあって、自分の中にも会津という国自体への“同情”みたいなものと、“憧れ”みたいなものが生まれていた。そして、会津を訪れてみて、それがものの見事に自分の中で形になっていくのを感じた。

司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、戊辰戦争時に会津で起きた出来事は、歴史上、全国どこにも例のないことだという意味のことを書いている。それは、最も不幸な結末に至った国という意味でもあり、読みながら体の中が熱くなったのを覚えている。

圧倒的な数の官軍に迫られ会津藩は、最後の籠城戦を決意した際、婦女子にも城内に入るよう指示を出していた。しかし、食料を浪費してしまうだけと判断した多くの婦女子は、敢えて城に入らなかった。そして、彼女らは敵が迫るに及び自ら命を絶つ。

藩の家老・西郷頼母の妻や娘たちが自刀した話は、あまりにも有名だ。

そして、日本の悲劇を象徴するような、白虎隊の少年たちの死。彼らもまた、自ら若い命を絶っていることが虚しい。

その後、会津藩はその存在をも打ち消されるように、国名も失い、下北半島の端へと移される。しかし、厳しい自然条件のその土地も、決して藩士やその家族たちをやさしく迎えてはくれない。そこでも多くの会津人が命を落とす。

廃藩置県が施行された後も、会津若松には、結局、県庁は置かれなかった。何よりも、“朝敵”とされた不名誉は、誇り高い会津人にとって、どれほど悔しかったことだろう。

会津城

 会津を観光するというのは、そういった会津の人たちの無念さに浸ることだ。そして、その不運や不幸の中からも、人間は必ず希望を見つけたり、勇気を振り絞るということを発見することだ。そして、さらに、新しい時代の中に、山本覚馬をはじめ多くの偉人を輩出させた会津の魂に触れることでもある。

今回会津で、旧東京帝大や旧京都帝大の総長を務めた山川健次郎などの人物像に触れた。

大河ドラマにもあったように、彼らは戊辰戦争の最中、家族によって家名を守るためや自身の未来を拓くために生かされている。そして、このような逸話が美しいのは、小説や映画の中ではない事実として伝えられているからだ。

会津には、磐梯山もあり、猪苗代湖もあり、いい温泉もある。鶴ヶ城、日新館、御薬園、飯盛山、その他、会津を知る術が多く残されている。

西から追いかけてくる台風を逃げるように、忙しなく会津に向かっていたが、会津は青空で迎えてくれた。

何だか、不思議な勇気を、いっぱいもらったのだ……

 

白虎隊の墓日新館1西郷頼母邸御薬園山川健次郎

 

歴史が好きだから思うこと

歴博の夏

 

夏真っ盛りの午後、本多の森の歴博の展示室を緑の隙間から見ていた。

中を見たかったというわけではなく、周囲を歩きたかった。

煉瓦壁の、夏でも涼しげな雰囲気が好きだ。

汗もかかず、いつもサラサラとした肌触りをイメージさせる。

歴博の窓の奥には明かりが見えた。その下で、石川の歴史が語られている……

 

もともと歴史、特に日本の歴史が大好きだった。

NHK出版の「知られざる古代」などから始まり、武田信玄を軸にした戦国時代が最も盛り上がった。

奈良や京都の古寺や古道もめぐり歩いた。

司馬遼太郎との出会いによって、街道めぐりもした。

宮本常一を知って、さらに農村や漁村、一般民衆社会の歴史にも心を傾けた。

宿場はずれの松の木を見ていると、そこを通り過ぎて行った旅人たちの思いも伝わってくるような、そんな感性も持ち合わせているような気がした。

ずっと信州の上高地を、自分にとっての聖地のように位置付けてきたが、それは風景の美しさだけでなく、上高地の歴史を知るようになったことも大きかった。

たとえば、人気のない梓川の川原に立つと、旧松本藩の林業に携わっていた杣人たちの姿や、W・ウエストンを導いた上条嘉門次など山案内人たちの表情が想像できた。

空気がその時代に戻ったような感覚になり、どのような場所にいても、今自分は時の流れの中にいるのだと考えるようになった。不思議な感覚だった。

ついでに見境なく書くと、野球の歴史やジャズの歴史などにもかなりのめり込んだ。

仕事の上でも、展示施設の計画などには、まず歴史を第一に考えるようになる。

ヒトにも、土地にも必ず歴史があり、それは絶対に外すことのできないものであると認識していた。

歴史とはそんな存在だったのだ。

 

…… 最近、「歴史認識」という言葉をよく耳にするようになっている。

歴史にはひとつの事実しかなかったはずだが、後に何とおりもの解釈が生まれる。

それで普通だと自分では思っていたのだが、どうやら「歴史認識への認識」という点にポイントをおくと、歴史を考えるということが少し面倒臭くなった感じだ。

歴史小説の作家たちが、自分の解釈であれやこれやと物語化していくのを読み、それはないだろうと思っても、それを歴史認識が……とは言わない。

政治家が動くと、歴史認識がどうのこうのといった話になる。

だから、身近に戦争、特に第二次大戦とか太平洋戦争という事件を考えさせられると、そのことを歴史というカテゴリーに入れることそのものに、ボクは抵抗してしまうのだ。

もともと平安期と、明治から昭和の戦前までが、唯一好きになれない日本史のゾーンだった。

明治維新後、清もロシアも打ち破って、日本は一応強国の一員となっていくが、そのことにより却って少しずつおかしくもなっていく。

司馬遼太郎も書いているように、日本にとっては、帝国陸軍の横暴さが増長していく暗い時代なのだ。

明治維新はそういう意味で、どうも胡散臭い。

アジアへの侵攻などという言葉には寒気がするし、現にそういったことが新政府の課題として生まれてきたことに大きな疑問が生じる。

古くは白村江の戦いというのがあり、秀吉の朝鮮出兵もあったが、日本人は何を基本に考えてきたのだろう。

明治政府軍の将兵たちは新式兵器の効き目に陶酔し、無力な反体制派(彼らが称した朝敵)の国を徹底的にぶちのめして、のし上がっていった。

歴史という言葉を使うから、美しく聞こえたり、同情的に解釈されたりするが、こういったひとつひとつの“事件”は、かなり恐ろしい要素を持っている。

たとえば、信長の比叡山焼き討ちなどの行為を、信長ファンどころか、一般の人たちも決して否定的に見ていないことにずっと疑問を抱いてきた。

武田信玄の武将としての才能と、為政者としての才能を中心に据えてきたボクとしては、信長は軽石みたいな存在としてしか見えない。

そして、日本における最初で最後の無差別大量殺人の首謀者であるのに、現代ではヒーローなのである。

さらに、信長は重要な家臣であったはずの明智光秀によって殺されている。

つまり、信長は人望もなかった。あのように無残な反抗を受けるくらいであったということは、かなり低次元な指導者であったとも考えられる。

ただ高圧的に、家臣たちを押さえつけていただけで、情けをかけることも知らなかった。

北条早雲や斎藤道三のような下剋上の例はあっても、憎しみや切迫感だけによって、あのような最期を遂げたのは信長くらいではないか。

日本人は、そんな男をヒーローにしている。

その後の秀吉も家康も、信長派の流れを汲むことから、歴史は、信長を悪人にしないまま甘やかし、そしてヒーローにしてきたのだ。

ちなみに、信長がかなりの強運のもとに命拾いをしてきたことは、戦国時代に造詣の深い人なら知っているだろう。

戦国最強と言われた信玄は、信長を都から蹴散らすために軍を進めていた途上、持病の労咳が悪化し死んだ。

もうひとりの猛将・上杉謙信も、その数年後にこの世を去り、信長は蹴散らされずにすんだ。

信玄上洛の報を受けた時の信長は、間違いなく乱心したことだろう。

 

話はちょっと外れ気味に進むが、ボクは、ジャズも好きだし、ベースボールも好きだし、西部劇も好きで、もっと言うとカリフォルニアのワインも好きだ。

アメリカという国と仲良くなかったら、ボクの人生は決して楽しいモノにはならなかったかも知れない。

しかし、今この話題の中で語るアメリカという国には大いに疑問がある。

アメリカ自体へというよりは、アメリカに対する日本人への疑問と言えばいいのかも知れない。

アメリカはかつて、大戦末期に日本本土の多くを空襲し焦土化させた。

とどめは、広島と長崎へ原爆まで落としていった……

一般市民の犠牲者数は、歴史の上でもケタ外れである。

しかし、日本人はやはりアメリカを、多くの自国民を殺害した国として見ていない。

アメリカの攻撃は仕方なかったという思いなのだろうか?

だとすれば、自分たちが近隣諸国にしたとされる愚行の責任も認めているということなのか?

信長もアメリカも、日本ではヒーローなのだ。

このことがボクの考える“歴史認識”という認識には、どこかおかしな認識があるということなのかも知れない。

 

これ以上むずかしく考えたくないので、これくらいにしておく。

やはり日常に歴史がないと面白くない……、そのことだけは確かなのだ。

 

体験活動中の少女

 

この前入ったと同じ、某店の同じカウンター。

ひとつ置いた次の席のおばちゃんが、塩ラーメンと

ギョーザとおにぎり(とろろ)を、

さらりと、時間にすれば2秒半ほどで注文した。

たくさん食うんだなあ~と感心していたら、

それを伝票に書き込んでいる店員さんが、

では、ギョーザセットとおにぎりにしておきますねと、

さらに1秒半ほどで答え、丁寧にお辞儀をする。

おばちゃんも、そうかあ~と嬉しそうだ。

そこまでのやり取りもいい感じだったが、

さらにまた横にいた店員さんを見て、ちょっと驚く。

どう見ても幼いのだ。名札が見える。

目の前にいる店員さんは、「猪熊とら子」(仮名)と

正しい名前が書かれているが、幼い彼女の名札には

「体験活動中」と書かれている。

この場合、「体験活」が姓で、「動中」が名ではないことは明白だ。

一応解説すると、

彼女は地元の中学生で、所謂、職業体験みたいなことをやっているのである。

少し緊張気味の様子だが、用事を言われるとキビキビと動く。

猪熊とら子(仮名)さんが、××をお願いと言うと、

はいッと気持ちよく答える。

その様子を、忙しいはずの厨房からご主人だろうか、心配そうに見ている。

最近は、味はなかなかだが、食べている最中に、

アタマの上で店員に怒鳴られるラーメン屋が増えてきた。

それで嫌いになっているわけではないが、

やはり、ラーメン屋さんには、店員の声のデカさを

決め手にしていない客もいるということを知っていただきたい。

そんなわけで、当方のBセットも滞りなく食べ終え、

いい気分だったせいか、思わずラーメンのスープも

いつもより、やや多めに啜ったりした。

頑張れ、動中ちゃん! 巨匠と呼ばれる日まで………?

図書館が好きだということについて

本棚

 図書館について、自分なりの理想がある。

 実現するとかしないとかに執着はしていないが、実現するとそれなりに嬉しいだろうなあと思ったりもする。

 そんなことを肯定的な視点から考えたのは、能登の、ある町の図書館で、熱心な司書さんたちと出会ってからだ。

 その人たちは地元出身の作家や詩人、画家などを広く町の人たちに伝えるサポート活動をしていた。

 ボクはその人たちをさらにサポートする立場にいて、地元の愛好者の皆さんの中に入り、楽しく仕事をさせてもらってきた。

 作家の記念室を作ったり、冊子の編集、画家の作品展示の企画を手伝ったりしながら、地元の風土のようなものを感じ取るのは楽しいものだ。

もうかなり時は過ぎたが、これだけ活力のある図書館であれば、町を元気にする活力も提供できるのではないかと思えていた。

そんな時、地元の人から聞いた話がヒントになった。

 “図書館で町おこし”などというと俗っぽさも度が過ぎるが、好きな本を読みに能登の海辺の町に来てもらおう……という素朴な提案だった。

 ボクはマジメに面白い企画だと思った。

 衰退していく民宿や町の宿泊施設などを見ていると、図書館と絡めたこの企画もやりようによっては、渋く浸透していく要素があるのではないか?

 そう思うと、最近、書店へ行っても、かつての名作と呼ばれる本が売られていないことなどがアタマに浮かんできた。

 海外の文学作品はもちろん、日本の文学作品などもほとんど本棚には並んでいない。

 いや、もう本そのものが作られていないと言っていい。

 そういうものを取り揃えて、昔の文学少女や文学青年たちに読んでもらおうというのは、まさに名案中の名案であるとしか言いようがなかった。

 しかも、季節感あふれる能登で、夏は海風を受けながら、芥川龍之介と冷の地酒を味わい、冬は炬燵に体を埋めながら、川端康成と燗酒を愉しむ……

 そんなこんなで、何度想像しても素晴らしいアイデアであるなあ~と、ボクはそれこそ何度も何度もふんぞり返っていたのだ。

 しかし、現実はそれほど甘くはない。

 当然このアイデアは日の目を見ることもなく、ある日の夕暮れ、静かに渚の波にさらわれていった……

 話は想定以上に長くなっていくが、もう一方の否定的視点から図書館の理想を考えるきっかけになったのは、「金沢市海みらい図書館」の存在である。

 金沢市の西部、海側環状道路の脇に建つこの図書館を悪く言う人はあまりいないだろう。

 駐車場が狭いなどという声は聞くが、それらを吹き飛ばすほどのカッコよさで、かなりの人気を集めている。

 しかし、ボクがこの図書館に違和感を持つのは、そのネーミングだ。

 なぜ、「海みらい図書館」などと呼ばせるんだろうという、素朴な疑問だ。

 あの図書館のどこにいたら、海が、海の未来が見えるのだろう?

 屋上にでも登れば見えるのかも知れないが、誰も自由に屋上へは登れない。

 もし、海側環状道路沿いにあるからだという、それこそ安直の極みのような理由だとしたら情けないかぎりだ。

 館内に弱い光を差し込ませる、あの窮屈そうな丸い窓が船を連想させているとしても、窓の外には実際の海はないのである。

 目に見えないから「海みらい」なのだとしても、あの住宅地に建つだけのロケーションでは物足りない。

 こんなことを書いていくと、「海みらい図書館」そのものを批判していると思われるかも知れないが、決してそうではない。

 図書館に理想を持っているからで、その理想とどこかチグハグに絡み合った存在として「海みらい図書館」があるだけだ。

 そのチグハグさを明解にするために、遅くなったが、図書館についての自分の理想について書く。

 ボクがもともと持っていた理想とは、「海の見える図書館」とか、「夕陽を映す図書館」とか、「落日に涙する図書館」…?とか、そういう自然風景の中にある図書館という素朴なものだ。

 ボクの生地であり、今も住む内灘にそのベースを置いて発想したと言っていい。

 砂丘台地の上、ガラス張りの、少々西日が差そうが何しようが、とにかくひたすら海が見える図書館がいい。

 カフェなどもあれば、このロケーションはますます効果的になる。

 読書は思索なのだから、隣の家の屋根や壁が見えているだけではつまらない。やはり、自然がいい。しかも“天然の自然”だ。

 だから、「山の見える図書館」も好きだし、「森の中の図書館」でも、「川辺にたたずむ図書館」でもいい。

 図書館は街にあるべきものという考え方も、もう古いだろう。

 わざわざ出かけていく図書館、図書館で一日を過ごすという上品な休日の過ごし方なども提案しよう。

 そんなわけで、図書館へのささやかな夢、いや図書館が好きになる理想の話なのであった……

ボクらの浜のゴミ拾い

砂浜

6月最後の日曜日は、6月最後の日でもあった。

が、そんなこととは特に関係ないと思うが、わが内灘町では、町の代名詞とも言える海岸の一斉清掃に、朝から町民たちは汗を流していたのだ。

と言っても、当然ながら内灘28000人の町民が全員海岸に押しかけたのではない。

もし、内灘町民全員が海岸に集まってしまったら、砂浜は立錐の余地もなくなり、ゴミ拾いどころか、身動きもとれない状態になってしまって大変なのだ。

そんなわけで、有志と各種団体、家族連れなどが参加し、それでもかなりの人数で賑々しく砂浜のゴミ拾いが続けられたのである。

公式開始時間は、午前7時。

しかし、ボクなどの地区役員はなぜか6時集合と聞かされていた。

ボクたちの拠点となるのは、権現(ゴンゲン)森海水浴場だ。

小さな海水浴場だが、夏真っ盛りの頃になると、それなりに金沢などから客が来る。

会社などのレクリエーションなどにも使われるケースが多く、人気がある。

海水浴場はというか、最初の浜茶屋がボクが小学生だった頃、地元のよく知っている人たちによって作られたと記憶する。

それまでは何にもない、ただの広い砂浜だった。

海水浴場が作られる時、権現森に一台のブルドーザーが入り込んで、まるでバリカンでアタマを刈るようにしながら森の中に一本の道を造ったのだ。

あの時代は、自然保護がどうのこうのなどと言う人もいなかったのだろう?

実を言うと、我々「悪ガキ隊」(もしくは「全ガキ連」とも言う)は、いち早くそのニュースをキャッチしていた。

そして、工事の始まるその日、すぐに権現森の手前にあったニセアカシヤの林の入り口へと走っていたのだ。

真新しいブルドーザーに跨り(実際、運転席に座っていたのは言うまでもないが)、颯爽と道を切り開いていく運転手のお兄さんとは、すぐに仲良しとなっていた。

それからは、毎日学校が終わると権現森に出かけ、ブルドーザーにも乗せてもらったりした。

その日の作業が終わり、開いた道を戻る時に乗せてもらったのだと思う。

樹木や雑草などで暗く薄気味悪かった権現森が、明るく開放的なイメージになり、もうビクビクしながら森の細い道を歩いて行かなくていいと思うと、高いブルドーザーの席から勝ち誇ったような気持ちで森を見下ろしていた。

本題とはあまり関係ないが、そんなわけで、とにかく権現森海水浴場は出来たという話である。

時計は6時半になっていた。しかし、ボクを入れて四人が集まっているだけで、あとは誰も来ない。

どうせ7時からだし、みんなはまだだろうと思っていると、後から来た一人が手にゴミ袋を持って砂浜に下りて行った。

聞くと、海水浴場駐車場のずっと手前で、ゴミ袋が渡されているという。

つまり、我々は事務局よりもちょっと早く来すぎていたのだ。

一人がわざわざゴミ袋を取りに戻ってくれた。

いよいよ浜茶屋あたりから砂浜に下り、ゴミ拾いをしながら進んで行くと、先の方には大勢の人だかりが見える。

あの集団はいい時間に来たので、そのままゴミ袋を手にゴミ拾いを始めていた。

早く来ていながら不覚をとったと、川中島の合戦における武田軍の山本勘助になった心境でいる……(それほど深くはない)

ゴミは無数に、しかも時折悪意のようなものを匂わせながら、ボクたちの足元に落ちていた。

しかも砂浜だから、ほとんどは砂に埋まっている。

ハングル文字の入ったものも多くある。

悪意を感じるのは、四駆車が入り込んできたあとに散乱しているペットボトル類だ。

大きなものが、海浜植物の隙間に多く散乱している様は、目にしただけでも気分が悪くなる。

と言っても、ゴミ拾いの面々は地元の仲間だ。やらねばならぬ的にやるしかないと思っている。

7時を過ぎてからか、雲が切れ、本格的に太陽が出はじめた。

海の朝はそれなりに空気も冷たいが、東からの陽光を受けるようになると一気に暑くなる。

鼻が高いせいだろうか、いつの間にか鼻のアタマに熱気を感じるようにもなっていた。

数百メートルにわたって、人のかたまりが動いて行く。

清掃部隊に少し遠慮しがちな釣り人たちも増えてきた。

ところどころに設置された、ゴミの集積場に流木などと一般的なゴミなどが分けられ、その量は見る見るうちに増えていく。

見た目に分かるほどに、砂浜はきれいになった。

そして、そろそろゴミも目途が立ち、少し身体も疲れてくると、そこかしこに立ち話チームが出てきた。

昨日の夜は一緒に飲んでいたという人たちもいれば、久しぶりに会ったということで会話が弾んでいるグループもある。

役場の中の委員会に参加したりして、かなりストレスが溜まったりするケースもあるのだが、こういった場はむずかしく考えなくていいから楽だ。

クルマに戻ろうと、砂浜をずっと歩いて行くと、砂の上に朽ち果てた椰子の実があった。

実は朝一番に目に付き、これはゴミではないと自分で決めていた椰子の実だった。

誰もこれをゴミ袋に入れようとしなかったことに、なぜかホッとした。

陽が出る前は、小さく波打っていたような海面が、今はもう穏やかに揺れている。

すぐには帰らずに、海浜植物の群れの中を高台に登ってみた。

かつては、完全に砂の山で、一気に浜へ駆け下りるといった醍醐味があったが、今は植物が執拗に拒む。

狭く小さくなった砂浜を見下ろしたが、特に何の感慨もなかった。

沖には小さなボートが浮かび、釣り人の赤いウエアがあざやかに浮かび上がっている。

小さかった頃は、毎日のようにこのあたりで遊んでいたような気がするが、こうして海岸清掃という行事をとおして来てみると、地元の人たちの顔もあってか、急にその思い出も濃くなったような気がする。

よくは分からないが、とにかく不思議なものだ……

狭くなった海岸海を背景にしたスコップヤシの実穏やかな海に釣り船砂の感触

控えめな黒子でなかった

せせらぎのミニ公園

 

ドイツの黒ビールを前にして、ある大先輩から、

「アンタも私も、基本は黒子(くろこ)なんやて…」と言われた。

ボクはその時、たまたま同じドイツの白ビールという、

よく分からないものを飲んでいたのだが、

あらためて振り返って見ると、それは間違いないことでもあった。

仕組みが出来ていなかった時代、

いろいろと悩み考え、試行していたことは、

正式に仕組みが出来上がった段階で

初めて世の中に認められるようになる。

そして、その仕組みだけが走り続けていく。

そんなことが、よく知らないところで起きていた。

今更そんなことをア~だコ~だと言いたいわけでもないが、

何にも知らない人たちが、正論(仕組み)だけで

語り合っているのを横で聞いているのも、

それなりに辛かったりするものだ……

 

カンペキに余談だが、

広辞苑には、「くろこ」という言葉は載っていない。

自分が今書いた意味の「くろこ」は、

「黒衣(くろごう)」のことをさす。

もともとの意味は分かるだろう。

漢字の「黒子」では、「こくし」とか「ほくろ」。

ほくろはそのままだが、

とても小さなものの例え…みたいなものに使われるらしい。

そんなことを、また改めて知ってしまうと、

黒子的存在感は、ますます惨めなものになっていく。

高級食材となってデカい面してる「白子」と比較しても、

黒子は、やはりちょっと寂しいのであった……V

不思議なモノを見た

不思議なもの1

100メートルもないその先に、それがあった。

それを発見した時、思わずドキッとした。

北三陸的に言えば、ジェジェッである。

すぐ目の前にコンテナがあり、それを撮影していた時だ。

半信半疑のまま歩きだし、右斜め後方に目をやりつつ、

ゆっくりとクルマに戻る。

何のためか、敢えて落ち着いているのだというふりをしている。

窓越しに、もう一度それを確認。エンジンをかけた。

少し登った。そして、それの30メートルほど手前で、またクルマを下りる。

山間はもう日が陰っている。空気も涼しい。

そこは北陸のK市中心部からクルマで約30分。

推測だが、馬だとゆっくりで2時間くらいか。

牛だと半日はかかるかも知れない。

これでこの場所は知られてしまうだろう。

しかし、それでもかまわない。

歩いて、すぐ目の前まで来た。

塗装の剥がれていない部分はまだ美しくも見える。

正面のライトは片方だけだが、しっかりと残っている。

ひょっとして遊園地などで使われていたのだろうかと想像する。

とにかく、この不思議なモノが、この場所にあるということに心が揺れている。

不思議なモノの左面

いつ、どうやって、なにゆえにこの場所に運ばれて来たのか?

かつて、ここには鉄道が走っていたのだろうか?

ひょっとして、旧盆の深夜、突然汽笛が遠くから鳴り響くと、

霧の中、草を分けるように線路が浮かび上がってくるのかも知れない。

そして、この不思議なモノが、

生気を再び得たかのように、ゆっくりと動き出すのかも知れない。

子供たちは、その後を追い、見えなくなるまで力いっぱい手を振る。

そして、この不思議なモノが落としていった、

おもちゃや菓子などをみんなで拾い合うのだ……

 

振り返ると、近くの農家の人だろうか、こっちを胡散臭そうに見ていた……

不思議なモノの正面

ボクらの不発弾事件

不発弾

先日の、東京・不発弾処理の記事。

不発弾のことなら、黙っていられない。

早速、本題に入る……小学校四年の頃のことだ。

その十数年前、ボクたちの育った内灘の砂浜は、

アメリカ軍の砲弾試射場として接収されていた。

特にわがゴンゲン(権現)森の海岸は、着弾地点になっていて、

そこでは座り込む地元の母ちゃんたちのそばで、

轟音、そして地響きとともに砂塵が舞っていたのだ。

この事件は、日本中を揺るがし、当時の貧乏な漁村は一躍有名になった。

しかし、ボクらはそんなことなど、な~んにも知らないまま育ち、

一応子供としての社会的地位?を得るようになると、

ごくごく普通に砂浜で遊ぶようになっていた。

夏休み終わりがけのある日。

ボクと、一つ年上のTと、もうひとつ年上のYは、

砂浜に埋まっていた不発弾を見つける。

信じてもらえないかもしれないが、ボクたちの砂浜には、

このような不発弾がいっぱい?埋まっていて、

ボクらはこれらを「バクダン」と呼んでいた。

今から思えば、当たり前すぎる呼び方だが、

その響きは、子供心にもなかなか痺れるものがあった。

ボクたちが見つけたバクダンは、いつも見るものとは

少し変形?して見えていた。

後部の方が抜け落ち、そこには芯棒のようなものがあった。

その棒が、子供心にも持ち運びの利便性を認識させていたのだった。

夏休みの終わり頃と言うのは、

少年たちにとって、夢や希望が一度に消え失せ、

もうすぐ訪れる二学期への疑念や、極度の脱力感に襲われる時だ。

……誰言うとなく、このバクダンを持って帰ろうということになる。

ボクたちは代わる代わる持つところを変えながら、

ゴンゲン森を抜け、砂丘の畑の中を歩いた。

当然だが、何度も何度も足を止め、バクダンを砂の上に放り投げ、

自分たちもその度にドスンと座り込んでいた。

普通であれば、三十分ほどの行程が、その何倍もの時間を要した。

そして、夕暮れ近くになって、ようやくYの家の後ろの崖に辿り着き、

そこにバクダンを埋めたのだった。

数日後、全く何事も無かったかのように二学期が始まった。

しかし、学校で久しぶりに友人たちの顔を見てしまうと、

あの“偉業”について、黙ってはいられなくなった……。

そのまた数日後、Yの家の前に二台の軍用トラックが止まる。

数人の自衛隊員が、ボクたちが埋めたバクダンを調べている。

そして、バクダンは、そのままトラックに載せられて行ってしまった。

当然、当たり前のように、ボクたちは超大目玉を喰らった。

もし、もし、あれがああなって、こうなっていたらと考えると、

今でも背筋が寒くなるのである。

ついでに、最近知った話だが、昔使われていたバクダン、

いや砲弾にはテスト用に砂が詰められていたものもあったそうだ。

それには、SANDの頭文字「S」と記されていたらしい……

砂浜の枯草-1024x685

疲れた夜によくある雑想

スポットを浴びたような新緑

久しぶりに訪ねた友人の事務所に、山の本が、文字どおり山積みになって置かれていた。

彼は、その本を通販で、しかも古本で買う。

ジャズのCDは新品(輸入盤が多い)で買うが、本はほとんどが中古本である。

自宅ではなく、事務所に届くという点が羨ましい。

彼はその事務所で、軽くジャズを流しながら仕事をし、仕事の合間に好きな本を開いて、その世界に自分を置いたりする…のだろう。

そのような世界は、若かりし頃の自分にも憧れとしてあったものだ。

そして、そろそろ時間の先取り的に“リタイア”した後の自分を考えたりする時、少しだけ現実味を帯びてくることでもある。

しかし、あと何年かは、ひたすら微量の脳ミソをかき混ぜながら、一途にやっていかねばならないポジションにもある。

元来、性分が「やり始めると、とことんやってしまう」というタイプなので、ある意味ではかなり損をしてきたところもある。

しかし、今さら悔やんでも仕方がない。

学生時代、将来は八ヶ岳山麓に住まいして、そこでカッコよく仕事をしながら過ごそうと考えていた話は、ずっと以前この雑文集で書いた。

そこまでの回帰はないが、やはりどうせなら、山があって(見えて)、家を出たらすぐに自然があるといった環境がいい。

雪も降り、リビングから、いや縁側からでもいいが、すぐにスキーを付けて歩き出せるくらいでないといけない。

朝日でも夕日でもいいから、家に差し込んでくることもそれなりに重要だ。

庭でコーヒーを淹れ、家の中から聴こえてくるラルフ・タウナーのギターや、ヨーヨー・マのチェロなどにボーっとすると言うのも、かなり心地よいことだろう。

本も読み、文章も書き、カメラを持って歩きまわりもする。

どこかにそんな人が何人かいた。

ただ、ボクが考えるシンプルさとはちょっと違っていた。

だから、自分自身が求めることも、どこまでが真実なのか不明でもある。

誰かが何か言ってくれても、自分自身がどれだけ踏ん張っても、人生の時間的な制約は変えられない。

だからこそ、今自分が置かれている立場でとにかくやるだけやり、その後は自分を出来るかぎり解放させてやりたいと思う。

 

どっと疲れた仕事の帰り。

一杯のコーヒーにホッとしながら、こんな文章を書いている自分に、今気付いた……

金沢ジャズ・ストリート

 今年の金沢ジャズストリートに、“チック・コリア氏が来る”という記事が載っていた。

 全盛期はすでに過ぎているとは言え、ビッグである。

 ただ、氏は余計だ。グラミー賞をとったということで氏が付いたのかも知れないが、ジャズの世界ではグラミー賞などどうでもいい(…と思っている)。

basie

 カウント・ベイシー・オーケストラも来る。

 すでに御大カウント・ベイシーは他界しているが、ビッグバンド・ジャズの神髄を知りたい人は、是非聴いておくべきだ。

 実は第一回目に優秀な大学ビッグバンドを呼ぶことを提言したのは、何を隠そう?この自分である。もちろん裏の、さらにその奥での話だ。

 東京などの学生ビッグバンドは真摯にジャズをやっていて、彼らの参加を促し、支援していくことは金沢の催し物として、いい効果をもたらすかも知れないと思ったからだ。

 彼らが、それなりの力量を持っていることも当然背景にあった。

 話を無理やり母校のビッグバンドの方向へと繋げるわけではないが、このカウント・ベイシー・オーケストラの演奏スタイルを、何十年にもわたってベースにしているのが、わが「明治大学ビッグ・サウンズ・ソサエティ・オーケストラ」だ。

 第一回のコンサートで、明治のビッグバンドの演奏に、思わずカラダを揺らせてしまった人たちが大勢いたと思うが、あれがカウント・ベイシーのスタイルなのである。

 楽しさは自信を持って請け負う。安心して、コンサートに行ってください……

 ついでに、余計なお世話的話を書くと、明治を含めたいくつかの大学のビッグバンドが、二回目以降呼ばれなくなった。

 ビッグバンドは大勢だから経費がかかるのは分かるが、あのしっかりとした演奏を聴かせてくれた威勢のいい若者たちのステージがなくなってしまってから、ボクはもうこの催し物に魅力を感じなくなっている。

 明治大学は地元で、『お茶の水ジャズ』というイベントを毎年やっているが、ビッグバンドの連中は、次の年の参加も楽しみにしていた……

 話を戻す。

yousuke trio

 もう一人のビッグなゲストは、我らが山下洋輔(本当は「さん」を付けたい)。

 これは一応覚悟をして行くべきである。

 と言っても、最近のヒトビトはいろいろな音楽が氾濫しているから、何を聴いても驚かなくなっているだろうが。

 何度も書いているが、昔、片町に「YORK」(現在は香林坊日銀裏)という店があり、その店では、若き山下洋輔トリオの爆発的痛快及び奇想天外白熱ライブが時々行われていた。

 フリージャズなど、ごく限られた人しか聴いていない時代、このトリオのナマは実にハゲしくカラダに迫ってきて圧倒された。

 こんな音楽を聴いていることは、絶対に人には話してはいけないと思った……というのは嘘だが、誰かに教えてやろうなどとも全く思わなかった。

 山下洋輔は、ちょっと前にも石川音楽堂でガーシュインを演奏していたが、売れない時代、いや堅気には受けない時代に、よく金沢のYORKで演奏していたということを覚えておこう。

 そう思って、コンサートを聴くと、またそれなりにいい感じなのである。

 ところで、もともとジャズストリートは小さな発想から生まれた音楽イベントだった。

 しかし、金沢にはラフォル・ジュルネというクラシックの音楽祭があったことによって、一気に企画が膨らんでしまった。

 春がクラシックで、夏の終わりはジャズといった具合だ。

 そして、模索状態のまま第一回が開催され、それはそれで、それなりに良かったりしたのだ。

 ただその後、ボクが最も嫌いなイメージへと、この催し物は流れていく。

 ジャズが、大人たちの上品な世界?に嵌め込まれていったように感じた。

 自慢したって特に意味はないが、そろそろ60歳に近付くボクは、14歳の頃からジャズを聴いてきた。

 ある夜、ラジオのNHK-FMで聴いた、コルトレーンの「マイ フェイバリット シングス」にアタマをガツンと打たれ、その後のエバンスの定番「ワルツ フォー デビー」で未来を確信した。

 オレは、この音楽と共に生きていくのであろうなあ~と。

 16歳になったばかりの頃、アート・ブレーキ-&ジャズ・メッセンジャーズのコンサートに行った。

 ミントンハウスという、モダンジャズ発祥に深く関わった店での歴史的セッションに参加していた、ドン・バイアスというテナーサックス奏者がいて、彼の演奏に何も分からないまま痛く感動したのを覚えている。

 先ほど出てきた金沢ジャズのメッカ「YORK」にも通い出す。

 今は亡き、マスター・奥井進サンとの付き合いはそれから何十年も続いた。

 その奥井サンと初めて?二人で行ったコンサートが、実はチック・コリアだった。

 当時はよく招待券というのがあって、奥井サンから誘われて何度か一緒に行った。

 「リターン・トゥ・フォーエバー」という話題作を引っ提げての金沢公演だったが、ボクが一生懸命聴いている横で、奥井サンは時折ぐっすりと眠っていた。

 奥井サン流にいうところの、“いい音楽を聴くと、よく眠れる”というやつだった。

 チック・コリアはたしかにジャズ界のエリートであり、マイルスのグループで活躍した後、一時深く音楽を追究するフリー系に走ったが、その反動のようにして「リターン・トゥ・フォーエバー」を発表した。

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 その表現は実に爽やか、知的、そして美しく、シンプルだった。

 苦悩したジャズ・ミュージシャンには、時折そういったシーンを見ることがある。

 ジャズは、オシャレな音楽になってしまった。

 ある時、チケットの押し売り?を頼まれて、知り合いにお願いしようとしたら、「ジャズのコンサートって、何着て行けばいいんですか?」と、質問された。

 そんなことどうでもいいよと言ったが、その人にとって、それは重要な問題みたいだった。

 ジャズのコンサートには、出来ればシューズだとか軽めのサンダル系のものさえ履いていれば、あとはどうでもいいとボクは思っている。

 一度、最悪のことを経験したのが、コンサートの途中に聞こえてきた女性の足音。

 どうしても、トイレが我慢できなくなったのだろうか。

 あれは絶対に良くない。くしゃみをしたり、咳き込んでも、神経質なミュージシャンは嫌な顔をする。

 あのK・Jなどは、咳が止まらなくなった客に集中力を奪われて、途中でコンサートを中止したと言われるくらいなのだ。

 話はかなり方向を見失ってきたが、今のところ、金沢ジャズストリートにあまり興味はない。

 いろいろと啓発的な活動をしている人たちも知っていて、その人たちには敬意を表するが、楽譜を見ながらアドリブもどきを演っているプレイヤーたちには、同情的になったりするだけで、芯から楽しめなかったりする。

 路上など、たしかに演奏しているのはジャズの曲だったり、ジャズのアレンジだったりするが、自然と発散されるジャズ的な感覚はそれだけでは感じ取れない。確かに違うのだ。

 そのあたりが、ちょっと残念な気もして、何でもかんでも、ジャズって、なんかいいんじゃない? と言ってしまっている人たちを、斜めから見てしまう。

 こんな自分に誰がしたのか…? やっぱ、自分でしょ…なのである。

 むずかしい話はしたくないが、やはり、名盤・名演というやつを、レコードやCDで聴いているのがいちばんなのかも知れない……と、あらためて思ったりしている・・・・・・

能楽堂で脳しんとうの話

兼六園の周辺を見てまわる用事があって、本多の森にある能楽堂付近にも足を運んだ。能楽堂前の小さな広場の、その隅っこ。

新緑に囲まれ、「杜若(かきつばた)」像がひっそりと建っている。

この像はかつて、金沢駅前にあったのだが、駅前広場の整備でこの場所へと移設された。

今、金沢駅前には「鼓門」が建つが、金沢と能とのつながりは永遠に不滅なのだ。

数年前の冬の終わり頃。仕事で能楽堂を訪れ、この杜若像を見つけた。

周囲にはまだ残雪が散在していたが、なぜか嬉しくなり、写真をバシャバシャと撮った。

そして、いざ帰ろうとした時だ。

ちょっと高くなっている広場から、直接脇の細い道に出ようと、小さな斜面を下ろうとした…その時。

凍って固くなったままの雪の上に足を載せた瞬間、仰向けに体ごとひっくり返ってしまった。

午後の時間だったが、気温は低く残雪は緩んでいなかった。

雪か芝かに後頭部を強く打った。

視界が真っ暗に?なり、一瞬何が起きたのか分からない。

まずいッと、ただそれだけ思った。

朦朧としたまま、ゆっくりと立ち上がるが、数少ない脳ミソがすべて前方へと移動したような気がして不気味だ。

思わず、自分の名前を口にした。住所も血液型も口にしていた。

好きな食べ物はと自問し、ハタハタと油揚げと、これはアタマの中だけで答えた。

立山周辺での単独スキーツアーの時の事故を思い出す。

岩と岩の窪みの上に積もっていた雪を踏み抜き、尾テイ骨を激しく打って動けなくなったことがあった。ケツとアタマの違いを真面目に考えてしまう。

その夜の家人の警告もあり、翌朝、脳神経外科へ向かったのは言うまでもない。

輪切りにされたアタマの写真を見せられたが、特に異常は見当たりませんねえと、先生は面倒臭そうに答えた。

ボクもそれ以上は考えないことにした。そして、今に至っている。

普通に生活できているのだから、何ともなかったのだろう。

久しぶりに杜若像と再会し、思い出してしまった話だ……

小浜の国宝めぐり

 

福井県の小浜と言えば、もうほとんど京都府に近い。金沢方面からだと、敦賀から天橋立へ行く道すがらの街といったイメージも強かったりする。これはボクだけの感覚かもしれないが、実際にクルマで走ってみた印象としては、それほど特徴を感じなかった場所なのである。

かなり古い話になるが、かつて兵庫県の城崎文芸館に仕事で出かけた際に、この道を走った。季節も同じ春。ただあの時は、桜がもう散り始めた頃だった。仕事で城崎町へと出かけたが、“裏の本命”は、城崎のさらに先にあった『植村直己冒険館』で、小糠雨の中を行くセンチメンタルな旅であった。

今回小浜へ行こうと思ったきっかけは、もともと天橋立行きプランが先にあり、しかし、連休の雑踏で帰り道に落とし穴が待っているのでは…と考えたからだ。その結果、一歩半ほど手前の小浜あたりではどうだろうか?という安直な結論に至り、俄かに学習を始めたのである。学習の成果はすぐに出てきた。

小浜の市街に入ることなく、いくつかの古刹をめぐることが出来る。それらには国宝の建築物や重文の仏像などが残されている…、期待が持てそうだった。しかし、不安にさせたのは、この辺りがボクの愛読書であった司馬遼太郎の『街道をゆく』には紹介されていないことだった。

敦賀から京都大原へと抜ける「朽木(くつぎ)街道」(今風に言うと「鯖街道」)は、信長が京まで敗走(かなり必死に)した道として、最初の単行本で紹介されたが、小浜の方には司馬遼太郎も足を運ばなかった?みたいだ。そのせいもあって、朽木街道には四、五回行ったが、若狭の海沿いにはあまり出かけていない。

六時半に家を出ようと思っていたのに、結局七時ちょっと前に出発。大型連休で異常な混み具合の北陸道を、南へと進んだ。敦賀インターで下りてからは、国道27号線をひたすら迷うことなく走り続ける。のどかではあるが、何となくかつて朽木街道で感じていたのどかさとは違う。朽木の方が谷間(あい)といった雰囲気があって、自然の奥深さや歴史の匂いが強かったなと勝手に解釈している。

やはり、司馬遼太郎が足を運ぶ趣としては、朽木街道の方が深かったのだ。

敦賀インターから一時間も走らないうちに、最初の目的地である明通寺への分岐に近付いてきた。ほどなく、27号線を左に入る。ナビのマップにも明通寺は記されている。道は一本の川と水田の中を進む。視界が広がり、奥に小高い山。その隙間を縫っていくのだろうと予測できる。

風景が、ぐっと期待感を高め始めた。そして、しばらく走ると明通寺の駐車場だった。一気に山里深く入ったなあと実感させる木立とせせらぎがある。

クルマを出て思い切り背伸びをする。空気は少し冷たいが、青空が気持ちいい。車中で温められた体が一気に引き締まる感じだ。

せせらぎの橋を渡り、しばらく歩くと、急な石段を控えた山門を見上げる。なかなかではないかと、ますます期待感が高まる。駐車場にはすでに四、五台のクルマがいて、そのこともちょっとした驚きであった。ほとんど来る人はいないであろうなあと、失礼ながら軽視していた自分を戒める。

十時頃であったろうか。用を足してから、ゆっくりと石段を登った。山門で拝観料を払うと、奥の本堂で説明があると言われた。

ここから本堂へ向けてのアプローチもいい。寺への興味がますます高まっていく。

明通寺自体は、806年に坂上田村麻呂によって創建されたと言われるが、本堂は1265年に落成されたらしい。規模は際立って大きくはないが、檜皮葺きの屋根の勾配が美しく、どっしりと落ち着いた感じがいい。

堂の中に入ると、住職さんだろうか、親しみやすい語り口で寺の話を聞かせてくれた。薬師如来さんは重要文化財。平安末期から鎌倉初期の作と言う。しばらくの時間だが、対面していると落ち着いてくる。

奥の三重塔も今開放しているとのことで、見せていただいた。ここも国宝だ。1270年に上棟されたとある。

明治期に屋根が瓦葺きになったらしいが、1957年(昭和32)に檜皮葺に戻されたという。いい話だ。数年前に能登の總持寺の全盛期を再現するジオラマを製作した際、恥ずかしながら屋根を瓦で作ろうとしたことを思い出した。監修の先生に言われて初めて気が付いたが、檜皮葺の価値観みたいなものをそのとき初めて知った。

外に出て、あらためて本堂と三重塔を見たが、美しい勾配をもつ檜皮葺の屋根がいい。

建物自体も新緑の中に古風な佇まいが調和している。驚いたのは、いつの間にと思うほどの人の数だ。あらためてこの寺の存在感を知った気がした。

二十代の頃、奈良の山中の寺などに立ち寄った旅のことを思い出す。これほど人の多い時季に行っていたわけではなかったが、それでも必ず何人かの人と擦れ違ったりして、こういう類には日本人は必ず感応する何かを持っているのだと思ったりした。

本堂前からの眺めは、正面の新緑の小高い山並みが美しく、しばらく眺めていたくなる。明通寺の山号は「棡山(ゆずりさん)」というが、その棡という木が境内に植えられていた。

明通寺を見て、このまま小浜を去るわけにはいかないなあと思い始めた。小浜市が“国宝めぐり”と謳っている意味も理解できてきた。とりあえずと、多田寺という寺へ向かう。明通寺からも近く山間の集落の中にあった。ちょっと道に迷ったが、すぐにたどり着く。

真言宗の寺院で、創建は749年とある。最盛期には広大な敷地を有していたみたいだが、現在は静かに質素に佇んでいる。ここでも山門で拝観料を払い、人の良さそうな老人から中で説明がある旨を伝えられる。

現在の本堂は、1807年に再建されたものという。小さな建物ではあるが、中にいらっしゃる平安時代の作と言われる薬師如来さんは立像。2メートル近い一木造りで、いかにも見守ってくださっているという印象だ。もちろん重文である。その他にも、木造十一面観音立像や、木造菩薩立像も重文の指定を受けている。ここでも数組の拝観者と一緒になった。ますます“小浜の真実”みたいなものに憑(と)りつかれていく…?

空が少しずつ雲に覆われ始めていた。青空の下の爽快だった空気が、徐々に湿り気を帯びて気懸かり的不安要素になっていく。だが、やはり小浜をもっと見たいと思った。

若狭姫神社に着いたのは、多田寺を出てすぐだ。とにかくそれぞれが大した距離を隔てていない。さらに山奥に若狭彦神社という上社があり、その下社である。

若狭彦神社の創建は714年。若狭姫神社の方は、721年というから文句なしに古い。いったい小浜市はどうなってるんだ?と、鳥居の前に立って唖然としてしまう。一礼して境内に入ると、これまた圧倒的だ。

正面に本殿が美しく、静かに佇む。右手には舞台。大木と緑に包まれた境内は、気持ちを正しくさせるに十分な空気で満ちている。同時に入った三人組の同世代グループが、数歩進み佇むたびに感嘆の声を上げている。めずらしいと思うのだが、若狭彦神社は畳や絨毯などの神ともされているのだそうだ。

一方、普通と言えば不謹慎ながら、若狭姫神社は、安産育児の神だという。森閑とする広い境内の真ん中に立つと、いい緊張感が強いられ、こういった場所へ来たことの価値のようなものを感じたりする。そのような思いを、久しぶりに抱いた。

最後のおまけは国分寺もう小さな雨がぽつりぽつりと落ち始めていた。国道脇にすぐ見つけ、それなりに外観だけを見て写真を撮った。

それにしても、明通寺や若狭姫神社などだけも小浜へ足を運んだ甲斐があったなと、ハゲしく思う。我が家からクルマで約三時間。帰りは27号線の渋滞に捕まったが、大した距離(時間)ではない。いろいろと行きたい場所はまだまだあるのだが、小浜にもまだ宿題を残してきたといったところだ。深い歴史観や、寺社の佇まい、山里の風景などが目に焼き付いている。そして、もうひとつ。暗くなりかけた帰り道、小浜の帰りらしく口の中がサバ臭かったのだ……

湯涌江戸村「ケムダシ」談

 金沢の山里・二俣で、19世紀の初めに建てられたという旧S田家屋敷。

 今でも二俣で続けられている大らかな紙漉きの、その源を示すお屋敷だ。

 まだ公開されていないが、かつて旧江戸村時代に隅々まで見せていただいていて、今回化粧直しをしたその外観に驚いた。

 さらに驚いたのは、屋根の正面に作られているソレ(写真)。

 曲線的な、というより、カンペキに曲線形の優雅な美しさに見惚れる…

 新築の頃にはこんな風だったのかと思うと、200年近く前の二俣辺りの空気が欲しくなる。

 で、村長のT屋先生に「アレは、何て言うんですか?」とお尋ねした。

 アレとは、つまりソレのことである。

 すると先生が、「ケムダシだよ…」と言われる。

 「それって、煙を出すという意味の…?」 「そう…」。

 はっきり言って、あまりにも安直な答えだったので、こっちは半信半疑気味。

 このまま引き下がってはいけないのだと思い、もう一度お聞きした。

  「あそこから煙を出すから、煙出し(ケムダシ)なんだよ…」

 先生は何でもないような顔で、何回同じことを聞くのだと言わんばかりに答えられた。

 そう言われれば、何でもないことなのだ。

 煙を出すから「ケムダシ」で別に悪いわけではない。

 文句があるなら、表へ出ろ! と言われる前に、すでに表にいる。

 そんなわけで、世のモノゴトは至って簡単な仕組みで出来ているのである…ということを、あらためて痛感させられた、春の晴れたある日の、午後のやや遅い時間の、ほんのひと時の出来事であったのだ。

私的エネルギーが希薄になってきた

毎年恒例にしてきた、妙高・笹ヶ峰エリアでのスキーハイク。

今年はどうやら行けそうにないことがはっきりしてきた。

かなり以前から、何となくそんな気配が漂い始め、自分自身がすでにあきらめムードに入っていたと言っていい。

唐突だが、こういう日々のことを、30年以上前から“下品な日々”と呼んできた。

そして、今は“かなり”が付くくらいの“下品な日々”であって、自分史上、最悪に近い下品さかもしれないと思っている。

では、“上品な日々”とはどういう日々を言うかなのだが、この場合簡単に言うと、自分の楽しみをしっかり確保している日々ということになる。

つまり、どんなに仕事が忙しかろうが、自分のための時間をしっかりと持って、それなりに有意義に、楽しく過ごしているという日々が“上品な日々”なのである。

そして、その源を、「私的エネルギー」と呼んできた。

対語である公的エネルギーが、仕事などのためのエネルギーだとすれば、私的エネルギーは趣味などのためのエネルギーであって、その両者のバランスが崩れては、ヒトは正しく生きていけないのだとハゲしく思ってきたのだ。

それも、かなり入れ込んだ私的エネルギーがボクは好きだった。

しかし、世の中にはこの私的エネルギーの意味を理解してくれる人は多くない。

この四月から、住んでいる小さな地区の役員になってしまったのだが、初めての会合で、これからの会合には欠席しないようにと、しつこく要請された。

「N居さんは、本まで書いている人だから、時間はたっぷりあるんでしょ?」などと言われ、当然ながらカチン!ときた。

文章を書いているということ=時間のある人と解釈できるアタマの構造を疑った。

ボクには私的エネルギーによって日々活動してきたことがたくさんあり、そのことをイチイチ説明したりすることは難しいのだが、かと言って、公的エネルギーもふんだんに使っている。

だから、当然のように時間は乏しいのだ。

物理的?に言えば、カラダはひとつしかないから一ヶ所にしか居られないが、アタマ(の中身)は、それなりにあちらこちらへと行ける。

だから、いろいろなことにアタマを突っ込ませて、何となくいろいろな場で、ああだこうだと言っていられたりもする。

しかし、そんなことで、N居さんには時間のゆとりがあるのね…などと思われては困る。

ボクのこの忙しさ?を、本当に理解しているのはほんのわずかな人たちだけだ。

そんなわけで、好きな山へ出かけ、雪の上にいっぱい何やら広げて、ビールをあおりながらボーッとしていたって、それはそれなりに忙しい時間なのであり、それはそれなりに意味のある、つまり“上品な日々”のための時間なのだということを強調し、今回の話を締めることにする…

湯涌江戸村にいた

湯涌江戸村。もう10年以上前だったか…

現在の場所への移転計画が進められている中、その計画書の中の30ページほどを受け持った。

仰々しい仕組みの仕事ではあったが、なかなか刺激的な仕事でもあった。

その中でも、フィールドワークは特に刺激が濃く、印象は深い。

眩しすぎるほどの新緑に包まれた白川や、荘川などの保存施設を見学に行った時などは、

得意の想像力で、時空の狭間にいるような錯覚に陥った。

アタマの中での会話は、なぜか東北の言葉で進められていて、囲炉裏の煙の向こうには、おしんがいたような気がする。

閉鎖された旧の江戸村では、明かりのない屋敷の中で震え上がるような霊感や、不謹慎ながら、盗人気分なども味わったりした。

解体が始まると、ある大きな屋敷の中の足場に上らせていただいた。

そして、そこで見た内側構造の素朴さや大胆さ、さらに、巧みさや力強さに胸が躍った。

解体中であったから、グロテスクさがより一層目に焼きついた。

数えきれないほどの季節を経て染み付いた、材料そのものの匂いも刺激的だった。

風雪に耐え抜き、そこに生活する人たちを代々守ってきた、昔の屋敷の逞しさみたいなものも感じた。

つい先日の、春らしく晴れたある日。

美しく装いを変えていく江戸村の屋敷たちを見ていた。

あの時見ていた荒々しい解体の光景は、すぐには甦ってこないが、しばらくすると、自分の中で鮮明に再生されはじめた。

今はみな、きれいになり過ぎて? 落ち着き払い、ちょっと澄ました感じさえする。

しかし、それはそれなりに、またいい風景でもある。

外観よりも中に入って見る生活空間が、より印象深いからだ。

民衆の歴史は、やはり生活空間にあるのだ。と、かなり過分に偉ぶっている。

屋敷から目を離すと、高台からの眺望も文句なしの清く正しい山里風景。

ここは能登ではないから、里山とは呼ばない。と、勝手にまた偉ぶる。

そして、この眺望、温泉街とは逆方向なのがいいのだろうと、勝手に納得する。

そして、なぜかのんびりとし、しばらく静かに眺めている。

 

そう言えば、お会いした江戸村村長のT屋先生とも、かなりの久しぶり的再会であった。

夢二館館長のO田先生といい、江戸村村長のT屋先生といい、お付き合いのある先生方が湯涌で頑張っていらっしゃる。

あと一人、Aという“自然の民”系プランナーの友人もいるのだが、彼の存在もこれから湯涌では必要になってくるだろう。

が、しかし、今湯涌は得体の知れない、妙な、つまりその、何と言うか軽薄な風に吹かれている? と聞く。

偉そうなことは言えないが、こののどかさはそれに耐えられるのだろうか?

いや、耐えなくてもいいのだろうか?

太陽が西に傾き、斜面から伸びたゼンマイに鋭く陽光が当たっている。風も冷たくなってきた。

これから始まりそうなことに、少しいい気分になったりしながら、一緒に行った二人と帰路についたのであった……

能登黒島・旧嘉門家跡

 このエッセイを読んでいただいたという、北海道の方からメールが来た。

 お名前が嘉門さんと言って、詳しいことは全く分からないが、亡き祖父が旧門前黒島の出らしいとのことだった。

 石川からは鰊漁が盛んだった頃、多くの人たちが北海道に渡っている。

 実を言うと、ボクの祖父も北海道の海へ出漁し、それなりの規模の漁業をやっていた。

 門前黒島の嘉門家と言えば、ブリヂストン美術館の館長されていた嘉門安雄氏が有名だ。

 嘉門家に限らず、黒島からは優秀な人たちが多く輩出され、かつての天領、そして北前船で栄えた地域性を物語っている。

 今ある旧嘉門家(平成11年に町に寄付)の跡は、能登地震の後に火災で焼失したのを受け、トイレの付いたきれいな板塀で被われた駐車場になっている。

 かつては、一段高くなったところに蔵が並び、壮観であったと言われる。

 角海家の展示関係の仕事に携わっていた頃、旧嘉門家の一画に残された小さな庵のような建物の一室で、地元の人たちに昔の思い出などを語ってもらった。

 久しぶりに嘉門家跡に足を踏み入れ、石段を登ってみると、春の日差しを受けて海が柔らかく光っていた。

 通りかかった地元の人からも話を聞いたが、やはり黒島の文化の趣は他と異なり、今現在が何かもどかしいような思いにさせる。

 自分など考えても仕方ないことなのだが、やはりどこか寂しいのだ……

ああ、危険運転なのである

 前号「信号無視…」の続編みたいな話。

 カンペキに“携帯メールをしながらの運転”だと分かる、前のクルマ。

 かなり不安定な走行をしている。

 こっちも運転しながら、もちろん携帯デンワで警察へ通報してやろうかと考えるが、その場合の自分の行為にも嫌疑がかけられる。

 なにしろ、当方(なぜか、急に謙虚になる)、ついこの前、信号無視(実際は軽視)で捕まり、長年無事故無違反だったゴールド免許に泥を塗ったばかりだ。

 メールもそうだが、運転中の危険行為としては他にも数多くある。

 中でも万人が認めるのは、“コンビニおにぎりの包装を取りながら運転”だろう。

 あれは極めて危険であり、携帯メールに十分匹敵する。面倒でもあり、海苔が散乱するというおまけまで付く。

 このことについては今までいろいろと書いてきたし、詳しく書くと、また原稿用紙30枚ほどになりそうなので省略するが、それでも強いて言えば、せめて「運転中の包装紙めくりはやめましょう」ぐらいの表示が、包装紙の表面あたりにあってもいいかも知れない。

 変わったところでは、運転中の“シンガー気取り歌唱”も危険な場合がある。

 かつて、金沢市内のあるT字路で信号が赤になり停車した瞬間、若奥さま風の上品そうな女性が運転する、白いクルマがボクの横をすーっと走り抜けていった。

 おやっと思ったら、後ろからサイレンが聞こえ、白バイが無情にも?その白いクルマを止めた。

 その時は全くカンペキに赤信号で、あの若奥さま風女性は、カンペキに信号無視をしたのだ。軽視でもないし、蔑視でもないだろう。

 横を通り過ぎた時、あの若奥さま風女性が、カンペキに歌を歌っていたのをボクは見た。

 それも、まるで松田聖子にでもなり切っているかのように顔を少し斜めに傾け、口の開け方もそれらしく歌っていたのを確実に見た。

 やはり、ああいうのも危険なのだろう。

 まだまだたくさんありそうな危険運転の話なのだ…

信号無視ではなく、軽視だった

 いい歳をして、信号無視で捕まった。

 ゆっくり走っているダンプカーの後方にいて、信号が黄色になると思ったところで加速して付いていったのだが、すぐそこに警察官が立っていた。

 そしてその彼は、信号が赤なのに交差点へ侵入してきたと判断した。

 ゴールドの免許証を持つ清く正しいドライバーで通してきたが、一度に前科者、世の中のあぶれ者となってしまった。

 たしかに彼の判断は正しかったのかも知れない。しかし、彼や彼の同僚たちは、全くこちらの事情を聴き取ろうとせず、一刀両断に罪人にしていく。

 「信号無視!」

 どこからか大きな声がした。

 待ってくれ。こっちは信号無視なんかしていない。

 途中まではっきりと信号は見ていて、最後も見ようとしたが、ダンプのすぐ後ろだったので見にくかった。無視なんてとんでもない。

 もちろん、そんな言い分は聞いてもらえるとも思っていない。

 せいぜいで、仕事の約束時間を10分ほど過ぎていたという状況に同情だけはしてくれた。

 「最近、死亡事故がとても増えておりまして、取り締まりも厳しくなってるんです」と、若い真面目そうな警官が言う。

 しかし、同情はあくまでも同情。罰金が二割引きとかポイントが三倍付くとかではない。

 若い警官の同情に慰められているわけにもいかず、諸々の手続きを済ませると、当然だがすぐにその場を離れた。

 激しく自虐的になりつつ運転に戻ると、不意にあることがアタマに浮かぶ。

 それは、かつてコント・レオナルドという、文字どおりの名コント・コンビがあって、彼らのネタに「信号無視」を題材にしたものがあったということだった。

 このコンビは、今は亡きレオナルド熊と、現在役者として渋い脇役をこなす石倉三郎との絶妙なやりとりが人気を博していた。

 ボクが好きだったのは、おまわりと運転手のやりとりという定番的なネタで、その中に信号無視した運転手(熊)と警官(石倉)とが押し問答するシーンがあった。

 「今、信号無視したでしょ?」

 「なにィ? 俺は信号無視なんかしてないよ」

 「だって、今、信号無視したじゃないか」

 「俺は信号無視はしてない。信号はちゃんと見ていた」

 「だったら、余計悪いじゃないか」

 このようなやりとりが続くのだが、レオナルド・熊のとぼけた演技が堪らなく笑えて素晴らしかったのだ。

 心が少し和らいだ。それから、ボクはしみじみと今回の不祥事について考え始めた。

 レオナルド・熊が演じた運転手とは違うが、自分も信号無視はしていなかった。

 だが、ちょっと甘く見ていたのかも知れない。

 強いて言えば、信号無視ではなく、信号軽視だったのだ。

 信号のやつ、もう少し黄色で待ってくれているだろうと勝手に解釈し、その分気持ちを大きくしていたのかも知れない。

 ニンゲン、どこでどうなるか分からない。自分は特別無茶な運転をするドライバーではないし、それどころか、どちらかと言えばおとなしい方に位置付けられると思ってきた。

 しかし、これからは初心に戻り、正しく“更生の道”を歩もうと思う。

 社会のルールというやつは、そんなに甘くはないのだ……

日本に京都があって

 久しぶりの京都。

 いつ以来だろうかと考えてみたら、去年の秋の終わりに醍醐寺へ来ていたから、大したご無沙汰でもないことに気付く。

 天気は快晴。だが日陰では寒い。前日まで春から初夏みたいな陽気で緩んでいた体が、久しぶりの冷気に引き締まる。

 目的は、京都駅前のキャンパスクラブで開催される日本サイン学会の「デザインフォーラム」。

 サインデザインを学問的に考える会で、ボクは会員ではないが、いろいろと関係している人たちがいて、もちろん仕事の上でも大事な会なので、時折参加している。

 京都で開かれるフォーラムには、これが二度目の参加だ。今回のテーマは、「古都から考える日本の景観づくり」。

 京都と金沢と奈良という、三つの“古都”からそれぞれの取り組みの発表があった。ちょっと金沢を古都と呼んでいいのかと後ろめたさもあったが、考え方の根本は一緒だろう。

 行政の担当者や大学教授、そして業界の発表はいつもどおりだったが、京都のというより、日本の代表的観光名所・先斗町の地元からの発表は興味深かった。

 特にお店のサインを整理しなくても、十分におつりがくるくらい優れた風景をもっているのだが、京都市が景観対策に力を入れ始めて、その流れに乗ったといった具合だ。

 あの狭い道にはみ出すようにして、かなり乱立状態にあったお店のサインが、行政からの指導の下で地元によって整理されたという、活動としては理想的なパターンの報告だった。

 大袈裟だが、世の中の不思議な仕組みが、日本一の歴史都市の一画で具現化されている。

 古い街ほど、新しい。古くなったものも、かつては新しかったということを、現代が証明している。

 先斗町の話を聞いていると、自分たちの存在が文化そのものだと自負している人たちは強いのだと感じてくる。

 街を美しくしようという作業を、さり気なくやってのけている。

 東京理科大の先生が講演したテーマの「CIVIC PRIDE(シビック・プライド)」という概念に合致している。

 実にカッコいい。要は未来に引き継いでいくために今を美しくしておこうということなのだろう。

 京都の至る所で『日本に京都があって良かった』というコピーの入ったポスターを目にした。

 明治維新で日本は別の国に生まれ変わったが、首都を京都へ戻さなかったことは結果オーライ的に良かったのかもしれない。

 京都の1000年以上に及ぶ歴史文化がそのことによって守られたのだと思う。

 京都が東京のようになっていたらと想像すると、背筋が寒くなる。やはり、日本に京都があって本当に良かったのだ。

 ところで、金沢はどうなんだろう…?

 ボクはたまたま金沢市が景観対策の部署を立ち上げた時から、三年間ほど駆り出されて関係する仕事に参画した。

 その時に感じたのは、景観という言葉への妙な“よそよそしさ”で、景観には、“いい”とか“悪い”という形容詞しか付かないような気がした。

 ボクの身近にあったのは風景という言葉で、風景には“切ない”や“寂しい”や、“愉しい”や“爽やかな”などといった形容詞が付く……。

 だから、根本的にはあまり力が入らなかったということだ。

 その反対にとでも言おうか、ボクは広告業界のニンゲンのくせに、自分の業界を批判するような論文を書いて、賞までいただいたが、その時審査委員長から、勇気を讃えられた?ような記憶がある。

 それはどうでもいい話だが、とにかくそういうことで夕方までフォーラムは続き、夜は夜で四条烏丸あたりの居酒屋で飲み一日は終わった。

 烏丸のホテルまで歩く帰り道は、何となく寒さも和らいだ気がしたが、飲んでいたせいだろう。

 ホテルのカフェでコーヒーを大きいサイズで頼み、ボーっとしてから、部屋に入ったのは11時頃。まあ早い時間だ。

 京都に、特に京都のこの辺りに何となく馴れた感じでいられるのは、長女が四条に住んでいたからだ。

 四条烏丸まで歩いて五分という環境に住んでいた長女は贅沢をしていたと思うが、長女もバイト代を部屋代にあてたりして、自分なりに頑張っていた。

 今は、桂に次女がいて、京都との縁は不思議と長く続いている。

 快晴の翌朝は、ちょっと早起きして京都駅へと向かった。

 出張・京都は、小さな寺ひとつ訪れることもなく帰路に、というわけだ。

 せめて春の京都の日差しを浴びながら、京都らしい名前の入ったバスターミナルの表示でも見ておこうと、駅前の日陰から日向へと足を伸ばす。

 日向はさすがに暖かい。特にどうということもなく、時計を見る。

 桜を見に来れるかは分からないが、どっちにしても、また来ることになるだろうと改札へと向かった……

室生犀星の金沢的世界

 ここ最近、室生犀星の初期小説を読み返したくてウズウズしている。

 ヒトには時々何かを思い立ったり、無性に何かが恋しくなったりする時がある。

 昔買って読んだ本たちは、当然?どこかへ消えた。

 今どきの本屋さんには、そういったかつての文学モノは置いてない。

 誰も買わない(読まない)から仕方がない。

 ボクは大学時代に室生犀星を読み尽くしていた。

 そのことは多分、非常に稀なケースであり、当時周囲にはそんな輩はいなかった。

 ただ、ボクとしては特に犀星だけを読んでいたわけではなく、その他多くの純文学モノも読んでいたので、自分自身を特異な存在とは思っていなかっただけである。

 ましてや、犀星は金沢出身であった。しかも、金沢そのものを描写した作家としては最も美しい作品を書いているとボクは思ってきた。

 金沢の三文豪では、泉鏡花の人気が圧倒的に高い。

 金沢市が鏡花にだけ文学賞の名を付けているのをみても、そのことが分かる。

 仕事柄的視点から、文学館としての要素をみても、鏡花作品は坂東玉三郎が演じたとかという付加価値を数多く生んでいて、その衣装やシナリオやスチールや映像など、見るものを楽しませるモノが豊富だ。

 あまり持論をぶつと怒られそうだから控えめに書くが、そういう意味では文学館という価値は微妙に短絡的でもある。

 地元と直結しないとか、本質とは違うストーリーがあったりもする……

 犀星について言いたいのは、金沢に生まれ、金沢を描いた詩人・作家としての土着性(言葉は不適かな)が最も高いと感じることだ。

 言い換えれば、最も金沢をふるさととして愛してきた金沢の作家と思えるのだ。

 犀星が詩人から小説家としてデビューした初期の作品、『幼年時代』と『性に目覚める頃』の二作品は、金沢の人たちや金沢が好きな人たちにもっと知ってほしいと思う。

 極端に言えば、そうではない人たちにはお薦めもしない。評価軸が異なるからだ。

 例えば、『性に目覚める頃』の冒頭から綴られた犀川の描写は、金沢の日常の風景を描いた文章としては絶品である。

 多くが認めるところであり、あの文章を読んで、ボクは金沢が好きになったと言っても過言ではない。

 さらに、犀星を好きにさせたのもこれらの作品だ。

 金沢の風景(心象も季節感なども含めて)の繊細さが、切ないくらいにやさしく迫ってきた。

 さらに犀星の生い立ちなどを知っていれば、あの美しい表現を犀星がどういう心情で綴ったのかも想像できる。

 文壇とか中央の評価などという視点は、地元金沢の視点と違っていていいのだと思う。

 自分たちのまちを、美しく、懐かしく、切なく描いた、表現した作家がいたということが財産なのだ。

 そんな意味からは、金沢を視覚的(映像的)に再現するいい素材でもあると思う。

 最近、金沢の話を題材にした武家の映画が作られているが、大正時代の金沢の街を描いた犀星作品の映像化も大いに期待できる。

 文学というのは、根本的に人懐っこいものではない。

 絵画などの美術や工芸などは、パッと見ていいなあと言えるが、文学は読まなければならない。

 ただ、読み込めば、そこに綴られている文章に深い感動や共感を得ることが出来る。

 しかし、金沢の多くの人たちにしても、鏡花も犀星もあまり読んではいないだろう。

 秋声になると申し訳ないが、存在を知っているかの方が問題になったりする。

 先にも書いたとおり、たまたま鏡花はよく知られているように見えるが、作品自体を読んでいるかというと決してそうではないだろうし、あの文体はもう現代人にはかなり厳しい気もする。

 そんな視点からも、犀星のシンプルな表現は親しみやすい。

 金沢にはプライドもあり、それが鏡花的価値観の方がカッコいいという評価に繋がっているのも理解している。

 しかし、そういう高度な視点は置いておき、金沢の人たちや金沢が好きな人たちには、是非犀星の金沢的世界を感じてほしいと思う。

 ところで今、読売新聞が犀星の名を冠した文学賞を実施している。

 ボクは犀星の文学賞には「ふるさと」というテーマが強くあってほしいと思う。

 ふるさとを愛しながら、ふるさとを離れる……

 そんな人たちの作品が対象となった賞が、犀星の文学賞には相応しい気がする。

 金沢的視点からは、犀星はやはり「ふるさと」だ。

 犀星が綴った金沢の世界は、やはり心に沁みてくる……

紀伊國屋に立ち寄る

 新宿へ行ったついでに、何年ぶりかで紀伊國屋に立ち寄った。

 前を通るとちょうど開店したばかりで、吸い込まれるように二階へのエスカレーターに乗っていた。

 思えば、大学に行くために東京生活を始めた二日目の午後、初めて新宿の街に出た。

 目指したのは紀伊國屋だった。なぜか、東京へ出たら紀伊國屋と、FUNKY(吉祥寺にあったジャズ喫茶)と、神宮球場へ行かねばならぬという強い使命感があり、まず手始めとして新宿へ乗り込み、紀伊國屋で本に埋もれてみようと思った。

 春を迎えたばかりの新宿駅東口は人が溢れ、雑然としていた。

 人が厚い層を成し、その人の波が一気に横断歩道を揺れながら流れるように渡って行く。

 その時あらためて、東京を感じた。

 何となく地理的には理解していた紀伊國屋に向けて緩い坂を上る。

 しかし、紀伊國屋を見つけたと同時に、ボクはその向かい側にあった洋服屋に入っていた。

 MITSUMINEだ。衝動的に、白と、からし色のボタンダウンのシャツ2枚を買った。

 店員さんとのスピーディな会話も楽しく、衝動買いの要因はそこにもあった。

 今はもうその店はないが、MITSUMINEとの関係はシンプルに続いている。

 金沢でも二年ほど前に店はなくなり、なかなか新しいモノを買う機会はなくなった。

 だが、20~30代の頃に買い、今も着ている洋服には、MITSUMINEのロゴの入ったモノがいくつかある。

 そのロゴを見るたびに、新宿のあの店を思い出すのだ。

 仕事の合間の紀伊國屋だから、久しぶりと言え時間はほんのわずかしかない。

 いきなり安部公房の『題未定』が目に飛び込んできたが、ぐっと堪える。

 結構分厚い未発表の短編集で、読んでみたいと思っていたものだ。

 だが、帰りの電車の中で読み切れるくらいの本にしようと、何となく決めていた。

 慌ただしく奥へ奥へと進んで行くと、最も奥に「ハルキ文庫」という小さなコーナーがあった。

 「ハルキ」は、角川春樹氏の「ハルキ」である。

 本の種類は少ないが、梶井基次郎の『檸檬(れもん)』がある。

 梶井は大正後期から昭和初めにかけていくつかの短編を残した人だ。31歳の若さで早死にしている。

 『檸檬』は、梶井の代名詞的短編で、ボクはこの本を金沢の友人に教えてもらった。

 その友人は、ボクに金沢出身の島田清次郎も教えてくれたのだが、梶井も島田も同じような時代に早死にしていた。

 しかし、ボクは圧倒的に梶井の方が好きになった。島田のことを知っている人なら、その理由はよく理解できるだろう。

 それに、もうひとつ大きな決め手があった。

 それは、顔だ。梶井のあの男臭い顔立ちが好きだったのだ。

 そんなことを思い出しながら、一冊しかなかったので、誰かに先を越されるとまずいと思い、すぐに『檸檬』を本棚から抜き取った。

 値段の安さに驚く。税別267円。

 こんな安い本を一冊だけ買って帰るのは申し訳ないと他に探すが、時間がなく気持ち的に慌ただしいだけだ。

 開店したばかりというのに、店の中にはそれなりの人がいた。

 客の一人が何だかマニアックな本の名前を言って、店員さんを困らせて?いる。

 しばらくすると、ようやく見つけたらしく、客の方へと店員が小走りに駆け寄っていった。

 若い店員の嬉しそうな顔が何とも言えない。書店員としての誇りなのだろう。さすがというべきか。

 学生時代はここで多くの本を買った。大学生協の書籍部でもかなり買ったが、今も変わらないあのブックカバーが決め手になっていたかも知れない。

 最近は、上京すると三省堂や丸善にも時間があれば立ち寄る。

 やはり本の種類が豊富で、何とも言えず愉しい。

 金沢では絶対に遭遇しなかったであろうと思われる本を手にした時の喜びは、普通ではない。

 そう言えば、かつて紀伊國屋で本を買った後は、近くにあったnewDUGというジャズ喫茶に寄って、その本を読んだりした。

 ボクは体育会系の文学青年で、いつも最低二冊以上は同時進行で読んでいた。

 外出時には必ずポケットに文庫本を入れていき、ジャズ喫茶にも必ず本を持ちこんだ。読む本は何でもよかった。

 活字中毒という言葉はあまり好きではないが、今でも手元に読む本があると安心できる。

 ところで、一応曲がりなりにも“著書をもつ者”としては、地元の書店の温もりも忘れていないのは当然だ。

 地元の作家を応援するのは、地元の書店として当たり前ですと、広告を出してくれたり、店頭の話題の本のコーナーに並べたりしてくれた書店のありがたさは身に染みている。

 全く置いてくれなかった近県出の書店(例えば、県庁近くの)もあったが、本をただ商品としてしか見ることができないというのも淋しい気がする。

 だんだんいい歳になってくると、書店の本棚を見ているのがつらくなってきた。

 それは、目が疲れるとか腰がだるくなるという意味ではない。

 新しい本ではないが、まだまだ読みたいものがいっぱい残っているのに、時間がどんどんなくなっていく焦りみたいなものだ。

 音楽、特にジャズも文学も、新しいものに興味もなく期待もしていない。

 ただそんな時に、ちょっといい書店に入って味わう感覚が、とても懐かしかったり、ホッとできたりするというのも、素直に受け入れられる事実なのだ……

トラック荷台なぞかけ三題

このトラックの荷台とかけて…

集合写真の中で、知り合いを見つけた時と解く。

そのココロは……

アッ、いた! いた(板)!………

このトラックの荷台……とかけて、

優秀な企画マン……と解く。

そのココロは、

切り口が、たくさんあります……

このトラックの荷台とかけて…

最近の鏡餅と解く。

そのココロは……

みかん(三管)がのっています………

(注)本来は橙なんで、「最近の」としたのだが……

雪国の車中で、星野道夫と植村直己を思う

 2000年3月のはじめ、ボクは新潟の直江津から長野に向かう快速列車の中にいた。

 前夜からの大雪のためダイヤは乱れていたが、ボクはそのことを幸運に思っていた。

 星野道夫の本が手元にあったからだ。遠いアラスカの話を、信州の雪原を眺めながら読む…… そんな状況を楽しみにしていた。

 列車が走り出してしばらくすると、雪の降り方が一段と激しさを増した。

 屋根のない吹雪のホームで、ヤッケの帽子に雪をのせて突っ立っている人たちがいた。

 雪をつけた裸木が重なる樹林地帯。

 そして視界はそれほど深くはないが、雪原は永遠のような広がりを感じさせている。

 晴れた日、ヒールフリーのスキーで駆けめぐったら愉しいだろうな…などと考える。

 雪の中の軌道を走って行く独特の静けさが懐かしかった。

 そしてボクは、その中で星野道夫の飾らない素顔が車窓の風景に溶け込んでいく心地よさを感じつつ、ゆっくりとその文章を追っていったのだ。

 その四年前、星野道夫はすでにこの世を去っていたが、それまでのボクは、星野道夫という人間を、知性派の、凄く特異な動物カメラマンとしてしか見ていなかったような気がする。

 たしかに、彼の写真から伝わってくるものには、アラスカという地域の特異性や、撮影に費やされた計画の特異性などが感じられ、自然を相手にした写真家としての、かなりしっかりとしたこだわりのようなものを好きになっていたと思う。

 しかし、ある日、本屋で何気なく手にした彼の一冊の文庫本によって、ボクにとっての星野道夫観はすっかり変えられてしまった。

 と言うよりも、それは一気に大きく膨らみ始め、気が付くと原形をとどめないくらいになっていたと言っていい。

 文章にして彼が伝えてきたものは、アラスカという遠く離れた土地の大自然の美しさや厳しさだけではなかった。

 そこにはアラスカそのものがあり、何よりも星野道夫そのものがあった。

 彼が一人の少年としてどのような感性をもち、どのような青春時代を生き、その後、日本はもちろんのこと、アラスカでどのような人間たちと出会って、そしてどれだけ満ち足りた日々を過ごしてきたか。

 そして、それらのことが星野道夫にとってどれだけ素晴らしいことだったか。

 写真家としての作品だけからは知る由もなかった多くのことを、文章の中の彼の言葉が教えてくれた。

 星野道夫の多くの本と出会ってから、植村直己のふるさと兵庫県日高町に出かけた時のことが、よく思い出されるようになった。

 あの時、胸に迫ってきた何かが、星野道夫の言葉の中からも同じように伝わってくるような気がした。

 星野道夫と植村直己は、静と動の両極にあったと思う。

 しかし、二人とも大きな意味で共通した動機をもっていた。

 安らげる、自分らしくいられる、そんな場所を求めていたのだ。

 生命の脆さも、互いに違った形で知っていた。

 北米の最高峰・マッキンリーのどこかに植村直己が眠っており、毎日のようにその山並みを眺めていた星野道夫は不思議な気持ちになったという。

 あの植村直己でさえ、脆い生命のもとに生きてきたのだ。

 自然を征服するのではない冒険。日本人らしいやさしさの中で培われた自然との接し方。

 そして、何よりもヒトとヒトとの関わり方、すべてのことが今は亡き二人の素顔から見えてきた。

 快速列車が、夕刻近くの長野駅に近付いていく。

 もう雪の世界はとっくに通り抜け、星野道夫の本も、カバンの中へと放り込んだ……

 ※2000年に書いた文章の一部に加筆。

“寿”のテーブルに座る

 全くもってカンペキに、どうでもいい話だ。

 実を言うと、ボクの正式な名前は「寿(ひさし)」と書く。

 世の中的には、かなりおめでたい場合に使われている漢字なのである。

 昔、寿司屋の寿だからと、「中居・す」さんと呼ばれたことがある。

 言った本人もかなり困窮していただろう。

 これがホントの「呼び捨て」だと、その時発作的に思った。

 ところで、宴席に出ると、よく「寿」のテーブルというのがある。

 しかし、これまでその名のテーブルには、一度も当たったことがなかった。

 それが、つい先日のことだ。

 苦節?五十数年、生まれて初めて、自分の名前を冠したテーブルに着くことになった。

 くじ引きみたいなことをさせられたわけではなく、事前に決められていたのだ。

 ひょっとすると、ボクの名前を見て、この人は是非「寿」のテーブルについてもらおうと考えたのだろうか。

 いや、そのようなことはありえない。

 そんなことを薄らぼんやりと考えながら、三回ほど名札の紙切れを確認した。

 そして、テーブルを見つけると、一応、さりげない顔をして椅子を引いた。

 座っている間も、テーブル上に無造作に置いた名札が、やたらと気になった。

 何度、目をやったことだろう。

 幸いにも、その上に何かがこぼされたりすることもなく、白い紙きれは、閉宴まで置かれたところにじっとしていたのだ。

 帰り際…、その名札をそっとポケットにしまったのは言うまでもない。

 その名札を家人に見せ、家人からバカにされたのも言うまでもない。

 ニンマリしながら飲み直したのも言うまでもなく、

 数日たった今、まだ我が家のテーブルの隅に置かれているのも、当然、言うまでもないのである……

石川さゆりを、また聴く

  

 昨年暮れ、能登を舞台に作られた歌のことを知る機会があり、突然CDをもらった。

 その中で、坂本冬美の『能登はいらんかいね』と、石川さゆりの『能登半島』がとても印象に残り、特に後者については、ググッと迫るものを感じて何度も聴き入ってしまった。

 ボクのことをよく知っている人たちは、ボクが幼少より洋楽に親しみ、中学生の頃からは、ジャズ的音楽にハゲしく共感するようになったと認識している。

 なのになぜ、今更演歌の話題を持ち出すのかと疑問を感じられるかも知れない。

 しかし、さらにボクのことをよく知っている人たちは、かつて片町の「YORK」というジャズ喫茶で、閉店後、秘かに『津軽海峡冬景色』なる名曲を、名器ALTECが発する大音響とともに合唱していた(と言っても、マスターと二人でだが)という事実も、このエッセイ集をとおして認識されているはずだ。

 つまり、『津軽海峡冬景色』のシリーズである、この『能登半島』にボクが強く共感することには、深いワケとか事情とかもあったわけだ。

 デューク・エリントンが言ったように、世の中には、いい音楽と悪い音楽の2種類があり、今話題にしているのはもちろん前者の類の話なのである。

 さらに先に言っておくと、歌のタイトルや内容が能登を舞台にしていることとは、あまり関係はない。

 夜明け間近 北の海は 波も荒く

 心細い旅の女 泣かせるよう

 ほつれ髪を 指に巻いて ためいきつき

 通り過ぎる 景色ばかり 見つめていた

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 ここにいると 旅の葉書 もらった時

 胸の奥で何か急に はじけたよう

 一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり

 熱い胸に とびこみたい 私だった

 十九なかばの 恋知らず 十九なかばで 恋を知り

 すべて すべて投げ出し 駈けつける

 夏から秋への 能登半島

 あなた あなたたずねて 行く旅は

 夏から秋への 能登半島

 『能登半島』の歌詞である。

 作詞は、われらが阿久悠。作曲は、三木たかし。詩も曲も、素晴らしくいい。トランペットのかなり定番的イントロから入っていくが、それも何ら問題ない。

 そして、もちろん若き石川さゆりの熱唱には、ほぼカンペキにやられてしまう。

 歌詞にもだぶるが、たぶん、二十歳頃のレコーディングだろう。

 夜明け間近の海を見ている主人公は、上野発の夜行列車で金沢に向かったのだろうか。このあたりは、阿久悠作、まるで『津軽海峡冬景色』と同じだ。

 東京発だとすれば、ボクも経験があるが、親不知あたりの海を見ているに違いない。

 『津軽海峡…』の場合は、下りた「青森駅は雪の中」だったが、『能登半島』の場合は、夏から秋にかけてで、日の出は早いのだ。

 主人公は、十九歳。それまで恋を知らなかったが、つい最近になって恋を知ったらしい。

 この静かにサビに入っていく歌い方には、若き石川さゆりの健気さを感じる。

 二十歳とは思えない気持ちの入れ様と、そして歌の巧さだ。

 余計なお世話だが、今どきの安売り軽薄ジャズとは違う。

 ここで聴き逃していけないのは、歌の背景に流れる一本のバイオリンの切ない響きだ。

 1コーラス目では、なかなかキャッチできないが、2コーラス目ではしっかりとキャッチできる。

 そのことに気が付くと、思わず編曲者の名前を探したりする。

 そして、若草恵という男だか女だか分からない名前に戸惑ってしまうが、まあどっちでもいいやと早めに歌の世界に戻るのがいい。

 石川さゆりは、「あなた、あなた訪ねてェ、行く旅は~」と熱唱に入っていく。

 ここの聴きどころは、“行く旅は”のあたりで、行くの“ゆ”から“く”へと流れていく表現(歌唱)は、尋常ではない。

 文字化するのはむずかしく、強いて書けば“ゆ・くゅう”、いや“ゆ・ぅ・く”か?

 とにかく、“く”の後半の音(声)は、上下の歯を軽く閉じ、口ではなく鼻の中で響いているような感じなのだ。

 石川さゆりの歌への思いと、歌の巧さとが見事に合体していき、歌のチカラというものを体感させる。

 後半の歌詞は、阿久悠の世界に、石川さゆり自身が融け込んでゆくような切なさがたまらない。

 「一夜だけの 旅の支度 すぐにつくり  熱い胸に 飛び込みたい 私だった…」

 「すべて すべて投げ出し 駈けつける  夏から 秋への 能登半島…」

 十九才の真っ直ぐな気持ちが、文字どおり真っ直ぐに伝わってきて、どうしていいか分からなくなり、つい周囲を見回したりする。

 そんなわけで、ボクは最近、出勤時クルマを出すとすぐにコレを三回連続して聴く。

 それから一気に、マイルスの60年代後半あたりに切り替えて、自分をクールダウンさせながら会社へと向かう。この切り替えがまた実に気持ちいい。

 少し偉そうなことを平気で言うが、演歌と言うよりも、世の中に流れていた歌を“流行歌”と呼んでいた時代の感覚は、実に日本人的な気がする。

 作家の五木さんや、伊集院さんもよく語っているが、この感覚をもう一度見つめ直す必要があるのではないかと思ったりする。

 切ないとか、寂しいとか、やるせないとか、そういったものをみんな忘れてしまったのだろうか。

 そこから、本当のやさしさとか思いやりとかが生まれてくることもあるのだということを、しっかりと知る必要がある。

 “情緒”というものなのだろう。

 そんな意味で、とりあえず、「石川さゆりを聴く」のである……

稲架木や、稲架のこと

 稲架木(はさぎ)というものに興味をもってしまった。

 先日、石川県立美術館で「村田省蔵展」を見てからだ。

 氏が絵の題材にされていて、その特徴的な姿が印象深く記憶に残った。

 稲架木は、文字どおり水田近くに並んで立つ。

 刈り入れの時、それらの幹に竹などが何段も組まれて、刈り取った稲を自然乾燥させる。

 ただ、その用途がない時は、当然普通の木として立っている。

 新潟の弥彦(やひこ)あたりに多く見られるらしい。

 機械化が進み、稲架もそのまま消滅していくみたいだが、氏の作品に描かれた、整然と並んで立つ稲架木の姿からは、自然と同化したヒトの知恵みたいなものを強く感じた。

 チカラの抜けた、まさに自然体の、自然的人工物。いや、人工的自然物と言うべきか?

 どちらでもいいが、刈取りが終わり静まり返った秋の夕暮れの風景や、雪が融けはじめた早春の頃の風景の中(もちろん絵の)にあると、稲架木たちはまるでオブジェのように、また生きもののように見える。

 絵を見ながら、自分がなぜ、こういうものに興味を抱くのだろうかという不思議な思いも重なった。

 そして、絵を見ているということを時々忘れ、旅をしているような想像が飛んだ。

 あれから数日が過ぎ、新しい年になって二度目の能登行きの日。

 もともと稲架木のようなものを能登でも見ていたような記憶があり、それらしき場所では目を凝らしてクルマを運転していた。

 そして、もう帰り道に入った旧門前から穴水へと抜ける道沿いで、それを見つけた。

 金沢を出たのが遅い時間だったせいもあり、仕事の合間では無理だろうと思っていたのだ。

 水田の奥の、杉並木に整然と横棒が組まれている姿はすぐに視認できた。

 道沿いと言っても、かなり奥。村田省蔵氏の絵にあった、弥彦の稲架木みたいなカッコよさはなかったが、一応稲架木形式である。

 もともとは防風のための杉並木だったのかも知れないが、低い部分の枝打ちをして稲架木として使っているのだろう。

 ところで、ボクの中にある稲架というのは、必要な時にちょっと太い木を立て、それに竹を這わしていくか、縄を結んでいくようなものだった。

 弥彦の稲架のように、木そのものが存在感を持っているものではなかった。

 考え方としては、非常に合理的なやり方であり、ごく自然な感じがする。

 能登の里山には稲架が年中建てられたままになっている風景が多く見られる。

 野菜などを干すためのものもあるみたいで、これらもなかなかの味わいを感じてしまう。

 風が吹こうが、雪が降ろうがといった感じで、田畑の道沿いに踏ん張り立っていたりする。

 別に能登に限ったものではないだろうが、里山系農村風景には欠かせない一品であり、文化的財産として大事に見つめてあげてもいいのではあるまいか?と、秘かに思っている。

 そんなわけで、突然こんなことを考えてしまうクセは今年も健在なのである……

雪のある、東京の思い出

東京に大雪が降って、銀座の街に雪ダルマの姿があった。

もう何年も前のニュース映像の中の記憶だ。

異様な光景ではあったが、何となく東京人の雪への思いを知った気がした。

そして、東京に降る雪も金沢に降る雪も同じはずだが、東京の雪の方がオシャレに見えたのはなぜだろうか、と考えていた。

もう35年ほども前だが、大学の卒業式が終わった夜のことだ。

当然のように、親友たちと飲んでいた。場所は中野。足もとから底冷えのする夜だった。

その数日前、東京に季節外れの大雪が降った。

ほとんどは融けてなくなっていたが、それでも所々に凍り付いたままの雪が残っていた。

かなり酔っ払った後、ボクたちは線路沿いに出ていた屋台でラーメンを食う。

酔っ払っていたのと寒かったのとで、そのラーメンは感動的にウマかった。

ボクたちはドンブリを持ったまま、ウロウロと歩き回ったり、何だか訳の分からない奇声を上げたりしながら、そのラーメンを食っていたのだった。

突然、そんなボクたちの横を轟音とともに中央線の電車が通り過ぎて行った。

まさに不意を突かれたといった感じで、そのときのボクたちの周囲にあったすべてのものが、一度に吹き飛ばされてしまったように感じた。

事実、その轟音によってボクたちのラーメンに対する感動はコッパ微塵にブチ壊され、冷たい風がボクたちの全身から温もりさえも奪い去っていったのだ。

ふっと訪れた白々しい静寂。ドンブリから上がっていた湯気さえも、虚しそうに冷気の中へと吸い込まれていく。

ああ、東京ともこれでお別れか……と、急にセンチメンタルな気分に襲われ、胸が痛くなってくる。

残されたラーメンの麺をすすろうとすると、カジかんだ手から割り箸が落ちた。

ふと見下ろすと、足元に小さな雪のかたまり。

東京の雪はすべてがアスファルトの上に積もっているのだなあと、その時何気なく思った。

東京では、雪融けが春を告げるものではないのだとも思った。

雪そのものも冬の風物詩ではなく、単なる冬の間の一時に訪れる珍客に過ぎないとも思った。

東京の雪は交通をマヒさせることはあっても、生活様式を変えてしまうようなものではない。

それが、あの銀座の雪ダルマに象徴されていたと思う。

当たり前だが、雪に埋もれた日々を送る人たちが持っている雪への思いと、東京の人たちが持っている雪への思いは違うのである。

そろそろ、こちらでは本格的に雪が積もり始める時節。そして、新年のあいさつにと東京の仕事先へ出向く頃でもある。

東京の冬は、やはり青空が似合う。東京で、雪は見たくない……

ネガティブな日々のことを「下品な日々」と呼んでいます。かと言ってポジティブだから「上品な日々」とは呼びません。「上品な日々」は特になくてもいいと思っています。ごく普通にいられたらよいのではないかと。 そんな風な思いがこのような雑文になって書庫の中に積み上げられています。少し立ち読みでもしていっていただけたら嬉しいです……        文と写真:中居ヒサシ