遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと


朝から大気が澄みわたったままの、完璧な秋の青空だった。

どこかのどかで、冷たさを感じさせない気持ちのよい風の流れもあった。

普通なら午後になると大気は霞みはじめるのだが、ひたすら澄んだままで、素朴に秋なのだ…と思わせる。

かつて砂丘だった内灘の高台から、はるか東方に聳える北アルプス北部の山並みがくっきりと見えていた。陽の当たり具合もちょうどよく、急峻で雪が付きにくい剣岳以外は、毛勝(けがち)三山も、立山連峰も、そして薬師岳も白く輝いていた。

一年に何度見ることができるだろうかという、素晴らしい光景だ。この季節ならではということもあり、クルマを止めて車窓から眺めている人もいる。ボクは仕事で内灘の役場へ向かっていたが、まだ時間があったので役場を通り過ぎ、近くの公園の展望台の階段を少しだけ登って“鑑賞”した。

生まれ育った内灘が、再来年1月1日で町制50周年を迎えるという。そう言えばと振り返ると、町になったのは小学一年の時で、その記念式典(元旦だった)の仰々しい舞台の上で剣舞を踊ったのを思い出した。ボクとN村君という同じ学年の男子二人だけの剣舞だった。実は、その時何が行われていたのか、小学一年生のボクは理解できていない。三年生ぐらいになって初めて知ったと思う。

歳も喰い、その内灘でボクは記念事業の仕事に関わろうとしている。「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」という話を本にし、図らずも、内灘という自分のふるさとを再認識することになった。だからというわけではないが、少し内灘についてやってやろうではないか…とも思い始めている。

その週末、さらにまたポカポカとした陽気の休日…

家の周囲に下品さ極まりなく広がっていた雑草を刈った。

もう生気も失っている乾いた雑草を刈りとり、以前に『今年いちばんのコスモスだった…』の話で紹介した多目的空地の一角に集め、夏に壊したオープンデッキの残材とともに火をつけた。

かつて、家の後ろがニセアカシヤの林だった頃にはよくやったが、久しぶりの焚火(たきび)だった。

 ……今から13年前、内灘に家を構え、しっかり者の姉さん女房と、生まれたばかりの息子の三人で幸せな暮らしを始めていた男が死んだ。玉谷長武(おさむ)という男だ。27歳という若さで、彼を死に追いやったのは胃ガンだった。

奥能登・門前町に生まれた彼は、明治大学で日本文学を専攻し、大手旅行代理店に就職した後、退職し金沢へ来た。縁あってボクのいる会社の子会社に入り、一緒に何度か仕事もした。

大学では石川啄木や太宰治に親しみ、本をよく読んだ。カラオケでは、テレサ・テンを歌った。時には、これ面白かったです、読んでみてください…と、『ユリイカ』などのマニアックな雑誌をボクの机の上に置いていった。風貌は若々しかったが、20代にして老成した雰囲気を持った彼は、その勢い?で多くの客をつかむ独特の力を潜在させていた。清々しい青年の顔と、人生を見つめるような老成した顔の両方を持ち合わせていた。もちろん、ボクにはいい“助監督”だった。

彼のそういった個性には、高校まで野球部にいたという一面も作用していた。少なくともボクはそう思っていた。ときどき出会うことのある、意外性に富んだニンゲンのいい見本だった。

大学の後輩であり、ボクが当時『ポレポレ通信』というお遊び冊子を出していたこともあって、彼はボクに関心を持ってくれた。文章はまだまだだったが、ボクは彼に大学時代に体験した、東京から門前までの徒歩旅行の話を書けと告げた。彼はなんだかんだと言いながら、結構嬉しそうだった。

かなり手直しをしてから彼の紀行文を載せた。タイトルは「東京~モンゼン・徒歩ホの旅」、ボクが付けた。この紀行文は「ポレポレ通信」創刊以来の“つづきもの”で、それは彼の人懐っこい図々しさが遺憾なく発揮されたものだった。彼はその顔に似合わない図々しさで、ページをジャックすると、「ナカイさんも、いつまでもこんなもんやってないで、ちゃんとしたもの書けばいいじゃないですか」と、ボクに言った。そのあとで、「いいもの書けるんだから」とも言った。いとしの「ポレポレ通信」を、“こんなもん”と言った。

表面的には元気だったが、入退院を繰り返すうち、彼の体はかなり決定的なところまで追い込められていた。今度入院したら(転移が見つかったら)、もうダメだと言われてます…。彼は笑いながらそう言った。夏が過ぎ、秋も過ぎて、一年が終わろうとしていた。

御用納めの大掃除の日。彼はなぜか出社していない二人の先輩の分も含めて、自分たちの部屋の片づけをしていた。昼飯に誘いに行くと、疲れているはずなのに元気な素振りを見せ、行きましょうと答えた。

その日、ボクはあることを彼に告げようと思っていた。傘をさし、冷たい雨の降る年の瀬の街へと出る。彼が広島風のお好み焼きが食べたいと言った。

柿木畠にその店はあった。彼は一人前を頼んだが、ほんのちょっとしか残っていない彼の胃には、それはあまりにも多過ぎた。彼はもう、わずかに舌の上で味を楽しむことしかできなかった。ボクが半分以上を食べ、彼は会社に戻ってからトイレへと行き、そこで食べたものを吐き出すのだ。

お好み焼き屋を出ると、同じ柿木畠の喫茶ヒッコリーで話を切り出した。体を重視して、彼をボクの部署に異動させようという話だった。しかし、話は中途半端になり、夕方また時間を作ることにした。

そして、六時半ごろだったろうか…、ボクたちは香林坊・日銀裏のYORKのカウンターにいた。

「年が明けたら、オレんとこへ来るか」 少しぶっきらぼうな言い方をした。もう話し尽くしていて、気怠さが漂っていた。彼は正面を向いたまま「入れていただけますか」と静かに答えた。そのやりとりだけで、すべてが解決したような思いがした。少しでも体が回復するなら、どんなことでもやろうと決めていた。

ボクたちはまた雨の降る街へと出ると、しばらく歩いてから、“じゃあ、年が明けたら…”“はい、よろしくお願いします”と言葉を交わし、別れた。

しかし、年が明けた新年の顔合わせの式に彼の姿はなかった。ボクたちが年末に交わした約束など誰も知らない。それにボクたちは一対一の会話ばかり繰り返してきたから、会えなくなると彼の近況を知ることもできない。今と違って携帯電話もそれほど身近な存在ではなかった。

結局、彼が正式に入院したという知らせは、二週間近くが過ぎたある日耳に届いた。すぐに病院へ会いに行ったが、彼は疲れたのかぐっすり休んでいると奥さんから言われた。話しているうちに、奥さんの目には涙が滲みはじめていた。そして、“悔しいです…”と、唇をかむと、それ以上言葉は出なくなった。

聞くと、前日、早明の対決となった大学ラグビーの決勝戦を、早稲田OBの友人と見ていて、明治の勝利に凄く喜んでいたとのことだった。そうか、まだそんな元気があるのかと、ボクは少し嬉しくなった。

それから何度か見舞いに行った。が、結局彼とは話せないままだった。二月に入り、また病院へと出かけた。ナースセンターで様子を聞くと、「お母さんがいらっしゃいますから、聞いてきます」とのことだった。容態の悪さが察知できた。ほどなく、お母さんが来られた。寝ているが、起こすから会ってやってくださいと言われた。そのあとで、調子がいいみたいなんですとも言われた。

しかし、その一言がボクを油断させた。調子がいいなら、明日また来ればいい。せっかく休んでいるんだから起こさないでやってほしい。調子がいいという言葉が、ボクにまた少し元気をくれた。「明日また来ますよ。彼にそう言っておいてください」ボクはそう言って病院をあとにした。

次の日、彼は息を引き取った……

彼の亡骸(なきがら)を追って、家まで急ぎ行ってみたが、家は真っ暗だった。薄く降り積もった霰(あられ)の上に、真新しいタイヤの跡がくっきりと残っていた。

翌日の通夜には、午後の早い時間から門前町剱地(つるぎじ)の大きな寺の本堂にいた。彼が家へ遊びに来たときに撮った写真を奥さんに渡した。彼から借りていた「宮沢賢治詩集」も渡そうとしたが、それはナカイさんが持っていてくださいと戻された。

葬儀の日も早い時間から寺へと向かった。しかし、彼の棺が出るとすぐに、ボクは誰よりも早く帰路についていた。寒かったが、能登の空は晴れていた。

昼過ぎだったろうか。家に着くなり、ボクは居間の丸柱に背中を押しつけて泣いた。大粒の涙が自然に出てきた。こんな簡単に涙は出るものなのかと、なぜかその時思った。当然だが、二度と彼と言葉を交わすことはないのだとも思った。彼が座っていたソファを見た。彼が立っていたオープンデッキも見ていた……

夕闇が迫ってあたりが暗くなってくると、焚火の炎がより鮮明になってくる。オープンデッキの残材も乾いていたせいか、すぐに火がつき勢いよく燃え出す。

玉谷長武のことは時々こうして思い出すのだ。彼はよく言っていた「なんか、こうスカッとするようなことって、ないすかネエ~」と。背伸びしながら、遠くを見るような目でそう言った。その声がまだ聞こえてくる。生きていれば、一緒に内灘の仕事もできただろうにと思う。

焚火は暗くなっても続いた。炎で明るくなった空間に、灰色の煙が上っていくのが見えた。そういえば、来年のボクの歳は、YORKのマスター奥井さんが死んだ歳と、青年期を外国航路の船員として過ごし、ボクに大きな影響を与えた兄の死んだ歳と同じになる。二人とも普通に言えば若くして死んだのだが、ボクももうそんなことを考える歳になったのだ…

翌日はまた晴れた。しかし、北アルプス北部の山々は見えなかった。

夕方、海に落ちていく太陽を見た。振り返ると、東の空にきれいな満月があった。

贅沢な風景だなあと思いながら、今年もあと一ヶ月になったのだという現実も忘れなかった……


「遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと」への10件のフィードバック

  1. 『ヒトビト』にも、書いてましたね。
    ナカイさんにとっては、大切な存在だったことがよく分かりました。
    若くして死んでしまうというのは、やはり悲しすぎますね。
    写真がとてもきれいで、なおさらそう感じました…。

  2. 『東京~モンゼン・徒歩ホの旅』が載ってるポレポレが見つからん!
    もっかい読みてぇ!!!(>_<)
    頼むッ!ここのブログに載っけてくれぇぇぇ!!!

    祥稜 拝

  3. 彼のことは書き切れていない。
    しかし、書いていかなければ、彼に申し訳ない。
    『東京~モンゼン・徒歩ホの旅』は、
    東京から山梨の勝沼駅を過ぎたあたりで終わっていて、
    彼の根気も萎えていた。
    ポレポレ通信を軽視していた証拠だ?
    しかし…みんなに読んでもらいたいものでもあるから、
    そのうち掲載しようと思う。
    ちなみに「ポレポレ通信」は、彼の追悼号(48号)で打ち切った。
    死んでから、何カ月も書けなかったのを覚えている。
    その48号は増ページもので、彼のことしか書いていないし、
    『東京~モンゼン・徒歩ホの旅』は完全掲載されている。
    今一部だけ残っている・・・
    ところで、彼の息子ももう中学生になった。
    野球をやっているそうだ。

  4. オレ、彼に会ったことあったけ?
    YORKではいつも飲んだくれてるんで、素面のときに「始めまして」って挨拶すると「あ、いや、YORKでお会いしていますよ」とかよく言われるんで、、、

    祥稜 拝

  5. 彼とは、YORKにそれほど行っていない。
    行っても二人だけで行く機会が多かった。
    酒を飲んでいないから、夕方の時間だね。

    彼自身や彼とナカイとの関係を知っていたのは、
    奥井さんと、ナカイの当時のスタッフの一部だけだった。

  6. 世の中、いろいろあるんですね・・・。
    めずらしく、朝から、しみじみと読んでしまいました。

  7. 大事なことを書き忘れていたが、
    文中に出てくる「早稲田OBの友人」とは、
    彼と一緒に東京~モンゼン間を歩いたOくんで、
    高校時代の野球部の仲間だ。
    某大手新聞社に勤務するナイスガイで、
    彼が玉谷をずっと支えてきたといっていい。
    彼とも長く会ってない…

  8. 昨晩読んでいて涙が溢れてきて止まりませんでした。
    大切な人が、人生これからと言う若さで…悲し過ぎます。

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