伊集院静氏は、なぜ怖いのか?について


東京への出張の行き帰り、電車の中のお伴として、久々に伊集院静氏の本を一冊持って行った。

『ねむりねこ』という可愛いタイトルの付いた文庫のエッセイ集で、一度読んではいるのだが、内容的にほとんど覚えていないので、あらためて読み返してみるのも面白いだろうと思った。文章も音楽も、絵画も写真も、時にはニンゲンも含めて、その時のさまざまな環境要素により感じ方が異なるものだ。『ねむりねこ』というタイトルから内容を連想できないでいるこの文庫本一冊でも、ひょっとして新鮮な何かをもたらしてくれるかも知れない。それほどテンションを高くしてという意味でもないが、とにかく少し楽しみながら読もうと思っていた。

いろいろなところで書いたり話したりしているが、伊集院さんはボクの好きな作家である。そして、これが重要なのだが、もうひとつ怖い存在でもある。それは、伊集院さんが立教大学の硬式野球部に籍を置いていたという事実に、ボクが勝手にかなりのプレッシャーを感じていることから始まっている。

本当は美術系の道に進みたかったらしいが、大学体育会の硬式野球部にいて作家になったという、そのプロセスに怖さを感じるのだ。そして、好きだというのはその裏返しみたいなもので、体育会の野球部にいた人が、なんであんなに美しい文章、物語が書けるのかということが発端となっている。

その辺をよく知っていないと、伊集院さんの本質は見抜けないのではないか。ボクはずうっとそう思ってきた。夏目雅子の前の夫で今は篠ひろ子の夫だとか、「ギンギラギン・・・」の作詞家だとか、そんなことで伊集院さんを語っていてはケツの穴の小さな話で終わってしまう。

野球をやめるひとつの要因でもあった自分の偏屈?な考え方や、野球をやめた後の挫折感がその後の生き方にもたらしてきたこと、それらは一般的に言う“よくないこと”だった。

伊集院さんの言葉を借りれば、“裏切り”や“卑屈”や、“家庭崩壊”や“酔いどれ”など、いい表現が全く出てこない。もともと恵まれた境遇があったにも関わらず、そこから抜け出ようとした思い。とにかくそれなりの成功はあったのだろうが、それが本当の喜びではなかったのだろうと、勝手に推測したりする。心の奥底まで知る由もない。

そんなモヤモヤとしたものが、『ねむりねこ』を読んでいくうちに、少し分かってきたような気にもなってきた。やはり、寂しいんだろうなあ・・・と、自分自身も胸に手を当ててみたりする。

『手の中の重み』という短いエッセイの中に、大学時代、野球をやめたいきさつが簡単に書かれている。少年野球の頃から変化球を投げ続けてきたツケが、肘に異状をもたらしボールが異様に重く感じるようになった。それは致命的な傷となり、その三ヶ月後に野球部を退部する。しかし、伊集院さんは、この時マネージャーとしてでもいいから野球部に残るべきだったと悔やんでいる。

その悔やみを忘れず、二十年後、野球を素材にした小説『受け月』で直木賞を取った。もし大学時代野球を続けていられたら、伊集院さんの人生は変わっていただろうことは間違いない。“伊集院静”という女性みたいな名前自体も存在していなかったかも知れない(実はこの名前にも面白いエピソードがある)。『手の中の重み』を読みながら、そうならなかったことが良かったのかどうか・・・と、無駄なことを考えた。

『一瞬の夢 揚子江』という短編では、泥酔したまま揚子江を下る船に乗り込み、深夜に目覚めた時の妄想?が綴られている。旅を日常にしているような、伊集院さんにとっての旅に対する思いが語られている。簡単な内容ではないが、旅の中に身を置く自分がその中で体験する自身への問いかけや、その土地土地がもたらす懐かしさや安らぎなどをとおして、旅を求める思いのようなものを探ろうとしている。 美しいと感じるものや、懐かしいと思うものに憧れる人の思いが、旅に結び付いているということだろう。

そして、揚子江の上を船で滑りながら、背後に去っていく風景のような“一瞬のはかない時間(とき)の流れ”を伊集院さんは書いている。水の音、風の音、木々の揺れる音、砂が流れる音、それらは詩であり、“その詩は人が誕生する以前から、土地土地で言葉を紡ぎ、美しい旋律を奏でているのではないだろうか。”と言う。時間(とき)の過ぎゆく早さと、その背景にある自然などの永遠なものとの矛盾がもどかしい。時間(とき)の流れを忘れようとし、自然などの永遠性に憧れるのだろうか。

読みながら、自分もボーっとしてきた。『ねむりねこ』は、決してそんなにむずかしい本ではないのだ。深刻になる必要もない。後半では、伊集院さんと親交の厚い松井秀喜選手の話などが出てきたりして、野球人・伊集院静の血が騒ぐ様子が感じ取れたりする。

伊集院さんは女性を主人公にした小説を書いたり、花についても詳しかったりする。野球に関わる小説も多いが、もちろん単なるスポーツものではない。野球はさりげないが、しっかりとしたストーリーの軸や背景にあったりする。そして、どこかに影がある。やさしい女性が登場する。子供向けにも書く。いや、子供を主人公にして大人たちに読ませるのかも知れない。やさしく力を抜いた物語の展開、表現の細(こま)やかさなど、女子大生が涙するというくらいに、その表現は美しい。そして、なんと言っても日本的だ。

『ねむりねこ』は、特急電車と新幹線の中と、アメ横の居酒屋と、ホテルのベッドの上と、地下鉄の車内と、八重洲のカフェで完読した。何気なく大人になった気分(当たり前だが)で読み切った。伊集院さんは、表面的な少女趣味っぽい要素が誤解されていると時々思うことがある。渡辺淳一あたりと同じように見ている人がいたりするが、そんな人は本質が感じ取れない悲しい人だと、ボクはハゲしく思ったりもする。

そんな思いを抱いたりする、表面しか知らない読者がいるくらいだから、ボクはやはり伊集院さんが怖いのだ・・・・


「伊集院静氏は、なぜ怖いのか?について」への1件のフィードバック

  1. N居って、、、書評も上手ぇのな!( ̄。 ̄ )

    その『ねむりねこ』って本、読みたくなってきたよん。…( - -)買ってこ

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