山に雪が来た日の想い出


初冬の山の気配が好きだ。そこには独特な空気が漂い、緊張感をも含んだ山らしい世界がある。

本格的な山となれば、十月には間違いなく初雪が来る。記憶に強烈に残っているのは、十月の半ば二、三時間のうちに五十センチくらい降られた経験だ。

北アルプス・薬師岳の最後の登りに入る小屋(薬師岳山荘)の前で停滞中だった。

朝、登山口である折立にいた頃は、冷え込みながら空は晴れていた。昼過ぎに太郎平小屋を出た後だ。途中から降り始めた雪が積もりはじめ、このままでは危ないということになった。

降りしきる雪の中、薬師岳山荘までは来たが、閉められた小屋の外に吊るされた温度計はもう計測不能状態になっている。山仲間たちはみな元気だったが、とにかくリーダーの指示を待っていた。

薬師岳を閉山する毎年最後の山行だ。頂上を目指したのは十数名のパーティだったが、その時の一般登山者の中に、経験を偽って参加していた人がいた。

拠点である太郎平小屋で、この時季の三千メートル級の経験がある人だけというのが登頂同行者の条件にされたが、その人はその条件を無視か、意味が分からなかったか? とにかくパーティに入って来たのだ。

三十代後半くらいの女性だった。すでに唇は紫色に近く、顔から表情が消えていた。

顔が痛い。まつ毛どころか涙が凍る。気温は氷点下十度以下だと誰かが言う。

ボクは一応、その時のサポートスタッフの一人だった。リーダーが言った。

「この人連れて、太郎小屋まで戻ってくれや」

一瞬耳を疑ったが、太郎平小屋の五十嶋博文マスターからの指示でもあった。そのサポートがボクになった。

残りのメンバーは、雪の中頂上を目指すことになっていた。

勝手知ったる登山道とはいえ、この雪の中を経験がほとんどない、しかも女性をサポートして下るのはかなり重大なこと。

特に小屋までの後半の下りは、雪のない時季でも急な歩行となり、バランスを崩して転んだ人を二度見ていた。そこを降ったばかりの雪を踏みながら下りるのだ。

雪は完璧なパウダーで、岩の上などに膝あたりまで積もっていた。さすがに標高が下がれば降雪は少なくなるが、それでも安心などできない。

ボクは足で軽い雪を払いのけ、岩肌や土の表面を出すようにしながら前進した。幸い登りの段階からスパッツを装着していたのが役に立った。

しかし、寒さは半端ではなかった。声をかけてもほとんど返事をしない女性は、ただ無心に崖を下った。土の上はまだいいが、大きな岩の上を伝ったりする時にはほとんど座ったまま下りなければならない。雪でほとんどが真っ白になっていた。

午後の三時半頃だろうか。時計も見ず、時折思い出したように降り始める細かな雪と湿ったガスの中を歩いた。

薬師峠という夏はテントが張られるところまで下ると、ほっと息が抜けた。そこからは急な登り返しが続くのだが、身体が冷えている分、登りになって体温が回復する方がいいと思った。

登り切ってしばらく行くと、太郎平小屋の明かりがはっきりと見えてくる。あとは平らな道が続く。下界は雲の下だ。その時になって初めて「ありがとうございました」と、その女性が口をきいた。

自分が何を言い返したのかは忘れたが、夏の立山を登った経験があったことだけは分かった。たしかに立山は三千メートル級だ……

小屋に着いて、三十分もしないうちに頂上へ向かったはずのメンバーも小屋に戻ってきた。登頂はあきらめ引き返したという。まだ時間は早かったが、周囲はすっかり暗くなっていた。

リーダーがボクを見つけて、「途中で雪に埋まっとらんでないかと、心配しながら下りて来たがやぞ」と言って笑った。

その夜は、太郎平小屋の食堂で一年の無事を感謝し、ドンチャン騒ぎをし、二階の大部屋に静かに集まり、かなりのほろ酔い状態で冷たい布団にもぐり込んだ。

夜中に用足しに起きると、上下の歯が激しくガタガタと鳴った。

いや実際には噛み合わずに鳴っていなかったかも知れない。ただ、顎は痛くなった。

用足し中は、目の前が見えないくらいの湯気?に包まれ、このまま天国にでも行ってしまうのではないかと焦ったりもした。

薄く凍りついた窓ガラスを指でこすると、星が無数に光っているのが見える。

そして翌朝は、予想どおり見事な青空だった。身支度を整え外に出ると、二日酔いもあっという間に吹っ飛んだ。

小屋周辺の積雪は大したことない。その分、霜柱が大きいもので十センチ近い高さで立っている。童心に帰ったように、そこら中を歩き回ったりした。

黙々と、ひたすら足を前へと出していくだけの下山。

ふと昨夜の酒の場や、布団にもぐり込んだ直後の会話を断片的に思い出す。

剣沢の小屋で、かつて大学山岳部の一年生が合宿中に逃げ込んできたとか、自然を守るというのはオレたちの意識や感覚にはないけど、同化していれば自ずとそうなっているんじゃないかとか…。

そんなむずかしい話ばかりではないが、とにかく断片的過ぎて記憶が繋がっていかない。

そして、そんな時になって初めて、大部屋の真ん中に小さな電気炬燵が置いてあったのを思い出し、布団にもぐる前にその炬燵で暖まっていたのだと振り返る。

何人かが無言のまま、炬燵に体を突込み、丸まっていた……。

あの時のあの沈黙が懐かしい。

廊下の下駄箱に並んだ汚れた登山靴、無造作に置かれたリュック、着込んだヤッケの擦れる音、どこからか聞こえてくる笑い声、それらが胸に記憶となって刻まれている。

冬を迎え入れた山の空気の感覚は、あの時の切なさみたいなものなのかもしれない。夏とは違った空気に、山のもうひとつの顔が見えてくる。

街にいるある瞬間に、ふとそういったことを思い出すのがクセだったような気がする。

今は少し症状も薄れてきているが、そのクセはおそらく死ぬまで直らないのだろうと思う……

小屋閉め間近の風景【写真:太郎平小屋・河野一樹さん】


“山に雪が来た日の想い出” への3件の返信

  1. とても沁みる話でした。
    やっぱり山はいいですね。
    ボクも雪の経験は何度もしましたが、
    この季節は静かでもあるけど、寂しくもある。
    太郎平小屋の食堂が、
    大宴会の会場になる雰囲気、
    想像するだけで楽しくなります。
    こういう話、どんどん書いてください。

  2. たまらなくいい話でした。
    こんな経験も、感性が鋭くないと
    いい思い出にはならないと、つくづく思います。
    山でもいろんな季節によって
    表情が違うんですね。
    厳しい情景が頭に浮かんできました。
    でも、用足しの話も面白かったし、
    炬燵のところも、いい感じでした・・・

  3. オレも山行きたくなったけど、
    今は無理だな。
    しかも素人だし。
    でも、しっかりと読ませてもらった。

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