孤独と単独


誰でもそうであるように、「孤独」という言葉よりは、「単独」という言葉の方が好きだ。

単独には、自分自身の意思があり、孤独にはそれがないと思うからだ。

独り旅、単独行…など、心をくすぐる響きをもった言葉も、いつもボクを煽ってきた。

そして、いつも素直にその言葉の意味を受け入れ、それなりにそのことを楽しんでもきた。

心の赴くままに…というほどかっこよくはなく、別に大したことをしてきたわけでもないが、そうしたスタイルは、「らしい」ものにもなっていったのだろう。

今以上にまだ青臭い大人だった頃、「N居は、孤独を愛するオトコなんだな…」と言われた。

答えに困り、さらに正確に答えられる準備もしていないまま、黙って笑ってすませた。答えるのが面倒だっただけだ。

孤独なんか、愛してない…。孤独を愛するなんて言葉そのものが嫌いだ。 その後で、激しくそう思った。

そんな寂しい人間じゃない…とも。

しかし、時折だが、かつての小さくても単独行だった旅を振り返ると、切ない気持になったこともあった。

独りでいたことが、自分の中で何を意味していたのだろうかと、余計なことを考えるようになっていた。

独りでいたことが、そんなに楽しかったのかと、自分に問いかけるようにもなった・・・・・・

しかし、やはり楽しかったとしか言えなかった。楽しいというだけとはちょっと違うが。

古くは、小説『孤高の人』のモデルとなった加藤文太郎。

そして植村直己や星野道夫などを思い浮かべると、単独を実行した人たちが、いかにむずかしい環境の中に自分を置いていたかが理解できる。

当然ボクはそんな環境にいなかった。しかし、独りで行き場所を探し、独りで足を向け、独りでその地に立って考える・・・。そんなことに楽しさを感じていたのは間違いない。

独りで自然や歴史などの空気に触れていることは、それらと自分自身との接点を確認するみたいなことだった。

そして、忘れてはならないのが、その対極で、いつもヒトビトとの酒盛りや語らいやバカ笑いがあったことでもある。

最近、孤独という言葉には、独り暮らしの老人などを対象に使われるだけの感じしかしなくなった。

都会の中の孤独とかいう言葉も聞かなくなった。

その分、単独と言う言葉にも味がなくなってしまったような気がするのだ……


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