山中の朝の自己嫌悪
山中温泉の最も奥にあるのかも知れない旅館で、冷え切った朝を迎えた。
風邪が完治していないのに、はずせない用事を理由に前日から来ていた。
夜の宴会が終わり、すぐに部屋に戻ると、その時初めて大きな部屋の奥にさらに小さな部屋があるのを見つけた。
そこにも一人分だけ寝床が用意されていた。風呂は翌朝にまわし、とりあえず寝ることにして、すぐに布団の中にもぐり込む。
しかし、そんなに簡単に寝付けるものではない。時計はまだ九時半を過ぎたばかりだ。
枕元のバッグから、先日新しく買ったばかりの『日本の村・海をひらいた人びと』を取り出し、身体を横にしたまま読み始めた。
民俗学者・宮本常一の二冊目だ。戦後、少年少女向けに書いた「日本の村」と「海をひらいた人びと」とを一緒にした文庫本。やさしい文体で綴られている。
“はじめに”で、父親から教えられたという旅の心得みたいなことが語られ、話はまず日本の家の形へと移っていく。
素朴で懇切丁寧な文章に、知識というだけではない何かが植えこまれていくような心持ちになっていく。そして、これが宮本常一の世界なのだなあと納得する。
四十ページほど読んで、消灯。
窓の外がようやく明るみを帯びたのは、朝風呂から帰った六時半頃だった。
明け方になって、また雪が降り出していた。
数日前、ある友人から手紙が届いた。
いろいろと波乱万丈っぽい人生を送ってきたその友人は、ボクのことをこのサイトで知り、そして近況を綴ってきたのだ。
その後、電話でも久しぶりに話した。元気そうだった。
詳しくは書けないが、彼は大袈裟に言うと人生をやり直そうとしている。
自分では淡々と話しているが、少なくともボクにはそう思えた。
ボクも素朴にそうした方がいいと話した。そのためにするべきことも伝えたつもりだった。
これから彼がどうやって自分を立ち直らせるのか? それなりに関心をもっている。
しかし、それから何となく自分のことにも思いが移った。
最近、おまえも随分時流からはずれているじゃないか・・・と自分に語りかけることが多くなった。
ボクに何らかの期待をしてくれている人たちに、自分は決して満足を提供できるニンゲンではないことも強く自覚するようになった。
それがいいことなのか、悪いことなのかは分からないが、自分は自分流の原理主義的発想の中で、コトを満足させていくしかないのだ・・・と、訳の分からないようなことを考えてもいる。
適合性が鈍ってきたニンゲンが陥る、一種の兆候なのかもしれない。
旅館の窓から見える、山里の冬の朝の風景から、ふんわりとマイナス思考の思いが膨らんだ。
そろそろ体調を戻して、雪の野原を駆けめぐって来ないといけないなあ。
雪野原で、熱いコーヒーでも淹れて、思い切り息を吐いてこないとダメだ。
やはり、あくまでも単純明快な原理主義的発想しかないのであった……
なんだか複雑そうな心境ですね。
適合性とか、原理主義とか、
ナカイさんはやはりまじめなんですよ。
いい意味でね。
なかなか楽しそうじゃないですか…
複雑というのは、前向きな証拠。
大丈夫ですよ!