語るのが疲れたとき


いろいろな人たちと会い、いろいろな視点からの話をする機会が多くある。

もちろん日常的には仕事に関連した話がほとんどであるが、ボクの場合は特に提案的な話が多い分、まわりくどいストーリーが必要だったりもする。

それが日常的なものだったり、非日常的なものだったりするのだが、聞き手になってくれている人たちの反応を感じるのも面白く、話がどんどんと盛り上がっていく時のアグレッシブさは、ジャズ的な音楽にも似た高揚感があったりする。

と言っても、よくは分からないと思うので、もう少し詳しく書くと、それなりに口調に抑揚がついたり、身振り手振りがついたり、擬声語や擬態語が入ったりなど、とにかく会話が活性化していくというわけだ。

先日ある新聞に、話す時の“手のカタチ”のことが書かれていた。

それによると、ロクロをまわす時の手のカタチがいいみたいだった。

何となく想像できるだろう。

話しながら、ロクロをまわす。いや、ロクロをまわしながら話す。そんな仕草がいいと書かれていた。

理由は知らない。見た目かも知れない。

自分はどうだろうか?

その記事を読んだ後、ふと考えてみたが、よくは分からない。

何かやっているのはまちがいないが、ロクロはまわしていないような気がする。

言葉の意味と関連した仕草ぐらいはしているような気もするが、そんなこともよくは分からない。

基本的に、ボクにとってその仕草はどうでもいいのだろうと思う。

話し方や姿勢は少しずつ変わってきた。

もう若くないんだな…と思い始めた頃から、何となく前のめりに話すことを控えるようになった気がする。

責任のある話をしなければいけなくなってからは、必ず話のフィニッシュを考えておくようになったし、不思議なくらい、そのことが簡単にできるようにもなっている。

ジャズ的に生きてきた?から、アドリブ、インタープレイなどにも対応でき、どこからでも話をまとめていける感覚も身に付いたように思う。

自分で言うのも変だが、話している内容的には聞き手の興味をひくことが多いようだから、それなりに自分の世界や感覚の話をすればそれでいいところもある。

しかし、一昨日も昨日も今日もといった具合に、そういう会話の日々が続くと、正直落ち込むのが普通だ。

何かのアイデアについて語ったり、語り合ったりしていると、ついつい先の先まで読まざるを得なくなり、言葉の裏付けみたいなことをきちんと自分が用意しているかを考えたりしなければならない。

特に、言葉が具現化した時の行動を必ず想定しておかなければならないから、無責任なことも言えなくなる。

すごく正統なことを語ってるなと思っても、自分がそのとおり行動できないと思うと、少し引いてしまうのだ。

だから、そういう風な気のまわし方に疲れてくると、正しく落ち込んでいく。

時々、行き当たりばったりの会話を自覚したりするのはそういう状況の時なのだ。

 

それにしても、仕事上での会話について考えるなどというのは、ボクにとってめずらしいこと。

それを文章にしているのだから、これもまた不可思議な現象だ。

たぶん、今、カンペキに、会話に疲れているのだろうなあ………

 


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