🖋 子供時代の購読漫画と 草叢に消えたカメラ
手塚治虫はやはり凄いんだなあ……と、立川談志師匠の本や、クラシックのラジオ番組の中の話からあらためて感じている。
両者の話を少し書くと、まず談志師匠の本には、「手塚治虫」という名前に「かみさま」というルビが打たれていた。ラジオ番組の中では、手塚治虫はクラシックの大音量の中で仕事をしていたとか、ピアノが上手くてショパンの曲なんかを弾きこなしていたというエピソードが紹介されていた。その他諸々あるのだが、これ以上ボクが語っても仕方ないので省略する。とにかく手塚治虫は凄かった。
さて、本題は手塚治虫の話ではなくて、そんなことがあってから、漫画本に関していくつか思い出したことがある…という話である。
はじまりは、子供の頃、家で『少年』と『冒険王』という二大漫画月刊誌を買ってもらっていたことだ。今から思えば、かなり贅沢なことだったのかもしれない。それほどうちは裕福でもなかっただろう。その分、かなり大事に読み込んでいたという記憶はあるが……
その二冊のうち、ボクは『冒険王』の方が好きだった。その理由は何だったのか?
『少年』には「鉄腕アトム」や「鉄人28号」といった、今では漫画界の超レジェンド的な作品が連載されていた。この二作品は、ボクの生まれる前後から始まっていたというのだから、これまた凄い。ちなみにボクが生まれたのは、1950年代の中頃だ。
一方『冒険王』の方は、「じゃじゃ馬くん」とか「ゼロ戦レッド」といったタイトルの作品が連載されていた。とても懐かしい。そう思うのは、『少年』の二作品のように今では普通に見ることができないからだろう。
それで、なぜ後者の『冒険王』の方が好きだったのかということになるのだが、こうして連載作品を並べてみてもよく分からない。むしろ、この目線からだと『少年』の方が圧倒的にいいということになってしまう。
それでも『冒険王』が好きだったのは、まずその名前が気に入っていたからにちがいない。そういった傾向が自分にはあるような気がする。その点『少年』だと、どこか〝ワル〟の臭いがする。少年Aとか、Bとか…。その頃の自分にそのような感覚などあるはずはないのから、これは理由にはならないだろう。
ひとつぼんやりと思い出すのは、冒険王の二作品の作者がそれぞれ、関谷ひさし、貝塚ひろしという爽やか系の名前だったのに対し、少年の方は手塚治虫、横山光輝という感じで、どこかむずかしそうなおじさんをイメージさせていた…ということもあった…ような気がする。要は、子供にとって冒険王の方が、取っつきやすかった…ということなのかもしれないのだ。
もうひとつは、「じゃじゃ馬くん」が野球漫画であったことが大きく影響しているのかもしれない。ボクも野球少年だったし、金沢に昔あった兼六園球場レフトスタンド(芝席)で、若き長嶋茂雄が放った弾丸ライナー性ホームランの、その打球落下地点付近にいたという稀有な体験を持っていた。「じゃじゃ馬くん」には、後の「巨人の星」みたいな余計なお世話的要素は全くなく、中学の軟式野球部(だったと思う)を舞台にして爽やかなスポーツドラマが展開されていたという印象がある。そこがすんなりと安心して親しめたのだと思う。
冒険王のよさは、おもしろい付録はもちろん、プラモデルやモデルガンみたいなものを販売する、それらしきページがあったことでもあった。
詳しくは覚えていないが、そのページは実に魅力的で、小学生のオトコの子にとっては好奇心を揺さぶるインパクトがあり、いつもワクワクしながら見ていた。
実は映画や音楽など、かなりませた少年であったボクは、なんとなく周りの子供たちとは違った感性をもっていたようなフシがある。
西部劇が好きだったので、カウボーイが持つピストルにはちょっとした関心を持っていた。コルトとかリボルバー、ボナンザとかよく分からないままに、そんな名前を見つけると本の中に載っている写真を見て、かっこいいなあと思っていた。
冒険王との忘れられない思い出として上げなければならない重要なことを、今突発的に思い出した。それは懸賞に当たったことで、その賞品で小型のカメラをもらったことだ。
モデルガンのようなものは、いくら好きでも買ってもらえるわけがなかった。値段もそれなりで、当時ボクには小遣いなどなく、たまに親戚からちょっとまとまった小遣いをもらったりすると、それはすぐにレコードに消えた。ビートルズのシングル盤が1枚330円だったかの時代だ。だから、漫画雑誌の懸賞は、ボクにとって夢を叶える貴重な手立てだったのだ。
しかし、その小型カメラは、すぐに悲劇に見舞われる。
ボクは写真にも興味を持っていた。海外航路の船乗りになったばかりだった多趣味の兄の影響を受けて、先に書いた映画(特に洋画)や、音楽(特に映画音楽)に目覚め、さらに兄が持っていた当時としてはかなり高価だったはずのカメラなどにも触れていた。
しかし、いくら写真に興味があっても、自分で撮影できるカメラを持つことは不可能で、その懸賞でもらったカメラは願ってもない相棒になるはずだった。ところがだ。
カメラが届いた翌日、学校から帰ってひとりで遊んでいた時、そのカメラを失くしてしまった。斜面になった草叢で、特に何をしていたわけでもなく、気が付いた時にはカメラはなかった。
ジャンパーかなんかのポケットから落としてしまったのだろう。当然だが必死になって探した。草叢は子供の膝上あたりまで伸び、しかも隙間のないほどに茂っていた。さらに斜面である。ボクは暗くなるまで夢中で探し回った。
次の日も、その次の日も、友だちには気づかれないようにしながら探した。しかし、結局カメラはボクのもとに戻ってこなかった。この衝撃は、当時のボクにとって長く尾を引く痛恨事となり、思い出すたびに悔しさがこみ上げてきた。
ただ、時間がたつにつれ、あんなカメラで本当に写真が撮れたのかといった疑問も生まれ、それが忘れることを後押ししてくれるようにもなった。兄のカメラを見ていたりしていると、作りも粗末なあんなカメラなんかと思えてきたのだ。
普通のフィルムは使えそうになかった。一応写真は撮れるということになっていたが、特殊なフィルムを新たに購入するため、別にお金がかかるものだった。早い話が、子供相手の怪しい品ものだったのだと思う。
その後何年もして、兄からコダック社の四角いカメラをもらった。アメリカで買ったものらしかったが、カートリッジのフィルムを使うカメラだった。おしゃれでカッコよく、カチッカチッという軽いシャッター音も新鮮だった。
さらにその後、もう古くなったというニコンももらった。これは本格的なもので無作為に写真を撮るという楽しみを知った。兄が新しいカメラを買ったあとだ。ただ、うちで現像したりはできたが、結構カネがかかり長続きさせることは難しかった。
とは言え、いい加減ながら今も写真が好きな傾向は、こうした時代の延長上にある。
手塚治虫から始まって、少年漫画雑誌の話に至り、カメラの話になった。そもそもは談志師匠の本の話からだ。相変わらず好きなコトや、好きなモノの話はおもしろく結びついていく………
あ、忘れていたことがもう一つあった。それは冒険王だったか、少年だったか忘れたが、漫画ではなく、本格的な挿絵付きの読み物があったことだ。今でもはっきり覚えているのは、アフリカかその辺りのジャングルをめぐる探検物語で、テントの中で寝ていた探検隊員の顔の傷口に大きなクモが卵を産みつけ、その後に悲惨な出来事が起こるといった話だった。そこだけはっきり覚えているのは、挿絵がリアルだったからにちがいない。こういう探検、冒険ものは大好きだった。
誕生日の投稿である。
もう取り返しがつかないくらいのいい歳になった。