湯涌街道の素晴らしき普通さ


   湯涌街道を走る機会がよくある。もちろんクルマで。仕事では、湯涌夢二館へと出かける時に走る。プライベートでは、飲料用の湧水を汲みに出かける時に走る。頻度は水汲みの方が多いが、どちらもそれなりに、山里の風情を楽しみながら走るということに変わりはなく、ボクにとっては、車窓から見る風景に心を和ませながらの“小さな旅”になる。

まったくほぼカンペキに晴れ渡った五月のある日。久しぶりに仕事でこの道を走った。目的地は相変わらずの夢二館だ。新しい館長さんに挨拶にと出かけて行ったのだが、留守だった。三月に金沢美大を退職されたのだが、週一回だけ講義を続けているとのこと。ちょうど、その日がそうだったのだ。これ幸い?にと、名刺と拙著を一冊置いてきた。念のために言っておくが、ボクは新館長のO田S子大先生には、絶大なる信頼を得ている…と思っている。

用事を済ませて総湯の方へと足を向けると、真っ青な空がはるか彼方的に広がる頭上に、鯉のぼりが浮かんでいた。たいした風もないまま、決して元気もなく、ただゆらりゆらりと揺れている鯉のぼりたちを見上げていると、鼻の頭が焼けてくる感じがする。日差しが強かった。

ぶらぶらと歩いてみることにした。夏を思わせる雰囲気の温泉街は、ひっそりと静まり返り、日向のところと木立の日陰のところとが、アスファルトの上に鮮やかなコントラストを描いている。めずらしくクルマも走ってこない。総湯の前には多くのクルマが止まっていたが、皆さんまだ、風呂場でくつろぎ中なのだろう。こちらとしては、想像しただけで汗がどどっと溢れ出てきた。しばらくして、温泉街を離れる。

湯涌街道は、これといって際立った美しい風景がないところがいい。生活感と混ざり合った何でもない普通さに、魅力を感じる。それは金沢のまちに近いからかも知れない。金沢の市街地を出て、二十分もしないうちに、いきなり大峡谷が現れては、ちょっと心の準備が間に合わない。それになんだか信用できない風景になってしまう。自然が創り出した地形などといっても、嘘っぽい。建設重機を持ち込んで、人工的に作ったのではと疑われる。やはりそういう風景は、クルマで二、三時間、いや四、五時間走ってから現れてほしい。

    そういう点で、湯涌街道は自身の身分や素性、さらに言えば、家庭環境、家計状況までもをわきまえている。決して気取らず、奢(おご)らず、普通の風景でいることに徹している。みなで湯涌街道を褒めてやらなければならない。湯涌街道よ、あなたは偉いと。

そんなわけで、ボクは二~三週間に一回ぐらいのペースで湯涌街道を走っているわけなのだが、これからもこの風景の普通さに安堵しつつ、のんびりとハンドルを握っていくのだろうなあ、と思っている。ますます湯涌街道が好きになっていく、ボクなのである…

 


「湯涌街道の素晴らしき普通さ」への1件のフィードバック

  1. 朝のコーヒータイムに、あらためてゆっくり読み返してみたら、
    なんだかほのぼのとしてくるエッセイでした。
    わたしも、あまり意識したことなかったですが、湯涌方面の風景好きです。
    金沢って、結構恵まれていますよね。

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