マグカップと寝る前の読書と


今年に入ってから、身の回りに新しいモノや新しいコトが始まっている。他愛のないモノやコトなのだが、自分の気持ちが動いている分、それなりに新鮮な気持ちになったりもしてよかったりする。

そのひとつが、久しぶりに立ち寄った「ノリタケの森」で購入したマグカップの存在だ。一月の中旬、名古屋駅の近くでお世話になっているクライアントの新年会合があった。本番は1時間半程度で、当然日帰りのシンプルな出張なのだが、その会場を出たところで「ノリタケの森」を案内するサインを見つけた。

一昨年だろうか、初夏の爽やかな日に初めて訪ねていた。そのときはクルマだったが、駅に近いという印象が強く残っていて、今回の会場を地図で確認した時に、もしやと期待していたのだ。予想どおり、歩いて数分で懐かしい赤レンガ造りの建物が見えてきた。

ノリタケは食器づくりで100年の歴史を刻む。そして、「ノリタケの森」は、その歴史の中で培ってきた技術や、育まれてきた文化を伝える場として広く親しまれている。赤レンガの建物は1904年に建てられたもの。ミュージアムなどのカルチャーゾーンと、ショップなどのコマーシャルゾーンに分けられ、それぞれがかなり精度の高い雰囲気を持っている。屋外を散策したり、ベンチに腰をおろしてボーっとしているだけでもそれなりに意味がある。

 

しかし、季節外れの「ノリタケの森」には、ほとんど人はいなかった。晴れてはいたが風は冷たく感じられた。レストランの窓からは何組かの女性グループの姿が見えた。が、外にも広がるカフェなどは当然営業してなく、辛うじて数人の人影が構内を散策しているという感じだった。

一昨年に来た時は、ミュージアムなどの展示場もすべて見て回り、とてつもない上質のものが多いことに驚いた。手入れされた樹木や芝や水の流れとともに、レンガ造りの建物が美しかった。人気だというアウトレット・ショップにはたくさんの買い物客がいた。

そして、今回はほとんど人のいないショップで、ボクはゆっくりと商品を見て回り、そのマグカップと出会うことが出来た。

ボクが買ったマグカップは、何の変哲もない普通のものだ。誰が見ても、やはり普通だというに違いない。しかし、ボクがひとつのこだわりとして抱いてきたものを、そのマグカップは備えていた。それは“重さ”だった。しかも、シンプルでいて重いという微妙な我が儘を満たしてくれるものだった。このマグカップを手にした時、ボクは自分が抱いてきたこだわりを思い出した。そんな大袈裟な話でもないが、手にした瞬間に、自分がいつもマグカップに対して求めていたものが明解に分かったのだ。

シンプルさというのは、色と形だ。特に色はシンプルさというよりも、普通であるということの方に魅かれた。実は他に何色かあり悩んだのだが、普通であるということで濃いブラウンにした。その時に、おしゃれさを求めなかった自分自身に、ちょっと納得したりもした。

コーヒー好きのボクは、コーヒーに対して一種の敬意を持っている。特に美味しいというか、丁寧に淹れられたなあと感じるコーヒーと出会うといい気分になれる。それはきれいにたたまれたマフラーを首に巻くのと似ている。そして、そのことをさらに意味深くしてくれるのが、コーヒーカップの個性だと思ってきた。

ただ、コーヒーはマグカップで飲むのがいちばん合っていると思う。おしゃれなカップはどうも性に合わない。持つところの細い上品なものなどは、コーヒーの味を変えてしまうくらいに窮屈さを感じさせたりする。その点マグカップは、堂々とした大きさでもって安心感をもたらしてくれるから、コーヒーをより身近なものにしてくれているのだ。家や職場でマグカップを使うのは、少々欠けてもいいとか、そのコーヒーが低ランクだとか、そんな理由ではない。ただ、じっくりコーヒーが飲みたいからだ。

もうひとつ、年が新しくなってから俄かに始めたのは、“夜寝る前の読書”だ。

年末に買っておいた『 yom yom 』という文芸雑誌がいい刺激になって、夜の読書習慣が始まった。といっても、だらだらと読みふけるのではなく、眠くなったら即中止といったペースだから、いい加減さにも正当性があってほどよい感じだ。せいぜい長くても10ページ、短い時は、1ページも読ま(め)ずに寝る。

文芸雑誌と言うのもよくて、短編の小説やエッセイなどは意外なほどに楽しませてくれる。これは久しぶりの体験で、さまざまな書き手の話が読めてそれなりに楽しい。それに、ストーリー自体にいつの間にか自分が入り込んでいるというのも忘れかけていた感覚だ。毎日の身近な生活の中に、いかにさまざまなストーリーが隠されているか、そんな感覚もあらためて教えてくれている。

こういう状況は、心のゆとりを求めている証拠だとも言われるが、ボク自身もある意味そうなんだろうなあと思う。事実、その時は凄く安らいでいる。やはり活字追求に明け暮れていた頃の自分を思い出すようで、ボクとしては精神衛生上もかなりいい感じなのだ。

ところで、寝る前の読書というのは学生時代の日常だった。消灯時間のある体育会の寮生活では、11時にはメインの電気が消された。そのあとはみんなが各自のベッド部屋(据付の二段ベッドだった)に入り、カーテンを閉め、スタンドの明かりのもとで本や雑誌や新聞、漫画などを読む。時には彼女に手紙を書いたり、勉強したりということもある。

そんな自分だけの世界と夜の読書は繋がっているのだろう。前に夢のことを書いたが、あれだけたくさんの夢を見続けているのも、この読書が影響しているのかも知れない。しかし、夢の話の奇抜さを思うと、本の中の世界はいたって日常的なのだ。

今夜も、“つばらつばら”と読んで、夜が明けたら、シンプルでやや重いマグカップに美味いコーヒーを注ぎ、ちょっとした満足を楽しもうかな…などと、かなりキザに近いことなんかを思ってしまうのであった……


「マグカップと寝る前の読書と」への1件のフィードバック

  1. マグカップの重さ?
    そんな決め手が、あったんですね。
    ナカイさん的だなあと思いました。
    寝る前の読書の話とも、
    何かが通じているような気がしました。

    何か、いい話でした。

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