『かえっていく場所』を読んで、椎名誠についての1


 この文章は、めずらしく紙の上でペンを走らせ書いている。早い話がパソコンのキーボードで直接文章を入力しているのではなく、手持ちのレポート用紙みたいなやつに万年筆で書いているのだ。最近は、下書きだとかメモだとか言われたりもするが、ボクも本来このスタイルがいちばん好きだ。

 場所は金沢百番街の中にある某カフェで、ボクはその店の半円形になったテーブル席の、ちょっと高めになったイスに腰掛け、足をイスのバーに軽く乗せたりしながらペンを走らせている。この高さがちょうどよく、目の前に置かれているオリベッティOLIVETTIのタイプライターや、百科事典などの置き物、それに壁のレンガタイルも心地よく目を慰めてくれている。右手から入ってくる大きな窓からの光も、ちょうどいい具合だ。

 ボクはここで、ボクの大好きな椎名誠さんのことを書こうとしている。椎名さんなどというと、かなりの馴れ馴れしさと、よそよそしさとが混ざり合い奇妙な感じなのだが、ここではとりあえずそうしようと思っている。椎名さんのことを書くなんて、あまりにも漠然としていて、さらに書きたいことも無尽蔵にあって、自分でも無理だろう、いや無理に決まっていると思っているのだが、今日はどうしても書きたい。書きたくてウズウズ、かつドキドキしている。と言うのも、2003年に出された『かえっていく場所』という私小説の文庫を、最近になって読み返しはじめ、何だか無性に椎名さんへの熱い思いが甦ってきたように感じているからだ。

 ボクの中に、椎名さんを求める何かが、再び生まれているのかも知れない。

 ボクと椎名さんとの出会いは、少なくとも25年くらい前のことになる。最初は、『山と渓谷』という山岳専門誌での連載と接してからで、イラストレーター兼エッセイストの親友・沢野ひとしさんらとのさまざまな山行を、あの独特な表現で綴っていたエッセイは、ボクがそれまでに出会った中でも、最も自由で、愉快で楽しいものだった。“少年のような大人”のエッセイ、そして紀行文。ボクはこの出会いを見逃さなかった。ボクは椎名さん的に言うと、“かなり激しく”椎名ワールドにのめり込んでいき、生き方自体にも椎名さん的視点を取り入れていった。そのいちばんのお手本は、≪自然との付き合い≫であり、そこから生まれてくるさまざまな楽しみは、自分自身にもあてはまる部分が多かった。自然の中で、ただ歩くこと。ただボーッとすること。ただビールを飲むこと。ただ本を読むこと。ただ語り合うこと。ただ笑い合うこと…… その他モロモロ。

 ボクもとにかくそれらを楽しんだ。そして、何よりも椎名さんほどワールドワイドではないが、“旅”に対して強い憧(あこが)れをもっていた。

 ボクの中の椎名誠という人は、とても重要な存在だったが、その中でも最も魅力的だったのは、椎名さんが“作家”であるということだ。これは何よりも大切なことで、ボクの中の作家的在り方、作家的日常生活の過ごし方などにおいても、ほぼカンペキなまでに理想の道を歩んでいた人だった。

 実を言うと、かつてボクは20代のうちに自分の本を出すという、今から思えば無謀な夢を描いていたのだが、その夢が希薄になり始めた頃?椎名さん(の本)と出会ったと記憶している。ボクと椎名さんとは十歳違いなのだが、ボクは椎名さんの生き方を知り、“オレはこれではいけないんだ”と強く自分を責めたりしたのだ。しかし、椎名さんとボクとの差はあまりにも大きかった。当たり前といえばそれまでだが、ボクはスケールの小さな世界で、自分なりの小さな成功をおさめていただけだった。

 一応、そろそろ本題に入るかな。

 『かえっていく場所』を本屋さんで初めて手にしたとき、裏表紙にあった、“たくさんの出会いと別れとを、静かなまなざしですくいとる椎名誠私小説の集大成。”という文章に、思わずドキッとした。静かなまなざしですくいとる……… これまで椎名ワールドにこのような美しい解説的表現はあったであろうか?いや、なかった。あったとしても、ちょっと茶化し風につけられたものしかなかったと確信する。だからボクは、この本は絶対読まねばならないものなのだと強く思ったわけだ。

 そして読んだ。出だしから「桜の木が枯れました」という寂しいお話が始まり、いつもと違う椎名さんのちょっとセンチメンタルな文章が続いていった。しばらく進むと、「窓のむこうの洗濯物」という話になり、得意の旅モノ的お話となって、ほっと一息つく。日本の香辛料を追う取材旅行の話に入ると、ボクも少し気持ちが乗ってきた。そして、“辛味大根”を追い、中央線「あずさ」の中で繰り返される会話のやり方などでは、その軽妙さにかなり嬉しくもなったりしていた。

 しかし、ボクはこのいつもと違う椎名ワールドに、少しずつ不安を抱き始めてもいたのだ。海外旅行の話、いつも当たり前のように読まされている話なのに、どうもいつものような楽しさを感じない。自分がおかしいのかと、ついつい我に帰ろうとしてしまう。それがまた、変な具合に話の内容をゆがめていく…………

 今、ボクはその本を読み返している。さらに言うと、『コガネムシはどれほど金持ちか』というエッセイ集も傍(かたわ)らに置いて、いつでもどこでも態勢で読めるようにしている。むずかしく考えなければ、それなりに椎名ワールドは楽しく過ごせる時間を提供してくれるのだ。それにしても、ボクはなぜこの本(『かえっていく場所』)に大いなる興味を覚え、そして、読みながら寂しさと相対しなければならなくなったのだろう?今、こうしてまた読み返していることも、ボクにとっては、この本から何かを得ようとしている自分の存在を感じられる。大好きな椎名誠さんであるがゆえに、この寂しさはボクにとって、あり得ないものだったのだろうか?椎名さんから、そんな話聞きたくなかったなァという自分の勝手な思いもある。

 ちょっと、深く入りすぎたのかな。

 一度外に出て、太陽にあたって来ようかな…(と思ったが、やめた)

 並行して読んでいる『コガネムシはどれほど金持ちか』の中で、椎名さんは生まれ故郷の東京の町より、少年時代を過ごした千葉県幕張町のことを、より強い印象で書いている。生まれたのは世田谷だから、もしそのまま世田谷で暮らしていたら、“今の椎名誠”は出来ていなかっただろうという意味のことを書いている。今、幕張メッセになってしまっている辺りは、かつて美しい砂浜だった。椎名さんはそこで少年時代を過ごしたのだ。

 つい十日ほど前のこと、ある古い知り合いから、“ナカイさんは、いつまでも少年のような心を持っているんだネ……”と言われた。照れ臭さ、恥ずかしさと同時に、どこか嬉しいような気分にもなれた。それはかつて、ボクが感じた椎名さんのイメージでもあったからだ。

 忘れてはいけないもの。とくにボクにとっての大切なものとは、そのことなのかも知れないと思ってしまった。

 椎名さんのこと、自分のこと、そして、椎名さんと自分のこと。

 ……… いずれまた続きを書こう……


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