ひまわりが咲いた
ひまわりが咲いた。家の南側後方に十五本ほど植えてあるうちの、七本が蕾を開いた。家の前方付近にもかなり植えてあるが、こちらはまだ背も低く蕾も固い。しかし、背丈は関係なく、咲くやつは小さいままでも咲いてしまうみたいだ。
同じ場所に植えても、前方か後方かで蕾の向きは違う。前号で太陽は西にあるのに花は東に向いたままだと書いたが、花は十分な重みを持っているから、一旦どちらかに向いてしまうと、なかなか方向転換は出来ないのだろう。うちのひまわりたちも東向きと西向き、一部南向きなど、それぞれに性格や生き方があるのか方向が異なっている。
ひまわりは、漢字で書くと“向日葵”になる。
漢字の方がかっこいいが、うちのは敢えて、ひらがなにしたい。何となく漢字にしてしまうと、何か大きな深い意味を持ち合わせてしまい、素朴な感じがなくなるように思う。
たとえばゴッホのひまわりは、「向日葵」でもいいのだろうが、うちのひまわりは「ひまわり」のままで、敢えて漢字変換しなくていい。カマキリの赤ん坊に葉っぱを好きなだけ食わせてしまったことでもあるし、そのボロボロなイメージは、向日葵という表記にふさわしくない。
昔、「バラが咲いた」というフォークソングが大ヒットした。その中に“寂しかった僕の庭が明るくなった”という意味の歌詞があった。
ひまわりもまさにそうだなとボクは思う。特定の目的もなく、ただ薄らぼんやりと存在していた砂の空き地(ボクはそこを“多目的空地”と呼んでいる)に、ひまわりが咲いて、空き地がというか家の周囲が明るくなった。辺り一面除草し、枯草を燃やしたのも功を奏したが、ひまわりがもたらしてくれる目に見えないウキウキ感は計り知れない。
ただ、ここ最近のはっきりしない夏の様子や、ゲリラ的豪雨をもたらす異常気象は、この平和なひまわり感に影を落としてもいる。ひまわりたちも、開花のスピードを落とされ、申し訳なさそうに見えていたのは気のせいか・・・。
しかし、やはりひまわりは夏の情緒をカンペキに表現する花だと思う。敢えて情緒としたのも、ただ単なる見た目だけの要素ではない何かが、あの黄色と茶色の花全体に凝縮されていると感じるからだ。
文句のつけようがない清々しさがある。堂々として潔く、物事に動じないような大らかさがある。だから、見ている者に勇気を与え、今日を頑張ろうとか、明日への活力などといった美しい響きの言葉を連想させたりするのだ。
ところで、今は亡き酔生虫先生の俳句でボクが最も好きなものに、「黒髪をアップで束ね夏野ゆく」というのがある。その句の中では、かっこいい女の子が闊歩していく草原の道の脇に、美しいひまわりが立っているという情景が、ボクのイメージだ。とにかくひたすら元気を発信する、ひまわりなのだ。
そんなわけで、ボクの家のひまわりは咲いたのだが、賢明な読者の皆さんには、あのライバル?N西さんちの畑に植えられたひまわりは一体どうなったか? さぞかし気になっていることだろう。
実はほぼ同時に花は開いたと言っていい。しかし、N西さんちのひまわりは、うちよりもちょっと小ぶりの、花の色もレモンイエローに近かった。ちょっと明朗さに欠ける・・・。うちのはイエローそのものだ。しかも花は大型ではなく中型。よく大型で、だらりと花自体を垂らしているだらしないのを目にするが、あそこまでいかない精悍さを持っている。直立した姿も凛々しく映る。
そういう意味で、やはり僕の住む石川県内灘町宮坂南部エリアにおいては、うちのひまわりが最も上品に出来ていると言えるのではないだろうか。
咲き始めてから二日後、咲いた中では最も背の低いやつをハサミで切り取り、食卓の上に置いてやった。食卓に黄色の花が映えて、なかなか食事に集中できなくなった。ビールなどは、気が付いたら空っぽになっていたりして、ついついまたもう一本と本数が増えていく。横を向いていたりすると、ちょっとすねているみたいで、どうしたんだよ・・・などと、声をかけてやりたくもなる。
また夏が再燃しそうだが、我が家周辺のひまわりたちも、これから先ますます花数を増やしつつ、元気を発信していくのだろう。そう言えば、久しぶりに河北潟干拓地の中のジョギングを再開した。これも、ひまわりのパワーのおかげかな・・・・・・
※「ひまわりを待つ・・・」も読んでくれ。 http://htbt.jp/?p=2765
まずは、開花おめでとうございます。ひまわりって、こうやって見ると存在感が在る花ですね。一家の大黒柱の様です。
そうなんですよ。
その存在感は、ケタ外れに大きい。
花自体の大らかさが、見る者を鼓舞するみたいですね。
来年は、うちの多目的空き地を、
「宮坂ひまわり村」にしようかと考えているところです・・・
ひまわり大好きです。
その昔、友達に「マキのイメージはひまわり」と言って
誕生日にひまわりの絵をプレゼントしてもらいました。
そんな若かりし頃もあったのを思い出しました・・・。
宮坂ひまわり村、楽しみにしてます。
ひまわり、、、つぅと、、、アレだぁ、、、映画のほうだな、思い出すのぁ。
ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニのやつな。
セリフはないんだけど、二人の想いがヒシヒシと押し寄せてくるよなラストシーン、、、あれはグッときたよ。あんな映画、二度と出てこねぇよな、、、
で、途方にくれつつソフィア・ローレンが、ロシアの大地に地平線まで咲き誇る広大なひまわり畑にたたずむシーン、、、
実は、あのシーンはロシアではなく、スペインで撮ったという、、、
渋いですねえ。
小学校の頃にスクリーンなどの一般映画誌の他に、
国際映画情報とかという
バカでかくて分厚い映画情報誌を購読していました。
とても高価なもので、もちろん自分ではなく、兄貴の購読です。
その中のソフィア・ローレンやマストロヤンニは、
アラン・ドロンやジャン・ポール・ベルモンドなどともに
何となく好きになれない映画俳優たちでした。
やはり、ジョン・ウエインであり、グレゴリー・ペックであり、
ポール・ニューマンであり、クリント・イーストウッド…だったのです。
フランスとかイタリアの文化とかは性に合わず、
今でも、モレシャンを見るとむかつきます。
だから、映画「ひまわり」は見ていません。
BSで障りだけ見たことがあるような・・・
だから、ラストシーンは記憶にあります・・・
マキさん、久しぶりです。
投稿チェックしてなくてスマぬです。
そういえば、この前ひまわり色のTシャツ着てたね。
うちのひまわり、まだまだこれからの分もあって、
異常に楽しみにしている自分がいます。
たぶん、次に書く話もひまわりになりそうなんです。
シツコイかなあ…?
オレは、陰影がある画面構成、、、例えば’70年前後のフランスとかイタリアの映画が好きだったりするだよね。
カーチェイスバリバリのアメリカンなギャング映画よか、アラン・ドロンやジャン・ポール・ベルモントの『ボルサリーノ』とか、アラン・ドロンとジャン・ギャバンの『暗黒街』の二人とかね、、、
今から37年前、一年間で100本映画を観たけど、当時はアラン・ドロンが主演の映画って多かったな。渋くて、いがったァァァ♪