郡上八幡~あれこれの一日


恥ずかしながら、この歳になって初めて郡上八幡を歩いてきた。そして、今更ながらになかなかいいところだなあと思ったりもした。

普通この歳になって初めてというと、パリのなんとか通りに七回も通って、やっと自分に合った美味しいカフェと出会ったよ…などというのが正しいのだろうが、残念ながら今のところも、近い将来もそういったことは考えられない。

さて、五箇山、白川、荘川、清見、ひるがの・・・、そして、郡上。順番は曖昧だが、このあたりは東海北陸自動車道や国道156号で繋がれていて、とても分かりやすい。そればかりか、風景も生活の匂いも似通っていて、昔から安心して訪れることのできる大好きな一帯だ。

秋も深まりつつある十月の、ある快晴の一日。まだまだ紅葉には早いが、夏の暑さからも解放された飛騨路には、相変わらず多くの人がやって来る。ちょうど秋の高山祭の日と重なったせいだろうか、名古屋方面からのクルマは見事に数珠つなぎだった。

行きは高速、帰りは低速(下道)が、このあたりに来る時の決まりになっている。当然、帰りの方が楽しい。

快適に行きの高速をこなして、九時半頃には郡上八幡インターで下りた。家を出て約二時間。

とりあえず行き当たりばったりの行程だから、いきなり方向を間違う。これもほぼ想定内のことだが、リカバリーが重要だ。それと不幸中の幸いと言うやつも、ないよりはあった方がいい。

ああもう間違っているなあ…と分かった頃に、幸いと遭遇した。長良川鉄道の郡上八幡駅に着いたのだ。予定していなかった場所なのだが、できればやはり見ておきたい場所である。

なかなか雰囲気のある駅舎が、背後の小高い山並みを背景にして静かに建つ。若い女の子がひとり佇んでいる。一人旅、しかも鉄道利用というところがいい。見た目だけでなく、心も逞しそうな女の子であった。

駅の中もシックで、待合室では駅員と地元の利用者らしき男性とが、普段着のままの会話を繰り返している。奥には古い鉄道資料の展示コーナーがあったりする。電車は来なかったが、ホームの雰囲気もひたすらよかった。

郡上八幡と言えば、まず郡上八幡城へと登るのが正しいと思って来た。それがどういうわけか、まず駅に行ってしまったのだが、小さな町なので案ずることはない。城への登り口を見つけると、一気に登り詰める。

クルマで行ってもいいのだろうかという狭い道なのだが、城の真下まで来るとちゃんと駐車場があった。それに一方通行になっていて、帰りは反対側に下ればいい。

周辺がきれいに整備されていた。城郭を見上げたり、城下のまちを見下ろしたりする見せ場がある。城自体も美しい。歴史的にはさほど重要とは思えない城だが、やはり山城の雰囲気は好きだ。

永禄二年(1559)の建造らしい。というと、武田信玄・上杉謙信が戦った川中島の合戦の最激戦があった永禄四年の二年前か…と知見を披露しようとしたりする。このあたりの話にピンとくるのは、よほどの戦国通だが、そんな時代にこの城が出来たことなど、歴史には出てこない。

思いっきり話を脱線させるが・・・・・・・・、永禄四年の川中島の合戦では、武田軍の有名な戦術家・山本勘助が戦死した。勘助の作戦によって信玄の弟信繁も戦死。武田軍は上杉軍よりもはるかに多くの死者を出した。世の中の多くは両者互角などといった非現実的な評価を下しているが、あの壮烈な戦いの中で最後に川中島一帯の雄大な土地を有したのがどっちであったかを考えれば、勝敗ははっきりしている。武田軍が勝ったのだ。

武田信玄と上杉謙信。戦国時代、最も強かったと言われるこの両者の中では、常に謙信が美化されてきた。大河ドラマでも石坂浩二やガクトなどが演じてビジュアル系は謙信の方だった。

しかし、現実の謙信は毛深くて男色(生涯独身…)で、戦でも常に大義名分や正義ばかりを唱え、自分を毘沙門天の生まれ変わりみたいに錯覚していたと言われている。要するに統治能力のない、戦争好きの、この前まで戦争ばかりしていたどっかの国の大統領みたいなものだったのだ(かなり個人的な感情も入っているが)。政治が上手く、家臣たちを大事にした信玄とは人間の器が違っていた。

ついでに書くと、信長も家康も武田軍の前では、NYヤンキースと横浜ベイスターズみたいなもので、戦は五回コールド。

家康は三方ケ原というところでボロクソに蹴散らされ、わずかな家来と共に城に逃げ帰った。武田の軍は巣に逃げ帰った子狸など追いもしなかった。

信長は最強の武田軍が上洛する報せを聞いて、逃げる手段や命乞いの言い訳に苦慮していたが、信玄はその途上に駒場というところで病死し、天下統一の夢は果ててしまう……。

歴史は信玄の味方をしてくれなかった。もし、信玄が天下を取っていたら、あの下品極まりない秀吉も世に出てこなかった。前田利家なんぞは、愛知の山の中で兼業農家をしていたかもしれない。

金沢も今のような金沢にはなれなかっただろう。兼六園もなく、武家屋敷もなく、伝統工芸も伝統芸能もなく…とは言わないが、平凡なひとつの都市になっていたにちがいない。

 大学時代の最期の方から、社会人の初めにかけて、ボクは山梨の友人の影響を受けて、武田信玄の足跡を追った。それもかなり並はずれた追い方で、多くの本を読み、ゆかりの土地にもほとんど出かけた。さっきの川中島合戦の実況中継も、できないことはない。

 ………そんなことを思い出すきっかけとなった郡上八幡城。 城内は幾層にもなっていて、最上階から眺める城下のまち並みが美しい。やはり川の流れが特徴的だ。

城を後に一気に下ると、山内一豊と妻の千代の像があったりする。大河ドラマで仲間由紀恵が演じて有名になった千代だが、その父親が郡上八幡城の初代城主だったという。

町中の狭い道をたどって、郡上八幡博覧館という施設の後ろにクルマを置き、そこを見学してから柳町と言う古い家並みが続く裏道を歩く。安養寺と言う大きな寺があり、その前に湧水が出ていた。カップも置かれていて、飲もうかなとちょっと躊躇していると、後ろから来た若い女の子たちが一気に前に出てきて、がぶがぶと飲んでいった。

ここで飲むと間接なんとかになってしまう。さらに躊躇し、結局飲むのをやめた。

昼飯はというと、もちろん郡上八幡では“うなぎ”ということになっている。吉田屋さんという名前の知れた?うなぎ屋さんがあって、迷うことなくそこへと歩く。

予想どおり待たなくてはならない。ただ待っていても仕方ないので、名前を書いてから外に出て、すぐ横にあるおみやげ品のスーパーみたいなところをブラブラする。店もでかいが、その商品構成たるやも凄い。それと、郡上八幡はサンプル品のメッカらしく、食品のサンプルがずらっと並ぶ。専門店もあったりして、その精巧さに驚かされた。

出てきたうな丼は、豪快な盛り方で、脂ののった美味い昼飯となった。

クルマを取りに戻り、今度は本町の駐車場に入れる。さっきは無料だったが、今度は五百円止め放題。

ようやく郡上八幡らしい古いまち並みと川の流れを、たっぷりと楽しむことにする。

川は、長良川に注ぎ込む吉田川というのが町の中心部を流れ、その吉田川に小駄良川という小さな川が流れ込む。それも美しい。

まず、郡上八幡のシンボルと言われる宗祇水という湧水のあるところへ下りて、小駄良川にかかる清水橋という朱塗りの橋を渡る。しばらくして吉田川と合流する河原に出ると、子供たちの水遊びをしている歓声が聞こえてきた。まるで演出されてでもいるかのような光景だ。石の上を渡りながら、流れの中の方へと行ってみる。流れは早く、水はあくまでも透明だった。

吉田川の流れも格別に、ただひたすら美しい。親水遊歩道と名付けられた道を歩きながら、あまりの水の綺麗さに何度も唸る。白い大きな犬が水の上を泳いでいる。

子供たちが川に飛び込む光景で知られる新橋に立つと、あまりの高さに足がすくんだ。これはちょっとどころか、かなり勇気が要るぞと驚く。四万十川の橋から飛び込むのは、まだやれそうな気がしたが、ここは無理だと腰を引いた。

郡上八幡旧庁舎会館をぶらついた後、町中に戻るようにして、乙姫川という可愛らしい名の付いた川沿いの道に入る。川というよりは整備された用水みたいな小さな流れだ。このあたりの佇まいも落ち着いた歴史感というか、もっとシンプルで静かな生活感みたいなものを漂わせていた。

人が多いのに本当に驚かされる。小さな美術館もあったりして、一ヶ所に落ち着かせてくれない。

古い商家の座敷が喫茶になった店に入って、ようやくコーヒーブレイク。ボーっと庭を見ながら…と思ったが、この中もひっきりなしの客で慌ただしかった。

ひたすらぶらぶらしながらの郡上八幡。人の流れは夕方近くになっても変わらない。人気の蕎麦屋さんなのだろうか、昼からの列がまだ引いていなかった。

クルマに戻って、ゆっくりと郡上八幡の町を出た。下道をひたすら走る。白川辺りで日は完全に暮れる。真っ暗になった、白川郷を過ぎて、白川インターから高速に乗った。

飛騨古川も変貌した当時唸ったが、郡上八幡はそれ以上だ。城下町であったことが大きいのだろう。福井の大野に似た水のきれいな城下町だが、ボクの中では郡上八幡の方がはるかに上だった。

やはりそれは、飛騨だからだろう。昔から、ボクは信州とか飛騨とかという名前に弱かった。その漢字を見ただけでも参っていた。

次回はいつにしようか? いつも簡単に出かけているエリアだ。いつでも行けるが、もう、また行きたくなっている………

 


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