金沢らしさは、日本らしさだった


竹林

 もう古い話で、金沢市やいくつかの市町村で観光CIやサイン計画などの仕事をしていた頃のことだ。

 ボクにはJというアメリカ人と、もうひとり彼ほど親しくはなかったが、彼の友人でG(だったと思う)というドイツ人の友人がいた。

 ある人の紹介で、金沢の飲み屋さんで知り合った。

 二人は金沢に住み、特にJは金沢のまちにかなり融け込んだ日々を送っていた。

 お察しのとおり、ボクの英語は、彼らの日本語ぐらいで、むずかしい表現は分からなかった。

 互いに日英の会話を勉強(ボクはそれほどでもなかったが)していたといった方がいい。

 観光の仕事の中でモニターをしてもらう時には、あらかじめ日本語のテキストを渡しておくと、彼らは自分で英訳(Gも日常は英語だった)した。

 二人ともかなりのインテリだったから、予備知識もかなり広く深く叩き込んでいてくれた。

 そして、レポートを書いてくれると、こちらが和訳した。

 Jは、凄く金沢びいきのオトコだった。

 というのもビジネスで東京に転勤で来た時に、日本の文化にショックを受け、もっと深く日本を知りたいと思ったという。

 それで詳しい経緯は忘れたが、誰かに日本を知るなら金沢へ行けと教えられ、金沢に来た後すぐに会社をやめて、金沢に住み始めたと言った。

 収入は英会話の講師料などだったが、両親が大学教授と弁護士とかで仕送りもあったのだと思う。

 いつも大きなザックを肩にかけ、当時としてはめずらしい電子辞書を手にしていた。

 彼らとは、まず羽咋市の曹洞宗の名刹・永光寺(ようこうじ)に出かけ、まだ今のように整備される前の永光寺の森で、ひたすらボーっとしていた?のを覚えている。

 彼らは永光寺を絶賛した。寺の建築的な魅力自体ではなく、森や水の流れや石段やその他、ボクが予想していた以上の、深い感想をレポートに書いてきた。

 残念ながら手元には何も残っていないが、特にGのレポートは、ちょっと哲学的だったような記憶がある。

 永光寺はその後、周辺整備が一気に進み、今のような素晴らしい環境になったのだ。

 金沢については、仕事そのものよりも、余暇の時間にぶらぶらと出かけた場所の方が印象に残っている。

 特に印象深かったのが、竹林のある別所というところと、卯辰山の中腹にある卯辰三社(前田家にゆかりのある三神社が建つ)へ出かけた時のことだ。

 別所が観光地であるという認識は、金沢の人にはないと思う。

 筍の季節でない時には、特に用事もなかったりする。

 実際に三人で行った時も、ただクルマを走らせているだけで、あっという間に通り過ぎてしまった。

 彼らはどこかで降ろされ、竹林の中を歩けると思っていたのだろう。

「降リナイノ?」とJが言ったかどうか、Gもそんな感じの顔をしていた。

 ボクは多分その時、「これだけだよ」と言ったはずだ。それにたまたまこの辺りまで来ただけという思いもあった。

 卯辰三社も、途中の苔むした長い石段がちょっと危険で、さらに夏には薄暗い坂道に蚊の大群が発生するという難所?だった。

 そこへ敢えて行ったのは、石段の風情がもともと気に入っていて、そこを見せてやろうと思ったからだ。

 とにかく少し登ったところの曲がり角で、上を見上げて戻ればいいと思っていた。

 ところが、二人とも石段を登ろうという。

 そして、ボクたちはゆっくり、それぞれが少しずつ間隔を置いて石段を登って行った。

「素晴ラシィー。サスガ金沢デスネェ~」 うしろから声がした。

 この石段は、その後にも金沢の三寺院群を歩く道の取材で再認識することになり、そこで出会った旅行者の青年が、やはり金沢は凄い!などと同じことを口にしていた。

 数日後、木倉町の居酒屋で金沢観光についての感想語りが始まり、その後、日銀ウラ「 Y 」でウイスキーを飲みながら続けた。

 その日は茶屋街の話をする予定だったと思うが、それよりも、二人は別所の竹藪と卯辰三社に通じる石段に強く魅かれたと言った。

 よく分かったのは、彼らは敢えて「金沢的なもの」を求めているのではなく、「日本的なもの」を求めていたということだった。

 金沢は日本的だからこそ、人気のもとがあるということなのだろうかとその時思った。

 その頃はまだ、大河ドラマで「利家とまつ」が放映されるなど、夢のまた夢のさらにまた夢ぐらいな時であったし、今のような海外からの観光客なども全く想定していない。

 だから、「日本的」などといった考え方は全くなかったと言っていい。

 その後、大河ドラマを経て「公家の京都」「武家の金沢」といった、日本史全体的視点からの話が金沢だけでちょっと盛り上がったりしたが、それも大したことはなかった。

 ボクにとっては彼ら二人だけの感覚でしかなかったが、先に書いた羽咋の永光寺の話を加味してみても、やはり日本的であるということのインパクトはかなり大きいと思えたのだ。

 そこらへんを履き違えて、金沢、金沢と声を張り上げていても、外国人は理解してくれない気がするなと、その時思った。

 何年か前、観光関連の人から、この話の場所を確認したいと電話が来た。

 教えはしたが、それなりの準備が要る。季節も大切だ。

 アジアの金持ちの人たちは、買い物が主で、日本的なものとしては鎧や兜や日本刀も欲しがると、東京の人に聞いたことがある。

 歴史や風土はまだまだ理解してもらえないだろうと。

 秋葉原の電気屋の空きスペースに工芸品を置くと、確実に売れるよと言った人もいた。

 石川の伝統工芸であれば、間違いなく売れるのかも知れない。しかし、そこまでする必要はない。してもいけない。

 ところで、金沢を離れたらしいGの消息は簡単に途絶えたが、Jとはそれから後も長く続いた。

 最後は中国に渡り、北上してシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに着いてから、再びアメリカに戻ると言っていた。

 今頃はアメリカで弁護士になっているはずだ。

 飛行機で日本を発つとき、突然会社に電話が入った。

 早口なのと、顔が見えないのとで、何を言っているのか分からず、結局、

 「Good luck  J!」とテレながら言っていたのだけ覚えている。

 彼が今いたら、金沢をどう語るだろう。

 また彼らと金沢のまちを歩いてみたいと、ときどき思う……


“金沢らしさは、日本らしさだった” への1件の返信

  1. なるほどと読んだ後で納得。
    外国の人って、金沢という小さな単位ではなく、
    日本という単位で見ているんですね、
    小さな国ですから。
    日本らしさを金沢で感じ取ってもらう
    そういうことが大事な要素なんだ・・・

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