🖋 能登の山びとの一端を知る
『山に生きる人びと』(民俗学者 宮本常一著)。
少なくともボクにとって、この本には、人が山とのつながりを作っていった、さまざまな過程がきめ細かく紹介されていて、ぐんぐん引き込まれていく魅力がある。
信仰、狩り、杣から大工、そして木地、杓子・鍬柄づくり、落人村、鉄山師、炭焼き、などへと、人が山を仕事の場にしたり、生活の場にしていった話は尽きることがないみたいだ。
普段何気なく見ている山里の風景の中にも、そういった時空の匂いがプンプンしている。
山は動かないし、それほど大きく形を変えることもないから、平凡にも見えるが、そうであるからこそ、心を静かに燃え上がらせるパワーを感じるのだ。
ところで、この本の中に、わずかなスペースしか割いていないが、石川県能登半島の南山というところで聞いたという話が出てくる。
それは、近くの山で鍬の柄を作るための木を探し、それを売ってわずかな現金収入を得ていたという人たちの話だ。
『…… そこは貧しい村であった。生産力が低いからである。一年間かかって適当な木を見つけてつくっても、二〇〇本をこえることはむずかしかった。それを一年に二回ほどひらかれる海岸の正院の市へ持って売るのだが、それが一年中の主要な金銭収入だったのである。生産力の低さのためにろくなものも食えず、正院の市でブリの頭を買ってきて、それを鍋に入れてたいていると隣りの家からやってきて、
「ブリの匂いがするが、ブリの頭を買ってきたのか、一とおりダシを出したらかしてくれまいか」
とたのむ。するとその頭を隣家へ貸してやる。隣家ではそれをおかずのなかに入れてたく。その匂いをかいで、そのまた隣りの者が借りに来る。そうして三軒もの者がブリの頭をたくと、頭はこなごなになって骨だけがのこったものであるという。魚を食べるといってもその程度のことが一ばんごちそうであったという。……』
いつ頃取材された話なのかは、詳しく読みとれない。
しかし、この本は1964年に刊行されており、1907年生まれの宮本常一がずっと取材調査してきたことが綴られているわけだから、明治以降、戦後のことと言ってもおかしくはない。
鍬は今でこそ鉄の刃(正式には、床と呼ぶらしい)が付いていて当たり前だが、鉄が貴重な頃は、木の板が普通だった。
この話に出てくる鍬というのも、まさにそれなのだが、面白いのは、木の枝が柄になり、その枝がくっ付いている幹の一部を削り出すことによって、そのまま鍬の形にしてしまうやり方もあったということだ。
つまり、幹からいい角度で伸びている枝があったら、そのまま幹の適当な部分を抉り取り、枝も適度な長さに切って、それなりに処理をすれば鍬になったということだ。
ここに出てくる南山の人たちというのは、そのような鍬になる木を山から探し出し、市で年に二回ほど売っていたということなのだろう。
ところで、南山なのだが、これはボクの知る限り、現在の珠洲市若山町にある南山のことだろうと思う。
正院の市に売りに行くとあることからも、そう推測できる。
この本の中では、落人村の章の中に非常に面白い話があった。
特に、山里の奥にさらに小さな集落があり、その集落からさらに奥に一軒だけ家があったりするという光景は、ボクもかつて目にしたことのある不思議なものだった。
最近は、道路がやたらと多く造られ、そんな一軒家がその道路の近くになったりして不便さはなくなるケースもあるみたいだが、元来、そこにたどり着くには相当な時間を要していたはずだ。
そして、不思議なのは、そんな一軒だけの家は広い敷地の中で、大きな構えの立派な造りになっているということだ。
墓なども家から少し離れた場所にあって、小さな盆地状の土地が、静かな桃源郷のような印象さえ持たせたりする。
ボクは現実に、能登のそういう場所を知っているが、旧富来などの山中には驚くようなところがある。
昨年、旧門前で「いしる」を造っている人の話を聞いたが、昔は、いしるが出来ると、夕方背中に担いで山越えし、翌朝山中のお客さんに届けたという。
女の仕事であったというが、夜歩きとおして、旧富来の山中の集落に着いたらしい。
そこにも山中に一軒しかないお客さんの家もあったと聞いた。
詳しいことは分からないが、興味だけはひたすら湧いてくる。
かつて、富山の有峰の人たちの話を聞いたことがあるが、かなり次元を超えたものを感じた。
祖父が熊撃ちだったという人の話には、自然の中で生きるというよりも、自然に生きるという“生き方”を教わったような気がした。
ただ、言葉では理解できても、それ以上の域には当然行けるはずもなかった。
この本と対をなす『海に生きる人びと』という書が、同年に出されているらしい。
次は、それにチャレンジしてみようと思っている……
能登出身の某氏から
嬉しい便りが届いていた。
能登の山里の素晴らしさを
その方も大いに語っていて、
それを宮本常一をとおして
考えたというところに意味があると言われた。
宮本常一は実際に能登にも訪れている。
さらに奥深く宮本常一の世界に入り込む必要があるのだ…