私的エネルギーが希薄になってきた
毎年恒例にしてきた、妙高・笹ヶ峰エリアでのスキーハイク。
今年はどうやら行けそうにないことがはっきりしてきた。
かなり以前から、何となくそんな気配が漂い始め、自分自身がすでにあきらめムードに入っていたと言っていい。
唐突だが、こういう日々のことを、30年以上前から“下品な日々”と呼んできた。
そして、今は“かなり”が付くくらいの“下品な日々”であって、自分史上、最悪に近い下品さかもしれないと思っている。
では、“上品な日々”とはどういう日々を言うかなのだが、この場合簡単に言うと、自分の楽しみをしっかり確保している日々ということになる。
つまり、どんなに仕事が忙しかろうが、自分のための時間をしっかりと持って、それなりに有意義に、楽しく過ごしているという日々が“上品な日々”なのである。
そして、その源を、「私的エネルギー」と呼んできた。
対語である公的エネルギーが、仕事などのためのエネルギーだとすれば、私的エネルギーは趣味などのためのエネルギーであって、その両者のバランスが崩れては、ヒトは正しく生きていけないのだとハゲしく思ってきたのだ。
それも、かなり入れ込んだ私的エネルギーがボクは好きだった。
しかし、世の中にはこの私的エネルギーの意味を理解してくれる人は多くない。
この四月から、住んでいる小さな地区の役員になってしまったのだが、初めての会合で、これからの会合には欠席しないようにと、しつこく要請された。
「N居さんは、本まで書いている人だから、時間はたっぷりあるんでしょ?」などと言われ、当然ながらカチン!ときた。
文章を書いているということ=時間のある人と解釈できるアタマの構造を疑った。
ボクには私的エネルギーによって日々活動してきたことがたくさんあり、そのことをイチイチ説明したりすることは難しいのだが、かと言って、公的エネルギーもふんだんに使っている。
だから、当然のように時間は乏しいのだ。
物理的?に言えば、カラダはひとつしかないから一ヶ所にしか居られないが、アタマ(の中身)は、それなりにあちらこちらへと行ける。
だから、いろいろなことにアタマを突っ込ませて、何となくいろいろな場で、ああだこうだと言っていられたりもする。
しかし、そんなことで、N居さんには時間のゆとりがあるのね…などと思われては困る。
ボクのこの忙しさ?を、本当に理解しているのはほんのわずかな人たちだけだ。
そんなわけで、好きな山へ出かけ、雪の上にいっぱい何やら広げて、ビールをあおりながらボーッとしていたって、それはそれなりに忙しい時間なのであり、それはそれなりに意味のある、つまり“上品な日々”のための時間なのだということを強調し、今回の話を締めることにする…