能楽堂で脳しんとうの話


兼六園の周辺を見てまわる用事があって、本多の森にある能楽堂付近にも足を運んだ。能楽堂前の小さな広場の、その隅っこ。

新緑に囲まれ、「杜若(かきつばた)」像がひっそりと建っている。

この像はかつて、金沢駅前にあったのだが、駅前広場の整備でこの場所へと移設された。

今、金沢駅前には「鼓門」が建つが、金沢と能とのつながりは永遠に不滅なのだ。

数年前の冬の終わり頃。仕事で能楽堂を訪れ、この杜若像を見つけた。

周囲にはまだ残雪が散在していたが、なぜか嬉しくなり、写真をバシャバシャと撮った。

そして、いざ帰ろうとした時だ。

ちょっと高くなっている広場から、直接脇の細い道に出ようと、小さな斜面を下ろうとした…その時。

凍って固くなったままの雪の上に足を載せた瞬間、仰向けに体ごとひっくり返ってしまった。

午後の時間だったが、気温は低く残雪は緩んでいなかった。

雪か芝かに後頭部を強く打った。

視界が真っ暗に?なり、一瞬何が起きたのか分からない。

まずいッと、ただそれだけ思った。

朦朧としたまま、ゆっくりと立ち上がるが、数少ない脳ミソがすべて前方へと移動したような気がして不気味だ。

思わず、自分の名前を口にした。住所も血液型も口にしていた。

好きな食べ物はと自問し、ハタハタと油揚げと、これはアタマの中だけで答えた。

立山周辺での単独スキーツアーの時の事故を思い出す。

岩と岩の窪みの上に積もっていた雪を踏み抜き、尾テイ骨を激しく打って動けなくなったことがあった。ケツとアタマの違いを真面目に考えてしまう。

その夜の家人の警告もあり、翌朝、脳神経外科へ向かったのは言うまでもない。

輪切りにされたアタマの写真を見せられたが、特に異常は見当たりませんねえと、先生は面倒臭そうに答えた。

ボクもそれ以上は考えないことにした。そして、今に至っている。

普通に生活できているのだから、何ともなかったのだろう。

久しぶりに杜若像と再会し、思い出してしまった話だ……


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