辻まこと~というヒトがいた


辻まことを知っていますか?

 と聞いて、すぐさま知っていると答えた人はほとんどいなかった。別に知らなくても日々の生活に困ることはないので心配ないのだが、ボクの場合、二十四年も前に知ってしまったおかげで、随分と幸せな気分にさせてもらった一人である。

 1987年の『山と渓谷』12月号。「辻まこと」がその中で特集されていた。

 画家であり、グラフィックデザイナーであり、詩人であり、エッセイストであり、ギタリストであり、山歩きの達人であり、イワナ釣りの名人であり、山岳スキーの名手であり……と、さまざまに紹介されていながら、そのどれもが奥義を究めたものだったと言われる辻まこと。

 何とおりもの人物像をもちながら、どの分野においても強烈な印象を与えていたと言われる。

 1913年に生まれ、75年に他界。父は放浪癖の翻訳家として知られる辻潤。母は婦人運動家であり、潤と離婚したのち、無政府主義者・大杉栄と同棲し、後に関東大震災後の戒厳令下、大杉と共に虐殺された伊藤野枝である。日本史をちょっと深めに勉強した人なら、聞いた覚えはあるだろう(甘粕事件)。こんな話はボクにとってどうでもいいことだと思ってきたが、やはり辻まことを知る上で重要だった。

 三歳になる前に両親が離婚したまことは、父のもとにおかれるが、父が放浪していた間は叔母に養われた。15歳で父とパリに滞在。当時から絵描きになりたいという思いを持っていたが、ルーブル美術館を一ヶ月間見て、すっかり絶望的になったという。

 帰国した後は、昼働き夜は学校という生活になったが、その学校も中退。デザイン関係の仕事に就いたりもした。

 そしてその間、どういうわけか竹久夢二の次男・不二彦らと金鉱探しに夢中になり、東北や信越の山々を駆け巡ったという。このことが後の山歩きの達人の素養を作った。

 大戦中は東亜日報の記者として中国に渡ったが、後に徴用され報道班員として従軍している。

 辻まことが、その所謂“辻まこと”的イメージを作り始めるのは、戦後、奥鬼怒や会津、信州などの山々に入るようになってかららしい。スキーも習得して活動フィールドを広めた。スキーはフランスのアルペン技術を研究し、国内の大会で入賞するまでになった。

 フリーのグラフィックデザイナーとして多くの雑誌広告を手掛けるようにもなり、さらに画文を発表したり、個展を開くなどの活動を続けてきたが、72年、59歳の時に、胃の切除手術を受け、療養生活の中での創作をなおも続けながら、75年、62歳でこの世を去っている。

 辻まことを知った当時、ボクは結婚していたが、それでもまだ山への憧れを強く抱く非日常志向型のニンゲンだった。

 北アルプスの麓・富山の山男たちと一緒に活動していたせいもあって、周囲にはヒマラヤや北米マッキンリーなどを登ってきた豪傑がいた。山岳パトロール隊や山小屋のおやじさんなど、山の生情報がいつも耳に入ってくる環境にいたのだ。

 しかし、ボク自身が極地まで足を踏み込むような野望をもっていたわけでは当然なく、ただひたすら山でビールでも飲みながらのんびりできればそれでいいか…みたいな感じだった。

 そんな時に辻まことと出会った(知った)ことは、ボクにとって幸い?でもあった。時代が違っても、心置きなく山を楽しむ心が、辻まことの発するあらゆるものにあふれていて、ボクを勇気づけてくれた。それ以前の、椎名誠や沢野ひとし等が繰り広げた山紀行なども大好きだったのは言うまでもない。

 その7、8年ほど前からだろうか、ボクは単独で山に入るようになっていたが、山のスタイルにはこのマイペースが最も相応しいと思うようになっていた。別な角度から言えば、それまで一緒に山に入っていた親友が、仕事が忙しくなり同行できなくなっていた。それまでドタバタ山行を繰り返してきたニンゲンが、独りでドタバタできなくなったということでもあったのだ。

 辻まことの絵は、ボクにとって温かい。専門的なことは分からないが、とにかく無性に温かくなって心が逆にざわめく。文章もさり気なく、温かみが増し、さらにざわめきを憧れに変えていく。

 描(書)いている本人の、いかにも楽しそうな雰囲気が伝わってきて羨ましくなってくる。

 タイトル写真にある『山からの言葉』という本は、ボクにとって大切な一冊だ。

 山岳雑誌の表紙の絵と、巻末に書いていたコラムを一緒にした素晴らしい本である。1982年に白日社から出ている(写真のものは平凡社ライブラリー1996発刊)が、辻まことの人生を締めくくる時期に書いた名著だと自信を持って言える。

 この本の中では、自由人・辻まことの一断面を知るに過ぎないが、単に山好きニンゲンたちだけのための面白話と、愉快でほのぼのとする絵の詰め合わせという枠ははるかに超えている。

 それは彼がピークハンター的な登山家ではなく、ポーターや猟師や釣り人などとしても、山と接してきたからに他ならない。絵とセットされた1ページの短い文章に接していくと、何となくそれが分かってくる。ゆったりとして、ユーモアも溢れんばかりだ。

 山でのさまざまなことが書かれているが、そこには「自分の眼でしか物を見ない本当の自由人」としての生き方が感じられる。いや、生き方というのは大袈裟だ。モノゴトのやり方や感じ方、思い方といった程度が相応しい。チカラが入っていない。

 心がざわめく温かさの正体は、そんなところにあるのだろう。

  数奇な少年時代を過ごしていながら、彼には暗さがない。敢えて明るくしていたという見方もあるが、彼はそんな単純な人ではなかったと思う。だから、自分の世界を求めた。絵はプロ級でありながら、敢えてその道一筋の芸術家にならなかったのも納得できる。

「夢中になるためには、相当量の馬鹿らしさが必要だ」と言った彼の言葉の中に、そんなことへの答えが見え隠れしている。

 そして、実際に眼で見るその絵からは、少年のような楽しさへの憧れと、常にユーモアを忘れなかった大人の匂いが漂ってくる。

“森林限界をぬけると、あとは雪と岩と青空だけの世界になる。つまり鉱物の世界だ。これ以上にサッパリして清潔な環境はちょっと考えられない。(中略) 快適で清冽な環境で、きびしい生活条件というのは、人に活気をあたえ、無駄をはぶくものだ。不自由な自分が自由に闘うのはいい気持だ”

 山岳雑誌だから、山の話が中心なのは当然だが、雪と岩と、そして「青空」を最後に書くあたりが、辻まことの辻まことたるところだ。やはり、山には青空がいる。そんな当たり前のことを、当たり前のように彼は書いた。

“人は皆、「この時代」に生きなければならないと、あくせくしているようだが、考えようによっては、勝手に自分の好きな時代を選んで生きることだってできるのである”・・・・・・ボクには、この文章が彼にとって、自分の世界のあり方を書いた一節のように読める。

 それが辻まことの世界なんだと、ボクは思う。

 なぜ辻まことを好きになったか?

 それは少年のような心を大人の表現で見せてくれるからだ。時代は異なるが、稲見一良にもちょっと共通すると思ったりする。彼らに共通するのは、大人の中に潜む少年と、少年の中に潜む大人があるということだ。それが“大人のオトコ”なのだと最近思うようになった。

 学生時代、ジャズと映画を語る植草甚一(JJ)の本も好きだった。余裕があるように見せて、実際はひたすら走っていただけだったのかも知れないが、ホンモノって何か?と粋がっていた気がする。そんなに深くもなかったが…

 ところで、今なぜ、辻まことだったのだろうか・・・なのだが、それは、とりあえず・・・ヒミツとしか言いようがない………

『 あてのない絵はがき』

『多摩川探検隊』

 

 

 


“辻まこと~というヒトがいた” への3件の返信

  1. 今の人たちの方がユニークで面白いのではないかと
    勘違いしていたかも知れない。
    そんなことを考えた。
    昔の人の方が、もっと深く濃かったような気がしてきた。

  2. 山にはいろいろ人がいて、
    ただひたすらピークを目指す人もいれば、
    山をただ素朴に楽しんでいるという人もいますね。
    そのどちらもが山の素晴らしさだと思います。
    このようなヒトがいてこそ、
    山の魅力が語られていくのだなと納得した次第です。
    それにしても、どこかでその古い「山と渓谷」見れませんかね?

  3. 山と渓谷のバックナンバーは、
    加賀市の深田久弥山の文化館に行くと
    見ることが出来るよ。
    かなり揃っているはず。
    中に、何編かボクの書いたものもあるから、
    ついでに探してみて・・・

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