雨の朝の山里の道・・・
前号の続きである。
つまり、羽咋の滝周辺で文化的匂いを嗅いでから、再び有料道路に乗ったのである。そして、しばらく走って今度は西山インターで下りることにした。
ここから志賀町を経て、輪島市へと向かう。
ちょっと前までの行政区分で言うと、志賀町から富来町に入り、門前町を経て輪島市に入ることになるのだが、今は表現があっ気ない。
どんなところでも小さな旅気分を味わえる…それが自分のやり方と、ちょっと自慢してきたのだが、最近のこのあっ気ない通過点の表現には寂しさを感じる。
まあ、そんなことはどうでもよく、とにかく西山で下りて、また国道249号線を北上。能登半島の外浦側を先端に向けて走るのだ。
途中で広域農道へと右折すると、その道は山間をひたすら真っ直ぐに、そしてアップダウンを繰り返しながら伸びている。
以前に『富来から門前への道1』、『・・・2』で書いた道だ。
あの日は夏真っ盛りで、山里はほぼ緑一色だった。
そのあとも何度もこの道を走ったが、ついこの前まで雪で被われていたのに、もうすっかり雪解けが進んで、北国の春らしき匂いさえ感じさせている。
山間に入り、しばらく走ると途中に小さな集落がある。水田を経て山裾にかわいい神社が見える。ずっと気になっていた小さな社だ。
思い切ってハンドルを切り、集落とは反対方向の細い道に入った。
すぐに道は行き止まりになり、小さな川に架けられた小さな橋を歩いて渡る。
愛宕神社と彫り込まれた真新しい石柱が建ち、社もそんなに古さを感じさせない。
すぐ背後が斜面となっていて、畑のようだ。以前に道路からこの畑を見た時、老婆らしき人影が立っていたのを思い出した。
誰かがいれば、それなりの物語も聞けるのであろうなあと思いつつ、そんなチャンスは滅多にないことも知っているので諦める。
いつものように、淡々とした立派な道路が申し訳ないくらいに延びていて、同じく申し訳ないくらいの少ない走行車両に恐縮しながら走る。
この高品質な道路が終わりに近づく頃から、この道中の本当の楽しみは始まる。
道のすぐ近くに三棟ほどの家屋が並ぶところがある。
金沢からの方向で言うと道の左手だが、山蔭にあるような感じで、逆走している時の方がはるかに見やすい。
この三棟はたぶん一軒の家の住まいやら小屋などではないだろうかと思うが、確認はしていない。
この家のある山間の小さな空間は、とても不思議な感覚をもたらした。
広域農道という近年整備された道路から見ていれば何でもない風景なのだが、この道路がなかった頃のこのあたりの風景とはどんなものだったのだろうと、想像を膨らませた。
昔(といっても、戦後までの話…)、旧門前の“いしる”売りの女の人たちが、山越えをして旧富来の山里にまでそれを担いで届けに行ったという話などは、この家を見ていると想像の中に具体性をもたらしてくれる。
そして、広域農道などという今風の道路がなかった時代の道はどうなっていたのだろうと、さらに想像の世界を大きくする。
去年の夏、旧盆の初めの頃に通った時、ある光景が目に飛び込んできた。
道路を挟んで、反対側のちょっと高台になった場所に、二つの墓が立っているのを見つけたのだ。広域農道は、家と墓とのど真ん中を通っていた。
キリコが下げられ、二、三人の人影が見えた。そこまで通じる小さな道らしきものも確認した。
広域農道がなかったら、家と墓は素朴に繋がっていたのだと思う。
それにしてもクルマのなかった時代の、この家の人たちの生活空間とはどんなものだったのだろう……?
広域農道が終わって、仁岸川上流の山村集落に来ると、夏は緑一色だった山間の水田も、今は雪解けの季節で、灰色の空を映し込んだりしているだけだ。
ここは何度も通り抜けたりしているが、正直言って、まだ人の姿を見たことがない。
水田で農作業をしている人の姿は遠目に見たことはあるが、道を歩いている人などはお目にかかっていないのだ。
夏や秋には道端にきれいな花も咲いたりしていて目を和ませてくれたが、今は色気のあるモノは何もない。
集落のはずれ、ちょっと下ったあたりにクルマを止め、仁岸川の橋を渡ってみた。
特に何があるわけでもないが、何となく地形によって変則的に作られた水田を見たくなった。
奥能登は今、千枚田をイメージシンボルみたいにして、里山里海なんとかに力が注れている。
しかし、ボクは奥能登の農村風景を語る時には、この場所のような風景を軸にするべきだなどと思っている。
古い話だが、都会のある小学生が、夏休みの宿題の図画で能登半島ドライブ旅行のことを描いたが、山の中に道路を一本描いて提出した。
先生はそれを見て、「能登って海でしょ。なぜ海で遊んだことを描かなかったの?」と聞いた。
そしたら、その生徒は「だって、ずっと山ばっかだったよ」と答えたというのだ。
その生徒にとっては、海よりも山の方が印象深かったのだろう。そんなこともあるのだ。
山ばっかりとは当然言えないが、能登は山間を経て海へ抜けるというか、逆に言えば、海岸線の漁村と山間の農村によって成り立っている文化をもってきたのだ。
ところで、ボクは「里山」という表現よりも「山里」の方が好きだ。
なんで今更、里山なのだろうか?と、首を17度ほど傾げてしまう。
たぶんその方がオシャレなのだろうが、本質を伝える言葉としては、山里にボクは軍配を上げる。人の生活を感じさせる響きがある。
小粒の雨が、またぽつりぽつりと落ちてきていた。
しかし、山肌からは、少し明るくなった空へと水蒸気が勢いよく昇っている。
山の世界では、これから晴れていく兆候だと教えられた光景だ。
ビギナーの頃、梅雨真っ盛りの剣岳登山で、川のようになった早月尾根の道を登りながら、虚しく聞いた思い出がある。
クルマを下りて、勢いを増す水蒸気たちを見上げた。
仁岸川を下って、日本海……。
しばらく走ると、いつもは堂々と聳えるはるか前方の猿山岬に雲がかかっていた。
まるで、日本海沖へと突っ走る蒸気機関車のようだ。
またしても、クルマを下りずにはいられなくなった……
(次号に、つづく)
猿山岬の写真、本当に霧の中を走る蒸気機関車に見えます。
奥能登の厳しさを垣間みる思いです。