3月が終わろうとしている頃の諸々話


三月は慌ただしく過ぎていき、気が付くともう月末(勝手を言いますが、「つきずえ」と読んでいただきたい……)と言った具合に終わりを迎えつつある。

次女の就職に伴う引っ越しや卒業式などといった身内的事情もあったが、この季節はやはり何かが動く時期で、それらに直面したりすると、とにかくひたすら慌ただしいと感じることになっているのである。

しかし、スケジュール表をあらためて見てみても、決して書き込みがすごいわけでもない。むしろ、一月や二月の方がぎっしりと予定が入っていた。

やはり、ちょっと気になることや心配を伴う予定があったりすると、ニンゲンは以前からそのことを気にかけるようになり、同時にまだ訪れていない慌ただしさも背負ってしまうのだろう。

三月も終わりに近づいて、玄関にはもうテレマークスキーの板もブーツもストックも用意されている。

長女のボードも置かれているが、あれは単なる片付け遅れで、こちらのテレマークとは立場が異なる。こちらはいよいよこれからが活動なのである。

三月も後半になると、少しずつ体が疼き始める。晴れる日が来そうになると、何はともあれ、会社を休むためのシミュレーションをすることにしていて、若い頃はそのとおりにできた。確実に休みをとっていたと言っていい。

しかし、最近では歳も喰ってきて、仕事もそれなりにズシリと肩から背中の真ん中あたりにのし掛かってくるものだから、ほとんどがシミュレーションで終わる。

家で、明日休んで行ってっかな…などと口にしても、家人は「日焼け止め、持って行かんなんよ」と言うくらいで、絶対に行けないと見透かしている。で、実際にはやはり行けないのである。

『四月になれば彼女が来る…』といったサイモン&ガーファンクルの名曲があったが、ボクにとっては四月になれば山へ行く・・・なのであった。

 

次女の引っ越しは、京都から草津(滋賀)という約一時間弱くらいの移動だった。

長女の時は京都から内灘(石川)で、引っ越し業界の雄・Sカイさんが見事なチームワークと気合の入れ方でコトを済ませてくれたが、今回の場合は就職先が提携している運送屋さんが独りでやってきて、ウ~とか、ア~とか言いながら、とにかく時間がないんです的に頑張っていた。

おかげでボクも荷物の積み降ろしを手伝い、久しぶりに鈍っていた体に緊張を与えることができたのは喜ばしいことだった。

休日の京都は、入るにも出るにも大いに時間がかかる。そこで、ひたすら時間がない運送屋さんが教えてくれたのは、比叡山を経て大津へと抜ける「山中越え」というルートだった。

我が家のマイカー史上、初の搭載となったカーナビゲーションとかいう文明の機器が威力を発揮した。と言っても自分のクルマではなく、家人のクルマのである。

京都はかなり行き尽くしていたが、「山中越え」を利用するのは初めてだった。

昔、朽木街道(今は鯖街道の方が名が通っているか)を経て大原へ行ったり、千日回峰という修験の道に興味を抱いて比叡山へ出かけたりしたことは何度もある。

さらに、大原から林業関係車両しか通らないような杉林の中の道を経て、最後は鞍馬まで行ったこともあった。しかし、「山中越え」の道の存在はなぜか知らなかった。

時々小雨が降ったりする山道は急カーブの連続で、ちょっと緊張が強いられた。

しかし、沿道の風情は時折ドキッとするくらいに気を引いたりもした。

 

草津という街は、国道1号線がズバッと突き抜けていて、一見分かりやすいところだった。

次女がこれから住む街だからと、それなりに思い入れも持ってきたつもりだったが、引っ越しの慌ただしさの中では当然そんなことに執着していることもできない。

ただ、生活していけるだけの空間づくりを手伝って買い出しに行き、スーパーの前にあった小さな洋食屋さんで昼飯を食い、それから持ち帰るものを積んだりしているうちに時間はなくなった。

それから一週間後には、また京都にいた。今度は卒業式だ。

長女は卒業後いつも京都行きに付いてくるが、ほとんど大学時代の友達と会うためで、交通費を浮かしている。今回も京都に着くとすぐ大阪にいる友人たちとのランチに向かっていた。

今回の京都行きにはそれなりに意味があった。

次女もいなくなれば、これから先京都への足も遠のくかと、思い切って町家の小さな旅館を予約したのだ。ところが、予約は何とかとれたが、当日の朝、その旅館を見つけるのに往生させられた。

すぐ近くに来ているにもかかわらず、見つけることができない。

近所のお店のお兄さんに聞いてようやく分かったが、想像した以上にひっそりと佇む宿だった。通りも歩行者と自転車だけが利用できるだけ。

客の半分ほどが外国人で、ボクが狭い階段付近で遭遇した三人の女性グループも、サンフランシスコから来たと言った。

「コンニチワ」と声をかけられ、顔が全く日本人だったので、カンペキに同朋だと思ったのだが、とにかく驚いた。

三畳間が二つくっ付いたような部屋で、四人家族が寝た。低い天井の梁には、少なくとも五回はアタマをぶつけた。バス・トイレ付だったが、着替えなどには気を遣った。

山小屋で狭い空間には慣れているが、そこは京都の宿だった。

夜は周辺を歩き回り、文句なしの京都を感じ取ってきた。もちろん、酒も飲んだ。

やはり、三月は慌ただしかったのだ。

四月になれば、この慌ただしさも何となく楽しみを伴うものに変わっていくだろう。

桜も咲けば、残雪も輝く。次女のことを時折思ったりしながら、三月が終わろうとしている……

 

 


「3月が終わろうとしている頃の諸々話」への1件のフィードバック

  1. いい雰囲気のお話でした。
    いろいろな事柄が重なり合って、
    さらに同時進行しながら
    時間は過ぎていくんですね。
    どこかで時間を止めたくなたりするけど、
    そうはいかない。
    中居さんの家族への思いが
    何となく伝わって来ました。

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