詩人・大野直子さん


 大野直子さんが第22回日本詩人クラブ新人賞を受賞された。凄い。

以前に中日新聞で見ていたのだが、先日、日本経済新聞の北陸欄(写真)にも紹介されていて、お顔も久しぶりに拝見した。

ボクとの交流だけで言うと、大野さんは、小誌『ヒトビト』の大変重要なエッセイストで、その文章はボク中心のガサツな文体ばかりの中にあって、爽やかな光を放っていた。

創刊号を出した時、どこで見つけたのか、わざわざ家まで来てくれて、一年分の予約と、こういうのが出るのを待っていたんです…、私も是非参加させてください!といった強いメッセージをくれた。

当時、大野さんの存在はもちろん、その非凡なる才能にも、お茶目な性格にも全く無知だったボクは、少し面倒臭かったので適当な返事をした。

しかし、大野さんはその後、積極的に寄稿され、『ヒトビト』知性及び情操担当局長的なポジションで、無くてはならない存在となっていく。

ただ、大野さんの本当の文章の凄さは、『ヒトビト』なんかよりも、それ以外の雑誌でのエッセイ風の読み物やご自身の詩集などで発揮されていった。

ボクがお願いしたものでは、金沢市発行の「金沢のにしを歩く」という小冊子での文章がまず燦然と輝いている。

西茶屋街を起点にして旅する多感な女性になりきり、好奇心旺盛な心情が伝わる美しくて、そして、どこか逞しさを感じさせる文章だった。

ボクはそのテキストを読ませてもらった時、何だか妙に落ち着きを失ってしまったのを覚えている。

それは、それまで日常的な、主婦的な視点で周囲を見つめ、言葉を編んできた大野さんとは、まったく違う何かを感じたからだ。

演技という表現手法があるが、文章によって大野さんは役者(女優)になりきっているように感じた。

演技力と文章力は似ている。文章が演技になっている…? 大野さんの好きな鏡花の世界に似ているではないか…?

何だかよく分からないまま、ボクはこうして大野さんの凄さに圧倒されていく。

その後の、金沢を中心にして発行されている雑誌などにおける文章でも、大野さんらしい、やさしくて研ぎ澄まされた文体がとてもよいと感じた。

処女詩集『寡黙な家』は、北陸現代詩人奨励賞、中日詩賞新人賞、日本海文学大賞で佳作を受賞している。

そんな意味では、あの無責任雑誌『ヒトビト』などでの執筆に対し、大野さんの名を汚し、かなり申し訳なく情けない気分でいたのも確かなのだった。

大野さんは最近まで、お母上、お父上の看病・介護に日常の多くの時間を費やしてきた。

しかし、その中で物書きとしての本性は失ってはいなかった。それが今回の受賞になっているからだ。

ただ、今回の『化け野』と、一作目の『寡黙な家』とでは、大きく周辺環境が違っていた。

『寡黙な家』の方は、日常的で平和な主婦的視点で編まれた詩集だったが、『化け野』では、死に向かう両親を支え、見守りながらの娘的視点が色濃く映る。

いや、映るなどといった曖昧な表現ではない。しっかりと刻み込まれているといった方がいい。

これらの苦痛や絶望や怒りや、その他多くの悲観的な要素の中での創作には、あらためてアタマが下がる。

そして、大野さんは間違いなく強いオンナであり、強いヒトになっているに違いない。

勝手な期待はいけないのだろうが、まだまだ、かつての大野直子調で綴ってもらいたい“もの”や“こと”が、この世の中にはたくさんあるような気がしている。

しかし、それはあくまでも小さな、控えめな期待だ。

家のポストに入っていた、ちょっと膨らんだ茶封筒。

中を開けると、一冊の本。もちろん『化け野』だった。

雨の中、わざわざ届けてくれたみたいだった。

後ろから、そして、そのままランダムに読んでみる……。

しかし、当然、自分の中では取掛かりになる言葉すら見つかっていない。

ひょっとすると、永遠に見つからないのかも知れない。

とても重いものが、深いものが、濃いものが、遠いものが、言葉ひとつひとつに託されているように感じる。

だから、これ以上は書かない。

とりあえずとして、大野さんには、もう一度「やっぱ、凄いなあ」とだけ言っておこう……


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