春山初山行の痛快編


数年前までは、ゴールデンウィークは山へ行くのが普通だった。

剣岳の圧倒的な山容を見るために、親友・Sと、山の先生・T本さんとの三人で出かけたのが初めての春山。

黒焦げになった上に擦り傷のついた顔と、ただれた唇。真っ赤になった目。

一見、何にもいいことがなかったみたいな容貌で下山してきたが、たぶん人生の中でも、あれだけの充実感は他になかったと思う。

未明の立山山麓、称名の滝へと続く道路。

その途中にクルマを置き、白い息を吐きながら、三人が歩く。

ベテランT本さんは、ボクらのような初心者に毛が生えた程度の若造に、このけわしい春山は厳しいと判断したのだろう。

いやいや、そんなことはない。

単に、久しぶりに春の雪山を楽しんできたいという、そんな思いに駆られただけかもしれない。

とにかく、ボクとSはウキウキしていた。なんとなく表情にも自信のようなものがあふれ、これからの登行を楽しみにしていた。

いよいよ、雪に覆われた急な斜面に差し掛かったところで、ベテランT本さんがその実力を発揮。

ボクたちには全く見当もつかないルートを、じっと見極めている。

そして、この方向に行け、と自信たっぷりに言った。

雪に覆われた急な斜面だ。

道などついていない。

そして、一歩その斜面に足を踏み出したところで驚いた。

全くケリが入らない。雪面は深くまでカチカチに凍っていた。

T本さんが先頭になって、一歩一歩慎重に足を運ぶ。

高く登れば登るほど、危険度は倍増していく。

下を見れば、ちょっとゾクッとする高度感だ。

しかも、足元はツルツルの氷のような雪。

徐々に斜面の角度が緩くなり、そこからまたかなりの時間を歩くと、大日平の雪原が目の前に広がった。

その奥に、目指す大日岳、奥大日岳の頂上がふたつ並んでいる。

空は真青。白い山々が、ただひたすら、とてつもなく美しい。

初めて快晴の朝であることを認識し、嬉しさで爆発しそうになる。

雪の上を歩くことが、こんなにも楽しいことだったのかと、我を忘れて戯(たわむ)れたくなった。

そして、いよいよ大日岳への登りに入った。

緩やかに伸びていく雪の大斜面に、簡易アイゼンを付けた靴が心地よく食い込む。

三人とも快調に進んだ。

しかし、半分ぐらい登った頃だろうか、ベテランT本さんが、突然、オレもう駄目だわ宣言。

お前ら若いんだから、二人だけで頂上行って来い…オレはここで昼飯作ってるから的リタイアとなった。

大きな岩の上にボクとSは、リュックを置き、身軽になってさらに頂上をめざす。

しかし、徐々にペースダウン。

Sは先行しながら、雪玉でケルンを作って、休憩のポイントにしていたが、そのペースが、最初は五十歩で休憩、三十歩で休憩となっていたのに、そのうち十歩で、五歩でと短くなっていった。

ボクが先頭を代わる。

辛かった。最後は一歩ごとに足を休め、大きく息をした。そして、急斜面が終わる最後の一歩のところで、ボクは歓声を上げた。

大日岳頂上直下の稜線に出たボクの目に、あの剣岳の雄々しい姿が飛び込んできたのだ。

言葉では語れない感動だった。

ボクとSは、肩を並べて、しばらく険しい剣岳の山肌と青い空とのコントラストに見入っていた。これがあるから、山はいいんだなあ。

頂上からの帰り道、ボクはもう一度剣岳と向き合った。

剣岳は、ボクが初めて本格的な登山を体験した山だった。

見下ろすと、中腹の大岩の上にいるT本さんの姿が小さく見えている。

鍋のようなものが置かれて、昼餉の準備が進んでいるようだ。

ボクとSは、にわかに覚えた尻セードという、早い話が、ケツで雪の斜面を滑り降りる方法で、一気にT本さんめがけ急下降した。

雪を入れたアルミカップに、ウイスキーを注いで乾杯。

昼餉は缶詰の魚や肉を煮直したりしたもので、かなり激しく美味かった。

日焼けした顔を見合い、笑い合う。

最後の下山では、雑穀谷のトラバースで足を取られ滑落した。

死ぬんではないかと、本気で思った……

もうすぐ、またそんな季節が来る。

どうしようかなあと考えている。

山は永遠なんだよと誰かが言ったが、ボクもそう思う。

空につながっているからだ。

ずっと、空まで導いてくれるような気がするからだ。

ただ、それだけなのだ…


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