「水田のある風景」が好きであるということについて…


   水田が好きだという、ボクの秘かな思いを知っているのは、ごくごく一部の人だけだ。いや、誰も知らないかな。一人ぐらいいるだろうと思うのだが、もしいたとしても、そうだったっけ?と、首をかしげられるかもしれない。

 水田が好きだというのは正しい表現ではない。正式には、水田のある風景が好きだということなのだが、そんなややこしいことも、掲載した写真を見れば、一目瞭然に納得してもらえるだろう。それにしても、なぜ水田のある風景はこんなにも美しいのだろうか?

 ここでは、そんなこと考えたって仕方ないジャン…などと、妙にシティボーイっぽくなって欲しくはないのだが、どうしてもそうなってしまうという人は、荷物をまとめて去ってもらおう。

 そんなこともどうでもよくて、やはり、なぜ水田のある風景は美しいのか?なのだ。写真で一目瞭然と書いたが、やはり一目瞭然である。五枚あるから五目瞭然とも言え、五目ラーメンのように、いろいろな具が混ざって絶妙の味を醸し出している、とも言える。

  当たり前だが、水田は水があるからいい。しかも、今の季節は田植えが終わった後の、まだ水面が広々とした鏡のようなはたらきをしていて、新緑や、青空を映し出したりしているのがいい。そして、時折、風に水面が波立ったりするのもよかったりする。文句のつけようのない美しさだ。これを美しいと思わない人は、たぶん、こころのどこかに捻(ひね)くれた何かを持っている人か、素直に自分の気持ちを言えない人だ。われわれ美しき心の持ち主には、そんなことはあり得ない。上高地の梓川の清流を見た人で、美しいとは思わなかったという人はいないとよく言われるが、初夏、晴れた日の水田風景も、それに二歩半ほど及ばないものの、充分、正しい美しさを持っているのである。

 5月15日の午後、ボクは中能登のある町で、これらの写真を撮った。カメラを構えているボクの横を、地元のおじさんやおばさんたちが通り過ぎて行ったが、当然、誰も声をかけてくるわけでもなく、カメラを構える方向に、ちらりと視線を投げるだけだった。

 ボクが「水田オタク」ではないことは、みな承知だろうが、素朴な風景を好む人間としての、そのノメリ込み度は並みではない。その一環にある、「水田のある美しい風景」に出会った嬉しさを書いてみた…


“「水田のある風景」が好きであるということについて…” への1件の返信

  1. ナカイさんらしいなあ。
    水田になんて、興味持ったことない。
    でも、美しい写真。
    今度じっくり車を降りて、眺めてみようっと。

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