能登の嵐と虹と作次郎 そして大阪の青い空と


 

北日本に晩秋の嵐がやってきた朝、前日の夕方刷り上がったばかりの、冊子『加能作次郎ものがたり』を持って富来の町を目指していた。

思えば、春から梅雨に入る前の心地よい季節に始まったその仕事も、秋からいよいよ冬に入ろうかと季節になって納めの日を迎えた。あんなに暑い夏が来るなど予測もしていなかったのだが、原稿整理の時はその真っ只中にいた。

そのせいもあって、事業のボスであったO野先生がダウンされるという出来事もあり、先生には大変厳しい日々であったろうと思う。

それにしても、すごい嵐であった。能登有料道路ではクルマが横に揺れ、富来の中心部に入る手前のトンネルを抜けると、増穂浦の海面が激しく荒れ狂っていた。ここ最近穏やかな表情しか見ていなかった増穂浦だったが、久しぶりにここは日本海、北日本の海なのだということを実感した。

嵐の中を走ってきたが、有料道路を下りた西山のあたりではとても美しいものを見た。それは完璧と呼ぶにふさわしい虹で、全貌が明確に視界に入り、しかも色調もしっかりとした、まさに絵に描いたような虹だった。空がねずみ色だったのが少し残念だったが、生まれて初めてあんなに美しい虹を見た。

本当は写真を撮りたいところだったが、何しろ嵐の中だ。車を降りる気など全く起きなかった。

いつもの集合場所である富来図書館には、予定よりも早く着いた。しばらくクルマの中で待機し、正面玄関の前にクルマをつけて、冊子の入った段ボールを下した。

 部屋にはいつもの三人組のうちのO野、H中両氏が待っておられた。早速包みを開け、出来上がった冊子を手に取る。出来栄えには十分満足してもらえた。二人とも嬉しそうに笑いながらの会話が弾む。そのうちに、H多氏も加わって、写真がきれいに出ているとか、ここは苦労したんだという話に花が咲く。話は方言のことになって、O野先生が実際に冊子の中の引用文を読み聞かせでやってくれた。

まわりが静かになり、O野先生の語りに聞き入る。文字面では分からないイントネーションの響きに、思わず首を縦に振ったりする。先生の朗読は見事だった。俳優さん顔負けの、やさしくて繊細で、素朴で力強い何かがしっかりと伝わってきた。とにかく懐かしいとしか言えない響きだった。

それからますます話は弾んだ。志賀図書館から富来図書館の方に移ってきたMさんが、インスタントだが温かいコーヒーを淹れてくれ、御大たちに混ざって、ボクも大いに話に入った。自分が、この元気一杯なロマンチスト老人たちの仲間に入れてもらったかのようだった。実際楽しかったのだ。

前にも紹介したが、毎日欠かさず富来の海の表情などを撮影し、ご自身の旅館のホームページに掲載されている芸大OBのH中さんに、先日コメント入れておきましたと伝えた。しかし、あとで分かったが、何かの処理を忘れていて、ボクのコメントは掲載されずにいた。未だにアップされていないが、その日の嵐の状況は、H中さんの写真で克明に伝わるものだった。

 とんぼ返りであったが、帰り道も嵐だった。風が吹き荒れ、雨がときどき霰(あられ)になり、二度ほど路面がシャーベット状になった。前方が弱いホワイトアウトになることもあって、久しぶりの緊張の中、冬の訪れを予感させられた。

翌日も勢力はやや落ちていたものの、やはり嵐に近い風が吹き、雨が舞っていた。

ボクは大阪に向かって、八時過ぎのサンダーバードに乗った。

サンダーバードは混んでいた。東京行きと違って、社内に少し華やいだ雰囲気が漂うのは女性の小グループなどが多いからだろうか。そんなことを考えているうちに、ちょっとウトウトし、すぐに時間がもったいないと本を取り出した。

数日前、YORKで、昔マスターの奥井さんと楽しんだ本を一冊借りてきていた。

 われらが別役実(べつやくみのる)先生の『教訓 汝(なんじ)忘れる勿(なか)れ』という本だった。先生を知っている方々には今更説明する必要はないだろうが、表の顔ではない部分(表の顔というのは戯曲家であり演劇界の重要人物らしいのだが)で、先生は実に素晴らしい虚実混在・ハッタリ・ホラ・嘘八百のお話を創作されている。名(迷)著『道具づくし』から始まる道具シリーズでは、ボクたちは大いにコケにされ、弄(もてあそ)ばれた。奥井さんやボクは、途中でその胡散(うさん)臭さにハタと気が付き、一種疑いと期待とをもって相対していったが、永遠に先生のお話を本当だと思い込んだままの人も多くいた。

しかし、そのおかげをもって、ボクは「金沢での梅雨明けセンゲン騒動」や、「白人と黒人の呼び方の起源について」などの持論?を展開できるようになったのだ。

『教訓…』は一行目から吹き出しそうになった。実はかなり読み込んでいたと思っていたのだったが、不覚にも瞬間のすきを突かれた。隣の席の一見JA職員風オトッつぁんはそんなボクの失笑には気がついていない様子で眠り込んでいる。危ないところだった。

大阪は晴れていた。雲一つないほどの快晴で、環状線のホームに立っているだけで顔がポカポカしてくるにも関わらず、大阪の青年たちはダウンジャケットを羽織り、マフラーをしていた。北国から来た者がスーツだけでいるのに、表日本の都会の若者たちは、なんと弱々しいのだろう。それともファッションの先取りなのだろうか。

環状線・大正駅前でかなり不味いランチを食ってしまった。こんな不味いものを食わせる店が、まだこの世にあったのかと思ったほどだった。しかも630円で、1030円払ったら、おつりが301円だった。つまり、1円玉を100円玉と勘違いして(?)渡したのだ。

時間がなかったボクは、慌ててポケットに入れ出たので帰りの電車に乗るまで、そのことに気が付かなかった。

大阪での仕事は、石川県産業創出機構という組織が運営する技術提案展の会場づくりだ。会場の日立造船所の一室は、人でごった返していた。スタッフのM川が迎えてくれて、ひととおり廻ってきた。これに関連した仕事は、次が尼ヶ崎、東京、さらに東京、そして茨城などへと続いていく。地道にやってきたことが実を結んでいるというやつだ。

帰りのサンダーバード。横に座った30歳くらいの若いサラリーマンから、異様にクリームシチューの臭いがして気になった。時間がなかったのだろうか。食べてすぐホームを走ってきたのだろうか。

余計なことを考えたあと、すぐに我に返り、また別役先生の『教訓…』にのめり込んでいったのだった…


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