遠望の山と 焚火と 亡くした友のこと

朝から大気が澄みわたったままの、完璧な秋の青空だった。

どこかのどかで、冷たさを感じさせない気持ちのよい風の流れもあった。

普通なら午後になると大気は霞みはじめるのだが、ひたすら澄んだままで、素朴に秋なのだ…と思わせる。

かつて砂丘だった内灘の高台から、はるか東方に聳える北アルプス北部の山並みがくっきりと見えていた。陽の当たり具合もちょうどよく、急峻で雪が付きにくい剣岳以外は、毛勝(けがち)三山も、立山連峰も、そして薬師岳も白く輝いていた。

一年に何度見ることができるだろうかという、素晴らしい光景だ。この季節ならではということもあり、クルマを止めて車窓から眺めている人もいる。ボクは仕事で内灘の役場へ向かっていたが、まだ時間があったので役場を通り過ぎ、近くの公園の展望台の階段を少しだけ登って“鑑賞”した。

生まれ育った内灘が、再来年1月1日で町制50周年を迎えるという。そう言えばと振り返ると、町になったのは小学一年の時で、その記念式典(元旦だった)の仰々しい舞台の上で剣舞を踊ったのを思い出した。ボクとN村君という同じ学年の男子二人だけの剣舞だった。実は、その時何が行われていたのか、小学一年生のボクは理解できていない。三年生ぐらいになって初めて知ったと思う。

歳も喰い、その内灘でボクは記念事業の仕事に関わろうとしている。「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」という話を本にし、図らずも、内灘という自分のふるさとを再認識することになった。だからというわけではないが、少し内灘についてやってやろうではないか…とも思い始めている。

その週末、さらにまたポカポカとした陽気の休日…

家の周囲に下品さ極まりなく広がっていた雑草を刈った。

もう生気も失っている乾いた雑草を刈りとり、以前に『今年いちばんのコスモスだった…』の話で紹介した多目的空地の一角に集め、夏に壊したオープンデッキの残材とともに火をつけた。

かつて、家の後ろがニセアカシヤの林だった頃にはよくやったが、久しぶりの焚火(たきび)だった。

 ……今から13年前、内灘に家を構え、しっかり者の姉さん女房と、生まれたばかりの息子の三人で幸せな暮らしを始めていた男が死んだ。玉谷長武(おさむ)という男だ。27歳という若さで、彼を死に追いやったのは胃ガンだった。

奥能登・門前町に生まれた彼は、明治大学で日本文学を専攻し、大手旅行代理店に就職した後、退職し金沢へ来た。縁あってボクのいる会社の子会社に入り、一緒に何度か仕事もした。

大学では石川啄木や太宰治に親しみ、本をよく読んだ。カラオケでは、テレサ・テンを歌った。時には、これ面白かったです、読んでみてください…と、『ユリイカ』などのマニアックな雑誌をボクの机の上に置いていった。風貌は若々しかったが、20代にして老成した雰囲気を持った彼は、その勢い?で多くの客をつかむ独特の力を潜在させていた。清々しい青年の顔と、人生を見つめるような老成した顔の両方を持ち合わせていた。もちろん、ボクにはいい“助監督”だった。

彼のそういった個性には、高校まで野球部にいたという一面も作用していた。少なくともボクはそう思っていた。ときどき出会うことのある、意外性に富んだニンゲンのいい見本だった。

大学の後輩であり、ボクが当時『ポレポレ通信』というお遊び冊子を出していたこともあって、彼はボクに関心を持ってくれた。文章はまだまだだったが、ボクは彼に大学時代に体験した、東京から門前までの徒歩旅行の話を書けと告げた。彼はなんだかんだと言いながら、結構嬉しそうだった。

かなり手直しをしてから彼の紀行文を載せた。タイトルは「東京~モンゼン・徒歩ホの旅」、ボクが付けた。この紀行文は「ポレポレ通信」創刊以来の“つづきもの”で、それは彼の人懐っこい図々しさが遺憾なく発揮されたものだった。彼はその顔に似合わない図々しさで、ページをジャックすると、「ナカイさんも、いつまでもこんなもんやってないで、ちゃんとしたもの書けばいいじゃないですか」と、ボクに言った。そのあとで、「いいもの書けるんだから」とも言った。いとしの「ポレポレ通信」を、“こんなもん”と言った。

表面的には元気だったが、入退院を繰り返すうち、彼の体はかなり決定的なところまで追い込められていた。今度入院したら(転移が見つかったら)、もうダメだと言われてます…。彼は笑いながらそう言った。夏が過ぎ、秋も過ぎて、一年が終わろうとしていた。

御用納めの大掃除の日。彼はなぜか出社していない二人の先輩の分も含めて、自分たちの部屋の片づけをしていた。昼飯に誘いに行くと、疲れているはずなのに元気な素振りを見せ、行きましょうと答えた。

その日、ボクはあることを彼に告げようと思っていた。傘をさし、冷たい雨の降る年の瀬の街へと出る。彼が広島風のお好み焼きが食べたいと言った。

柿木畠にその店はあった。彼は一人前を頼んだが、ほんのちょっとしか残っていない彼の胃には、それはあまりにも多過ぎた。彼はもう、わずかに舌の上で味を楽しむことしかできなかった。ボクが半分以上を食べ、彼は会社に戻ってからトイレへと行き、そこで食べたものを吐き出すのだ。

お好み焼き屋を出ると、同じ柿木畠の喫茶ヒッコリーで話を切り出した。体を重視して、彼をボクの部署に異動させようという話だった。しかし、話は中途半端になり、夕方また時間を作ることにした。

そして、六時半ごろだったろうか…、ボクたちは香林坊・日銀裏のYORKのカウンターにいた。

「年が明けたら、オレんとこへ来るか」 少しぶっきらぼうな言い方をした。もう話し尽くしていて、気怠さが漂っていた。彼は正面を向いたまま「入れていただけますか」と静かに答えた。そのやりとりだけで、すべてが解決したような思いがした。少しでも体が回復するなら、どんなことでもやろうと決めていた。

ボクたちはまた雨の降る街へと出ると、しばらく歩いてから、“じゃあ、年が明けたら…”“はい、よろしくお願いします”と言葉を交わし、別れた。

しかし、年が明けた新年の顔合わせの式に彼の姿はなかった。ボクたちが年末に交わした約束など誰も知らない。それにボクたちは一対一の会話ばかり繰り返してきたから、会えなくなると彼の近況を知ることもできない。今と違って携帯電話もそれほど身近な存在ではなかった。

結局、彼が正式に入院したという知らせは、二週間近くが過ぎたある日耳に届いた。すぐに病院へ会いに行ったが、彼は疲れたのかぐっすり休んでいると奥さんから言われた。話しているうちに、奥さんの目には涙が滲みはじめていた。そして、“悔しいです…”と、唇をかむと、それ以上言葉は出なくなった。

聞くと、前日、早明の対決となった大学ラグビーの決勝戦を、早稲田OBの友人と見ていて、明治の勝利に凄く喜んでいたとのことだった。そうか、まだそんな元気があるのかと、ボクは少し嬉しくなった。

それから何度か見舞いに行った。が、結局彼とは話せないままだった。二月に入り、また病院へと出かけた。ナースセンターで様子を聞くと、「お母さんがいらっしゃいますから、聞いてきます」とのことだった。容態の悪さが察知できた。ほどなく、お母さんが来られた。寝ているが、起こすから会ってやってくださいと言われた。そのあとで、調子がいいみたいなんですとも言われた。

しかし、その一言がボクを油断させた。調子がいいなら、明日また来ればいい。せっかく休んでいるんだから起こさないでやってほしい。調子がいいという言葉が、ボクにまた少し元気をくれた。「明日また来ますよ。彼にそう言っておいてください」ボクはそう言って病院をあとにした。

次の日、彼は息を引き取った……

彼の亡骸(なきがら)を追って、家まで急ぎ行ってみたが、家は真っ暗だった。薄く降り積もった霰(あられ)の上に、真新しいタイヤの跡がくっきりと残っていた。

翌日の通夜には、午後の早い時間から門前町剱地(つるぎじ)の大きな寺の本堂にいた。彼が家へ遊びに来たときに撮った写真を奥さんに渡した。彼から借りていた「宮沢賢治詩集」も渡そうとしたが、それはナカイさんが持っていてくださいと戻された。

葬儀の日も早い時間から寺へと向かった。しかし、彼の棺が出るとすぐに、ボクは誰よりも早く帰路についていた。寒かったが、能登の空は晴れていた。

昼過ぎだったろうか。家に着くなり、ボクは居間の丸柱に背中を押しつけて泣いた。大粒の涙が自然に出てきた。こんな簡単に涙は出るものなのかと、なぜかその時思った。当然だが、二度と彼と言葉を交わすことはないのだとも思った。彼が座っていたソファを見た。彼が立っていたオープンデッキも見ていた……

夕闇が迫ってあたりが暗くなってくると、焚火の炎がより鮮明になってくる。オープンデッキの残材も乾いていたせいか、すぐに火がつき勢いよく燃え出す。

玉谷長武のことは時々こうして思い出すのだ。彼はよく言っていた「なんか、こうスカッとするようなことって、ないすかネエ~」と。背伸びしながら、遠くを見るような目でそう言った。その声がまだ聞こえてくる。生きていれば、一緒に内灘の仕事もできただろうにと思う。

焚火は暗くなっても続いた。炎で明るくなった空間に、灰色の煙が上っていくのが見えた。そういえば、来年のボクの歳は、YORKのマスター奥井さんが死んだ歳と、青年期を外国航路の船員として過ごし、ボクに大きな影響を与えた兄の死んだ歳と同じになる。二人とも普通に言えば若くして死んだのだが、ボクももうそんなことを考える歳になったのだ…

翌日はまた晴れた。しかし、北アルプス北部の山々は見えなかった。

夕方、海に落ちていく太陽を見た。振り返ると、東の空にきれいな満月があった。

贅沢な風景だなあと思いながら、今年もあと一ヶ月になったのだという現実も忘れなかった……

『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』を漫画で描いてくれた

「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」を漫画にしてみると・・・といってシミュレーションしてくれたKENSHIN-Zさんから、サンプルが届いた。イメージの違いは少々あるものの、なかなかの力作で、いい感じだなあ。

原作の中の「シンキチおっさん」は、もっと歳食っていて、猫背で、ずんぐりとしている。しかも足を引きずって歩く人だった。でも、新しい解釈でやってくれたKENSHIN-Zさんは偉い。ホンモノだなと思う。最近、なぜか学生などに読まれ始めているが、物語の感触は若者たちにも何か伝わるものがあるのだろうか…

●シンキチおっさん

●ストーリー その1

●ストーリー その2

五箇山から桂湖 そしてまた出会った店

五箇山は合掌づくりだけじゃない。山間(やまあい)の豊かな自然との接点で言えば、桂(かつら)湖がいい。

桂湖へは、五箇山から白川郷へと向かう国道156号線を右手に折れ、山手の方に入っていく。しっかりとした道はあるが、意外に知られていないような気がするところだ。ボクにとっては、あまり知られてほしくないところでもある。11月中旬に出かけた時も、紅葉最盛期にも関わらず、国道とは打って変わって道は静かだった。

桂湖周辺がきれいに整備され、カヌーやキャンプの楽しめる場所として生まれ変わったのは最近のことだ。ボクもその頃に最初に来た。偶然目に入った標識に従い、そのまま山道を登った。何があるのかも全く知らなかった。

しかし、来てみて驚いた。想像をはるかにこえる美しい風景が広がっていた。ダム湖だから人口の湖なのだが、周囲の山々も美しく、歩いてみてもほどよい広がりがあった。ビジターセンターも立派だった。デッキからの眺めもよく、貸しカヌーの装備などかなり充実していると見た。

 実はここからは石川と富山の県境の山々を歩く登山道が伸びている。始めから険しくスリル満点なルートなのだが、そんなスリルよりも40分ほど歩いてみてマムシの多いのに閉口した。登山道の脇の草むらにガサガサと音がして、トカゲやマムシが次から次へと出てくる。ヘビの嫌いさでは絶対的な自信をもつ者としては、もう歩けたものではない。登山口に戻って、小屋に置いてあったノートを見たら、「マムシの多いのには参った」という意味のコメントが多く記されていた。

桂湖周辺の紅葉は黄葉も交じって果てしなく美しい。湖があるから尚更のことだが、山の木々の色や空の色がよく映える。

 夏休みなどにはオートキャンプ場がいっぱいになり、何とかのひとつ覚え的な肉焼き風景が広がったりするが、秋はそんな喧噪(けんそう)もない。奥へと足を運べば、人の姿を見ることも少なくなる。初めて来たときも静かな季節であり、歩き疲れると、ボーっと湖面や山並みを見ていたりしていたのを思い出した。

さすがに陽が当たっているところは暖かいが、木陰や山影などに入ったりすると一気に冷え込んでくる。夫婦連れだろうか、あまり山慣れしている風には見えない若いカップルが、湖を見下ろす道沿いに腰を下ろし、弁当を食べていた。脇を静かに通り過ぎる。大した靴も履いていないから、本格的な山道に入ることはやめたが、最近は熊に注意しなければならないから消極的になってしまう。

ほとんど人のいないビジターセンターの美しいトイレを借り、桂湖を後にした…

 

 国道まで戻り、もう少し足を延ばしてみようかと思った。白川郷まで行けば、美味いコーヒーにもありつけるだろう。それに白川郷にしても、ここしばらく行ってない。

大した距離でもない。そろそろ西に傾き始めた陽の具合を見ながら、アクセルをちょっと強めに踏んだ。

白川に入り、しばらく走ったあたりで、不意に見慣れたものが目に止まった。それが何だったかすぐに分からなかったが、それのあった店らしき建物がアタマに残った。2、300メートルは走っただろうか。どうしてもそれが気になった。それに美味いコーヒーが飲めるかもしれないという期待も交差する。

クルマを止め、Uターンする。しばらく戻って店の駐車場にクルマを入れた。

目に止まったものが分かったが、まだ確信は持てなかった。それよりも美味いコーヒーが飲めそうであることは間違いなかった。

 店の名は「AKARIYA」。古い蔵のような建物と民家とが一緒になった造りだった。中に入ると、和洋のアンチークな内装イメージで、手前がテーブルの並んだ喫茶、奥は個性的なクラフトなどが並ぶ小さなショップになっていた。落ち着いた雰囲気だった。母と娘といった感じの女性二人が店を切り盛りしていた。

店の中を見回し、壁に飾られていた一枚の額を見て、その中のスケッチと外で見た見慣れたものがボクの中で一致した。なんとそれはあの森秀一さんのタッチだったのだ。外で見たものとはサインの文字で、額に入っていたスケッチもボクがもう見慣れている森さんのものだった。

ボクは確信を得て、店の人にそのことを聞いた。間違いないことが分かった。しかも、ボクが森さんの知り合いだと知って驚いていた。

 後日、森さんにそのことを電話すると、白川のあたりで10軒ほどの店づくりに関わっていると話していた。そして、「それにしてもナカイさんもいろいろなとこ行ってるから、よく見つけるね」と笑っていた。

コーヒーは予想どおりの上品さで美味かった。忘れてしまったが、豆の名前とかもあれこれ話してくれた。

3、40分ほどいて店を出る頃には、もう空気も冷えてきていた。もう白川へは向かうつもりもなかった。秋も深まると、このような地域では冬支度の匂いを感じる。かつて、12月の押し詰まった頃に白川へ来たことがあるが、民宿などでは客への気遣いよりも、冬支度の方に神経が行っているように感じたことがあった。

しかし、そのとき、そのことに何の違和感ももたなかった。信州の木曽でも同じことを経験したが、やはりこういう地域の人たちの生活には、どうしてもやっておかなくてはならないことがあるのだと思った。そのことを感じ取れたことがよかったのだと思った。

店の前に立っていると、中からお母さんの方が出てきて、一礼し歩いて行った。山里の風景の中に、ゆったりと歩いていく後ろ姿が印象的だった。

また冬が来るんだなあ… そう思ってクルマのドアを開けた…

秋の五箇山で思ったこと

これまでの秋の話は、なんだか雨や嵐のことが多くて、もう言うことなし的に晴れ渡った正しい秋空など縁がないのかと思われているかも知れない。当然全くそんなことはないわけで、秋の青空もいつも味方に付いてくれているのは言うまでもない。

身近な秋の風情となると、ボクの頭の中にはすぐ五箇山あたりが浮かんできて、すぐに足が向いてしまう。この前も素早く出かけた。別に秋に限ったことではなく、四季それぞれに出かけたりしている。

特にこの地方での春の始まりの頃は、田植え直前の水田に、輝きを増し始めた太陽の光が注ぎ込んだりして、その美しさはまさに世界遺産そのものといった上品さだ。もちろん秋もいい。

 ボクにとって五箇山は、今は亡き司馬遼太郎大先生の歴史紀行・『街道をゆく』によって開かれたところだ。今から何年前になるだろうか。週刊朝日に連載され、その後単行本化されていった。週刊朝日に接するようになったのは、YORKに置いてあったからで、マスターの奥井さんもよく読んでいた。その後文庫にもなって話題を巻いたが、単行本の方をボクは数冊持っていたのだ。

外国へ行ったり、都会へ行ったりするよりも、もっともっと日本的で、歴史を感じたり、人を感じたり、自然や暮らしを感じたりする旅が好きだったボクにとって、この本はちょっと旅に出るかな的モチベーションを高める最高のシリーズだった。

第何巻だったかは忘れた。五箇山については、かつての上平村(現在南砺市)赤尾という地区にある浄土真宗の行徳寺(こうとくじ)という寺周辺の話が印象的だった。

その本は多分今、実家の納屋の段ボールの中で眠っていると思う。今確認することは不可能だが、行徳寺を開いた道宗(どうしゅう)さんという僧の話に、自分でも不思議なくらいに興味を持った。

道宗さんというのは、妙好人(みょうこうにん)といって、普通の世俗の人だが、信心が篤くお坊さんになったという、とにかく偉い人だった。なぜその話に深く興味をもったかは、いずれどこかで書くとして、とにかくボクは行徳寺へ行こうと思った。そして、その週末だったか、さっそくクルマを走らせていたのだ。

当時は東海北陸自動車などない。福光から城端を通って山越えし、平村から上平村へと入る。庄川沿いの国道156号線。相倉(あいのくら)集落や村上家などを過ぎ、さらに菅沼集落も過ぎてしばらく行ったところに行徳寺があった。

合掌造りの見学ができる家として人気のある岩瀬家の隣なのだが、象徴的なのは、茅葺(かやぶ)きの山門だ。意識的にそれを目当てにして走っていたが、やはり岩瀬家の隣という方が効き目大だった。

行徳寺は、言わば何の変哲もない寺だ。今では小ぎれいになってはいるが、当時は本当に素朴な印象で、茅葺きの山門が、“静かに佇(たたず)めよ”と言っているだけのように感じた。今は、観光の寺ではないから…といった、直接的なメッセージが書かれた看板すら出ている。

寺の前に、どこにでもあるような小さな食堂があった(…今もあるが)。実は、司馬先生は、そこで「熊肉うどん」を食べていた。メニューのタイトルが正式に「熊肉うどん」であったかは忘れたが、とにかく熊の肉が入ったうどんを食べたと書いていた。

尊敬する司馬先生が食べた「熊肉うどん」を、自分も食べるというのは必然的な行為だった。が、生まれて初めて口にした熊肉は、とにかくひたすら硬かった。うどんの柔らかい歯応えに比べて、その硬さはかなりの面倒臭さを感じさせた。うどんがほとんどズルズルと口の奥に運ばれ、二度三度モグモグとすれば喉を通り過ぎていくのに対し、熊肉は箸につまんで口に運んでから、うどんの三十倍ほど噛みこんで喉の方へと送らねばならなかった。

熊肉をとにかくひたすら噛み続けていると、アタマがボーっとしてくる。なにしろ行徳寺の門前だ。無の心境に近づいていく…?

・・・・その年の冬のある出来事が蘇(よみがえ)ってきた。それは金沢市と富山の福光町との境にある医王山に、雪深い2月に登った時のことで、降り積もった腰あたりまでの深雪をかき分けながら、ボクたちは冬山気分に浸っていた。一緒にいた相棒はS。二人とも体力だけには自信があり、ただ無邪気に雪をかき分け登っていた。

そろそろ最後の急な登りに入ろうかという時だった。上からガッチリとした体格のいい男の人が下りてきた。雪面を背にして下りてくるから、顔はほとんど見えない。ただ帽子も被ってなくて、アタマが“スキンヘッド状態”であることだけは、その光り具合ですぐに分かった。雪の反射光の加減で真っ黒だと思っていた顔は、近くで見ても黒かった。

その人はアタマの状況が示すとおり、自分たちよりもかなり年配であった。「若いのに偉いのォ」と、汗で顔を黒光りさせながら、開口一番言った。なんて答えていいか分からないでいると、指さしながら「あの峰まで行く気はないかのォ」とも言った。Sと顔を見合わせた。

その人の話では、奥医王から横谷だったかの稜線の雪の中に熊を埋めてあり、それを運びたいだったか、解体するんだったか、とにかく一緒に手伝ってくれないかということだった。

Sが彼独特の薄ら笑いを浮かべながら、ボクの顔を見ていた。それが何を意味しているのかちょっと考えたが、ボクもすぐにSのような薄ら笑いを浮かべ、「ボクら、今日は白兀(しらはげ)の頂上まで行ってくるだけなんで…」と語尾を濁しながら答えた。白兀山とは、医王山の手前にあるピークだ(戸室山の奥にあり、積雪期には木が生えてないので、そこだけ白く見える)。

熊肉の話から大いに外れていったが、この話は印象深くボクの記憶に残っていた。今でも覚えているくらいだから、司馬先生の真似をして熊肉うどんを口にしたときには、かなり鮮明な記憶として蘇っていたことだろうと思う。

特にこれといった感慨もないまま、「熊肉うどん」を食べ終えると、ボクはデイパックの中から、徐(おもむろ)に『街道をゆく』を取り出していた。実際にその地を訪れ、しばらく自分自身の感覚でその地を確認した後、その部分を読み返すのが楽しみだったのだ。

 五箇山の秋は相変わらずのどかで、静かで、意識すればするほど安らいだ気分になれた。五箇山であることを自分に言い聞かせながら歩くのがいいのだ。人がいても、人を背にすれば、自分が一人になったような気分にもなれる。特に秋は、訪れている人たちが皆同じ思いでいるような錯覚にも陥ったりして安心できたりするのだ。

昼飯は、熊肉うどんではなく、今秘かに?大人気の「いわな寿し」を食べて、いざ次の目的地へと・・・・・その2へとつづく。

 

 

涸沢の秋の冷たい思い出

 

数年前まで、紅葉というと自然の中ばかりで見てきていた。

自然の中というのは、早い話が山の世界であって、山の世界では、単純に紅葉を見に行くというイメージとはかけ離れてしまうことも多かった。当然見に行くまでが楽ではなかったし、紅葉を見るつもりが、いきなり雪を見てしまうということにもよくなった。

初めて秋深い山に出かけたのは、北アルプスの涸沢(からさわ)だ。下界では、少し秋めいてきたかなといった時季。全面的にひたすら紅葉と黄葉の世界となっていた上高地から、言わずと知れた清流・梓川左岸の道を詰め、横尾の分岐点で橋を渡り本格的な登りの道に入っていく。

天候はすでに小雨状態だった。気温は完璧に10度を下回っている。この季節の、こんな日になぜ山に入ったのかと問われても、弱冠25歳半ほどの若者には特に理由など見つけられない。ただ、とにかく行きたかったから来た…と言うしかなかった。

樹林帯の登りに入ると、雨はしっかりとした降り方になった。歩いている分、身体は辛うじて暖かいが、気分はかなり落ち込んでいる。

まだまだ“ニンゲン”が出来ていない(今もさほど変わってないが)から、雨を降らせている雲上の神様かなんかを恨んでいるのだ。それと天気予報のオジサンなんかにも、「昨日の夜、明日は晴れるよと軽く言ってくれてたら、雲たちも、ああそうなんかなあ?と、勘違いして晴らしてくれたかも知れんのによォ…」と、怒(いか)ったりしている。

上高地から歩いて約5時間弱。ほとんど休憩なしで、穂高の登山基地である、初冬の涸沢に着く。写真で見るようなとてつもなく美しい紅葉風景は全く見えない。ガス状になった雲がすぐ手の届きそうなところから、山肌を経て空へと繋がっているだけだ。

濡れた石段の道を登り詰め、2軒ある山小屋のひとつ、涸沢ヒュッテに入った。ほとんど登山客のいない、当たり前といえば当たり前の静けさだった。

玄関に入り、リュックを置き、白い息を吐きながら、上りに腰掛ける。スタッフが出てきて、「こんにちは」と山の定番的あいさつを済ませた。雨宿りと休ませてもらうのだから、何か頼もうと思ったが、咄嗟(とっさ)に何も出てこない。思わず、“ビール”と言ってしまった。

こういう時は、何もかもが歯車の狂った状態になる。ボクの悪い癖?だった。

なんで、選(よ)りにも選ってビールなんか頼んだのだろうと、悔やむ。身体が冷え始め、一気に体温が下がっていくのが分かる状態だった。

さらに追い打ちをかけるような出来事が起きた。コンロでお湯を沸かし、インスタントのスープでも飲もうと思っていたのに、リュックの中にコンロのボンベが入っていない。ワンデイ、つまり日帰りの軽装備だから、リュックの中身はすぐに確認できた。

その日のランチのメインは、恥ずかしながら“ケンタッキー・フライド・チキン”だった。それも前の晩に金沢で買っておいたもので、当然ながら、冷えに冷え切っていた。

山に出かけるようになってからは、先に言っておくと、よく母が握り飯を作ってくれた。おかずはほとんど自炊のラーメンだったから、握り飯があれば十分で、前の晩に作ってくれるものでも、ほのぼのとした“味”を感じた。玉子焼きでも付いていたりすると、“母を訪ねて三千里”にほぼ近い、二千八百八十里ほどの愛なども感じとった。

しかし、今回は違った。前の晩、もう寝る頃になって「明日、山行く」と言っただけだった。どこの山へ行くかとかは、その頃は告げていなかったが、親も聞いてはこなかった。

ビールを仰ぐようにして喉に流し込むと、ボクはチキンを無造作に頬張った。味覚的なものは何も感じない。感じるのはその冷たさだけだ。

今度スタッフが近づいて来たら、コーヒーを頼もう。ボクはそう思い、そうなる時を密かに待つことにした。しかし、スタッフはなぜか忙しそうに動き回っていて、ボクの気持ちなど察してくれそうになかった。

ビールのせいで頬っぺただけが異様に熱い。寒さに震える傷心の青年が、独り山小屋の玄関で苦悩している…。しかし、たぶん間抜けな、ほんのり赤っぽい顔をしたボクの表情からは、そんなことなどカケラも感じ取れなかっただろう。

30分足らずで、ボクはまた外に出た。

涸沢は、前穂高岳、奥穂高岳、北穂高岳という、日本を代表する3000m級の山々に囲まれた、すり鉢状の場所だ。かなりの角度で見上げながら見回すと、ダイナミックな山岳景観が楽しめる。夏でもかなりの雪が残り、山の魅力的な要素がすべて存在する。

しかし、それは晴れている時の話で、今は自分の目線の少し上部あたりまでしか視界はない。奥穂高と北穂高の間にある、涸沢槍と呼ばれる峻険な岩峰(涸沢岳)も、当然だが見えてこない。

腕を組み、しばらく雨とガスの中に佇(たたず)んでいると、雨が霙(みぞれ)に変わってきた。そして、さらにしばらくすると、霙が明解な霰(あられ)になり、湿った雪にも変わっていく。

そろそろ下るか…。簡単に気持ちは決まった。長居する意味もない。新米の若造がいい加減な装備で、恐れ多くも涸沢へと来たのだから、こんなもんだろうと腹を括(くく)る。

湿った雪が激しく重く降り始めていた。涸沢の名物と言われるナナカマドの赤い実が、降り積もった雪の重みにじっと耐えている。

登山道の石の表面が滑り始める。いい加減にそろそろ手袋を出そうかと思ったが、リュックを下したりするのが面倒臭く、なかなか踏ん切りがつかない。

その時、ふと思い出した。ボンベはクルマの後部座席の紙袋の中だ。前の晩、忘れてはいけないと思ったボンベを、先にクルマに積んでおいたのだ。それなのに……

ボクは木の陰でリュックを下し、中から手袋を出して手にはめた。暖かいとは感じなかったが、冷たさが消えた感じがした。

上高地に戻ると、小雨は上っていた。身体が感じる気温も、はるかに高くなっていた。横尾から1時間半弱で明神(みょうじん)まで来ると、もう身体はポカポカになり、明神まで来る前に手袋を外した。

薄暗くなり始めた上高地だったが、そんな中で見る紅葉と黄葉の木々が美しい。河原の石も、やけに明るい色に見える。

のんびりと山に相対する…そんなことなどまだまだ出来もしないくせに、ボクはなぜか、いっぱしのヤマ屋になった気分だった。

それから何年かが過ぎた夏、“やらねばなるまい”的心情でもって、涸沢から奥穂高の頂上に立った。それ以前も、それから以降も、ずっと続けていく単独行で、なぜだか、ひたすら自分を苦しめていた時だった。

あれから先、未だに涸沢の紅葉は生(ナマ)で見ていないが、そのうち、見に行くことになるだろうと、秘かに思っている……

能登の嵐と虹と作次郎 そして大阪の青い空と

 

北日本に晩秋の嵐がやってきた朝、前日の夕方刷り上がったばかりの、冊子『加能作次郎ものがたり』を持って富来の町を目指していた。

思えば、春から梅雨に入る前の心地よい季節に始まったその仕事も、秋からいよいよ冬に入ろうかと季節になって納めの日を迎えた。あんなに暑い夏が来るなど予測もしていなかったのだが、原稿整理の時はその真っ只中にいた。

そのせいもあって、事業のボスであったO野先生がダウンされるという出来事もあり、先生には大変厳しい日々であったろうと思う。

それにしても、すごい嵐であった。能登有料道路ではクルマが横に揺れ、富来の中心部に入る手前のトンネルを抜けると、増穂浦の海面が激しく荒れ狂っていた。ここ最近穏やかな表情しか見ていなかった増穂浦だったが、久しぶりにここは日本海、北日本の海なのだということを実感した。

嵐の中を走ってきたが、有料道路を下りた西山のあたりではとても美しいものを見た。それは完璧と呼ぶにふさわしい虹で、全貌が明確に視界に入り、しかも色調もしっかりとした、まさに絵に描いたような虹だった。空がねずみ色だったのが少し残念だったが、生まれて初めてあんなに美しい虹を見た。

本当は写真を撮りたいところだったが、何しろ嵐の中だ。車を降りる気など全く起きなかった。

いつもの集合場所である富来図書館には、予定よりも早く着いた。しばらくクルマの中で待機し、正面玄関の前にクルマをつけて、冊子の入った段ボールを下した。

 部屋にはいつもの三人組のうちのO野、H中両氏が待っておられた。早速包みを開け、出来上がった冊子を手に取る。出来栄えには十分満足してもらえた。二人とも嬉しそうに笑いながらの会話が弾む。そのうちに、H多氏も加わって、写真がきれいに出ているとか、ここは苦労したんだという話に花が咲く。話は方言のことになって、O野先生が実際に冊子の中の引用文を読み聞かせでやってくれた。

まわりが静かになり、O野先生の語りに聞き入る。文字面では分からないイントネーションの響きに、思わず首を縦に振ったりする。先生の朗読は見事だった。俳優さん顔負けの、やさしくて繊細で、素朴で力強い何かがしっかりと伝わってきた。とにかく懐かしいとしか言えない響きだった。

それからますます話は弾んだ。志賀図書館から富来図書館の方に移ってきたMさんが、インスタントだが温かいコーヒーを淹れてくれ、御大たちに混ざって、ボクも大いに話に入った。自分が、この元気一杯なロマンチスト老人たちの仲間に入れてもらったかのようだった。実際楽しかったのだ。

前にも紹介したが、毎日欠かさず富来の海の表情などを撮影し、ご自身の旅館のホームページに掲載されている芸大OBのH中さんに、先日コメント入れておきましたと伝えた。しかし、あとで分かったが、何かの処理を忘れていて、ボクのコメントは掲載されずにいた。未だにアップされていないが、その日の嵐の状況は、H中さんの写真で克明に伝わるものだった。

 とんぼ返りであったが、帰り道も嵐だった。風が吹き荒れ、雨がときどき霰(あられ)になり、二度ほど路面がシャーベット状になった。前方が弱いホワイトアウトになることもあって、久しぶりの緊張の中、冬の訪れを予感させられた。

翌日も勢力はやや落ちていたものの、やはり嵐に近い風が吹き、雨が舞っていた。

ボクは大阪に向かって、八時過ぎのサンダーバードに乗った。

サンダーバードは混んでいた。東京行きと違って、社内に少し華やいだ雰囲気が漂うのは女性の小グループなどが多いからだろうか。そんなことを考えているうちに、ちょっとウトウトし、すぐに時間がもったいないと本を取り出した。

数日前、YORKで、昔マスターの奥井さんと楽しんだ本を一冊借りてきていた。

 われらが別役実(べつやくみのる)先生の『教訓 汝(なんじ)忘れる勿(なか)れ』という本だった。先生を知っている方々には今更説明する必要はないだろうが、表の顔ではない部分(表の顔というのは戯曲家であり演劇界の重要人物らしいのだが)で、先生は実に素晴らしい虚実混在・ハッタリ・ホラ・嘘八百のお話を創作されている。名(迷)著『道具づくし』から始まる道具シリーズでは、ボクたちは大いにコケにされ、弄(もてあそ)ばれた。奥井さんやボクは、途中でその胡散(うさん)臭さにハタと気が付き、一種疑いと期待とをもって相対していったが、永遠に先生のお話を本当だと思い込んだままの人も多くいた。

しかし、そのおかげをもって、ボクは「金沢での梅雨明けセンゲン騒動」や、「白人と黒人の呼び方の起源について」などの持論?を展開できるようになったのだ。

『教訓…』は一行目から吹き出しそうになった。実はかなり読み込んでいたと思っていたのだったが、不覚にも瞬間のすきを突かれた。隣の席の一見JA職員風オトッつぁんはそんなボクの失笑には気がついていない様子で眠り込んでいる。危ないところだった。

大阪は晴れていた。雲一つないほどの快晴で、環状線のホームに立っているだけで顔がポカポカしてくるにも関わらず、大阪の青年たちはダウンジャケットを羽織り、マフラーをしていた。北国から来た者がスーツだけでいるのに、表日本の都会の若者たちは、なんと弱々しいのだろう。それともファッションの先取りなのだろうか。

環状線・大正駅前でかなり不味いランチを食ってしまった。こんな不味いものを食わせる店が、まだこの世にあったのかと思ったほどだった。しかも630円で、1030円払ったら、おつりが301円だった。つまり、1円玉を100円玉と勘違いして(?)渡したのだ。

時間がなかったボクは、慌ててポケットに入れ出たので帰りの電車に乗るまで、そのことに気が付かなかった。

大阪での仕事は、石川県産業創出機構という組織が運営する技術提案展の会場づくりだ。会場の日立造船所の一室は、人でごった返していた。スタッフのM川が迎えてくれて、ひととおり廻ってきた。これに関連した仕事は、次が尼ヶ崎、東京、さらに東京、そして茨城などへと続いていく。地道にやってきたことが実を結んでいるというやつだ。

帰りのサンダーバード。横に座った30歳くらいの若いサラリーマンから、異様にクリームシチューの臭いがして気になった。時間がなかったのだろうか。食べてすぐホームを走ってきたのだろうか。

余計なことを考えたあと、すぐに我に返り、また別役先生の『教訓…』にのめり込んでいったのだった…

金沢・中央公園で思い出したこと

金沢・片町にある「宇宙軒」で「豚バラ定食大(ご飯大盛り)」を食ってから、香林坊のホテルで開かれる「中心市街地活性化フォーラム」まで30分以上時間があったので、久々に中央公園へと足を運んだ。

特別な目的があったわけではない。何となく、宇宙軒におけるご飯の大盛りが心残りとなり、朝、大和さんの地下で青汁の試飲をして身体にいいことをしたばかりだったのにと、小さな罪悪感に心を痛めていたのだった。

せめて中央公園にでも行って、色づき始めた木々を眺めるふりをしながら、カロリーを消費させよう・・・。そう思っていた。

そういう安直な思いでやって来たのだったが、思いがけなく、あまりにも色づいた木々が美しいのにボクは驚いてしまった。

あまりにも思いがけなかったので、驚きはかすかな喜びに変った。そして、かすかな喜びは果てしない郷愁へと変化し、ボクは青春時代の自分の姿を、その郷愁の中に見つけていたのだった。

何だか、昔の堀辰雄の文章みたいな雰囲気になってきたが、大学一年の夏、ボクはこの中央公園で見た光景を原稿用紙20枚にまとめた。それは初めてのエッセイらしきもので、ハゲしく志賀直哉大先生から五木寛之御大に至るまでの大作家たちの文体を真似た一品だった。

体育会系文学青年の走りだったその頃、ボクは経営学を専攻しながら、日本文学のゼミにも顔を出していた。先生は、奈良橋・・・(下の名前が出て来ない)という名で、作曲家の山本直純を若くし、さらに髭を剃って、二日半ほど絶食したような顔をしていた。果てしないヘビースモーカーで、ゼミの間は煙草が絶えることはなかった。

夏休み前の最後の授業の時に、先生はヤニで茶に近い色になった歯をむき出しにしながら、「夏休みの間に、何でもいいから、ひとつ書いてきなさい」という意味のことを言った。もちろんボクにだけ言ったのではなく、15人ほどいた学生全員に言ったのだ。

ボクはその言葉を忘れないでいた。しかし、夏合宿が始まり、精も魂も尽き果てていく日々の中で、そんなことはどうでもよくなっていった。

そんなある日、ボクは練習で腰を悪くした。もともと中学三年のとき、野球部に在籍しながら陸上部に駆り出されていた時の疲労が溜まり、身体に無理をさせたことが原因となって右の骨盤を骨折したことがあった。それがまた腰に負担をかける原因にもなり、ボクは時々腰が異様に重くなるような症状を感じていた。

久々に感じた症状だった。しかし、一旦それを感じてしまうと、身体はどんどん硬くなっていった。というより重くなっていったという方が当たっている。その年、チームは四国で行われる全日本選手権に出場することになっていたが、その出発の一週間ほど前に、ボクは石川に帰らされた。一度身体を休めて、遠征に向かう新幹線でまた合流しろというキャプテンの指示だった。

帰省してからの日々は退屈だった。金もない。ただボクは身体を休めることもせず、街をぶらぶらしていた。文庫本一冊を綿パンの後ろポケットに入れて、中央公園へとよく行った。

芝生に寝転がって本を読む。今では考えられないかも知れないが、当時の中央公園の芝はきれいだった。たくさんの人たちが芝に腰を下ろしていた。

 ある時、仰向けになり両手で持ち上げるようにして本を読んでいると、足元にボールが飛んできた。ボクはそのボールを起き上がって投げ返したが、そのままもう一度本の方に戻る気になれずにいた。そして、身体を横向きにして、また芝の上に寝転んだのだ。

ずっと向こうに近代文学館(現四高記念館)の赤レンガの建物があった。芝も木々の葉も緑だったが、同じ緑ではなかった。

そして、ボクはその中に小さな男の子と、涼しそうなワンピースを着た母親の姿を見つけた。見つけたというより、目に入ってきたという方が合っていたが、ボクは何度も転びそうになりながら走り続けている男の子の姿を目でしっかりと追っていたのだった。

どんな動きだったのかはもう覚えていないが、ボクはその時のことを文章にした。今から思えば、エッセイというよりは超短編小説といった方がいいかもしれない。なにしろ、その中のボクは「榊純一郎」という名前を付けられていたのだ。純一郎は、どこかに脱力感を漂わせる青年だった。その純一郎が、純粋な子供の仕草と母親の動きに目を奪われ、そこから何かを感じ取る・・・・。そんな話だったのだ。その時の自分に何があったのかは分からない。

帰省している間に、ボクはそれを書き終えた。そして、夏休みが終わって、学校が始まると(といっても10月だが)、最初のゼミの時間に先生に渡した。先生は驚いたような顔をしていたが、じっくりと読ませてもらうよと、また茶に近い色の歯を見せて笑っていた。

そして、次の授業の時間、先生がボクに近づいてきて言った。「なかなか見る目を持っているよ。こういうことをしっかり見て文章にできるということが大事なんだ。どんどん書きなさい」 この言葉は今でも忘れていない。

久々に来た短い時間だったが、ボクは中央公園でのことを思い出した。どんどん書きなさいと言われた言葉は、今の自分にも当てはまっていると思った。今、ただひたすら書くことによって安らいでいられる。思ってもみなかった中央公園での時間が、そのことを納得させてくれたのだった・・・・・

湯涌の水汲みで、秋山の雨を思った

関東に台風が近づいていた休日の朝、いつものお勤めである「湯涌の水汲み」に出かけた。ひと月に一回のお勤めだ。

内灘にある家からは、河北潟を横断して津幡から国道に乗り、途中から山側環状に移って、ひたすらそのまま走る。そして、途中から医王山・湯涌温泉方面への道へと向かうのだ。いつもの素朴な風景に和みながらの時間だ。

雨が降り出していた。水を汲み始める頃には本降りになってきた。よく整備された水場だから濡れることもなく、蛇口から勢いよく出る水を容器に入れていく。20ℓのポリ容器2個と、1ℓの容器10本ほど。時間にすれば20分ぐらいだろうか。

水を汲みながら、あることに気が付く。それは山の雨の匂いだった。秋も深まった山の空気に触れる雨が放つ匂いか、雨を受けた樹木の葉や幹や枝、もしくは雨が落ちてきた土の匂いか、何だかわからないが特有の匂いを発する秋山の雨を感じた。懐かしい匂いだと思った。

 ふと、北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文さんの顔が浮かんだ。もう何十年ものお付き合いをさせていただいている北アルプスの名物オヤジさんと、何度も秋の山を歩かせていただいた。と言っても二人だけではなく、いろいろな人たちが一緒だったが、ゆっくりと山道を踏みしめるようにして登って行く五十嶋さんの後ろを歩くのは快適だった。

毎年10月の終わりには、薬師岳の閉山山行が行われる。太郎平小屋を経由して、すでに初冬と言っていい薬師岳の頂上をめざし、頂上の祠(ほこら)から、薬師如来像を下ろす。その夜は太郎平小屋での最後の宴となり、酒もいつもの数倍の量で飲み尽くす。

もちろん雪が舞ってもおかしくはない。今までにもわずか一、二時間で腰あたりまでの積雪になったことがあった。

しかし、登山口である折立(おりたて)付近ではまだ雪はなく、すでに紅葉は終わりかけているが、登山道に落ちたどんぐりの実などを見ながらの登行が続く。小雨が降り続く朝などは、上は雪だろうなあと話しながら行く。秋山の雨の匂いに包まれている。

そんなときに、いつも五十嶋さんはただ黙々と歩いていた。一年に何度も往復するという道だ。歩き慣れたという次元をはるかに超えた独特の雰囲気が漂う。背中に担いだリュックの下に手をまわし、少し前かがみでゆっくりと足を運ぶ。その姿を見ているだけで、こちらにも、心にゆとりが生まれたりする。

水場の雨は少しずつ強くなってきた。見上げると、大きな木の葉っぱから雨水が垂れてくるのが見える。

帰りを急ごうと思った・・・・・

※タイトル写真は、携帯電話で撮影。